日本海軍の至宝
大和がその生涯において挙げた戦果は、レイテ沖海戦(昭和19年10月)における、初めてのアメリカ海軍護衛空母部隊に対して砲撃を加えた時だった。
アメリカ海軍駆逐艦ホールを撃沈させた。このホール撃沈こそ、大和唯一無二の直接的戦果だった。艦隊決戦こそ大日本帝国海軍の真髄とする中で、期待外れも良いところであった。
大和を擁護する訳ではないが、ミッドウェー海戦(昭和17年5月)で初めて姿を見せたものの、昭和17年2月12日に連合艦隊の旗艦になってからというものの、出撃の機会はほとんどなく、南太平洋の前線基地てあるトラック島や、瀬戸内海柱島泊地での待機が続いた為に、これしか戦果がなかったのも仕方ない。
大本営は大和を失う事を極度に怖れた。フラグシップ(旗艦)が討ち取られるという事は、敵将の首を討ち取られるも同じ事。その為に、大和ホテルを経営する道を選んだ。戦果よりも、フリート・イン・ビーイング(現存艦隊)として、大和による抑止力に期待した。
大和があればとりあえず、相手も下手な事は出来ない。そう思った。だが、現実は違った。
大和が積極的に攻撃してこないと分かったアメリカ海軍は、真珠湾攻撃で無傷だった、アメリカ海軍太平洋艦隊の空母機動部隊を軸に、自由自在に暴れ回ったのだ。
日本としても、彼等を好き勝手をさせる訳にはいかなかったが、ミッドウェー海戦で、当時世界最強と言われた第一航空戦隊(一航戦)と第二航空戦隊(二航戦)の計4隻の空母と、熟練搭乗員を一度に失った代償は大きかった。
パイロットの養成には時間と金がかかる。熟練搭乗員の損失は戦闘機一機を失うより大きかった。彼等の穴埋めとして入隊した学徒に熟練搭乗員の代わりは出来なかった。
結局、爆弾を抱いて敵艦に突入するという、特攻しか無くなった。これは時代の産み出した負の遺産となってしまう。いよいよ戦況もそれほどに悪化していた。




