戦えない理論とセオリー
これは、実戦でも訓練でもない。血生臭い戦場なのだ。
だから、理論や机上の空論だけては動けないのである。
実際に戦場においては何が起こるかすら予測出来ない。弾がどこから降って来るかも分からない。
いつ死ぬのかも分からない。机上の理論は、予めシミュレーションされた条件の中で、与えられたものであり、条件が少しでも変化してきたのならば、当然のことながら結果も変わって来る。
戦場において常識やセオリーは通用しない。
それでも体系的理論を元にして応用をきかせる事は出来る。
さもなければ、到底戦うことなど出来ない。理論に振り回されて、何も出来なくなるのも問題であるが、自由に動けるだけの知識がないのも、いささか問題であると言えるだろう。
それは何も将官や士官といった幹部だけに限った事ではない。
部隊の手足となる下士官や、兵達にも同じ事が言える。
マニュアル通りに動いて良いのは、せいぜいが訓練や演習の時だけである。
もちろん、上官の命令は絶体であるから、勝手な行動をとる事は許されない。
しかし、その命令の範囲内で自分のベストを尽くす為に、行動をする事は出来るはずである。
それが戦場で生き残る為の最良の手段であると言えるかもしれない。
結局、生き残る為には、マニュアル通り・理論通りに行動していては、駄目なのである。
日本軍がこの後に泥沼にはまり、とことん追い詰められて行ったのは、理論や机上の空論にばかりとらわれすぎて、大切な部隊や人員の事について、無策のまま行け行けドンドンをやってしまった事が大きいと言える。
大和の46㎝主砲も、まさにその典型例であると言える。理論やセオリーだけでは戦えない。~だろうとか、~であるはずだ。等という台詞を使っているようでは駄目である。




