大和誕生の背景2
大正10年(1921年)11月~大正11年(1922年)にかけて海軍軍縮条約を締結するために、ワシントンで、日米英仏伊の5ヵ国によって開かれた通称ワシントン会議は、日本の運命を変えた会議と言っても過言ではない。
この会議の結果、日米英海軍の主力艦の総トン数は、6対10対10とされた。
当時の日本の国力からすれば、妥当なものであったが、海軍の強硬派からすれば、国辱だとして反対。これを会議の全権代表だった加藤友三郎海軍大臣が、抑えて事なきを得るが、結局この決定が、大戦の結果に響くことになる。
日本海軍は、明治末期から大正にかけて8.8艦隊つまり、戦艦8隻、巡洋艦8隻の保有を目標とし、大正9年に予算措置がなされたが、先のワシントン海軍軍縮条約で戦艦6隻と巡洋艦4隻しか持てなくなり、この目標が不可能となる。
大和誕生には、実はこの海軍軍縮条約も、大きく影響していることを我々は知る必要がある。数で圧倒出来ないのであれば、大鑑巨砲の超巨大戦艦を作るしかないと考えた。
明治35年(1902年)~大正12年(1923年)8月まで、日英両国間で効力のあった、日英同盟が失効したことにより、対米英戦を意識せざるを得ない状況になってしまった事も、追い討ちをかけてしまったのかもしれない。
昭和5年1月~4月にかけて日米英仏伊の5ヵ国が、またしても海軍軍縮のための会議をロンドンで開いた。俗に言うロンドン軍縮会議である。
その会議の結果日本の海軍力の対米比率は6割9分7厘となり、浜口雄幸総理大臣も大局的見地からこれを了承した。
しかし、加藤寛治軍令部長などの、海軍強硬派である艦隊派は、統帥権干犯を言い立てて、東郷平八郎元帥や伏見宮博恭王なども巻き込んで、反対運動をおこすことになる。
このように日本海軍を取り巻く環境が必ずしも万全ではなかった事で、より一層のスーパーウェポンの登場を期待してしまう機運が、高まっていってしまうのである。
大和を語るには、この辺りから話を持っていかなければ、詳しいことは分からないであろう。