大砲(テッポー)の神様
一人の海軍軍人を紹介したい。彼の名は猪口敏平大佐。
明治28年8月11日生まれで、鳥取県気高郡に長男として世を受けた。県立鳥取中学校を卒業後、大正4年9月4日に海軍兵学校第46期生として入校した。
戦艦扶桑砲術長→連合艦隊参謀兼第一艦隊参謀→軽巡球磨副長→海軍砲術学校教官→特務艦石廊艦長→重巡高雄艦長を歴任。
昭和18年12月1日より再度海軍砲術学校の教頭兼研究部長を歴任。海軍兵学校卒業後の彼の経歴は、こんなものである。
4男1女にも恵まれ、弟には猪口力平中佐がいる。猪口大佐は、日露戦争以来受け継がれて来た大口径砲である「射撃教範」を今一度理論的に組み立て、これに指揮法を加味して大口径砲の射撃理論を大幅に改訂した人物である。
海軍部内では「砲術の大家」あるいは「大砲の神様」として称されて、日本海軍屈指の射撃理論の権威として、その名はあまねく知れ渡っていた。
彼と大口径砲の象徴でもある大和の46㎝主砲は無関係ではない。46㎝もの大口径砲を操る技術など元々日本にはなかった。だが、猪口大佐が射撃教範を作った事で、46㎝というおおよそ人知の及ばざる大砲をも射撃可能とした。
だが、それが必ず敵に当たるというものではなかった。あくまで、射撃を可能にする理論体系であって、46㎝主砲が必ず当たる100発100中の兵器になった訳ではなかった。
今はミサイルが主流の為、猪口大佐が考案したような、射撃教範は役に立っていないが、日本の砲術の歴史において、猪口大佐が果たした役割は小さくないだろう。
そもそもが、日本には砲術の専門家は少なかった。そんな中で、彗星の如く現れた猪口大佐の功績は、たたえられてしかるべきであろう。




