空白の20年
もっと凄いのは、それまで20年近くもの間日本海軍は、大型戦艦を造った事がなかったという事である。
3万トンクラスの戦艦は、大正9年に長門、大正10年に陸奥を造ったのが最後である。
当時造船少佐で、大和の建造責任者であった西島亮二氏によると、大和を建造するにあたって一番困ったのは、設計しようにもブランクが長すぎて、そもそも大和建造するのにどのくらいの予算がかかるのかさえ、見当がつかなかった事であったという。
見積もる為のサンプリングからしてない。陸奥や長門と言っても、20年近く前のものであるから、技術や材料も相当に違う。
結局、大雑把なところで大和は陸奥や長門の倍位の規模にするから、工数(要した人数×時間)も倍の400万工数ととりあえず決めた。
いや、そうするしかなかった。当時西島氏は35才。海軍に入ったのが大正15年であるから、何もかもが初めてだった訳である。それを支えたのもやはり現場力だった。
設計側や建造を担当した技術士官達は、初めてなのであるが現場である呉海軍工廠には、戦艦を何度も造り上げた事のある親方や工員達の経験という蓄積された貯金があった。
もし、現場に経験がなかったのなら、これはもうお手上げだったと言える。橋でも建物でも戦艦であっても、ブランクがあるという事はそれだけリスクのある事なのである。
だが、そのマイナスの部分をプラスに変えるには、それを乗り越えるだけの先人達の経験という財産を使う必要がある。
人間誰しもが、初めての経験をするのに先人の力を使うという事は、そう珍しい事ではない。大和もその例外ではなかったのである。
戦艦を20年も造れなかったnaval holidayの影響は、日本海軍の弱点になるところであった。




