国民兵の投入
戦争が長期化するに従って、戦線は太平洋の各地域に拡大していった。これに伴って多数の戦闘員が必要となった。
開戦前には海軍の下士官と兵隊の総数は、約20万人だったが昭和19年になると120万人に急増している。
これだけの兵員を年令の引き下げを行った志願兵の増員や「甲種」や「第一乙種」に合格した現役兵(徴慕兵)だけでまかなえるはずがなかった。
そこで仕方なく、従来なら徴慕の対象から外されていた体力の劣る「第二乙種」や「第三乙種」などの補充兵からも、徴集される事になった訳であるが、これでもまだ不足していた。
そこで苦肉の策として、最も体力が劣り兵役体験のない「丙種」とされる40才前後の者達までが、国民兵として海軍に引っ張られて来た。
国民兵のほとんどは、地方で仕事を持ち、家庭においては夫であり父親だった。国民兵は、教育期間が短く三ヶ月足らずの海兵団教育のみであり、経験や技術を要する難しい配置には、不適当であった。
しかし、今や海軍とってはこの「ロートル」でさえも有り難い戦力であった。それほどまでに、兵隊の消耗は激しいものであり、猫の手も借りたいとはまさにこのような状況の事を言うのであろう。
兵隊がいなけれは、当然の事ながら戦争は戦う事も難しい。たとえ、戦力的に国民兵が劣る事が分かりきっていても、今はそんなことを言っている余裕はない。
戦争に参加すれば命の危険にさらされる事は、この経験も技術もない「ロートル」である事は、小学生でも分かる事である。
戦えるか、戦えないかではなくとりあえず頭数を揃える。それが海軍にとっては重要だった。国家総力戦とはまさに、ここまで国民をかき集めて行われた。
頭数さえ揃えば勝てる戦ではなかった。正に兵どもが夢の跡である。




