八・八艦隊
明治末期から大正時代にかけて、日本海軍は「八・八艦隊」つまり戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を保有目標として、日本の海軍力の増強・安定を図ろうとした。
大正9年には予算措置もとられたが、ワシントン海軍軍縮条約によって、戦艦6隻と巡洋戦艦4隻しか保有出来なくなり、海軍としては「超大型戦艦さえあればアメリカに勝てる」という思い込みに転じてしまい、本当の意味での戦略もどこまで立てていいのかは疑問が残る。
この軍縮条約の残した傷跡は、日本の命運に大きな影を落としている。昭和5年のロンドン軍縮条約で、海軍はあくまでも対米比7割を主張する艦隊派と、条約派に別れて熾烈な闘争を繰り広げる。
これが統帥権千犯問題に発展し、国会も大きく混乱する。鈴木貫太郎侍従長が、艦隊派の加藤寛治軍令部長の上奏を阻止したため、軍部の間に「宮中は頼りにならない」という見方か広がり、天皇の求心力が劇的に低下していく。
そして、昭和7年には5・15事件が起こり、政党内閣は終わる。その翌年に大和の建造計画の検討が始まる訳であるが、ちょうど日本の政治が溶解し始めていた時期と重なる。
その一方で、日本の工業力がピークを迎えようとしていた。戦前のGNPが最大となるのは、昭和11年であるが、戦後この経済水準に追いつくのは、昭和31年の事である。
この時期は、列強各国が一斉に新型戦艦の開発建造に着手するのも、1936年(昭和11年)のワシントン軍縮条約が締結される事を見据えたものだった。
列強各国は、既にどこの国も既に新型戦艦の設計図を作り上げていて、条約失効の直前や直後を狙って起工、1939年から1940年にかけて続々と進水させている。
だから大和を造った日本海軍だけが、特別だったかというと、そうも言えない時代背景があったのは確かである。




