救国の士
ワシントン軍縮条約の失効を目前にした、昭和9年頃というのは、各国が着々と海軍力増強計画を進めていたところであった。
太平洋を巡ってアメリカとの対立を急速に深めていた日本も、第3次海軍艦艇補充計画の中で、アメリカ海軍の主力艦艇を凌駕する巨大戦艦の建造を決定する。
圧倒的な工業力と生産力を誇るアメリカ海軍に、艦艇の保有量で対抗するのは難しい為、個々の艦艇の威力を高めて、砲撃戦に打ち勝つ事を目指した。
それこそ、大和建造の直接的な理由であり、その結果として世界に例を見ない巨砲(46㎝砲)によって、敵艦隊の射程外から同じ46㎝砲弾を受けても耐えられるという、並外れた性能が求められたのである。
つまり、大和は対アメリカとの戦争を想定して造られたものであり、仮想敵国であるアメリカに物理的に対抗出来ないが為に、個々の艦艇の質を上げようというスタンスに変わって行ったのであろう。
しかしながら、その発想は安易なものであるという事を、当時の日本海軍上層部は気付いていなかった。実際、大和が戦場で何をしていたのかを見れば、それは一目瞭然である。
とにかく規格外の大和の主砲がことごとく当たらないのである。軍艦が、大砲の弾を当てられないで敵艦艇を沈められる方法などあるものか。
大和の主砲が規格外だったがゆえに、敵が動くという当たり前の事すら、想定していなかった。
大和の生涯の戦果で最大のものと言えば、レイテ沖海戦でのアメリカ海軍の駆逐艦ホールの撃沈くらいのものであろうか。
大和はその存在感だけで敵を威圧するだけの存在として、遂に戦果を発揮することはなかったのである。もちろん建造開始から戦場に現れるまては救国の士としての期待感を持って建造されたし、実際に随所に当時の最新技術が使われてたのは、事実である。
しかしやはり、時代の流れとして大艦巨砲の流れは、時代遅れの理論だったのかもしれないだろう。現代人がそれを語るのはやぶさかな気もするが、まぁよしとしよう。




