軍隊の構成員とその時代背景
戦前、戦中の日本はまだまだ貧しかった。日本海海戦で、国力10倍のロシアに勝利しても、まだまだ暮らしは豊かにはなっていなかった。
その貧しさから逃れる手段として、軍隊に行くという選択肢は、当時は当たり前のように思われていた。日露戦争の立役者である秋山兄弟しかり、真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官山本五十六しかりである。
軍人になった全ての人間が、貧しかったとまでは言えないが、陸軍や海軍に入隊すれば、三度の飯ととりあえずの生活には困らない。兵舎暮らしは、何かと制約も多いが慣れれば、どうという事はない。
特に海軍の飯がうまい事は、国民には幅広く知られており、確かに海軍の飯は当時の国民レベルや食糧事情を考えれば、上質なものであった事は間違いない。
陸軍、海軍ともに、農家の次男坊や三男坊など、家業を継げない食い扶持に困った人間にとっては、現代で言うところの公務員的な感覚で、気軽といっては乱暴だが、入隊理由の一つになっていた。心身が健康であり、多少の知識があれば入隊する事が出来た為に、国家と国民の双方の需要と供給が満たされていた事になる。
大日本帝国軍が、300万もの(陸、海軍合わせて)兵力を持つに至ったのも、背景には仕事や食い扶持がないという事情があった。それでいて死亡しても、国家国民の為になる。
お役に立てるのならば、という考え方がポピュラーであったのだから、大東亜戦争(太平洋戦争)は起こるべくして起こったのかもしれない。大和や武蔵の乗組員に至っても、そのほとんどは貧しい家の出の下士官や兵隊がほとんどである。
士官であっても、家が裕福ではないから、お金のかからない海軍兵学校に行ったかもしれない訳で、お金に余裕のあった人間は、そもそもが命の危険を犯してまで、リスクを選ぶ必要がない人間は、軍人になったりはしなかった。
アメリカ軍に日本軍が負けたのは、こうした軍隊の構成員の質によるものが大きかったのかもしれない。アメリカやイギリスでは、エリートこそ進んで戦地に赴くという考え方が、一般的な思想としてある。




