大艦巨砲主義から航空母艦へ
大和級戦艦を産み出した背景にあったのは、当時は根強かった大艦巨砲主義に由来する。
大艦巨砲主義とは、読んで字の如く大きな船体に大きな大砲を持つ、戦艦の建造こそ至上とする考え方である。
昭和ヒトケタの時代には、まだ航空母艦は主流になっていなかった。それどころか、航空機がそこまで力を持つとは誰も考えていなかった。
ただ、日本海軍部内では、航空派ではなくても、第一次世界大戦後は、優秀な海軍士官ならば皆航空機が、海上作戦の花形であるとの納得はあったはずである。
戦闘の要素を突き詰めれば、「集中」と「分散」であり、分散して制圧され難い味方ユニットを狙った敵ユニットへ早く集中して破壊力を及ぼす。
そのスピードを考えたら、戦艦よりも空母+航空機の方が、イニシアチブをとりやすいユニットだという結論は出るだろう。しかし、それでも各国が大艦巨砲主義にこだわったのは、政治力すなわち水上艦は予算の総額も多い故に、予算に付随する人員数や高級ポストも多い。
しかし、航空機は真逆だ。さらに平時の将校の死亡率の高い事が、比較されての事だった。と思われる。あくまでも、推測の域を出ないが。
どこの国の海軍ても、ステイタスが最も高くて影響力を持っていたのは、戦艦と大砲に関わるセクションの人間だと、相場は決まっていた。
支配力を行使出来る予算も、関連産業も、航空機系のセクションと比べればはるかに巨大だった。どこの国も巨大な予算の「慣性」を、おいそれと変更する事が出来ない事は、現代の政治にも言える。
巨大戦艦は、巨大利権でもあった。大和も武蔵も最終的に航空機に撃沈される事になるのだが、それは歴史の必然悪というよりも必然だったのかもしれない。
航空母艦が大艦巨砲の戦艦に海の王者の座を明け渡すのは、日米が激戦を繰り広げた太平洋戦争の頃からである。大和型戦艦の2隻の艦船の沈没はその航空機優勢を確かにしたシンボル(象徴)ともなったわけである。




