落眼
お医者さんの手で姉の眼帯が外され、一年前と同じ色の眼が顕わになる。けれど、そこに入っているのは、かつてそこに入っていたものとは全く別のものだ。
落眼。片方の眼球が抜け落ち、約一年間かけて新しい眼球に生まれ変わること。第二次性徴期とほぼ同じ時期に始まり、個人差はあるが大体は小学四年生頃から始まり、中学一年生ぐらいには七割の児童が両眼の落眼を終える。
姉は少し遅く、中学二年生の初夏に大人の眼球が生え揃うこととなった。
「ふっふーん、これで私も大人の女ってやつよぉ」
「まだ十四歳が何言ってるのよ」
母がはしゃぐ姉を叱りながら、受付のお姉さんと何か話していた。
「これで無事に永久眼に成りましたが、数か月は強い光や長時間の酷使は避けてください」
その会話をなんとなく見ていた私に気が付いたお姉さんは、私を飽きさせまいと素敵な笑顔を向けた。光を飲み込むような黒の虹彩が、それでも光り輝いて私の眼に飛び込んできた。
「お嬢ちゃんにももうすぐ素敵な眼が出てきてくれるわよ」
同じように両の眼が揃っていても、私の子供の眼とお姉さんの大人の眼は全然違うんだと思い、はやく落眼してあのお姉さんのように綺麗な眼にならないかと瞼の上から自分の眼を触っていた。自分の指で瞼を開いて私に見せびらかす姉よりも早く、という思いも少なからずあった。
眼帯を付けた男子達は以前より意地悪だった。ドラゴンとか剣とか、よく分からない柄の眼帯を見せびらかしてくる。今まで普通に一緒に遊んでいたのに、落眼が始まっただけなのに、たったそれだけですごく嫌な気分にさせられる。
ひどく暑い日だった。まだ夏も始まったばかりなのに、夏真っ盛りといった暑さだった。意地悪な男子達と、優しい友達との間で今日あったことを思い浮かべながら、家路を急いでいた。空になった水筒をぶら下げながら、家に着いたら麦茶をいっぱい飲もう、お腹も空いたからおやつも食べよう、でも夕飯前にあまり食べると怒られるから程々にしようと思っていた。
その時だった。片目を瞑った時と同じように、視界に影が入ったのは。瞼を開いている感覚はあるのに、視界が元に戻らない。びっくりして辺りを見回すと、視界の端に丸いものが転がった。
私の左眼だった。落眼が始まったのだ。期待と恐怖が入り混じる。早く拾ってお母さんに持っていかなければいけないのに、道に転がる眼球から目を離すことができなかった。
身体から抜け落ちた眼球は、幽かに濡れていてまるでまだ生きているかのように──。
目が、合った。
合ったような気がした。
焦茶色の虹彩がぐるりと回り、瞳孔の太陽を取り囲む虹の輪を描く。
私を、見ていた。
私を見ている私が落とした眼球は、縋るように涙を流しながら今にも消え入りそうな命で震えていた。
──そんな風に、見えたんだ。
一昨年の旅行で買った蜂蜜の空き瓶に、私の左眼を入れる。少しだけ水道水を入れようとすると、左眼は嫌がるような素振りを見せた。私だって水道水を眼に入れたら痛いから、それも当然だと思った。
落眼した眼球は、より遠くを見渡せる眼が生えてくることを願って出来るだけ遠くに投げ捨てるのが一般的な風習だった。
けれど、折角だからと保存することを選ぶ人もいて、落眼した眼球専用の保存液がある。母は姉がそうするかもと思って買っておいた保存液があった。小瓶を保存液で満たす。
落ち着いたようだった。さっきまでか細い息を吐いて震えていた状態だったけど、今はゆっくりと深呼吸をしている様子だ。私も同じように安堵の深呼吸をした。
くぅとお腹が鳴り、お腹が空いていたことを思い出す。そして、この左眼もお腹が空いているのかもと思った。そう思うと、私の左眼は少し痩せているように見えた。
何を食べるのだろう。私と同じご飯は食べられないだろう、だって口が無いんだから。
お母さんがよく使っている目薬を点してみる。驚いているみたい、私は目薬を使ったことが無いからね。でもさっきより白目が瑞々しくハリがあるように見えた。多分正解なのだろう。だけど、お母さんは大人の眼になって今の私の子供の眼よりも良い眼になっているはずなのに、目薬が必要なのだろうか。
私の左眼が入った小瓶は、机の中に隠した。なんとなくだけれど、この眼が生きているなんて、誰も信じてくれない気がしたから。
「あら、あらあらあら!」
私もお腹が空いていたから、麦茶と残り物のスイカを食べていたら、お母さんが買い物から帰ってきた。そして、私が落眼したことを思い出した。瞼の上から触ると、空洞になっていることを感じた。中に入っていた眼は、今私の机の中にある。
「こら、あんまりいじっちゃダメよ。お医者さんに眼帯作ってもらわなきゃね」
お医者さんに連れていかれて、おぼろげな姉の時と同じようなことを言われて、可愛かったからヒマワリ柄の眼帯を選んだ。その間にもずっと私の左眼のことを考えていた。
「あなた落眼した眼はどうしたの?」
「えっ、えっと……すぐに投げちゃった」
「あらそうなの? じゃあ保存液いらなかったかしら」
これが、私が初めて吐いた嘘。
私は、私の左眼のお世話をすることが毎日の日課になった。毎日目薬を点してあげて、保存液を時々入れ替えてあげたりもした。お小遣いは少ないけれど、それでも左眼のために目薬を買ってあげた。毎日眺めて、今日あった色んなことをお話ししてあげた。嬉しいことがあったら一緒に喜んでくれて、悲しいことがあったら一緒に悲しんでくれて、辛いことがあったら一緒に泣いてくれた。
父が使うようなちょっと高い目薬を点してあげると、喜ぶけど次の日とか辛そうにしてる。私もケーキとか好きだけど、食べ過ぎちゃうとお腹痛くなっちゃうから、私の眼も一緒なんだと思う。人口涙液って書いてある目薬が一番いいみたい。あんまり好きじゃなさそうだけど。
直接日光に当たるのは嫌いみたい。だけど真っ暗なのはもっと嫌いみたいだった。暗いところで大きくなる瞳孔を見るのは面白かったけど。遠足が雨になった日に行った博物館で見たブラックホールのようだった。それから、宇宙の写真が私の左眼のように見えた。
私の眼の色は焦茶色だと思っていたけれど、よく見ると色んな色が重なっていることに気が付いた。赤色や黄色、緑っぽい色も見えた。色々な色が重なって焦茶色に見えていたのと同時に、眼自体に色がたくさん付いているから、世界に色がたくさん見えるんだなと思った。私の左眼は、色んな色を見せると黄色の方ばかり見ているみたいだから、私と同じように黄色が好きみたいだった。
人間の身体は人によって全然違うし、あんまり綺麗な形をしていないけれど、眼球は綺麗な球体だった。他の人の眼球も同じように綺麗な形をしているのだろうか、姉の時にもっとよく見ておけば良かったし、今度友達が落眼した時に見せてもらおうと思った。
私のヒマワリの柄が入った眼帯は、日に日にお気に入りになっていった。友達も可愛いと褒めてくれたけど、それ以上に好きな黄色の色を私の左眼がよく見ていてくれたからだ。でも私の左眼に眼帯を自慢すると、ちょっと拗ねた。そうだよね。私の左眼はまだここにいたかったのかも知れない。ごめんねと謝ると、許してくれた。
私の左眼ばかり見てると、他の眼球にも興味が湧いてくる。母や父、姉やクラスのお友達、飼ってる猫の眼とか、みんなそれぞれ微妙に違っていて、すごく綺麗で見惚れた眼もあった。それを話すと必ず私の左眼は不機嫌そうにする。大丈夫だよ、きみが一番綺麗だから。
触るとぷにぷにして柔らかかった。あんまり触ると傷ついちゃうからダメだけど、もっといっぱい触ってみたかった。
雨の日も風の日も、暑い日も寒い日も、私の左眼は私の友達でいてくれた。だから、一番最初に見せたかったんだ。少しずつ私の眼窩に生成されつつある新しい左眼。怒るだろうか、不機嫌になるだろうか、でもきっと祝福してくれる。そう、信じていた。
お医者さんの許しが出た。もう眼帯を取っても大丈夫だと。ヒマワリの眼帯はお気に入りだったから寂しいと言ったら、右眼の時も同じ柄を用意してくれると約束してくれた。
急いで帰った。一刻も早く私の左眼に、新しい左眼を見せたかったから。自慢したかった。君にそっくりだよって言ってあげたかった。
けれど──。
私の左眼は死んでいた。
動かなかった。笑わなかった。怒らなかった。水分が抜けて干からびちゃった訳でも、ひどい傷が付いていた訳でもなかった。命だけがすっぽり抜けたように、保存液の中をぷかぷか漂っていた。
目薬を点してあげても生き返らなかった。ちょっと高い目薬も、表面を伝って落ちていくだけだった。生きていない、ただの眼球になってしまった。私の大切な友達が。私の一番の親友が。私から落ちてきた、私の一番大切な左眼が。
たくさん泣いた。両の眼でたくさん涙を流して、泣いて、母に心配されて、父に心配されて、普段私を馬鹿にする姉にも心配されて、泣いて、泣いて、泣いた。
お墓を作ってあげた。その間も私は、ずっと泣いていた。もう涙を流せない左眼の分まで泣いていたみたいだった。
それから数日後、右眼の落眼が始まった。右眼は、生きてなかった。生きているようには見えなかった。それでも、左眼がかわいそうだから、左眼と同じお墓に入れてあげた。
あんなに好きだったヒマワリの眼帯が嫌いになった。左眼のことを思い出して泣きたくなるから。ヒマワリも嫌いになった。黄色も嫌いになった。素っ気ない灰色の眼帯に替えてもらった。
それから数年が経った。私にも娘ができて、祖父母の墓参りのついでになるぐらいには時間が経ってしまったけれど、その間も私は左眼の墓参りを欠かすことはなかった。
大嫌いなヒマワリをお供えして、あの日もひどく暑い日だったなと思っていた。出会った時も、失った時も。
あぁそう言えば、私の娘もそろそろ──。
「お母さん助けて……この子、まだ生きてる……!」