9 石岡裕太腹顔論争
カメハメハ大王は、サーフィンが大好きだったそうだが、できればその勇姿をお目にかかりたかった。アメリカ映画の影響で、サーフィンはアメリカ発祥のスポーツと勘違いしていたが、ポリネシアに古くから伝わるスポーツだそうだ。イギリスの探検家クックが西洋人として初めてサーフィンを目撃している。以来、西洋人がハワイに押し寄せるが、ポリネシア人の文化であるサーフィンを文明上の理由により禁止する。
文明上の理由がよくわからない。おそらく、西洋人はポリネシア人を野蛮人と見下してみていた。野蛮人にあんな優雅なスポーツは不似合いだ、とでも考えたのだろうか。
サーフィン。裕太という人物からは、連想しにくい言葉だ。サーフボードを大波に乗せ、波のトンネルを華麗にくぐり抜ける。サーフィンはイケメンがするものだし、若者がするものだし、金持ちがするものだ。以前テレビで、出勤前にサーフィンを楽しむ金持ち社長のドキュメンタリーを見たが、さすがにハワイは優雅で別世界だと感じた。
裕太が芸人として売れ出して四ヶ月。寸暇を惜しんでテレビ出演など芸能活動に励み、貯まるものは貯まった。しかしまだこれからというときに腹顔疑惑が持ち上がった。ハワイでサーフィンなど楽しんでいる場合ではないが、今は日本から離れた方が無難だった。
復活祭まであと三週間。それまで、ハワイで休暇を楽しむことにした。
ダイヤモンドヘッド・ビーチホテルから見る夕日にも見慣れた。初めてのサーフィンも初心者コースを卒業し、コーチのアドバイスは無用になった。プールサイドでお腹のららかを青空の下に開放し、好きなシャンパンを楽しむ日々。「安息」の日々を満喫していた。
「由布岳から見た、あの夕日と同じ・・・。」とららかは言った。
「俺には、ちょっと違って見えるで。色が鮮やかや。」
由布岳に流星群が着弾し、十三名が亡くなった。翌日、裕太とららかは新見社長と成田からハワイに飛んだ。新見社長は二日後に東京へ帰り、裕太とららかは毎日サーフィンと楽しみ、青い海と夕日を見て過ごした。幾日が過ぎ去ったか、時の流れを気にしない生活に没頭した。
安息の日々を打ち破ったのは、やはり和田誠也だった。和田誠也と田原総一郎氏とのテレビ対談が近く行われると、新見社長からメールが入った。
由布岳にケンタウロス流星群が降り、反石岡派に多数の死傷者が出たことで、裕太のお腹について詮索するのはタブーとする世間の風が吹いていた。反石岡派代表、大友幸四郎は、多数の死傷者が出たことにショックを受け、代表を辞任したという報道が流れた。ネットから【石岡を探せ】の広告も消えた。和田誠也が田原総一郎氏との対談を目論んだのは、自己の主張が正しいことを証明するためだろう。しかし、そのためには、東京駅での顛末を告白せねばならない。誠也自身が、女子トイレに侵入し、ららかを襲ったこと。
「あいつのことや。自分に不利なことは言わんはず。脚色すんのやろ。」
「好きだった人が、こんなふうになってしまうなんて・・・。」
「恋は盲目言うやろ。あばたもえくぼ、恋愛中は相手の欠点は見えへん。欠点を好きになってしまうことのほうが多いで。まじめ学生よりヤンキーがもてるんは、欠点が多いからや。」
十二月八日。ジョン・レノンの命日の夜、和田誠也と田原氏との対談が始まった。
「僕は見たんだ。」
和田誠也は、裕太のお腹を見るまでの過程は省き、お腹に張り付いたららかの顔の詳細について長く語った。
「和田さん、お腹を見るまでの過程を、話してください。」
さすがに田原さんだと裕太は思った。和田誠也は、東京駅のトイレで見たとは言ったが、女子トイレとは言わない。
「トイレで石岡裕太を見たんです。ららかちゃんの肩を抱いていましたから、どういう関係だと問い詰めたんです。ららかちゃんは、病気が理由で僕と別れたいって言ったんですから。石岡裕太のことは聞いてない。石岡が、僕の襟首をつかんで大便の方へ連れて行き、ららかに手を出したら承知せんぞ、殺すぞと脅しました。それから、トイレの中で揉み合いになって、石岡のお腹に触ったら、悲鳴が聞こえたんです。ららかちゃんの・・・。」
「わたしはね、和田さん、あなたからの告発を信じ、石岡裕太さんに、テレビカメラの前でお腹を出すようにお願いしたんですよ。このことで、裕太さんの名誉を大変傷つけた。重ねて、ここでお詫び申し上げたい。そのあと、あなたは自殺未遂。回復して今度はわたしとの対談を申し込まれた。あなたのねらい、真意はなんですか。」
「プライドですよ。僕は見たんだ。石岡裕太のお腹にららかちゃんの顔があった。これは異常じゃあないですか? 僕は真実を語っているのに、誰も信じてくれない。そんなのは、僕のプライドが許さない。」
「ネットで、【石岡を探せ】ゲーム、まあ、ブームと言ってもいいでしょう、が起こりましたが、このゲームを仕掛けたのは、和田さん、あなたですか?」
「・・・。僕じゃあ、ないですね。」
「石岡派と反石岡派に分かれて、石岡裕太さんを追い詰めるというゲーム。これは、異常ではありませんか?」
「驚きますね、ネットの影響力。あのとき、僕はまだ生死の境を彷徨っていました。」
「あなたは、入院して数日後にはもう回復し、熱心にスマートフォンをいじってたということですが。」
「それだけで、僕を仕掛け人扱いするのはおかしくないですか。」
「あなたには、動機がありますよね。自殺を図るくらいですから、並々ならぬ情念が、あのふたりに向けられている。だから、聞いてみたんです。」
「僕は、まだ仁科ららかを愛してる。それだけです。」
「流星群が由布岳に落ちて、反石岡派に多数の死傷者が出ました。わたしは先ほど、ブームと申し上げましたが、亡くなった方のご親族の心中を思えば、不適切の表現だと、今、気づきました、大変失礼しました。この一連の出来事は、ネットを使って一人の人間を追い詰めるという、マスコミも一緒になって犯した人権侵害です。なぜ、このような事態が起こったのか、わたしたちは検証してみる必要があると思います。和田さん、由布岳に降った流星群が、結果的に石岡裕太さんを救ったわけですが、世間では、この奇跡によって裕太さんを神格化する見方が出てきています。このことについてどう思われますか。」
「あれには驚きましたけど、ロシアにも隕石が落ちたように、まったくの偶然でしょう。石岡が神だなんて馬鹿げてる。神どころか、化け物ですよ、あいつは。」
「ここでCMです。」
日本での世論はどうなのか、田原氏の言葉で知ることができた。
「俺が神やて。笑うがな。」
裕太は満更ではなさそうに笑った。ハワイにもマスコミは来ていたが、裕太を直撃することはなく、静かに見守っているようだった。裕太を畏怖する空気が、ハワイの秋風に入り交じっていた。
それから数日後、裕太のお腹をわたしも見たという人物が現れた。日曜お昼の番組で、曇りガラス越しのインタビューだった。
「お名前は?」と司会の宮根さんが訊ねた。
「綾乃と申します。」
「先月、由布岳に流星群が衝突しましたが、そのとき、由布岳には芸人石岡裕太さんと仁科ららかさん、反石岡派数百名がいました。それ以前に、反石岡派は、裕太さんが宿泊していた旅館を取り囲みました。あなたは、その旅館の女将さんで間違いありませんか?」
「はい。」
「あなたは、週刊誌で、旅館に隠しカメラを付けた番頭さんとテレビ局を非難していましたね。」
「週刊誌の方に、あの日のことを取材したいと言われましたので、質問に答えました。石岡様を犯罪者のように扱っている世間様が異常だと思いましたので、旅館に隠しカメラを付けるという行為を非難いたしました。」
「今回は、綾乃さん、裕太さんのお腹を見たということで、証言したいと、テレビ出演をご希望されたということでしょうか?」
「そうです。」
「先週でしたか、某テレビ局の番組で、俳優の和田誠也さんが、お腹に仁科ららかさんの顔があるのを見たと証言しました。それ以来、世間では、お腹に顔があるのか、ないのか、いわゆる、『石岡裕太腹顔論争』なるものが勃発したわけです。いろんな番組で討論となっているわけですが、いずれも机上の空論で、決定的な論証ができておりません。今日は、お特ダネ情報ミヤネヤで、貴重な証言者をお招きしております。湯布院隠れ旅館の美人女将、綾乃さん、その人です。綾乃さんの証言は、和田誠也さんの主張を支持するものなのか、あるいは、否定するものなのか。ずばり、お聞きします。ピン芸人でブレイク中の石岡裕太さんのお腹には、知性派女優として人気上昇中だった、仁科ららかさんの顔が、張り付いていましたか?」
「・・・。」
テレビ画面がCMに変わった。
「もう、ドキドキするがなあ。頼むで、女将・・・。」
「女将さん、大丈夫ですよね。」
「思うけどなあ。もう、出てこんでええのに。ほとぼり冷まそうとハワイまで来たのに、日本じゃあ、俺の腹のことで大騒ぎやがな。月末は復活祭やのに、大丈夫かいな。富樫陰陽師に明日電話しとこ。」
CMが終わった。
「さて、ことの発端は、若手俳優、和田誠也さんの証言でした。和田さんは、裕太さんが田原総一郎氏との対談中、ファックスで、『裕太さんのお腹に仁科ららかの顔がある。これは本当だ。番組中に暴露してほしい。真実を明らかにしろ。もし顔がなかったら、僕は自殺する。自殺して、僕が正しいことを証明する。』こう書いて、番組に送信しました。」
「戻っとるがな。早う先に進めんかい! ほんま、テレビっちゅうやつは苛つくわ。」
「こうして、どんどん視聴率が上がっていくんですね。」
「常套手段やな。これはもう一回CM行くんちゃうか。」
「自殺未遂から回復した和田誠也さんは、某テレビ局の番組で、お腹に張り付いた仁科ららかさんの顔の様子を克明に証言。わたしは、かなりのリアリティを感じました。そして今日は、お特ダネ情報ミヤネヤで、もう一人の証言者をお招きしました。湯布院隠れ宿の美人女将、綾乃さんです。彼女の証言は、和田誠也さんの主張を支持するものなのか、あるいは、否定するものなのか。今度こそ、ずばり、お聞きします。綾乃さん、石岡裕太のお腹には、仁科ららかの顔が、張り付いていましたか?」
「・・・。」
「どうなんです?」
曇りガラスの向こうの綾乃は、旅館の女将らしく着物を着ている。裕太は、あの日女将が着ていた紺の着物を思い出した。テレビで証言する綾乃の着物は、鮮明には映らない。
「どうなんですか、綾乃さん!」
宮根さんが詰め寄る。裕太もテレビに近寄った。
「見ました。」と綾乃は言った。
「なんやて!」
裕太は叫んだ。
「それは、顔があった、ということですね。」
「・・・はい。」
「これは驚きました。綾乃さんがどんな証言をするのか、我々も知らなかったわけですが、すごい証言が、綾乃さんの口から、たった今、飛び出しました。あなたは、石岡派だとお聞きしていましたが・・・。」
「はい。石岡様を、わたしはお助けしました。」
「抜け穴に裕太さんを案内したんですね。それで、裕太さんを裏切るような証言をするのは、どうしてなんですか?」
「そや。綾乃さん、なんでや?」と裕太もテレビ越しに問い詰めた。
「石岡様のお腹には、ららか様の顔があります。それは、石岡様が神だからです。そして、わたしは預言者です。石岡様を見て、神だとわかりました。そして、啓示を受け、預言者となりました。ケンタウロスから流星が降りましたのが、その証です。」
「綾乃さん、あなた、預言者なんですか? これはまた、さらにびっくり。流星群が地上に落ちたのが事実だけに、信憑性の高い証言です。」
突然、画面から綾乃の姿が消える。
「あれ、今、なにか起こりましたか? 突然、綾乃さんが消えたような。綾乃さんは第三スタジオにいるわけなんですけども。スタッフ、応答してください。綾乃さんは、もう帰ったんですか?」
テレビ画面が乱れた。画像がゆがみ、一瞬暗くなったあとまばゆい閃光を放った。裕太もららかも思わず目をつぶった。
「なんや、これ! 目が見えへん。」
「裕太さん、大丈夫?」
「ららかは大丈夫かいな。」
「運良く、ちょうど目をつむってました。」
数分してから、漸く視力が戻った。
「このまま目が見えなくなる思うたがな。ああよかった。」
「綾乃さん、預言者だったんですね。」
「預言者がどういうもんか知らんけど。さっきの光でびっくらこいてる俺が神様なわけないやないか、なあ。」
テレビの画面が回復した。
「テレビの前の皆さん、大丈夫でしょうか! 今、こちらではものすごい爆音がしました。電波塔が爆発したというニュースが飛び込んできました。湯布院の隠れ宿の女将、綾乃さんも突然消えたと、スタッフが証言しています。スタジオからこれ以上の放送は不可能ですので、報道センターに切り替えます。ここまで、情報をつかんだら離さない、宮根誠司がお送りしました。」
裕太は目頭を押さえながら、テレビを消した。
「綾乃さんの方がよっぽど神様っぽいやんか。」
裕太は、綾乃がくれた連絡先に電話をかけた。綾乃はすぐに出た。
「ごめんなさい、石岡様。」と開口一番に綾乃は言った。
「なんであんなこと、言うたん?」
「ほんとのことですから。」
「俺、神様やないがな。腹顔族の腹王、それぐらいのもんやがな。あんた、預言者なんか?」
「これから、和田誠也を殺しにいきます。あの人は、石岡様にとって危うい存在ですから。」
「ちょっと、待ちいな! なに言ってんの。そんなことせんでええ。」
「預言者、綾乃としての、最初で最後の仕事です。石岡様でも止めることはできません。これから、多くの人が死にます。石岡様は、心を痛めるでしょうが、いずれ、慣れるでしょう。そのとき、神様になるのです。」
電話は切れた。
「多くの人が死ぬ? どういうことや・・・。」
裕太は、もう一回綾乃に電話をかけたが、綾乃は応答しなかった。