4 ららかの恋人和田誠也
松竹劇場での舞台は最悪だった。
ららかがお腹にいるということが、芸に集中できない理由だった。
「お嬢様に、人形役をやってもらえばいいんですよ。」
ららかのマンションに帰ると、富樫陰陽師とららか本体が待っていた。リビングにはカレーの香りが漂っていた。
「すごい部屋やね、ららかちゃん。今日の夕飯、カレーな。なんか、家庭的でええなあ。俺、あのボロアパートから引っ越すわ。すごいね、ららかちゃん、本体の方、よう動いてるわ。」
「自分の部屋ですから。だいたい、わかるんです。」
「プライベートでは、ららかちゃんの顔、見えてもええんやわ。でも、俺、上半身裸っちゅうのも、あかんしな。そや、ららかちゃん、ハサミ、貸してもらえるか?」
裕太は、ハサミでTシャツのお腹の辺りを丸く切った。ららかの顔がお腹から覗いた。
「これでどうや? ららかちゃん。」
「やっぱり、見えるっていいですねえ。」
「そこにいるって、しんどいやろ?」
「そうでもないです。やっぱり、腹顔族の血が流れてるんですねえ、落ち着きます、ここ。」
富樫陰陽師と本体が食卓を調えた。
「うまそうなカレーやん。いただきますう。」
ららかの本体が裕太の隣に座り、裕太のお腹に張り付いたららかに食べさせる。
「うっ、熱いがなあ。」
裕太がうめく。感覚がつかめないのか、ららかの口をスプーンが外し、裕太に腹周りにカレーが飛び散る。
「俺が食べさすさかい。本体さんはちょっと休んどいて。」
裕太は器用にららかに食べさせた。
「裕太さん、上手。」とららかは言った。
「えっ? ららかちゃん、今、なんて言うた?」
「裕太さん・・・。」
「裕太さん? 初めて名前で呼んでくれたがな。うれしいなあ。」
「つい、思わず・・・。」
「ええがな、遠慮せんと、どんどん裕太さんって呼んで。」
「石岡さん、さっきの提案ですけど・・・。」
富樫陰陽師は、カレーをゆっくり食べながら言った。
「富樫陰陽師、おったんかいな。ごめん、今のは冗談や。それより、いつまでおんの?」
「わたしは明日帰ります。」
「それがええな。ちょっと心細いけど。なんかあったら連絡するさかい。ところで、どこに帰るの?」
「当然、腹顔族の国へ、です。」
「北海道?」
「はい。同志にこのことを報告し、お二人をお迎えする準備もいたします。」
「やっぱり、行かなあかんな。腹顔族のお里に。」
裕太はららかと目を合わせ、うなずいた。
「一緒に行ってもええけど。」と裕太は言った。
「いえ、お二人は、この生活に少し慣れてください。できれば、石岡さんの仕事が軌道に乗って、活躍していただければ・・・。お嬢様は、少しずつ芸能界から遠ざかっていただきたいと思います。」
「仕方ないわ・・・。」ららかは、それほど残念そうでない声で言った。
「ららかちゃんは、それでいいの?」
「のっぺらぼうで、舞台やドラマに出るわけにはいかないもの。」
「そんな役があればええのに。百パー、ホラーになるわな。今のは冗談や。」
「今年の十二月二十七日に復活祭を開催する予定です。」
富樫陰陽師は席を立って、ソファに腰を下ろし、手を合わせた。
「もう食べへんの? まだ残ってるで。復活祭を十二月? なんで、その日やの?」
「ちょうど千年前、腹顔族が滅ぼされました。」
「なるほど。そんで、芸能界で活躍しろいうんは、なんで?」
「資金が必要だからです。」
「金? そやな。いることはいるわな。」
「石岡さんが、『腹王』とあれば、現代でも存在感を示す必要があります。有名芸能人になって、大金を寄付して、『腹王』として腹顔族を牽引してくだされば、一族の誇りが再燃し、士気が上がるわけです。」
「言うてること、わからんでもないけど。俺、芸人やで。『腹王』の貫禄はいまいちなあ。自信ないわ。それに、ひとつ疑問があんのやけど、俺ら、こんな状態なわけやから、あんまり目立たんほうが、ええんちゃうの? 北海道の富良野あたりで、大自然のなかで、ららかちゃんと暮らすのも、悪くないわ。」
「それでは、腹顔族が存在しないも一緒です。」
「まさか・・・。」裕太は、肉を噛まずに飲み込んだ。
「裕太さん、わたしも、ご馳走様。」
「話聞いてます? ららかちゃん。」
「聞いてますよ。裕太さん、お水、飲ませて。」
「もう、ららかちゃん、甘えてからに。それで、富樫陰陽師、なにを企んでるの?」
「国政に出ます。」
「国政? ほんまかいな。」
「目指すは、国政のトップ。」
裕太は、芸人らしく大げさにこけて見せた。
「トップいうたら、総理大臣やんか。」
「腹顔族はマイノリティです。マジョリティの人間たちへの復讐が、腹顔族の本意ではありません。ただ、腹顔族も、人間として生きる権利を勝ち得なければなりません。世の中に腹顔族を認知させ、同じ人間として生きる、そんな社会を実現しなければならないのです。そして、できれば、マイノリティからマジョリティへと立場を逆転させたい。」
「ある意味、復讐やんか。」
「そうですね。流血なき復讐・・・。」
「国政に出るて、誰がでるの?」
「復活祭で選出されます。」
「『腹王』とか、王族は関係ないわけね。安心したわあ。俺、政治家なんか大嫌いやもん。」
「当然、候補です。石岡さんが本物の腹王であれば、間違いなく選出されます。今、全国で、わたしと同じように、陰陽師が王族の末裔を説得しているわけです。」
「何人くらい?」
「恐らく、百名程度でしょう。腹顔族だと告げても信じないか、御祈祷をして腹顔族になっても、現実を受け入れられず自殺する。わたしは、幸運だったのです。芸人さんと女優さんでしたから。ららかお嬢様が小さい頃からお仕えしたのも、功を奏しました。」
「俺、遠慮しとくわ。立候補。」
「困りますね。わたしが推薦人ですし。やることがなくなります。」
「政治家なんてがらやないで。」
「そのことは、また今度相談しましょ。」
裕太は、冷蔵庫からビールを取り出した。
「ららかちゃん、ビールもらうで。ところで、富樫陰陽師、さっき変なこと、言うてたな。俺の、芸のことで。」
「政治家にはならなくても、芸人としては売れたいはず。」
「そりゃあ、そうや。当たり前やがな。」
「あなたが腹話術の芸人と知って、すぐにアイデアが浮かびました。あなたの腹話術は、人形から声が出てるようには聞こえません。」
「そんなこと、あらへん。ちょっと待っとき。人形、持ってくるさかい。」
裕太はリュックから、くたびれた人形を取り出して、芸を披露した。
「裕太さん、ぜんぜんおもしろくないわ。」
「ららかちゃんまで・・・。へこむわあ、俺。」
「自分の芸がおもしろいかおもしろくないかわからないようでは、プロとは言えません。」
「おもろないことぐらいわかっとるわい。おもろいと思わな、なんもできんやないか。」
裕太は、二本目のビールのプルトップを抜いた。
「お嬢様が、お腹にいるわけですから、人形のセリフをお嬢様が言えば、本物の腹話術になるわけです。」
「本物の腹話術? ちょっと引っかかるわあ。インチキ言われても、しゃあないやんか。」
「この際、背に腹は替えられない、と思いますけど。」
「うまいこと言うなあ、富樫陰陽師。背に腹て。ららかちゃんは、どう思います?」
「わたし、声優もしたかったので、できたらうれしいな。」
「そやな。舞台とか、テレビに出れへんもんね。よっしゃ。ふたりで共演いうのも乙なもんや。早速練習や。ええか、ららかちゃん。」
裕太がそれまで使っていた男の人形に替わり、女系人形を使うことにした。ららかが集めた人形からお姫様人形を選び、富樫陰陽師が腹話術用に作り直した。
「お姫様か・・・。とくれば、俺、乞食みたいな感じがええな。腹話術は、大抵人形の方が生意気やねん。お姫様と召使いでもええかも。ららか姫と乞食、ららか姫と召使い、みたいな設定で、ネタ作りしてみるわ。おおきに、富樫陰陽師。」
見た目は芸人ひとり。その芸人は、唇をぴくりとも動かさず、左手の人形から美しい女性の声を出す。ネタは普通でも、唇を閉じて女性の声を出すという芸だけでも賞賛に値した。芸人石岡裕太はうなぎ登り。ららかのアイデアで、裕太のブログを作り、ネタの募集をしたところ、これが大当たり。採用になったネタには賞金が出せるほど収入も増えた。飛ぶ鳥を落とすほどの昇り龍。ピン芸人日本一を決める【R1グランプリ】でも優勝。一千万円を獲得した。芸能事務所は、新見芸能プロダクションに鞍替え。腹顔族の末裔である新見周一の営業手腕で、テレビで裕太を見ない日はなかった。腹話術の芸にとどまらず、裕太のトークは大いに受けた。ららかのささやき声がお腹から聞こえる。そのまま裕太が口に出す。ららかのユーモアのセンスと、知識の高さが裕太の武器になり、クイズ番組でも活躍した。一躍時の人となった。
一方で、仁科ららかの名前は忘れ去られていった。ららか失踪説や自殺説を報道する週刊誌もあったが、事務所は「療養中」の一点張りだった。
ららかは何度か和田誠也と電話で話した。どうしても会って最後のお別れを言いたいとららかが言うので、裕太は本体の顔に特殊メイクを施すことにした。本物そっくりの人形を作る会社に相談して、目、鼻、口などパーツを取り寄せた。新見社長は特殊メイクの技術者をハリウッドから呼び寄せた。
「金があると、なんでもできまんな。」
裕太は、新見社長とシャンパンを飲む日々が続いた。
「ぜひ、復活祭では立候補してくださいよ、裕太さん。わたしが、バックアップしますから。」
新見社長は裕太の右腕となっていた。左手には、腹話術のお姫様人形。
ららかののっぺらぼうは、見事にららかの顔へと作り替えられた。
「瞳が動くぞ。」と新見社長は高い声で言った。
「特注品やさかい。」
「すごい、本物みたい。」とららかも満足げだ。
「強いショックで、パーツがずれるさかい、気をつけなあかん。でも、これで和田誠也と一応ご対面できるで。ららかちゃん。」
「裕太さん、ごめんなさい、わがまま言って。」
「ええて、ええて。恋のケジメつけるちゅうんは大事や。それで、和田誠也には、腹顔族のこと告白するん?」
「いえ、お別れを言うだけです。」
「それがええ。俺も傍におらなあかんから、個室で会うわけにはいかんな。」
ららかは和田誠也を東京駅に呼び出した。
「暑いやろ、ららかちゃん。汗、拭いたるわ。」
裕太は、団扇でお腹を煽いだ。Tシャツには、ららかの目の位置に小さな穴が開けてある。大衆の中の方が逆に目立たない。構内の通路にふたりは立った。裕太も、ららかの本体もサングラスをかけ、マスクをしている。ららかの本体とは一メートルほど離れた。ららかのケータイが鳴る。裕太がケータイを取りだし、お腹のららかの耳元に押しつける。
周囲からは、お腹をかいているくらいにしか見えない。和田誠也の登場は急だった。行き交う人混みの中から、唐突にららか本体の前に現れた。
「あれ? ケータイは?」
誠也の声がかすかに聞こえる。人混みを選んだのは失敗だったかもしれない。喧騒で声が聞き取りにくい。
「今、話してたのに。ケータイはどうしたの? あれ? ららかさんじゃないの?」
誠也がららかの顔をのぞき込む。
「わたしよ。」とららかが言った。
「声、小さいな。どうしたの、心配したよ。マンションに行ったら引き払ってるし。どこかに引っ越したの?」
「病気で・・・。」
「それは聞いたよ。何の病気?」
「言えないの。今日は、お別れを言いたくて・・・。」
「わかった。仕方ないよ、病気なら。心変わりじゃ、ないんだね。」
本体は、間を置いてからうなずいた。
「よかった。僕だって、きみとの思い出を大切にしたいからね。サングラスを取って顔を見せてくれないか。最後のお願いだ。」
本体はサングラスを外した。
「相変わらず、きみの瞳はきれいだよ。」
裕太は、競馬新聞に見入りながら、笑いをこらえた。
「何時の新幹線だい? まだ時間はあるの? 少しコーヒーでも飲まないか。」
「時間、ないの。見送らないで。ほら、もうあなたに気づいてる人がいる。わたし、行くわ。さよなら。誠也さん。ありがとう。愛してたわ。」
本体は動き出した。裕太も後を追う。
「待ってくれ、ららか。」
背後に誠也の声が残された。ららかは見えづらいのか、時々通行人と接触しながら歩いている。
「右方向、人、あまりおらへん。」と裕太は本体を誘導した。
「誠也さん、どうしてますか?」
「行ったみたいや。どこにおるか、わからへん。」
裕太のお腹に生暖かいものが流れた。
「泣けばええ。気が済むまで。」と裕太は優しい声で言った。
本体が壁に激突した。ららかはコントロールしていない。裕太は倒れた本体を抱き起こした。とりあえず、お手洗いでららかの気持ちを落ち着かせようと考えた。
「トイレ、行ってきます。」とららかは涙声で言った。
ららかの本体を女性用トイレに送り、男性用の洗面台でららかの顔を拭く。
「ららかちゃんの本体、ちゃんと便器まで行けたんかな?」
「大丈夫です。手探りで、たどり着きました。今、便器に座れました。誰かが、わたしを盲目だと思って、手伝ってくれたようです。」
「親切な人がおるね。俺、女子トイレ、入れへんもん。もう、気分はええかあ。」
「はい。小をしたら、すっきりしました。」
「ららかちゃん、女優が、そんなこと言ったらあかんがな。」
「今、トイレを出ます。あれ、でも、体が言うこときかない。どうしたんでしょう?」
「どないした?」
「なにかがわたしを圧迫してます。口のあたりとか。あっ、胸を触ってる。」
「痴漢やないか!」
裕太は女子トイレに入った。女性の姿はない。五つあるトイレのうち、三つ鍵がかかっている。
「どれや?」
「わたしも、どこか、わかりません。」
裕太は、下の隙間からのぞいて見た。足が四つ見えるトイレを探したが、どれも二つだった。ただ、ひとつだけ、つま先の向きが便器を向き、大きめの足が見えた。
「ここや。警察呼べへんし。俺がやるしかないな。参ったなあ。人、来たら、俺の芸能生活おしまいやがな。」
「裕太さん、は、や、く。抵抗してるんですけど、相手の力、すごくて。あっ・・・。」
「痴漢野郎め。」
裕太は、ドアの上に飛びついた。懸垂をして、上からトイレを見下ろした。ららかの本体に抱きついた男は、目を大きくして裕太を見上げている。
「あっ、お前!」
裕太はドアから降りて、ドアをノックした。
「こら痴漢、ドアを開けんかい。」
しばらく待つが、中から反応はない。
「今ならまだ間に合う。俳優が、こないなことしてええんか?」
ドアは突然開いた。
「誠也さん・・・。」とららかは言った。
「あれ? やっと声が聞こえた。でも、変だ。ららかさん、どこにいるんだ?」
誠也は、よだれを拭きながら言った。ららか本体の顔は、唇と鼻がゆがんでいる。
「無理矢理キスなんかしてからに。俳優がなんちゅーことしてんねん。やば、人が来る。」
裕太はトイレに入った。
「あんた、誰ですか?」
誠也は、敵意むき出しで裕太に詰め寄った。
「声がでかい。」と裕太は言った。
「ららかさん、まだ僕を愛してるっていったのに、こんな男がいるじゃないか。」
「ごめんなさい。」とららかは言った。
誠也は裕太に向き直り、首を傾げた。
「今、ごめんなさいって言ったの、あんたですか?」
「俺が、なんでおまはんに謝んねん。」
「だって今、後ろから声が・・・。」
「気のせいや、それより女子トイレに入り込んでなにやっとんの。芸能人のすることか?俺とららかが一緒におったからいうても逆上しすぎや。」
ららか本体は、ゆがんだ鼻と口を元に戻そうとするが、やめた方がよかったかもしれない。
「だって見てみろ。ららかちゃんの顔・・・。」と誠也が指さす。
「だってじゃあらへん。お前がすんなり帰っとけば、こうはなってへん。」
「あんたの声、きいたことあるぞ。そうだ、腹話術の・・・。」
「人違いや。」
「サングラスとマスクを取って見せろ。」
「お前になんの権限があんねん。痴漢で警察に突き出すでえ。」
「石岡だろ? 石岡、なんとか。」
「こら、ちゃんと覚えんかい、売れてる芸人やぞ、って違うわ、アホ。」
「そうだよ。人形の声、誰かに似てると思ったんだよ。ららかさんの声だったんだな。あんた、ららかさんになにをしたんだ。あんたを、ららかさんが好きになるなんて考えられない。そうだろ? ららかさん、僕が助けてあげるよ。返事をしてくれ。」
誠也は、ららか本体の顔を見て言った。
「しかも、なんだこの顔は・・・。」
「誠也さん、わたし、見てのとおり、こんな顔になってしまったの。だから、女優を諦めたの。もう、わたしのことはほっといて。」
「そうはいかないよ。僕は、真剣に、きみを愛していたんだ。うん?やっぱり口は動かないし、声は後ろから聞こえる・・・。」
誠也は、裕太のお腹の辺りを見つめた。そして、非難がましい目を裕太に向けた。
「わかったよ。」
裕太は、お腹のららかに目で同意を求めた。ららかは、やや考えてから、うなずいた。裕太はTシャツを上げてお腹を見せた。ららかは、きまり悪そうに目を伏せた。
「なんだ、これ?」
「未知との遭遇って、やつや。和田誠也、世の中には知らんもんがいっぱいあるんやで。信じられんことが、仰山ある。お前の前に起こってることも、そのひとつや。質問は受け付けん。これ、誰にも言うんやないで。しゃべったら、お前、殺されるで。わしら、腹顔族にな。」
「ららか、さん?」と誠也は言った。
ららかは誠也を見上げた。
「今度こそ、さようなら・・・。」
裕太はTシャツを下ろした。本体を抱きかかえ、トイレを出た。
「警察や。ちょっと通してんか。」
トイレにいた女性をかき分け、裕太は外に出た。まもなく、背後から悲鳴が響いた。裕太は振り返らずにつぶやいた。
「あいつも、タレント生命、おしまいやな。」