3 腹顔族の復活
長い夢を見た。レム睡眠が幾度も訪れて、目が覚めそうなときもあったが、瞼を開けることはなかった。富樫ばあさんの声が時々聞こえた。呪文のような、念仏のような抑揚のある声だった。祈祷をしていることが裕太にもわかった。深い眠りに落ち、目が覚める前に壮大なスケールの夢を見た。映画を見ているようだった。映画には、お腹に女の顔が張り付いた英雄が出てきた。「腹顔族」という聞き慣れない言葉も出てきた。英雄は、腹顔族を守るために人間と戦った。お腹に張り付いた顔は、英雄の恋人だった。その恋人は、ららかの顔とそっくりで、英雄の顔は裕太を凛々しくした作りだった。物語の終わりは英雄が殺され、腹顔族が滅亡する。裕太は、寝ながらにして涙を流していた。胸を締め付ける圧迫感から、ようやく目を覚ました。
目を覚ましたのは、ららかもほぼ同時だった。ただ、裕太がららかの方に顔を向けると、そこにららかの顔はなかった。大きな玉子が首につながれている。
「なんや、この玉子・・・。」
裕太は起き上がった。縄はほどかれている。
「石岡さん・・・。」
ららかの声が聞こえた。
「ららか・・・ちゃん? どこにおんねん?」
「ここは、たぶん・・・。」
ららかの声はこもって、聞き取りづらい。
「もしかして、ベッドの下とか。」
裕太はベッドの下をのぞき込んだ。
「まてよ。ららかちゃんの体、ここにあるんやから・・・。」
恐る恐るららかの体を触ってみる。体温がある。柔らかい。裕太は、もう一度大きな玉子を見た。
「これ、玉子ちゃうやんか。ダチョウの卵、見たことあるから、それかと思うたけど。大変やで、ららかちゃん、顔がのうなっとる。なくなってるで。」
「わたしの、体はちゃんとあるんですね。」
「ある、ある。で、ららかちゃんは、どこにおるの。気のせいか、下から声が聞こえるわ。床下にでも隠れてるん?」
「石岡さん、お腹のあたり、かゆくありません?」
「いや、なんも。でも、まさか。なんぼいうても、そないなことが・・・。」
裕太はシャツをあげてお腹を見た。
「あり得へん。ららかちゃん。なんで、俺のお腹に張り付いてんの?」
「これが、石岡さんが必要だった理由なんですね。」
裕太のお腹に張り付いたららかの顔は、ちょうど耳から半分が突き出ている。髪の毛もある。言うまでもなく、裕太の臍はない。
「そんな、ららかちゃん、えらい冷静やな。もっと慌てな。顔がのっぺらぼうになって、俺なんかのお腹に顔が張り付いてるんでっせ。」
ららかは裕太を見上げた。
「普通のご祈祷じゃないとは思ってたんです。」
「そりゃ、そうかもしれんけど、異常すぎまっせ。」
「石岡さん、すみませんけど、鼻の頭、かいてもらえませんか。かゆいので。」
「かまへんけど・・・。」
裕太はららかの鼻の頭を撫でた。
「ほんまや、感覚が伝わってこん。これ、自分の皮膚ちゃうわ。しかし、これ不便やなあ。俺、シャツ、上げっぱなしやん。」
ドアが開いた。袈裟姿の富樫ばあさんが眼光をするどくして入ってきた。
「そんな、怖い顔してもビビらんど、俺。これ、どないしてくれるねん。」
「腹顔人の復活です。わたしだって、一世一代の祈祷したので、少し疲れました。」
「腹顔人? どっかで聞いたような・・・。」
「夢で見たでしょう。腹顔族の叙事詩を。」
「・・・それがどないしたんや。確かに変な夢見たけど。俺や、ららかちゃんとどないな関係があるんや? ああ! びっくりしたあ。」
突然、ららかの体が動いた。ベッドに起き直る。
「見てみい、ららかちゃんの顔。これ、のっぺらぼう、いうやつやで。つるつるで玉子みたいやんか。ららかちゃんの顔かて、ほら、こんな俺なんかのお腹にくっついて。あの女優がやで。なんや俺、申し訳ないわ。ただでさえ芸人いうたら最悪やのに、売れない芸人の俺なんかにくっついて、ららかちゃん、たぶん悲しゅうて仕方ないはずや。」
「そんなこと、ないですよ。」
ららかが優しい声で言った。
「それ、ほんま? やったら、まあ、ひと安心やけど・・・。」
「まあまあ、石岡さん、その椅子に座りなさいまし。今、説明しましょう。」
「なんや、言葉が丁寧になったやんか。急に人が変わったような態度やな。」
「腹顔人を復活させてくれたお方ですから。」
裕太は腰を下ろした。シャツをまくし上げている手がしんどいので、シャツは脱いだ。ららかの本体の頭部が、エクソシストのように首を回している。
「ららかちゃん、大丈夫かいな、この頭。」
「ちょっと、肩が凝って。」
裕太は、ららかの額の汗をタオルで拭いた。富樫陰陽師は、カーテンを開けてから椅子に腰を下ろし、脚を組んだ。朝陽が裕太の足下に差し込んだ。そのまばゆい光は、この事態は現実だと教えてくれているような気がした。
「夢を思い出してくだされば、理解は早いとは思います。まあ、徐々に思い出してください。神の時代では、人間は下等な動物でした。なぜなら、頭は二つ、手足が四つずつありましたから、さながら化け物でした。」
「そんなの、ぜんぜん記憶にあらへんがな。」
「わたしは、覚えてます。」
「はいはい、ららかちゃんは頭よろしい。俺はアホ。」
「さすがに、お嬢様。石岡さん、お嬢様は、腹顔族の血を引くお方なんです。しかも、王の娘。」
「なんで、そないなことがわかんの?」
「腹顔族を守ってきた陰陽師たちがいます。遠い昔から、腹顔族にお仕えしてきたのです。話を戻しますと、頭が二つ、手足が四つだった化け物を、神様が『醜いし、何かと不便じゃろう』とお思いになって、化け物を真っ二つに割ったのです。それが、男と女の始まり。それ以来、男と女は元の体を探し求めて、恋をし、愛し合うようになったのです。」
「なんや、急にロマンチックな話になってきたな。あ、どうぞ、続けてください。茶々を入れたらいかんな。」
「たまには、入れてください。さて、人間の始まりは、おわかりですかね。問題は腹顔族の始まりですが、説明は簡単です。神様は、人間を造るとき一回失敗したんです。つまり、切り損ねた。」
「神様が、失敗ですか。それはちょっと、にわかには信じがたいですけど。」
「まあ、それだけ人間を造るときはいいかげんだったんでしょう。斧で真っ二つに切ったとき、頭が二つの胴体と、一つもない胴体になってしまった。神様は慌てて、二つの頭の胴体から頭を一つ切り落とした。」
「聞いてて馬鹿馬鹿しくなるんですけど、富樫陰陽師さん。」
「腹顔族に古くから伝わる神話です。大概はうまく二つに切りましたから、今のようなまともな人間が多いのですが、あ、お嬢様、失礼しました。まともな人間と言ってしまいました。」
「聞き流します。先をどうぞ。」
ららかは目を閉じてまま言った。
「申し訳ありません。わたしも、まだ祈祷の疲れが残ってまして。」
「腹顔族というもんが生まれたんはわかった。神話のレベルまで遡るんやな。神さんが間違って切ったもんが、俺らの、この姿や。顔がのっぺらぼうになって頭が残ってんのはなんでかわからんけど。夢ん中じゃ、戦国時代みたいなとこで戦ってたで。あれはなんで?」「腹顔族は、蝦夷でひっそりと暮らし、子孫も少数にして、生きながらえてきました。ところが平安時代末期、腹顔族の存在が明るみになり、好奇心と憎悪の対象となりました。腹顔族を討伐しようとする武将や、山賊などが蝦夷に来るようになったのです。京に連れられて行き、見せ物になった者も多数いました。四谷怪談にのっぺらぼうが出てきますが、あれは、腹顔族が元になっているんです。」
「見せ物になってるとこ、思い出した。かわいそうで、涙が出てきたわ。」
「腹顔族の英雄、腹王が登場しますが、奥州藤原氏に騙されて殺されてしまいます。」
「まさか、その末裔が・・・俺?」
「末裔というよりは、再来ですね。占いでは、そう出ました。だから、お呼びしたんです。腹顔人が復活したわけですので、間違いないと思われます。」
「ほら、やっぱりそうやがな。俺って、昔、英雄やったんや。悪い気せんなあ。」
「腹王のイメージとかけ離れているのが、気になりますけどね。お嬢様も居心地はいいはずです。腹王の后、羅々加姫の生まれ変わりですから。石岡さんへの気持ちが昨日とは変わってるはず・・・。」
「えっ? ほんま? 羅々加姫て、腹王の奥さんかいな。名前一緒やんか。」
ららかの顔が少し赤らんだ。
「石岡さん、誤解しないでください。わたしには、彼氏がいますから。」
「ららかちゃん、こう言うてますけど。俺のお腹にいて、人間と恋愛できますの? 富樫陰陽師さん。」
「まあ、相手の方が理解してくれれば、可能ですね。」
「それって、このままじゃ無理やろ。彼のお腹にお引っ越しするってこと?」
「お嬢様がそう願えば。」
「相手がそうはいかんやろ。ららかちゃん、彼氏って誰な?」
「言うしかないですね。和田誠也さんです。」
「あかんわ、イケメン俳優やないか。」
「美女には、やっぱり、イケメンですね。」
「ららかちゃん、俺のお腹の方が居心地いいって。元のお腹なんやから。和田誠也のことは諦めよ。なっ。ほら、俺って腹王やし。ららかちゃんも羅々加姫なんやから。一緒に、腹顔族、復活させよ。富樫陰陽師さん、これでいいんかの?」
「ええ、まあ。石岡さんがそれでよろしければ。」
「えっと、ちょっと待って。」
裕太は、立ち上がると、ららかの本体の横に座った。本体はベッドに座って動かない。
「やっぱり、この方もご一緒?」
「そりゃあ、そうでしょう。」
富樫陰陽師に訊ねた裕太だったが、ららかが答えた。
「魅力的な体やけど、顔がのっぺらやしねえ。」
裕太が本体の太ももに手を置くと、ららかの手が動いて裕太をどついた。
「体の方は、自由に動きます。」
裕太はどつかれた胸を抑えた。
「そやね。手加減してえな。ららかちゃん。」
ららかの本体は立ち上がって、部屋を歩き回った。ららかは目を見開いて、本体をコントロールしている。
「普通の恋人っぽいことは無理やね、腹顔人。もう少し考えさせてもらうわ。のっぺら連れて、街中歩かれへんもん。」
「でしたら、お嬢様を和田誠也に譲りますか。わたしとしては、腹顔族が復活すればそれでよいのです。」
「富樫陰陽師、そう言われるとへこむがな。俺、『腹王』いう英雄さんの再来なんやろ。だったら、わしやないとあかんがな。」
「腹顔族は、たった一人ではないんですよ、石岡さん。あたしは、百人くらいは復活してほしいと思っています。あなたのお腹に他の女性が張り付くことも、ありなんです。」
「それって、腹顔族の末裔?」
「そうですね。一般女性なら、御祈祷しても腹顔人にはなりません。」
「腹顔人って、どうやって見分ければええの?」
「王族までは、だいたい確認できておりますが、その他は、御祈祷してみないとわからないというのが本当のところです。」
「だったら、その王族に会うのが先決やんか?」
「おっしゃるとおりです。」
「富樫さん、誠也さんは、腹顔族じゃないの?」とららかが訊いた。
「王族ではありませんが、腹顔族の可能性はあります。わたしの占いでは、確率でいうと、中くらいでしたね。」
「ららかちゃん。いいかげんに、目、覚まそ。どんな顔して和田誠也に会うん?」
「石岡さん、あの人は、心の広い人なんです。」
「どんだけ広いの。空より広いんですかね? 俺のお腹に張り付いたららかちゃんの顔を見て、『ららか、愛してるよ』なんて言いますの? そんとき、俺、どんな顔してええのかかわからんわ。ひょっとすると、化けもん扱いして追い出すかもわからんわ。いや、そっちの方が普通やわ。」
「化け物扱いなんて、そんなこと。」
ららかが涙ぐむ。
「ららかちゃん、泣かしてしまってごめんやけど。もう少し慎重にいこ。腹顔族は虐げられてきたんや。歴史は繰り返すって、いうやろ。今はなんでもありの世の中やけど、世間にばれて、受け入れられんかったら、抹殺されるんやで。」
裕太のケータイがリビングで鳴った。
「あかん、今日は仕事やった。」
ケータイに出る前から、裕太は電話の相手がわかった。
「きっと、事務所からや。昼から舞台が入っとった。」
富樫陰陽師とららかの本体もリビングに戻り、ソファに腰を下ろした。
「見た目は大丈夫やな?」
裕太は、シャツを着ると、富樫陰陽師に同意を求めた。
「ちょっと、鼻のところが出っ張ってますね。少し猫背になったら。」
「こうでっか?」
裕太は極端に前屈みになって言った。
「わたしは大丈夫です。普通にしてても。」とららかが言った。
「ららかちゃんの顔があるんやから、気を遣わんとあかんな。今日からうつ伏せには寝られへんな。マネージャーさん、ららかちゃんの女優業はどうなりますの?」
「しばらくお休みですね。事務所の社長には、このことは話してあります。」
「腹顔族のこと?」
「新見芸能プロダクション社長、新見周一は、腹顔族の王族です。」
「それは強い味方やわ。」
「マスコミに幾人かいます。世論を操るには、マスコミを制することが大事です。幸い、日本人はマスコミを疑うことを知りませんから。」
「なんや、勇気がわいてきたわ。俺、タレント業続けてかまわんな。なんや、売れそうな気がしてきたわ。」
「お嬢様の本体は、わたしが預かっておきます。」
富樫陰陽師は、裕太を玄関まで見送った。
「仕事終わったら、とりあえずここに戻るさかい。」
「いえ、石岡さん、お嬢様のマンションにどうぞ。」
「え、ええの?」
Tシャツの隙間からお腹を覗くと、ららかは上目遣いでうなずいた。しおらしいららかの姿に、裕太は胸を熱くした。