第4-14話 クオリア
第4-14話 クオリア
マモルは典型的な自閉症となっていったが、マモルにとってはむしろ好都合であった。周囲のものからみれば、さぞ辛い思いをしているに違いないと思われるのだが、そうではない人も存在するのだ。自分だけの世界に埋もれることだけがマモルの自己防衛であり、平穏なゆりかごとなっていった。
これを見ていた桃九は、
(時間は十分過ぎるほどあるかもしれないし、限られているのかもしれない。何かを為したとしても為さずとも時間は等しく去っていく。しかし、マモルの時間はマモルだけのものなのだ。わたしは手を差し延べることができない。不用意にマモルをわたしたちと同じ環境に引っ張り出すことはできないのだ)
と思っていた。
それでもマモルの状態を心配するものはあとを絶たなかった。東雲やサエなどは、
「このままではマモルが可哀相です」
「可哀相と思うのはマモル以外の者だけだ。マモルが自分のことを可哀相だと思っているとは限らない。いや、マモルは可哀相という感情を持つことすらできないはずだ」
「しかし、このままではマモルはどんどん孤立していきます」
「孤立してはいけないのか?」
「他の者たちとの関係を築かなければ……」
今の時代は、個の尊重と共に関係の尊重も重要視されている。個の尊重は人権を、関係の尊重は個対個の関係は対権と呼ばれなんびとも侵してはならないことになっていた。つまり、マモルは対権を棄てている状態なのである。
「マモルは他の者たちの対権を侵しているわけではない。ただ。己の対権を放棄しているだけだ。何も罪を犯しているわけではない」
「しかし、このままではマモルの将来が……」
「誰の将来もわからないものだ。わたしも幼いころから人間関係を築くのが上手くなかった。上手く人間関係を築こうとすればするほど他者と衝突する機会が増えていった。結果として歪んだ人間関係が築かれていったのだ。その度にわたしも自閉症となったものだ」
「そのようなことが……。しかし、今の桃九さんはそれを乗り越えられているように感じます」
「いや、今でも根本は同じなのだ。わたしは少しずつ他者との関係、つまり社会とのずれを修正してきただけだ。ただわたしはそれを表に出さない術を得ただけなのだ」
「それだけではないような気がしますが……」
「いずれにしてもマモルに必要なのはきっかけだけだ。自分の意図で自分の意識を変えるしか今の状態を変化させることはできない」
クオリアや意識のハードプロブレムを研究する分野が存在する。例えば、物理現象として同じ波長の赤という信号を二人に与えたとき、二人の感覚が同じ赤を感じるのか否かという問題がテーマであるが、現在この問題は2つの原因に絞られている。1つは、神経細胞の経由に関係し、同じ信号が同時に入力されたとしても、感覚に到達するまでのプロセスには個体差があるということである。
また、相対時間にも関係するかもしれず、同時に同じ信号を二人に与えることができるか?ということも問題となっている。つまり、常に異なる世界の環境を二人は感覚の対象としていることになるかもしれないことを意味している。1つは、心の個体差の問題である。人はそれぞれ異なる存在であることは経験的に知られている。つまり、感覚だけが同じだと考える根拠は存在しない。
東雲に言わせれば、
「皆が異なる感覚や思考を持っているのじゃ。だからこそ社会構成の維持が難しい。人の感覚や思考は同質であるかもしれぬが、同じものではない。皆が感じる赤は僅かではあるが、違って見えるのじゃ」
となる。
しかし、マモルがこの問題の範疇にあるのか誰にもわからなかった。




