第4章 シンクロニシティ
第1話 異変
2015年には、世界の人口は72億人を超えていた。地球共和国ができる前には、ここ数年の人口増加は年に2億人と見込まれていたが、地球共和国の成立により戦争は僅かに局地的に起こるだけであり、貧富の差も急激に狭まったため出生-死亡の数が増え、年に2億8千万人の増加が見込まれるようになった。これに拍車をかけたのがチロの要望で、出生を増やすように耶律楚材に脅迫まがいの要求を突きつけている。チロは自分の願いに叶う能力を持つ人類の誕生を望んでおり、そのためには多くの出産が必要だと考えたのであった。
出生抑制禁止法や出生奨励法が施行され、2020年には100億人を超す人口となってしまった。貨幣流通禁止法が施行され世の中にはお金というものが存在しなくなった代わりとして貨幣交換法が施行されている。結果として、相場がなくなり食料はどの地域でも大量に生産できることになり、食料は基礎値+付加価値という形で地球共和国が対価を支払う仕組みになっていた。この基礎値に相当する食糧は人類全てに無償で供給されて飢えて死亡する人はほとんどいなくなっていた。食料の生産量は、科学技術の進歩と相まって数倍に増えたため食糧危機を迎えることはなかったのである。
問題は、都市構成や土地にあり、小さな都市であった都市の人口密度は急激に高くなり治安にも影響がでてきた。このため他の星のコロニーへの移住が奨励されて2030年には、移住者は2億人にも達していた。核融合炉は核コロニーに建設され、エネルギーの心配はなく、資源で足りないものは金属だけとなっていた。その金属も各星から次々と鉱山が発見されてその採掘手段だけが問題となっていた。この頃には、人類の誰にも重労働は課せられず、ロボットが行うようになっていたが、このロボットの生産が間に合わないでいた。つまり、ロボットさえ大量に生産できれば万事が上手くいくように思われた。
現在(2030年)冥王星にコロニーの建設が始まっていた。冥王星は、半分がメタン(炭化水素)の氷が多く、半分が窒素と一酸化炭素の氷が多い。このことはコロニーの建設にさほど影響を与えなかったが、この半分に分かれた領域の境目で不可解な事件が数度起きた。それは、ロボット操作の従事者が神隠しのように忽然と消える事件であった。最初の事件のときは事故だと思ったらしい。なんらかの事故により従事者が宇宙空間に放り出されたものだと思ったと報告が届いていた。この事故の調査中に第2の事件が起きた。これも人が忽然と消える現象で、事故の調査班は、冥王星開発本部のある海王星に応援を頼んだ。この時から事件である事故は頻発するようになった。人間の数が増えると事件は指数的に増える傾向にあったのだ。
結局、第1の事件から半年後、冥王星から人の姿は見えなくなる。そして、残った3人の調査員だけが、海王星にたどり着くこととなってしまった。
第2話 原因不明
冥王星でコロニーの建設に携わっていた人数は1000人に満たなく、新たに事故の調査に加わった人数も数十人であった。つまり、冥王星から1000人ほどの人間が半年の間に消えてしまったことになる。事件の調査の進展はなく、海王星の開発本部では冥王星への入星を禁止することにした。この事件でわかっていることを地球に報告し、地球の上層部の判断を仰ぐことになったのである。
コロニーの建設は太陽系開発機構が行っており、その組織の上層部はリ・ムー島に存在した。この組織は入植部・建設部・資源部・技術部・調査部・総務部にわかれていて、海王星からの報告は総務部に入った。しかし、総務部では問題を解決する部門を持っておらず、問題は調査部に送られることになる。
調査部を率いているのはマルコ・ポーロであった。現在、リ・ムー島に残っているマルコ・ポーロの補佐役はコロンブスしかおらず、マルコ・ポーロはコロンブスに相談することになる。マルコ・ポーロはコロンブスを自室に呼んで、
「この報告を見たか?」
「ああ、さっき見たばかりだが」
「どう思う?」
「1000もの人が消滅するなど大きな事件だな。本来なら、早急に調査隊を送り込むところだが、わからないことが多すぎてリスクが高すぎる」
「そうだな。技術部に意見を求めようと思っている。少しでも多くの情報を得て、2次的な事件を防ぐことにしよう」
こうして問題は技術部にまわされたが、事件の原因に繋がるものは得られなかった。コロニーなど地球外に持ち出した機器や機材には、チップが埋め込まれており、刻々とメカ自身の状態は各拠点を経由しながら技術部に集まることになっている。冥王星では今も建設ロボットが与えられた命令を正常に行っていた。故障のログは1つも送られてきていなかったのだ。ロボットなど人から命令を受けて稼動するメカは、1年の間、人からあらたに命令を受け取らないと停止する機構になっているから、後半年くらいは黙々と稼動しているはずなのである。結局この問題は、マ・ムー島とイ・ムー島に送られることになった。
マ・ムー島は研究と教育の島であり、ソクラテスがその島のトップであった。研究部門のトップはガリレオで教育部門のトップはプラトンであった。ソクラテスはガリレオを呼んでこの問題についての見解を聞いた。
「どのように思うか?」
「はい。この事件の原因は可能性があり過ぎて何も即答できることがありません。各部署に検討することを伝えましょう」
「事は急を要するのだ。1000人もの人が行方不明なのだからな」
「では、2週間という期限をもうけましょう」
「まあ、妥当なところかな。マルコ・ポーロにはそう伝えておこう」
第3話 究明の始まり
各部署に原因の可能性を検討するようにガリレオは通達した。その中で、最も可能性の高いのは、コンピュータ・ソフトの部署であった。なんらかの原因で機器の不具合が報告されず、事故の発生を把握できないのではないかと考えたのである。
ところが、その部署の専門家が言うには、
「他の星からは正常に不具合の情報が得られています。我らは、その対応で過剰労働状態なのに、さらにこんないいがかりをつけられるなんて……」
専門家はぶつぶつと不平を漏らしながら問題の検討に入った。その結果、
「冥王星だけに不具合が起こる可能性が2つあります。1つは、誰かにクラッキングされていること。1つは冥王星がハード的に不具合を起こす要因を持っていること。1つ目の可能性は100%不可能といえるでしょう。ソフトのコア部分は我ら超人類が作成したものです。これを打ち破って侵入できる人類は存在しません。ましてや超人類で我ら以上の技術を持つものは一人もいません。2つ目ですが、いかに暗号を強化しても通信データは盗まれますし、ソフトで保護してもハード的な手段で盗まれれば、打つ手はありません。これと同じでハード的に通信情報を書き換えることができます。その書き換えを冥王星の持つ要因が行っていることが考えられます。但し、データを盗むこととは異なりデータの改ざんは前後のデータとの整合性をとらなければならず、偶発的に改ざんされる可能性は100%といっていいほどありえません。冥王星自身がこの改ざんをできるのなら話は別ですが」
このように報告を受けたガリレオは、
「冥王星がそんな能力を持っているなど知らん」
と、コンピュータ・ソフトを原因から除外することになった。
次の報告は、空間制御部署からであった。この部署は、将来のために空間の仕組みを解明し、距離を縮めることを最大の目標に持っていた。超人類の誰もが瞬間移動のできないことは知っていた。瞬間移動(時間0での移動)は、同時に一人の人間が複数座標に存在できることを意味するからである。そのために距離を縮めて1光年を例えば1万kmにできれば、移動に要する時間が約10億分の1になるという考え方で研究は行われていた。この距離の短縮を超時間操作と呼ぶことにしていたが、まだ成果は1つも上がっておらず、今回の事件がこの超時間操作と関係があるか調査に参加したいといってきたのであった。つまり、今回の人の消滅は超時間操作に関係するかもしれないと言っているのである。
脳機能医学部署からも返答があった。
「冥王星から人が消滅したことを地球では報告以外で確認できているのですか?そうでないならば、そう言っている星域を教えてください」
ガリレオはなるほどそういう可能性もあるかと思ったが、それは言わずに、
「海王星の人々だけである」と返答している。
「ならば、そこでなんらかの原因で、幻覚や集団催眠のようなことが起こっている可能性があります」
ガリレオの予想通りの返答だったが、では対処をどうすればよいか悩んでしまった。新たに調査隊を送っても原因がわかっていないのだから、彼らも同じ症状となるかもしれない。そこでチロに相談した結果、チロが偵察に行くことになった。
第4話 質量欠損
チロは最初に冥王星を訪れた。そこにはロボットなどが黙々と稼動しているだけの様子が窺がえた。ここに人がいたなら、なんの異常もなしとなるのだが、やはり人の気配は感じられなかった。次に海王星の開発本部を訪れてみてもなんの異常も感じられない。人々は心身共に正常に見えるのであった。誰かと会話をしてみたいのだが、肉体を持たないチロには無理なことであった。こんなとき「桃九をもっと進化させておけばよかった」などと都合のよいことを考えるのだが、冷静に考えて見れば桃九は自然に覚醒させたほうがよいとの結論に達するはずであった。
チロは精神体で、宇宙空間の距離をほとんど0に近い時間で移動できる。これはチロがこの世界の時間の影響を受けて人類と同じ時間を共有しているからである。通常の精神体はこの世界の時間の影響を受けていないため、時間の共有はできない。現在のところ、チロのような存在は勝智朗だけである。つまり、肉体を伴わない精神体だけならば空間の距離を縮小することと同じことができるということである。
15分ほどの偵察で地球に戻ったチロはガリレオに脳機能医学部署の予測は外れているようで他に原因があるだろうと伝えている。この数分後、ガリレオが管轄する太陽系天文観測所から海王星で質量の欠損が観測されたと報告があった。ガリレオは、
「海王星の核融合炉の暴走か?」
「いえ、その情報は届いていませんし、質量の欠損の原因が核融合によるものなのかはっきりと観測できないのです」
その時からムー5島にはエマージェンシーの警報が鳴り響き続けることになる。各拠点コロニーに設置してある観測所からも情報が続々と送られてきた。唯一、海王星からの通信は断続的で解読に時間がかかることになった。それらの情報を総合的に分析した結果、海王星の質量の一部が欠損したことは確かのようだった。しかし、エネルギーに変換されたと思われるときに付随する衝撃波などは僅かに観測されただけだった。海王星に手動による通信を試みたが、帰ってくるのは自動返信ばかりで、肉声あるいは人が発したと思われる返信は一切なかった。
チロは再び海王星に向かうことを決めた。チロが海王星のコロニーの残骸を眼にしたとき思ったのは、敵性の存在であった。コロニーの方々が粉々に砕けて無残な有様であったが、チロはまた不思議に思った。よくよくコロニーを眺めて見ると破壊されているのは3%足らずの部分だけで他の箇所は無傷といってよかった。この破壊の様の原因がわからないまま生存者が一人でも見つからないかと探し始めたのだが、生存者はおろかアミノ酸の1つも感知できなかった。しかし、微小であるが有機物と思われる存在が多数感知された。最初それは人類のものかと思ったのだが、僅かに微視化して見てみると人体の組成とは異なるようであった。どんどん微視化を進めていくと、10nmくらいのところで蠢く存在を多数発見できた。さらに微視化を進めていくとその構造はDNAに非常によく似ていた。しかし、DNA様を構成しているのはチロの作った37のアミノ酸とは異なるものであった。
このウイルス様の多数の存在が質量の欠損を引き起こしたのは、ほぼ確定的だと思われた。しかし、ウイルスが核反応を引き起こすなど地球では考えられないことである。チロはやはり敵性の存在の仕業だと思ったのである。
第5話 U-1型ウイルス
チロは海王星に留まり、このウイルスの存在を観察することにした。ところが2日経っても何の変化も見られなかった。何かに反応するわけではないし、多数の存在の半分は僅かに動いているようだが、半分はじっと動きもしないようだった。3日目に入ったとき、それらは突然増殖を始めた。分裂というより、多数の卵を産んでいるように見えて、現在の存在数の何倍に増殖するのか想像もできなかった。5日目に入ったとき、全ての存在の動きが止まった。まるで何かを待っているように感じられ、その何かを想像するとチロは1つの仮説を持つようになった。
その頃、マ・ムー島では集めたデータの解析はとっくに終わり途方にくれたようにチロの帰りを待つばかりとなっていた。解析が終わっても何も得られず、原因など想像もつかなかったのである。
チロは海王星であの存在たちに気付かれないように、こっそりと僅かなたんぱく質を合成した。そのたんぱく質を突然、存在の集団の中央部に放り込んだのである。存在は争うようにたんぱく質に集まり、チロは観察に集中した。存在たちはたんぱく質を構成する水素を選び出し核融合を行っていた。それのみならず電子と陽電子の対消滅も起こしていた。これでは人体などあっという間に消滅するはずである。ところが、いくら待っても爆発どころかエネルギーの放出もほとんどなかった。存在の半分が出力されたエネルギーを冷却しているようなのである。確かに時間が経てばエネルギーは宇宙に霧散するであろうが、局所的に冷却するためには、相当な逆のエネルギーが必要と思われた。
ここで、チロが思いついたことがいくつかあった。1つはエネルギーの生産は存在の半分が担い、半分はそのエネルギーを処理していることである。冷却だと思っていた現象は産卵のためのエネルギーの蓄積なのかもしれない。1つは、存在は核操作酵素を持っているということである。そうでなければ、生物が核反応を起こせるはずはないのだ(空海らは起こせるので絶対ではないが生体の大きさがまるで異なる)。化学反応と核反応では生成するエネルギー量が約200万倍違うとされていて、通常では化学反応を起爆剤とした核反応は起こせないはずである。つまり、核に最初の火がつかないのである。しかし、常温での核融合が稀に存在することは知られている。つまり、存在は点火の条件を備えることができるのである。点火さえしてしまえば、その後の仕組みはさほど苦労はしないのであろう。存在は得たエネルギーを自己増殖のために使っている。詳細な仕組みはまだわからないが、存在を海王星や冥王星の外に出してはいけないということだけは確かなようである。チロはこの他にもいくつか試験的ことを行っていたが、そろそろ地球に戻らなければならなかった。
地球に戻ったチロはソクラテスやガリレイに海王星と冥王星を封鎖し、決して有機物を持ち込まないように指示を出した。チロは、存在を未知(Unknown)のウイルスとしてU-1型ウイルスと名付けた。
その後、チロは桃九と利助を呼んで1つの実験室を与え、なにかを託しているようであった。この問題は人類が解決しなければならないとチロは考えている。そうでなければ、太陽系の外になど出て行けないのだ。そのためなのかわからないが、チロはこのときから問題が解決を迎えるまで姿を消すことになる。
第6話 希望の実験室
桃九はチロからいくつかのことを指示されている。中には他言無用の内容もあったが、最も重要なことはチロの代行を言い渡されたことである。これは人類が超人類の上に立つことを意味し、超人類から不平がでてもおかしくなかった。チロが言うには「ラーにもソクラテス、ガリレオにも納得させています。あなた方にこの問題を解決することができますかと尋ねたら一様に押し黙って、それじゃあ、この問題の対策の指揮権を桃九に委譲しても問題ありませんねと言ったら、承知しましたと答えてくれました」ということだったが、果たしてその通りにいくのか桃九には心配だった。
調査隊や部隊を動かすときに指揮するものは、実質的には超人類となるが、問題解決の方針などの決定権が自分に委譲されたものだと桃九は思っている。確かに問題解決の鍵になると思われる実験室の管理者は桃九であり、桃九抜きでは問題は解決できないだろうとムー5島の者たち全てが感じていた。
桃九はマ・ムー島とイ・ムー島の研究者たちにいくつかのことを指示している。しかし、これはチロが桃九に指示したことと全く同じ内容で、その内容の概要さえ桃九にはぼんやりとしか理解できていなかった。桃九は指示した研究の成果があがったら受け取ることになっているのだが、それをどうすればいいのかチロは教えてくれなかった。「桃九ならそのときわかりますよ」と言い残して去っていったのである。
指示を出した後、桃九は実験室にこもり切りとなった。助手の利助以外は立ち入り禁止となっている実験室はそれほど大きくなかったが、実験機材は桃九が見たことのない素材で作られているようだった。桃九の作業は、チロが残したコンピュータに似た機器から得られる理論や技術を学ぶことから始まった。利助の役目は桃九が学んだことを実験できるように準備し、実験から得られるデータを収集することであった。何故、学んだことの実験が必要かと言うと、チロでさえ、理論や技術の組み合わせが多く、全ての実験を行っているわけではなかったからである。今回の問題解決に役立ちそうなものを実験で確かめろということらしい。
桃九はチロが残していったコンピュータに似た機器にチロルと名前を付けた。チロルの情報はチロの言うとおりに断片的に得ていった。全ての情報を最初から理解する時間はなく、チロの言うにはU-1型ウイルスが次に進化して活性化するのは早くて半年後、遅くとも1年半後だそうである。U-1型ウイルスは学習をする可能性があり、学習によって得たものが、エネルギーの取得を有機化合物だけでなく無機物、つまり海王星に存在する水素と電子全てとなったら、事態の予測はチロにも不可能だというのである。拠って、桃九の学びと問題解決に残された時間は半年とされていた(実際には地球から海王星に飛ぶ時間が必要であるから3ヶ月となる)。
しかし、桃九の学びはのろかった。1週間経っても全体の1%も進んでおらず、その理由はチロルの情報が何を意味しているのかわからず手間取っているのであった。つまり、チロルの言うことに対する概念の構築が難しかったのである。利助はときどき桃九から相談を受けるが、利助とて何かがわかっているわけではない。利助は、桃九と話しているとき以外の時間を実験機材の観察にあてていた。こちらもなるほどと理解できる実験機材は少なく、二人の前途は多難が予想された。
第7話 概念の取得
人の思考には、3つの状態がある。自由状態、空(停止)状態、集中(活性)状態である。通常、これらの状態は遷移してどれかの状態になるのではなく、混在した形で思考の中に存在する。思考が脳と言う物質を介在するとき、これらの状態のどれかを100%にするのは非常に困難(現実的には無理)と言われている。人が努力や修行でどれかを70~80%の状態にすると思考能力は飛躍的に上がる。また、各状態に刺激を与えるように急激に変化させると上がるとも言われている。幹卵器官は神経細胞を新たに生成するが、思考をソフトとするとこの脳はハード的な器官である。状態変化はソフトの一部であり、思考能力に影響を与える。
この3つの状態に意識を加えたものが、理性と呼ばれる思考部分となる。感情という働きも別に存在するが、ここでは理性についてだけ述べることとする。自由状態は、意識の働きが弱い思考状態だが、物理的にも精神的にも思考活動は行っている。空状態とは、意識も思考活動も活動を行っていない状態である。集中状態とは、意識に従って思考活動を活性化させた状態である。
桃九は先天的に集中状態の割合が高かった。最も苦手だったのは自由状態にすることで、これは必要に迫られて後天的に割合を高めるように努力した。空状態は世間の人並みであった。それが、円光との修行により集中状態の上限を88%、空状態の上限を72%、自由状態を58%まで高めることができるようになっていた(やはり自由状態は苦手のようである)。
空状態を無意識、他の2つを意識のある状態と表現することもあるが、桃九はこれを瞬時に切り替えることができた。意識がある状態では自由状態と集中状態を瞬時に切り替えることができた。つまり、空状態⇔自由状態⇔集中状態という関係式となり、3つの状態の割合を瞬時に変えることは通常は難しいのであった。尚、どれかの割合を高めることによって他の割合を変化させているようである。円光といえども3つの状態の割合を瞬時に変えることは難しいと思われた。
修行によって得たのはそれだけでなく、幹卵器官を活性化させることにより神経細胞を新たに生成させるスパン速度が速くなっていた。これにより部分的に分散的思考ができるようになっている。これをコンピュータに例えると、複数のコンピュータをネットワークで繋ぎ処理を分散化させる技術とCPUのパイプライン処理技術を合わせた技術と似たものである。そもそも神経細胞1つ1つは独立して処理を行うため脳は並列処理を得意としている。その入力と出力を制御するのが思考であって、人は誰でもが分散的思考を行っている。桃九の場合は、それを意識的に行えて、神経細胞が増殖する分だけハードの性能も随時上がっているとみることができる。
受感部の評価を桃九はまだチロから受けていない。修行によって高まったという評価は受けたが、不老となるに十分なのかはわからなかった。桃九もすでに70歳近くになっている。確かに見かけは若々しく見えるから不老に近いのであろうが、確かなことはチロから聞くまではわからない。
さて、チロルと格闘状態の桃九であったが、無闇に格闘することを止めた。修行で会得した成果を試すのは今だと思ったのである。桃九は思考状態を自由にして次に空にした。さらに集中状態にしてからチロルに向かった。これを何度も繰り返す中に状態の変化速度が速まってきた。やがて、チロルが何を言っているのか理解できるようになりチロルの持つ概念を得ることができたのであった。
第8話 示唆するチロル
「元素ほどに複雑になると、結合のための情報が必要となる。相手が誰かもわからず結合するほど元素は愚かではない」
桃九が最初に理解に苦しんだチロルの言葉であった。しかし、既成概念を振り払い新しい概念を得た桃九には理解できた。但し、理解できたと思っているのは桃九だけで、それが正しい理解なのか確かめる術を持っていない。概念一般に共通した特徴で、概念は個人の思考の一部そのものにだけ交わることになる。
桃九はこう解釈した。“元素ほどに複雑になる”とは、この世界を構成する最小単位は元素ではなく、元素が複雑に見えるほど小さな構成要素が存在することを意味することである。その後の文章は、例えば+と-だから単純に結合するのではなく、+を原結合とし、-を被結合としたとき、原結合はなんらかの手段で被結合の情報を得るということである。情報を得た結果-であれば引き合い結合し、+のときは反発しあう。こういうことであろうと桃九は理解した。情報を得るための手段は今回は知らなくていいようである。それについての説明はチロルの中に存在しないのであるからチロが意図的に外したと思われる。核子や電子も同じことが言えるのだと桃九は推測している。
「きちんと整列されたものに複雑性は薄く、むしろはみ出た部分が複雑性に富み、結合に有用である」
例えば整数の割り算では、割り切れるものよりも余りが出たほうが有用であると言っている。何故余りが出たほうがいいのかと考えると、自身が部分の一部であり他の部分と結合するとき余りが残っていないと結合に使えないということであろう。概念を取得するとき、解釈はつきもので多くのケースで誤った解釈をして失敗することがあるが、それは解釈を修正可能な状態で思考に組み入れることで対処する。(近い将来、論理も限界を迎え、感性と融合する時代が訪れることになる。何故なら、論理は割り切れる思考方法だからである。つまり発展性に限界を持っているのである。)
「要素を構成するとき、凸型は凹型よりも単純性を持ち、要素が内側に入り込むほど複雑性は大きくなる」
このことを桃九は知っていた。かつて巡回セールスマン問題に取り組んだとき、平面図形に現れた現象であった。例えば、平面上で凸型の1点を内側に移動させただけで、対角線の交差の関係からシグナルとしての情報を生み出すことが出来る。つまり、物体を構成する形は、形だけで情報を持つことができるということである。
このような文章が、果てしなくチロルから吐き出されたため、桃九は最初戸惑ってしまったのである。何かの暗号かとも考えたが、むしろ概念として捉えたほうが理解の進みに適しているように思えた。そのため、修行の成果を持ち出したのである。一度チロルの言葉を概念として捉えると全ての文章を解釈することができた。この解釈が正しいのか否かは、今後の成果が答えを出してくれるだろう。チロルは1章目を吐き出したようで、少しの沈黙が訪れた。チロルの言葉は教えているというより、何かを示唆するものであった。結局、これまでの内容には具体的なものはなく、実験もできないのであった。桃九がチロルの言葉を待っていると、
「ここまできたということは、解釈が進んだということですね。次からは具体的な実験の内容を伝えます」と、突然チロの言葉が割り込んできたのであった。
第9話 たんぱく質の構造
チロルは桃九に対し最初に宣言した。
「ここでは、人体のたんぱく質の構造を理解してください」
現在の科学ではたんぱく質が合成されるまでの過程で一次~四次構造の形態をとることがわかっている。
一次構造は、アミノ酸を配列した1本のひものような形態である。
二次構造は、一次構造を1次元としたとき、2次元様の形態をとる。例えば、αへリックスやβシートなど複数の平面(2次元としたため便宜的に平面とした)形態を持ち、三次構造への準備をする。何故、1本のひもから複数の形態が生まれるかというと、アミノ酸とアミノ酸を繋ぐ部分が垂直断面を持っていないため、ひもが結合部で捻れてしまうためである。また、アミノ酸同士の結合をペプチド結合と呼ぶが、結合するアミノ酸の一方はアミノ基であり一方はカルボキシ基である(尚、ここで基とは結合可能な分子化合物として扱いたい)。ところが、アミノ基は窒素化合物でありカルボキシ基は炭素化合物であるため孤立電子対を生成してしまう。問題なのは残った2つの孤立電子で、これが他のアミノ酸と水素結合を作ってしまう。水素結合は非共有結合で引力的な相互作用によるものである。このため捩れはさらに増加することになる。アミノ酸は20種類存在するからどのアミノ酸同士が結合するかで捩れの角度も決定される。依って、複数の平面体の種類ができるということである。
三次構造は、三次元の立体形となる。二次構造の状態をフォールディング(折り畳み)することで構成される。配列された各アミノ酸は側鎖を持っているから側鎖に原子や分子を結合させながら折り畳むようである。折り畳んでしまうと側鎖が隠れて必要な物質をとりこめないから畳む前にとりこむのだと思う。この取り込みをたんぱく質の修飾というようである。筆者は、20種類のアミノ酸からカルシウムを含むアミノ酸を探したことがある。骨がアミノ酸から作られるのならば、カルシウムを含むアミノ酸が存在するはずだと考えたのである。当然、そんなアミノ酸は存在せず、骨はこの修飾によってとりこまれることがわかったのである。尚、ひも状の1次元配列を作りながら折り畳むようである。1本のひもを作ってからでは、ひもが長すぎて人体の外にはみ出すからだと考えられる。
四次構造は、三次構造によって作られた部分を繋いだ構造のようである。三次構造は、サブユニットという部分を形成する。サブユニットは、プログラムでいう共有サブルーチンのようなものでいくつものたんぱく質が同じサブユニットを持つことがあるようである。最小のアミノ酸配列からできたインシュリンは2つのサブユニットを繋いだものである。
さて、人体を構成する20種類のアミノ酸(α-アミノ酸)は必ずアミノ基とカルボキシ基を持っている。持っていないとアミノ酸同士を繋げられないからであるが、α-アミノ酸と異なるアミノ酸に似た有機化合物を持つ生物に、α-アミノ酸で作ったたんぱく質を埋め込むことができるかというのが、桃九の最大の命題となる。
第10話 24番目のアミノ酸
チロの作った24番目のアミノ酸は、人体に対し凶悪な代物であった。そのアミノ酸は、免疫力の向上を目的として作られたが、そのアミノ酸を含む免疫物質は攻撃性が強く、自己の細胞までも攻撃するのであった。結果、人体の細胞は全て死滅することになり今では封印されたアミノ酸となっている。
血液は造血幹細胞を親に持つ。幹細胞は一般的に永久不滅の細胞とされ、その理由は細胞分裂のとき、自己と娘の細胞に分裂するからである。分裂しても自己が残るのであるからいつまでたっても変化しないという意味の永久不滅となる。また、造血幹細胞は種々の血液に分化する機能を持っている。つまり、娘細胞は必要に応じていく種類もの血液に分化可能なのである。
ここでは白血球とリンパ球について触れたい。リンパ球も白血球の中に存在するが、免疫について考えるとき、一般的には白血球とリンパ球を分けることとなる。何故なら、白血球は先天性の自然免疫であり、リンパ球は後天性の獲得免疫だからである。白血球は生まれながらに免疫機能を持ち、体内に侵入してきた細菌などを攻撃する。リンパ球は細菌に一度侵入されて体内が侵された時に学習し免疫を獲得する。つまり同じ細菌が2度目に侵入してきたときには攻撃できるのである。ならば全て自然免疫であれば都合がよいようだが、自然免疫は自然界に存在する予測可能な細菌のみを攻撃できる。つまり、予測できない未知の細菌に自然免疫は太刀打ちできないのである。その点、獲得免疫は1度の攻撃で学習し、2度目の攻撃には未知の細菌にも対応できる仕組みになっている。
獲得免疫には問題があり、学習にはプロセスが必要である。プロセスが必要ということは時間が必要ということになるため、学習中に体内が修復不可能なまでに侵されてしまえば、免疫機構は働かないことになる。
さて、免疫機構はどのようにして細菌を見つけているのであろうか。空間線は両端に+か-の極を持ち、空間線もその極の組み合わせから+(斥力)か-(引力)の属性を持つ。この空間線が接近すると空間線に振動が起こり波動を放つようになる。この波動を脈と呼び、脈の集合体の振る舞いを脈流と呼んでいる。原子や電子で構成される物質は空間線(極)の集合パターンの産物であるから、物質の脈は複雑に干渉し合って独自の脈流パターンを持つことになる。分子や高分子化合物は集合体としての脈流パターンを持つと同時に部分の脈流パターンも持つ。
化学反応は、合致する部分の脈流パターン同士が反応する。化学反応のプロセスは反応相手の脈流パターンを知ることから始まり、知る→判断→反応という手順を踏んでいる。ところが、この知ると判断のプロセスをプリフェッチする反応が存在する。プリフェッチとは先読み(予測)のことで、この反応を触媒反応と呼んでいる。高分子になればなるほどプリフェッチの効果が現れ反応速度は速くなるため、生体では酵素として使われることが多い。
24番目のアミノ酸はこのプリフェッチ速度があまりに速いため、誤動作を起こしたり、過剰反応を起こしたりするので攻撃性が高いとみなされている。
第11話 チェイサー基
チロが去った後、桃九がマ・ムー島とイ・ムー島の研究者たちに指示したことがある。構造生物・高分子化合物・生体医学・人体たんぱく質・微生物などの研究部署に指示した内容は、既存の科学技術によって既存の自然物質から桃九が求めるパーツを生成することであった。パーツに限っての生成を指示した理由は、24番目のアミノ酸の存在を知られたくないからであり、今回桃九が生成しようとしている対U-1型ウイルスの対抗物質はその応用により人類への化学兵器ともなり得る可能性を持っているからであった。
チロルからの知識を吸収した桃九は『チェイサー基』の生成に取り掛かっていた。チェイサー基とは、対象がどのような高分子化合物でも、その結合部となる基を探し出す、いわば対象基の追跡物質である。24番目のアミノ酸から合成した超攻撃型免疫酵素にこのチェイサー基を取り付け、冥王星に投下するというのが作戦である。
思惑は、U-1型ウイルスと結合した超攻撃型免疫酵素はU-1型ウイルスの持つ遺伝子やたんぱく質、酵素を攻撃し死滅させることである。この酵素を組み立てるパーツを各部署に依頼していたのは、桃九に残された時間が少なかったためと思われる。
超攻撃型免疫酵素の試作型が合成され、コード名をT-1と名付けた。これは利助の習慣で試作=トライからきたTで1は単に1番目の試作品という意味である。まずHIVで試したところ、大量のHIVであっても1瞬で死滅させた。次に、かつて地球上で猛威をふるったエボラ出血熱ウイルスで試験を行ったところ、確かにエボラ出血熱ウイルスは急激に減少したのだが、一定時間を過ぎるとまた増殖していった。細胞核内のDNAを完全に死滅させることができなかったことが原因と考えられた。
イ・ムー島では高出力のイオン顕微鏡が桃九の指示により急ピッチで建設されていた。イオン顕微鏡は電子顕微鏡より拡大率が高く、T-1とエボラ出血熱ウイルスの反応を微細に観察できると考えられていた。観察の結果、エボラ出血熱ウイルスのDNAの防御力が強く、T-1が結合できないことがわかった。DNAに防御力が備わっていることも新発見であったが、今はそれどころではない。
超攻撃型免疫酵素のチェイサー基を3基に増やすことで問題に対処しようとした。エボラ出血熱ウイルスはこの対処で死滅させることができたが、今度はHIVが思わぬ振る舞いをするようになった。観察の結果、チェイサー基の1基がHIVに結合し働き出したとき、残りの2基がいたずらをしているようなのである。問題はどのようないたずらをしているかであった。
基本的にアミノ酸同士の結合は炭素-窒素結合である。DNAはヌクレオシド(ここではアデニンなどの核酸構成塩基とする)がリン酸基と結合したヌクレオチドがさらに炭素-リン酸結合したものである。いたずらは、残った2つの基が死滅途中でできた浮遊残基と結合し孤立電子対を発生させたものであった。この孤立電子対が1基目の結合に水素結合して1基目の結合の邪魔をしているのである。
対処に苦慮する桃九であった。ここで思い出したのが、チロルから得た知識で理解が中途半端だったプログラム基の存在であった。名前からすると、もしかして基に条件をプログラムできるかもしれないと考えたのである。
第12話 プログラム基
形状による情報表記の原理は、基本的に2進法に似ている。
例えば、ここに三角形があったとする。仮想的に重心をおくことにする。三角形の頂点からそれぞれ重心に線を描くと3つの領域ができる。ここに4点目を加えるとき3領域のどの領域に4点目が存在するかでデータを0~2(3つ)に区分できる(ここでは簡単のために平面で説明を進めたい。また、加える頂点が三角形の外側に存在していればデータを持つことは出来ない)。
上述の三角形の内部に4点目を投入したとき、3つの領域のいずれかに存在する。3つの領域のいずれもが三角形であるから、その領域の3つの頂点から4点目に線を描くと新しい領域が3つ増える。この領域は2次領域となり、最初に存在した領域は1次領域となる。頂点が存在する領域の次数により頂点の次数は決定される。例えば1次領域に存在する頂点は1次頂点である。このようにして頂点の位置関係によりデータを表現できる。このことから頂点数が増えると扱えるデータ量も増え、入れ子次数も高くなるほどデータ量を増やす。
尚、上述したことは、形状によるデータ表記の1例である。
コンピュータの基本原理は2進数であり、それから複雑なプログラムを生み出すことが出来る。同じように上述の頂点の位置関係からもプログラムを生み出すことでき、問題はデータの処理部となる。
8086系のCPUの仕組みと対比させて、上述のデータの処理部を考えたい。尚、2進数に対して上述のデータ表記を領域数と呼ぶこととする。8086は2進数で表現できるデータを2の19乗ビット=65,536バイト扱うことが出来る。2進法の基数を2としたとき、領域数の基数は3となる(発展途上の理論であるため、領域数の扱えるデータ量の計算式が不明である)。
8086はこの65,536バイト領域を4つのセグメント(データ領域)に分けている。CS、DS、SS、ESがそのセグメントの名称であるが、簡単のためにCSと他3つ(DS、SS、ES)の2つの部分にわけて考えたい。CSセグメントは命令コードを格納し、行う処理を順番に並べた領域である(命令も2進数で表現される)。他3つ(DS、SS、ES)の領域はデータ部である。
このCSの部分を免疫系(だけとは限らないが)がどう処理するかというのが命題となる。CPUにはそのCPU独自のマシン語と呼ばれる2進表記(結局は数値であるが)と命令を対応づけたものがある。CPUに送られた2進表記の数値はハードが対応付けられた命令に変換して実行される。では、CPUに相当する生体の部位はどこかというのが謎であるが、免疫は免疫系の機序に従って振舞っていることは確かなようであるからどこかには存在すると考える。そしてCSに命令を書き込むのは誰かと言うのも問題となる。コンピュータの場合は人がプログラムした命令をCSに送り込むが、生体の場合誰がプログラムするのか謎である。
CSをコード・セグメントと呼ぶが、多くの場合CS部に書き込まれた命令は、プログラムが終了するまで変化することはない。例外的に例えばWindowsのDLLのように置き換えられるものもあるが、これをプログラムの学習とは呼ばない。
自然免疫はこれと同じで学習をせず、先天的に与えられた命令を実行するだけであるが、獲得免疫は学習しているように見える。未知の細菌を未知のデータと同じとするならば、未知のデータを処理するために新しいプログラムをCSにセットする必要がある。
このようにコンピュータと免疫系の制御には類似点が多い。そしてチロルはプログラム基に命令を埋め込むためのコンパイラを備えていた。チェイサー基3基を制御するプログラム基が埋め込まれ、地球上の細菌やウイルスをことごとく死滅させることができるようなった。
第13話 出撃
海王星のU-1型ウイルス絶滅作戦の準備は整った。チロが予測した最悪の日時は後3ヵ月後である。しかも海王星までは最速の攻撃機でも3ヶ月の行程が必要だった。つまり、事態急変の可能性ぎりぎりの日時での攻撃となった。通常の輸送機であれば海王星まで最大速度で5ヶ月強、巡航速度で7~8ヶ月かかる行程もペイロードがゼロの攻撃機だからこそこの作戦が可能であった。
攻撃機は211機飛び立ち、桃九らは宙を見上げて事の成功を祈るしかすべきことがなくなった。
3ヶ月が経ち、攻撃を前にしてムーの主だった者が集まっていた。
ラー:「桃九さん、見通しはどうですか?」
桃九:「やることはやったというところです」
モーセ:「成功を祈るばかりですね。ところで気になっていたんですが、U-1型ウイルスは知能を持っているんですか?それに、われらと同じように精神も持っているんですか?」
桃九:「チロさんがいうには、精神と繋がりを持つ受感部の発達はないそうです。それにあのウイルスの学習能力は知能ではなく、自然学習あるいは適応学習が異常に早いため知能があるようにみえるだけだそうです。あのウイルスは、今まで冥王星の氷の下でゆっくりとした進化を遂げたと考えています。冥王星が太陽に近づいたときだけメタンと窒素が反応してあのウイルスが生まれたと考えていますが、生物が誕生する条件は最悪だったようです。チロさんも何故生物が冥王星に誕生したかわからないと言っていました」
ソクラテス:「チロさんがわからないのじゃ考えてもしようがありませんね。チロさん以外の精神体があのウイルスを作った可能性は?」
桃九:「さあ、何もわかりません」
ガリレオ:「あのウイルスはわれらと異なるアミノ酸に似た物質から構成されていると聞きましたが……」
桃九:「水素の組成比が異常に多いそうです。そのため体内で常温核融合を何度も起こしている中にあのようなウイルスになったのではないかとチロさんは言っていました。おそらくあのウイルスの起源は十億年くらい前ではないかと予測しています。予測はチロさんがしたので根拠はわかりません」
ラー:「事態急変の可能性の最速到達日時があの事件のときから半年後とチロさんが言っていましたが、事態急変とはどのようなことですか?」
桃九:「あのウイルスにまだ発現していないDNA様のものがあるそうです。有機物と言う食料がないと知れば、それが発現する可能性が大きいらしいのです。そもそも眠っていたようなあのウイルスを目覚めさせたのは我々です。開発のために熱エネルギーを冥王星に持ち込んだのがあのウイルスを目覚めさせる原因になったようです。事態急変は無機物を食料とするのではないでしょうか。すると海王星が太陽みたいに変貌する可能性があります」
と、このような会話をしているとき、勝智朗が桃九に入ってきた。勝智朗は肉体を持たない精神体なので海王星に作戦の結果を見届けるためにいっていたのである。
「作戦は失敗。攻撃機は全滅」
第14話 核融合免疫
勝智朗は精神体であるため、視野を微視化することができる。精神体の記憶は映像で持つことも可能であるが、その映像を直接桃九に見せることはできなかった。桃九に作戦の失敗の状況を伝える手段はイメージ画像を桃九に投影することしかできなかった。よって、桃九は状況を断片的にしか捉えることができないことになる。それでも桃九は、
「ちょっと待って、そこをゆっくりと見せて」
と、気になる部分を分析していくのであった。
すると、どう見ても攻撃酵素が持つ4つの基の1つでもウイルスに触れた瞬間に基が消滅するようなのである。桃九は考え方を見直さなければならないと思った。ウイルスは有機物を食料としているのではなく、免疫機能により侵入した敵を攻撃しているだけなのかもしれなかった。しかし、それでは対になっている産卵して増殖するウイルスとの関係がわからなくなる。
白血球の一部は細菌を貪食する。桃九はこれと同じではないだろうかと考えた。あのウイルスの食べるという行為は核融合や電子-陽電子の対消滅によって行われている。また、あのウイルスの免疫機構は自分自身に触れて影響を与える基に対して攻撃すると考えられる。白血球の貪食をする機能とは異なるが、異生物なのであるから全ての機能が同じであるはずは無いのだ。つまり、攻撃=食すという性質のウイルスだと考えられる。
では、どのようにしてあのウイルスはそのような能力を獲得したのであろうか。そして攻撃機を破壊した能力とはいかなるものなのだろうか。一番目の問いは考えないことにした。考えても答えを得る可能性は低く、それがわかったとしても直接的な対策に結びつくとは限らなかったからである。2番目の問いの答えは見つかった。その映像は少ないが、ウイルスの一部が攻撃機の周囲に存在する水素を核融合しているようなのである。これは2つのことを意味しているように考えられた。1つは一部のウイルスのDNAが発現して無機物も食するようになったことと、1つは自身を攻撃する敵性の存在を免疫の延長としてウイルスの外部まで知覚できるようになっているということである。
このDNAの発現と学習能力の高さに桃九らは対処に苦しんだ。残された時間などすでになく海王星が太陽と化すのをじっと待つしか術がないように思われた。海王星が太陽のように核融合連鎖を起こすと、太陽系の全ての星々に多大な影響を与えると予想された。公転軌道や磁場の乱れ、隕石が雨のように降ってくることも考えられた。つまり、最悪の場合人類はこの環境に適合できず全てが死滅するのではないかと考えられていた。
海王星の大気は80%以上を水素で占め、あのウイルスにとっては温床にも等しかった。桃九らが苦慮しているころ、海王星ではウイルスの活動に変化が起きていた。無機物を食するDNAが発現したウイルスの増加は減る傾向にあった。理由は、桃九らが攻撃に用いた有機物を完全に消化出来ず、これを消化するための学習を行っているからであった。消化できなかったのはプログラム基の周辺の有機物であり、勝智朗の視野に移らないほど小さな有機物であった。つまり、このことを桃九らは知らないことになる。プログラム基は爆発の衝撃で正常な命令実行をできなくなっていた。つまりプログラム基は暴走しているのである。暴走したプログラムは周囲の組織をランダムに変化させ、ウイルスの核融合を邪魔しているようであった。水素の核融合の場合水素同士が正面衝突したとき最も威力を発揮する。しかし、対象組織がランダムに動いてしまうため、中には正面衝突できない水素もあったのである。これが、消化できない部分となった。そのためウイルスは進化速度を緩めることになる。
第15話 作戦会議
作戦が失敗した時点で桃九は次の手を持っていなかった。超人類はその特性により学習能力が弱い。ただ長年生きてきた経験値が超人類の思考を支えていた。つまり、次の作戦は必然的に桃九頼りとなっていった。
ここで桃九はチロルの前で座禅を組み、修行で得た思考状態の変遷を行った。チロの測定によるとこの事件の前は集中状態の上限は88%、空状態の上限は72%、自由状態の上限は58%であり、その変遷速度は0.02秒であった。この思考状態の変遷は極限状態におかれると飛躍的に数値は上がっていくらしく、今正に桃九がその状態であった。チロが帰ってこないと正確な数値はわからないが、全ての数値があがっているように利助には見えた。利助は実験室の入り口の番をしている。万が一、超人類の誰かが桃九の思考を乱しにやってくると拙いからであったが、さすがに超人類は急かしたい気持ちを抑えて桃九に頼るだけとなっていた。
3日が過ぎ、超人類もさすがにいらついてきていた。いつ海王星が急変を迎えてもおかしくないのである。そのとき、桃九は実験室から出てきて、ラーたちを呼び集めた。
桃九:「残念ながら対処方法はまだみつかりません。そこで問題点を洗い出したいのです。おそらく次の作戦の失敗は人類の滅亡を意味します。つまり、疎漏があってはいけないのです。わたしもいくつか問題点を洗い出しましたが、先に皆さんの意見を聞きたいのです。わたしが先に問題点を口にすると皆さんの考えに影響を与える可能性が大きいからです」
ガリレオ:「最大の問題点は我々の送り込んだ基性物質がウイルスの免疫力に負けてウイルスを侵せなかったことです。ウイルスの免疫力に勝つことが残された方法だと思います」
桃九:「ガリレオさん、ちょっと待ってください。問題点の洗い出しと対処方法は分けて考えましょう。一緒に考えると会議の内容が混乱するかもしれません」
ソクラテス:「分かりました。しかし、問題は対処方法だと思うのです。免疫力に正面から対抗するのは、力対力の関係であり、こちらの分がよくないと思うのです。なにか全く違う対処方法を考え出せないでしょうか?」
桃九:「……違う方法ですか……。では問題点の洗い出しが終わったら考えてみることにしましょう」
ラー:「と言われても勝てないことしか問題点が思い浮かびませんね」
シヴァ:「わたしが行ってやっつけてきましょうか」
桃九:「貴女も生身の身体ですよ。無謀としか言えません」
ラー:「お前は黙っていろ」
シヴァは物質を破壊することに関しては超人類屈指であったが、考えることにおいては下から数えた方が早かった。たまたま会議に参加していたシヴァはラーに一喝されてこれ以降沈黙を守ることになる。
桃九:「破壊か……。どうやらソクラテスさんの言う通りですね。基へのこだわりが強かったようです。あのウイルスの弱点を考えて、そこを攻撃しましょうか」
シヴァは桃九の反面教師となったようである。桃九の思考の切り替えは早く、基へのこだわりを既に捨て去ったようである。そして次の手の思考に沈む桃九であった。
第16話 化学反応
酸化カルシウム(CaO)に水(H2O)を加えると、高熱を発して水酸化カルシウムになる。この化学反応式は以下の通りである。
CaO+H2O → Ca(OH)2
酸化カルシウムの通称は、生石灰(せいせっかい、きせっかい)であり、水酸化カルシウムの通称は消石灰である。身近な生石灰は、食品などの乾燥剤に見られるが、誤ってゴミ箱にこの乾燥剤と水分を混入させると高熱を発し火事の原因となることがある。身近な消石灰は、学校のグラウンドなどに白線を引くとき、ラインパウダーとして用いられている。
上記の化学反応式は、同量(分子量に換算して)の生石灰と水の反応式である。しかし、これは全ての生石灰と水の反応が終わった後の結果である。つまり上記の化学反応式の右辺は結果だけを示していることになる。
さて、筆者はある植物を育てるとき、冬の間に土壌殺菌をしようと思った。植物に限らず多くの生物はアルカリ性物質に弱いことが知られているため、殺菌剤として強アルカリ性の消石灰を用いることにした。当時、このことに関する筆者の知識は乏しかったため、消石灰を作るために生石灰を買い求めて水と反応させて作ろうと思った。そうすれば消石灰水溶液の濃度を自由に調節できると思ったのである。幸いにもホームセンターに生石灰は売っておらず、仕方なく消石灰を買い求めてきたのであった。その夜、知人と話す機会があり「運がよかった」とか「愚かな」とか言われた記憶が残っている。
筆者が生石灰と水から消石灰を作ろうとしたならば、失明する危険性が極めて高かったようである。というのは、通常生石灰や肥料などの粉末や顆粒状の販売品は20kg入り袋で売られているため、水タンクに溜めた水の中に20kgの生石灰を一度に投入すると爆発する可能性が高かったからである。化学反応には反応プロセスがあり、全ての生石灰と水が0秒で反応して結果を出すわけではなかったのである。一部の生石灰と水が徐々に反応し右辺の結果となるのである。この反応では高熱を伴うためそのエネルギーが爆発現象となり失明したかもしれなかったのである。
消石灰の水溶液は強いアルカリ性を持ち、多くの生物はアルカリ性水溶液に弱いとされている(筆者が勝手に解釈すると、生体の化学反応には酸化作用が多くこれを阻害(中和)するためと考えられる)。実際に消石灰の水溶液は殺菌剤としても用いられる。
これに桃九は気が付いたようである。桃九は、無機物の殺菌剤がU-1型ウイルスに対抗する手段としては最も有効であるはずだと考えた。免疫機構は働かないはずである。しかも進化したウイルスは水素だけを食すのであるから、Ca(OH)2(消石灰)とH2O(水)のH(水素)が取り込まれない限り安全なはずである。免疫機構は働かないから進化したウイルスの水素取り込みの反応過程だけが問題となる。ウイルスがこの水素だけを取り出す反応過程が桃九にはわからなかった。しかし、その反応過程は化学反応しか考えられない。それならば、CaO(生石灰)とO2(酸素)だけをばら撒けば、ウイルスの体内組成の多くを占めるH(水素)と反応して消石灰が生成されるのではないかと考えた。しかし、いずれもが、予測の範囲を超えず確定的な攻撃とは思われなかった。しかし、もう残された時間は少ないのである。
第17話 最後の攻撃
生石灰と液体酸素を積み込んだ攻撃機が567機飛び立った。海王星に到着するのは4ヵ月後と見込まれていた。ペイロードを満載にすれば攻撃機の数は少なくてすむが、それでは6ヶ月以上の行程が必要であった。いつ海王星が太陽に変貌するかわからない今、できるだけ早い到達が望まれた。攻撃機の数をもっと増やしたかったが、現在稼動可能な機はこれだけであった。つまり、この作戦が失敗すればもはや打つ手は完全になくなるということを意味していた。
4ヶ月という月日は長かった。天文観測所は万全の体制で海王星の状態を監視していた。いつ異常事態となってもおかしくないのである。主だった者は、作戦会議の日からほとんどこの部屋を出ていない。天文観測所からは1時間に一度定期的に報告があがってくるのだが、このとき幾人かの超人類はピクリと反応するのであった。定期的な報告であるから、それほど過剰に反応する必要はないと思うのだが、それはいかに深刻な状況に追い込まれているのかを象徴するようであった。
海王星に異常がみられないまま攻撃前夜となった。
ラー:「いよいよですね」
桃九:「はい」
早く事が済んで欲しいと思う気持ちと結果をみたくないという気持ちがぶつかりあって、皆言葉が少なくなっていた。勝智朗は毎日、ウイルスの様子を桃九に報告していた。桃九は、一欠けらといえども齟齬があってはならないと注意深くその報告を受けていたが、今のところ自分に過ちを発見できないでいた。つまり、桃九の中では予測通りに事は運んでいるとの思いを裏付ける報告であったのだ。とはいえ、見落としているものがあるかもしれないと桃九も内心穏やかではなかった。
「攻撃が始まります」と勝智朗が告げた。567機の機体から散弾式のミサイルが発射された。勝智朗は1分ごとに桃九に海王星のイメージ像を送り続けた。数分後、全てのミサイルはウイルスに吸い込まれていくようだった。1分経ち、3分経ち、5分が経過したとき、桃九は言葉を発した。
「成功したようです」
超人類たちからは「わっ」という歓声があがり、皆安堵と疲労から床に崩れていく様であった。
「おめでとう」
ふいにチロが桃九に入ってきた。
これは、後でチロから説明されたことだが、チロは敵性の存在を疑っていたらしい。近傍の恒星系を綿密に探した結果敵性の存在はおろか、有機物も存在せず時間を共有する精神体もみつからなかったようである。チロは冥王星に産まれたウイルスの正体は何かと検討した結果、脈の影響だったという結論に達したようである。シンクロニシティという人類の間では不可解な現象が存在する。日本語に訳すと共時性とか同時発生とか呼ばれるが、遠く離れた場所で原因は異なると思われるのに同じ現象が起きてしまうことがある。人類の中では「意味のある偶然の一致」として僅かな人々によって研究されているが、未だ説明すらつかない状態である。チロが言うには、チロが数十億年前に有機物を作ったときから、その情報が脈の振動を伝わって方々に渡って行ったのだという。通常であれば、その情報は希薄で物質に影響を与えることはないのだが、おそらく十億年前になんらかの理由でこの脈の情報と環境条件が一致してあのウイルスの原型ができたと考えられる。ウイルスを構成するアミノ酸もDNAも地球のものとは異なっていたが、似ていたのはチロの情報を盗んだかたちとなったからだと思われる。従って、最後の攻撃の成功は地球上の生物と弱点が同じだったからだと考えられる。
チロならば、いとも簡単にあのウイルスを駆除できたのだが、それを桃九に任せたのは成長あるいは進化を促すためだったと思われる。しかし、作戦が失敗したときチロがどう対処したのか知るのはチロだけである。