Because you want it
きっと彼は戻れないだろう
「セイ、帰ったよ」
ガチャリと後手で玄関の扉を閉めてから、僕は廊下に声を投げかけた。薄靄のような暗闇が明るめな廊下のフローリングを侵食している。
恐らくセイはいるのだろうが、返事は返って来ない。
いつも通りのことなので、僕は慣れた動作で下駄箱に寄りかかった。
彼女が反応するまでは勝手に家に踏み入れないと決めているから、框に上がるわけにもいかない。
自分の声の残響すら跡形もなくなり、いよいよビニール袋を持つ手が痺れてきた頃合になって、ようやく廊下の最奥に位置する部屋から細い声が聞こえた。
「お帰り」
――良かった。今日も生きていてくれているようだ。
安堵の溜息を吐いて、僕は框にビニール袋と通学鞄を置いた。思った以上に重量のある音がする。
靴を脱いで端に揃えてから、真っ直ぐに声がした部屋の方へと向かっていった。
「セイ、入るよ」
一応断りを入れてから、既に薄く開いていた扉を引く。
微かな音すら立てずに扉を開くと、白いお化けが僕を待ち構えていた。
「ばぁ」
一拍置いてから抑揚のない声を白いお化けが発する。
どうやらベットに掛けておいたシーツを頭から被ったらしい。全身を覆うには少し布の面積が足りなかったのか、蒼白くてか細い脚が踝辺りまで見えていた。裸足の甲には蒼い血管が薄く透けて見える。
「セイ、何やってるんだ」
溜息を吐いて、白いお化けからシーツを剥ぎ取った。
大した抵抗もなくスルリとシーツは僕の腕に巻き取られる。
当たり前だがその化けの皮の下からは、僕の幼馴染であるセイの姿が現れた。どうやら昨日僕が帰った後に着替えたらしく、いやに子供っぽいデザインの白いワンピースを身に纏っている。
「盗られた」
何の表情も浮かばぬ顔でセイが呟く。眼窩に嵌め込まれた硝子玉のような瞳にはシーツを持った僕の姿が映りこんでいた。
「まぁ、盗ったからな」
カクリ、とセイが不思議そうに首を傾げた。何故盗ったという問いを通り越して何を言っているのか解らないとでも言いたいのだろうか。
「あれ、ふーちゃん?」
違った。どうやらそもそも僕がいることに疑問を覚えていたようだ。
「今頃かよ」
溜息を吐きながら突っ込みを入れると、セイは今度は逆方向に向けて首をカクリと傾けた。生人形じみた容姿のせいかその動作には妙な迫力があるような気がした。
「セイに逢いにきた」
「あぁ」
「変なの」
ボソッと言いたいことだけ呟くと、セイは僕に興味を失った様でそのまま背を向けてしまった。
腰よりちょっと上辺りで切り揃えた髪の毛が揺れる。ちゃんとシャーワーは浴びているようで、いつも通りサラサラな黒髪だった。
ロボットじみた動きでセイはベットに上がってペタンと座り込んだ。そして、何かを探すようにその頭部が左右に回る。
「シーツ、消えた」
「……」
僕は掴んだままのシーツを見やり、無言でセイの頭上からそれを被せた。
「みゃー」
モゾモゾと白いお化けが蠢く。時折触覚のように蒼白い腕が生えては、また引っ込んでいった。
やがて飽きたのか白いお化けは静かになった。
「シーツ、セイ、ある」
少し眠そうなトロンとした声。シーツの塊は繭玉のように小さく丸く縮こまる。
ソッと足音を立てないようにして僕は部屋を後にした。
♂♀
框に放置していたビニール袋を回収し、僕はリビングの電気を点けた。
「うわ」
橙色がかったLEDライトが部屋の惨状を照らし出す。昨日はなかった筈のショッキングな光景に僕は思わず顔を顰めた。
白を基調としたはずのその空間はものの見事な色彩に染め上げられていたのだ。
所構わず白を汚そうという意思が残っている。乱暴な絵筆の痕、小さな掌の痕、チューブごとぶちまけた痕、小さな足裏の痕。
どうやら取り上げ損ねた絵の具でもあったらしい。乾いた絵筆と、グチャグチャになったチューブが転がっている。
セイがこの惨状を作り出したであろうことは明白だった。
「また、週末に掃除だな」
溜息を吐いて僕はキッチンに向かった。
さし当たって食卓の周りは無事だったから、今日明日は何とかなるだろう。
さて、チャーハンを作らないと。
♂♀
出来上がったチャーハンの匂いにでもつられたのか、ペタンペタンという足音がリビングに近づいてきていた。
フライパンから二人分の皿へ盛り付け終わった辺りで扉が開き、セイの顔が覗いた。
「ごはん」
「そうだよ」
「セイ、食べる」
「そう、だから席に着け」
「わかった」
ペタンペタン、とセイが大人しく席に向かう。
翻るワンピースの裾が余りにも短いのを見て、僕は遅まきながらどうしてこのワンピースのデザインが子供っぽく感じたのかを理解した。
なんてことはない。これはセイが数年前に着ていた正真正銘の子供用の服だからだ。
遂にそれに身体が収まるまでセイは痩せてしまったのか、と思うと胸がひどく痛んだ。
「今日はチャーハンだぞ、セイ」
二人分のチャーハンを持っていくと、セイは無表情のままパチパチと手を叩いた。
「おいしそう」
「良かった」
「ふーちゃん、じーにあす」
「何で英語なんだよ」
笑いながら突っ込む。
「うぉ?」
カクリと傾ぐ、人形のように硬直した表情が僅かに緩んだように見えたのは、きっと僕の見た錯覚なのだろう。
♂♀
自分の作った食事というのはひどく味気なく、喉の渇きだけが増幅されていく気がした。
先に食べ終わっていたセイは睡魔に身を委ねたらしく、気付いた時には皿を避けるようにしてテーブルに突っ伏してしまっていた。
スゥスゥと穏やかな寝息に合わせて痩せた背中が上下する。
肩甲骨がよくわかるその背中は、触れれば崩れ去っていってしまうんじゃないだろうかと思いたくなるほどに脆そうだ。
僕は食べ終わった皿にスプーンを置き、テーブルを回って、ソッとセイの身体を持ち上げた。
解ってはいることだが、その身体はやはり泣きたくなるほど軽い。
グッタリと脱力しきったセイは何の疑いもなく僕に全体重を預けているというのに――。
起こさないように気をつけながらセイを部屋に運び込む。
ベットの上に横たえると、その儚さが一層強調されたようだった。
ピクリとも動かない彫像の表情。透過していく存在感。セイは希薄になればなるほど、不幸に見舞われれば見舞われるほど、壊れれば壊れるほどに美しく、尊くなっていく。
彼女を手に入れようとした結果がこれか、と僕は独り唇を噛み締めた。
サラサラと細いセイの黒髪を指先で弄ぶ。逃げ落ちながら黒髪は僕を嘲笑う。
僕は低く呟いた。
「ごめん、セイ」
吐き出した言葉は、どれに対する謝罪なのか自分でもよく判らなかった。
「裏切って壊して貶めて、赦されるとは思ってないけど、思わないけど、せめて、せめて、昔のような笑顔を見せて欲しいと願うのは、僕のエゴなのかな」
滑稽過ぎる独白だった。
何を自分は身勝手なことを囁いているのだろうと思った。
セイは壊れたから僕の傍にいる。実際セイがどう思っていようと、この状況を作り出しているのは僕に違いないのだ。
だから。
セイが昔のように笑うというのは。
セイが正常な状態に戻るというのは。
僕の傍に閉じ込める限り有り得ないというのに。
何を願うのだというのだろう。
僕は暗い目でセイを見下ろした。
冷えた手でその蒼白い頬を撫でてみる。人間の少女の肌だ。
「また後で片づけしにくるから」
居たたまれなくなって逃げ出すように部屋を、セイのいるマンションを後にする。
ガチャリ、と乱暴に閉めた扉の音は冷たく宵闇に響いて。
そこに鍵をかける音は、まるでセイを過去に閉じ込める音に聞こえた。
ごめん、セイ
でもこれが、僕なりの×××なんだ
この小さな物語の残骸が少しでも多くの目に触れることを祈って