三
怪我人が出たのは、市場が崩壊したからである。
本来、兵士の集団つまり軍は、移動効率の悪いものである。まず当然ながら食料が必要だが、途中にそこそこ物資が豊富な街が多いなら、移動経路で必要な物を調達することができる。しかし、そうでないなら必要な分を持って移動しなければならない。さらに、人間立ったまま寝るわけにいかないので、寝る場所や寝具も必要だ。兵糧食はまずいので有名だが、それでも料理をするのならその設備も必要である。
今回の侵攻で、マナド軍の目的は薬師、つまり俺の確保である。確保した後はマナドまで連れ帰らなければならない。従って、必要な兵糧は往復分であり、それらを運ぶための馬車が街の外に置いてあるわけだが、その守備も必要である。兵士が調理人を兼ねることは稀であるように、これらの人員がすべての任務を兼ねているとは限らないので、人員ごとにそれぞれの食糧や設備が必要になる。試しに、一週間分の食料と寝床を持って歩いてみるとよい。自分に必要な物資を持っての移動がいかに大変か実感できるだろう。
これをすべて運んでくると、その量は膨大なものとなり、それを運ぶための人員がさらに必要になって……と、どんどん人数が膨らんでしまう。
そこで、ほとんどの場合長距離を移動する軍は必要な物資を現地調達し、これを購入する場合と強制的に調達する場合がある。購入の場合は問題がないが、強制的に調達される側からはこれを略奪と言う。
マナド軍は、必要な物資を購入するのではないかと予想された。その理由は約50人と言う人数にある。ママサは大きな街ではないが、それでも兵士は100人程度はおり、略奪をして交戦状態になると双方無事では済まない。マナド軍は俺を連れ帰るという任務もあるはずで、無駄に交戦状態に入る可能性のある略奪はしないだろうというのがそれだ。
もう一つ、軍と関係が深いものに娼館がある。軍は基本的に男だけなので、規律の保持のために必要と考えられている。軍によっては娼婦を連れて歩いたり、略奪によって現地調達する場合もあるようだが、これも先ほどと同じ理由でママサで娼館を利用すると思われた。
これらの調達にはいずれも金が必要で、軍の持つ資金は無限ではない。資金が底を突けば、軍は撤退を余儀なくされる。そこで、評議会はなるべく早く資金が底をつくように、「ボッタクリ推奨令」を出した。マナド軍が利用しに来た場合、ママサ人向けの料金より高く設定すると言うものだ。
これらの作戦が功を奏し、着実にマナド軍の財政を圧迫していったようだ。
さらに、市場の野菜には似た毒草や毒キノコを混ぜるという地味な嫌がらせも加わり、マナド軍を生活面からも同様に圧迫した。
そこでマナド軍はついに、本来俺を探しているはずの、ママサの一般の人たちが利用している時間帯に略奪をすべく市場に乗り込んだのである。どうせ略奪するなら一般の人たちと同じ時間帯の方が変なものを押し付けられないという考えだったのだろう。その結果、市場で売れ、売らない、寄越せ、金を払え、姉ちゃんこっち来いといった混乱が起こった。市場と言っても元は路上販売が並んでいた場所に、雨や砂嵐を防ぐために衝立と屋根が付いただけのものである。そんなところで暴れたら、建物自体崩壊しても不思議ではない。
「ルッツ、大変大変。市場の建物が壊れて、ティノさんもアパサおばさんもハイロさんもラプルさんも怪我してる」
買い出しに行っていたヌェムが急いで返って来たらしく息を切らせつつ報告する。店の近所でもない市場に知り合いばかりがいたはずはないから、これは大勢のけが人が出ているな。
マナド軍から隠れているのに、マナド軍がいるに決まっている場所に行くのは得策ではないが、怪我人が出ている以上そんなことは言っていられない。俺は消毒薬と傷薬、化膿止めと布などの治療用品を引っ掴むと、市場へ急いだ。
現場は大混乱であった。怪我人の救助・治療と、ママサ軍によるマナド軍の制圧・確保が同時に行われていたからだ。軍が粗方建物の破片などは撤去していたので、俺は治療している人たちに加わり怪我人を治療していった。コブを作って気を失っている人もいたが、ほとんどは骨折と擦り傷や切り傷なので、骨折は固定し、切り傷は消毒して布を巻いて行った。
だが、怪我人の数が多いのである意味機械的に医療を進めていったのが徒になったようだ。20人目くらいだろうか、怪我をした男の腕に布を巻いていたら、その男が叫んだ。
「いたぞ、この人が多分薬師だ」
多分って何だよ、と思いながら男を見ると、この前ワクチンを射ちに来た男である。まずい、ばれた?
さすが兵士は鍛え方が違うようで、怪我の程度も小さく体力もあるのだろう、市場のあちこちからわらわらと寄って来た。ママサ軍が俺を取り囲むようにして守ってくれるが、ママサ軍も建物の破片の撤去や運搬で人手を取られていて周りにそれほど多くいない。
隠れ家の方に向かうのは危険だと思い、逆方向、すなわち店の方に向かう。こちらの方が土地勘があり抜け道や隠れ場所を多く知っているのだ。
だがこれは、悪手だったらしい。
「げっ、いっぱいいる」
マナド軍は、市場組と捜索組を分けていたようだ。俺が店の近くを通りかかるとマナド軍らしき兵士が大勢店の周辺をうろついていた。そこへ後ろから追ってきた兵士が、「そいつだ」と叫ぶ。挟み撃ちである。
俺は咄嗟に路地に飛び込んだ。兵士は武器を装備しているので、細い路地ほど動きにくいだろうと思ったのだが、道の構造を知っている俺とほとんど移動速度が違わない、よく訓練されている。
兵士には少数ながら狼男もいるようだったので、隠れても臭いで追跡される可能性が高いと考え、同じところをグルグル回った後、一旦街の外に出ることにした。マリリ川の支流を越えれば臭いをごまかせるし、そこからラミア族の森に向かい、しばらく匿ってもらおう。メグさんに頼めば、ヌェムに連絡することができる。
ずっとかなり速く歩いてマリリ川の支流の方へ向かった。兵士はまとまって行軍するため追いつかれる心配はそれほどないが、狼男の声も聞こえているので臭いを追えなくなるまで油断はできない。
夕方近くまで歩いたろうか、ラミア族の森に近いところまで来たとき、前方で人ぐらいの大きさの何かが立ち上がるのが見えた。
「――――ッ」
立ち上がったのはマナド軍の制服を着た狼男。待ち伏せていたらしい。なぜ待ち伏せができたのかと思ったが、ママサの街に到着した兵士が2名減っていたのを思い出した。俺が街を脱出するのを見越し、こんなところに待機して狼男同士で連絡を取り合っていたのか。
ここで、こいつに勝てればいいのだが、どう見ても運動性能、格闘性能とも向こうが上だ。しかしここで捕まったら、後方からは軍の半分が接近中である。
兵士はじりじりと距離を詰めてくる。俺が武器になりそうな石ころでも落ちていないかと足元に視線を落とした時、左の方から、ヒュッと音を立てて飛んできた矢が狼男の右腕に刺さった。
兵士は驚いたように矢が飛んで来た方向を見つめていたが、左手で矢を掴んで引き抜くと、警戒してか身を屈め、一歩、また一歩とにじり寄ってくる。と、「ぐわっ」と左手で右腕を押さえ、2、3歩よろめいたかと思うと、ばたりと倒れた。
「ルッツ先生、大丈夫かー」
そう言いながらブッシュから現れたのは、矢を咥えたお腹の大きいメグさんだった。




