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花は根に 鳥は故巣に  作者: 輝血鬼灯
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1.桜魔ヶ刻

 夕暮れの時間を、黄昏という。

 すれ違う相手の顔もわからぬ「誰そ彼」が変化したもので、これに対し明け方は「彼は誰」時と呼ぶ。その一方、夕暮れはこうも呼ばれることがある。

 逢魔が時。

 赤い太陽が西の空に沈みかかり世界は足元から暗い闇が忍び寄ってくる。そこに住まう物の怪たちの本領が発揮される時間。影の中にある顔の見えない隣人はすでに見知った相手ではなく、闇の夜が近づくにつれていよいよ人の世に繰り出してきたあやかしの類やもしれぬと、誰もが皆、心をざわめかせる時間だ。

 しかし現在花栄国の首都、累穏において薄闇の帳降りる黄昏時は、こう呼ばれる。


 桜魔が時、と。


「……もし、そこのあなた」

「はい。なんでしょう」

 真っ赤な果肉を見せて溶けだした桃のような朱色の光を放つ夕暮れに、弁柄色に塗られた橋の上をのんびりと歩いていた青年はふいに、後ろから女の声で呼び止められた。

「この辺りに、篠さんというお宅はございませんか?」

「……ああ、知っていますよ」

 誰ぞ知人を訪ねる上で道にでも迷ったか、尋ねかけられた言葉に青年は穏やかに肯定の意を返す。そしてにっこりと人の好い笑みを浮かべて女にこう言った。

「よろしければ、ご案内いたしましょうか。なぁに、我が家はこの近く。ほんのついでです」

「まぁ、それはご丁寧に」

 女は口元にすっと指を当てながら紅を塗ったその唇だけで微笑みを返す。

 華奢な造りの体つきや香の匂いから明らかに女だとはわかるものの、その顔は薄絹で隠されていて見えない。旅装束を着込み、笠まで被られてはその顔を覗き込むわけにもいかない。

 しかしそんな女の姿には、どことなく品がある。白粉をはたいた白い頬と笑みを浮かべた鮮やかに赤い唇が、小鳥が囀るような笑みを青年に届けた。僅かに覗く肌から察せられるにまだ若く、しかも美しい女の雰囲気を持っているのだ。

 青年はそれがわかっているからかどうか、終始穏やかで紳士的な態度を崩さずに女を目当ての家の近くまで案内してやった。

「この橋を渡ればすぐですよ」

 そう言って彼が示したのは、何の変哲もない朱塗りの橋。

 その袂に一人の少女が立っているのが見えた。

 女はその姿を見て眉をしかめる。

 少女の姿は可憐だった。ほっそりとして小柄で、長い銀髪と薄い紅色の瞳をして、瞳と同じ色の着物を着ている。人形のように整った顔立ちと、人形のような無表情。そして華奢なその体に不釣り合いなまでの、大きな力の波動。夕暮れの赤い光に染められてなお、その姿は克明だ。

 少女は女の嫌いな人種だった。女にはそれがわかった。だから彼女は少女が袂に佇む橋を渡ることを避けようとした。

「ねぇ、もし」

 女は傍らの青年に対しては不愉快な表情を隠し、歪んだ唇を綺麗に整えるとどこか媚びるような甘さを含んだ声で話しかけた。

「あの橋で先日溺れた人がいると聞きましたわ……。わたくし、怖いのです。どこか別の道はありませんか?」

「この辺りであの家に向かうには、ここが一番の近道なのですよ。橋から男を突き落とした下手人ももうすぐ捕まると聞きますし、ここには私たちくらいのもの。安心してお渡りなさい」

 女の戸惑いを知ってか知らずか、青年は穏やかな口調を変えずに、しかし女の懇願を聞き入れることもなく、さぁ、と躊躇うその背を押した。

 薄布の奥で、女の額に焦りが浮かぶ。

 一歩、二歩、その足が朱塗りの橋の上を歩いたところで、ふいに女の体は金縛りに遭ったように動けなくなった。

「なっ?!」

「貴女はこの先に向かうことはできません」

 橋の向かいの袂で微動だにせず、橋を渡る素振りも見せなかった少女が声を上げる。

 その声は、橋の上で金縛りに遭う女に向けられていた。可憐な姿に相応しい鈴の音のような声音が、凛として女の身を射抜く。

「篠家の長男の命を奪いし桜魔よ。退魔師の名においてこの先には行かせません」

「退魔師だって?!」

 それまで品良く演じていた仮面を脱ぎ捨て、女は牙を剥き出しに叫んだ。

 パサ、と軽い音を立てて落ちた被り物がこれまで隠していた女の顔が露わになる。人に美しく思わせる頬から顎にかけての輪郭を持つ女は、しかしその上に大きな一つの目しか持たぬ異形だった。

 着物の袖から覗く白い手にも長い、凶器のような長い爪が生えている。

 桜魔。

 それは桜の樹の魔力と、人の世にはびこる瘴気が結びついて生れ落ちた妖魔の一種。

 この桜魔の存在により、東大陸では何処の国のどんな町にも存在する桜の樹は、いまや恐怖の代名詞となった。

 そして桜魔に対抗する力を持つ人物を、人々は“退魔師”と呼ぶ。

 目の前の少女は自分こそがそうだと名乗った。撫子の花の色をした瞳が、女を強く見据える。

 その瞳と少女の美しさに瞬間的に憎悪をかきたてられながらも、女はすでに少女の術中にあって動くことができない。

「何故、このわたしに気配を悟らせることもないなんて」

 少女の術を振り払おうと、女は常人の目には見えぬ網の中でもがき続ける。しかしそれは霞を掴むように虚しく、一つ目の女に滑稽で奇怪な踊りを踊らせるばかりだった。

 少女の視線がふいと動いて、女の背後を見遣る。そして、呼んだ。

「お兄様」

 女はハッとして、背後を振り替え――ろうとした。しかしやはり金縛りに遭った体は、まったく動かすことができなかった。

 先程と同じ声がまったく違う声音で話しかけてくる。

「この術はな、一つの文字を書いた割符を俺と妹で分けて持ち、お前が間に入ることによって初めて発動する術なんだ。だからお前はここに来るまで、術の存在に気づくことができなかったんだよ」

 言われて正面の少女の手元を見てみれば、何か木の札に似たものを持っているのが見える。裏返しになっているため何が書いてあるのかは見えないが、そこに彼女たち桜魔にとって忌まわしい呪文が書きつけられていることだけは間違いない。

「おのれ! よくも……!!」

「あなたがこれまでにしてきたことでしょう。篠家の御長男に術をかけ、動けないままの彼を橋の上から突き落とした」

 先程青年が口にした下手人とは、女自身のこと。

 彼女は苦悶の表情を浮かべて水面に沈む男たちの死の間際の一瞬の表情が好きだった。それを見るために、これまでにも何人もの男たちを橋の上で殺してきた。

 今回道を案内させた青年も、最後にはそうやって殺すつもりだった。彼はとても綺麗な顔立ちをしていたから、その顔が死に瀕して歪む姿を楽しみにしていたというのに!

 背後の青年の表情は見えない。だが今の青年の表情は、きっと女の思惑とは別の意味で歪んでいる。彼は高らかに吠えた。

「身動きできずに己の命を握られる気分はどうだ? お前は人間などとるに足らぬものと気にも留めていなかったようだが、篠家の妹がお前に兄が落とされる場面を見ていたんだよ!」

 そして、彼ら退魔師兄妹に依頼が回ってきた。兄を殺した桜魔を倒してほしい、と。

「ああ!」

 呻く女を、歩み寄った青年が片手で掴み引きずり出す。――橋の欄干に向かって。彼は片手に割符を持ったまま、朱塗りの欄干に女の体を押し付ける。

「お……お願い、許して」

 上半身が手摺を乗り越えた女は一つしかない目を涙に濡らして懇願するが、青年の表情は冷たい。黄昏の紅い光に照らされたその顔こそ、血塗られた悪鬼のようだった。

「――お前がこうやって殺した男たちに、あの世で詫びな」

 どん、と音を立てて男は桜魔の体を橋の欄干から突き落とす。

 術に身動きを封じられたままの女の体はもがくことすらできずに深く沈み、そのまま二度と浮かび上がっては来なかった。

 ただ、桜魔の死の証と呼ばれる桜の花びらだけが大量に川の水面に溢れ、黒々とした水の上に花筏となって流れて行った。

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