4. 気持ちの整理
午後3時すぎ。帰宅した晴子は、自室へ入るなり荷物を投げ出すように床に置き、ベッドに腰を下ろした。
『こんなことを話せるのは、事故の時一緒に居合わせた麻生さんだけで。一人じゃ埒があかなくてさ。だから話してみるだけでもと思ったんだ』
眉根を寄せて困ったような笑顔。そんな顔で言われたものだから、晴子はすっかり青年に同情心を抱いてしまった。そしてその上、
『この前、困ったことがあったらいつでもと言ってくれたのが本当なら、手伝ってほしいんだ。その……この体は、この名前は誰のものなのか、俺が何者なのか。何とかして俺の正体を、真実を知りたいんだ』
と、真剣な眼差しで言われたら、まさか嫌だと断るわけにもいかない。それも「困ったことがあったら……」と先日晴子が言った言葉を織り交ぜて頭を下げられれば、断れる理由などどこにもない。よっぽどの薄情者でない限り、あの状況で首を横に振ることは不可能であっただろう。
結局晴子は、その場で桐島に協力すること承諾してしまった。
しかし、よくよく考えてみれば、否、考えなくとも、疑わしい話であることも事実である。晴子は何か悪いことに巻き込まれてしまったのではないか。物騒な昨今、そう考えるほうが普通ととらえても良いのかもしれない。
「あー。もう、良く分かんない!」
一人呟いて、晴子は後方に上体を思い切りたおす。体勢を整えるように身じろぎすると、その動きに応えるようにスプリングが軋みぎしっという短い音を立てた。
悪いこと。そう例えば、これが新手のナンパという可能性。ふとした時にのぞく男性の影の部分というのは、女性にとって些か魅力的に見える、などという噂を耳にした覚えがある。それを利用して女の子を……まあ、なくはない――晴子を女の子と仮定しての話だが――。
そしてもう一つ、詐欺という可能性。記憶喪失という弱さを見せておきながら、そこにつけ込む悪徳商法。……これも無きにしも非ずといったところだろうか。
(……いやいや、やっぱりその可能性はないでしょ)
晴子は自身の考えを頭を振って否定した。
第一、突っ込んでくる車に飛び込むという危険を冒してまで人をだますなどということができるわけがない。仮にできたとしても、彼はあの交差点で事故が起きるのを待ち続けていた、もしくは何がしかの手でもって事前に予測していたということになる。――それこそ、非現実的極まりない。
ならば、やはり彼を、あの真剣な瞳を信じてみるべきなのではないか。
もしも記憶喪失であったなら、彼の記憶を集める手伝いを。本当に青年の言う通り桐島祐介という人の体に“彼”がいるというのなら、彼の真の体を探す手伝いを。そして、もしこれがすべて彼の思惑であったとしたなら……騙されてみるより他はないのかもしれない。
首を縦に振ってしまった以上、内心では半信半疑であったとしても協力するしかない。礼をすると言った手前、今頃になって「やっぱり協力できません」とはいかないだろう。
「うーん。そうだよね……悪い人じゃなさそうだし。っていうか私を助けてくれた時点で命の恩人なんだから、悪い人なわけがない。万が一騙されていたとしても、あの時助けられた命には代えがたいもの。……よし。やるか」
そうして晴子は決心した。決心というにはまだ脆い、協力したい思い半分、疑い半分のゆらゆらと揺れる弱い意思だけれど。
けれど、助けられた恩だけはしっかりと返そう、その気持ちだけは始めから持ち合わせている。今はそれだけで十分だ。
晴子はそれだけを頼りに、そのまだ弱い決心を体現するかのようにゆっくりと――決して飛び起きるようなことなく――起き上がった。
「で、具体的に何をすればいいのかな……」
しかし、決心したのもつかの間。その次に何をするべきか、すぐそばにそんなに大きな疑問が落ちていた。
――――先行きは未だ見えない。
『仮に。……仮に、あなたが桐島祐介じゃないとして、だったら……』
『俺は誰なんだろうね』
そう言って悲しそうに笑った彼は、あの後淹れなおしてきた冷たいお茶を晴子に差し出してから、訥々と語った。
桐島祐介。19歳。某私立大学に通う1回生。普通自動車運転免許所持。
あの事故、すなわち彼が桐島祐介として晴子を助け出したあの日から今日までの一週間のうちで、それ以外に桐島祐介という人物に関する情報はほとんど得られなかった。と彼は肩を落とした。
事故後、免許証の住所からあのアパートを突き止めた彼は、さらに部屋の中から学生証を見つけ出した。そこで、自身のことについては全くといっていいほど手がかりのない今、彼はまず目の前にある“桐島祐介”という人物について解決しようと試みたそうだ。
そして翌日、実際に桐島祐介の通う大学に足を向けた。しかし、その行動も虚しくタイミングの悪いことに現在は夏季休暇中。構内を一周してみるも、これといって有力な情報は得られなかったという。
ならば、桐島祐介の友人をあたってみるというのはどうか。そう考えて、彼は次の手段として自宅から探し出したスケジュール帳を開いた。スケジュール帳にならば、友人の連絡先一つくらいはあってもおかしくはないという考えからの行動だった。
しかし、これも空振りに終わる。開いたスケジュール帳には何も記載されていなかった。というよりもそれは今年のものではなく、数年前のもので何かのイベントで配られたような簡素な作りの代物だったのだ。そして、他にそれらしいものも見つからず、友人をあたるという手も断念したのだそうだ。まあ、それも無理もない。今時の若者、ましてや男子大学生ならば、手帳を持たないというのも珍しいことではない。携帯電話やパソコン一つで何でもできる時代、それも仕方がないことなのかもしれない。
(それなら、携帯を使えば良いんじゃ……)
携帯電話を使えば、友人の連絡先の一つや二つそれ以上、簡単に見つかるではないか。
――――と、考えて晴子はそれをすぐに否定した。
思い出すのは先日の喫茶店での出来事。晴子に促され、携帯電話を取り出したは良いがそのまま固まる彼の姿。そうだった。彼はどうも携帯電話の扱いが不得手なようなのだ。昨夜も携帯電話からではなく、公衆電話からかけてきたことを考えると、晴子に登録してもらった番号を何とか探しだすので精一杯だったのではなかろうか。まあ、晴子の番号を探し出せたのなら、他の番号も容易く見つかりそうなものだが。しかしそこまで考えが及ばなかったのなら仕方がない。後からどうこう言っても状況は変化しない。
それにしても、何故あんなにも携帯電話の扱いに慣れていないのだろうか。携帯電話に関する記憶が限定的に欠如? もともと“彼”は携帯電話を持っていなかった? ……まあ、それは置いておくとしよう。その類の疑問は、浮かんできては消化できずに頭の中を彷徨うばかり。考えても解決できない問題は後回しだ。
結局のところ、“彼”は一週間自力で行動したにもかかわらず、“桐島祐介”についてほとんど何も情報を得られなかった。
そして、もう一つ。彼はあの時の事故について調べてみたそうだ。
あの事故が彼の抱える問題の原因である可能性は非常に高い。否、因果関係がないというほうがどうかしている。
しかしながら、それもあまり有力な情報を得られてはいないそうだ。それを告げ、またしても肩を落とす彼。晴子はそれを見ても特に感じるところもなく頷きだけで返した。この件に関してはそう期待していなかったのだ。それもそのはず。携帯電話を使えないアナログな彼が、1週間で得られる情報など高が知れている。案の定、晴子は目の前に新聞の切り抜きや、テレビから得た情報を走り書きしたメモ帳が広げられ、彼の情報収集手段の狭さを見せつけられた。
せいぜいそこから分かることといえば、事故が起きた日時が『8月2日午後2時40分頃』であったことや、『駅前交差点』でおきたこと。『普通乗用車2台とバイク1台を巻き込む』事故であったこととその詳細。事故の規模や負傷者などの情報。
と、調べてみても、彼に刺激を与えるような新鮮な情報は一つとして得られなかったそうだ。
一通り頭の中を整理しようとしたというのに、整理する情報があまりにも少なすぎる。これでは手のほどこしようもないではないか。
晴子は途方に暮れて一人、溜息をついた。
桐島祐介とその中の彼
いったい何者なのだろうか。本当に彼の言うように、体とその中身が乖離するなどということがありえるのだろうか。しかしその場合、桐島祐介の精神と彼の体はどこにあるというのだろう。――それを思うとやはり、晴子の思考は記憶喪失という可能性にばかり傾いてしまう。そして、それが自分を助けたせいで起こった事象なのだとしたら、とつい考えては自己嫌悪へ陥りそうになる。
「とりあえず、“桐島祐介”を調べてみるのが一番手っ取り早いのか。本人の中身は記憶喪失もしくは別人だとしても、身元が分かってるわけだし、はっきりと形として手がかりになるのは今のところあの人だけだものね。と、なると。やっぱり事故以前の桐島祐介を良く知る友達なんかをあたってみるのが良いと思うんだけど……」
桐島祐介について調べることによって、彼が何らかの記憶を取り戻す可能性はある。記憶喪失だった場合は問題の解決に直結するし、またそうでなかった場合でも彼と桐島祐介の間に何らかの関係性が見えてくるかもしれない。と、すべては憶測にすぎないが、できることから始めていくしかないだろう。
若干のまとまりを見せた思考に、晴子はひとまずの安堵を覚えベッドから腰を浮かせた。
ならば、彼の持つ桐島祐介の携帯電話のデータが必要になる。桐島祐介の交友関係については晴子にも彼にも分かるわけはないのだから、電話帳を利用してとにかく片っ端からあたってみるしかない。
そうと決まれば、彼に連絡だけでもしておこう。立ち上がって、晴子は床の上に放り出された鞄に向かう。
――と、そこで。
「ん……鳴ってる」
鞄から微かな電子音が漏れ聞こえていた。鞄を開けると、やはり中で携帯電話がランプを点滅させ盛大に音楽を奏でながら着信を告げていた。晴子は相手を確認し、即座に通話ボタンを押した。
「もしもし」
<あ、やっと出たよ。もしもし、私だよ>
通話画面に名前が表示されているとはいえ、何とも乱暴な相手の第一声に晴子は苦い顔をした。勿論電話の向こうにそれは伝わってはいない。
「うん。どうしたの、栄恵。そっちからかけてくるなんて珍しいじゃない。いつもはパパっとメールで済ませるのに。何か用事でもあるの」
<何だその物言いは。いやあ、特に用ってわけじゃないんだけどね。どうしたかな、と思って>
「どうしたって」
<だから、例のあの人。今日会ったんでしょう。その後が気になってね。老婆心ながら意見を述べさせてもらおうかと>
老婆心ではなく、彼女の場合野次馬根性である。しかし、それも晴子はすんでの所で飲み込んで、
「あ、その話ね」
と、少々とぼけてみせた。
彼からの昨夜遅くの電話の後、晴子は電話を切った手ですぐに栄恵に連絡を取った。深夜にかかってきた彼からの電話に渋い顔をしていたというのに、遅い時間でも気兼ねすることなく電話をできたのは、それだけ晴子と栄恵の仲が深いことの表れでもある。そして、時間のわりに栄恵はそう間を置かずに電話に出た。
翌日彼の家に向かうことを即答したものの、どうしたらいいのかも分からず事の経緯を話すと、楽観主義の栄恵は何の躊躇もなく晴子に翌日彼の家へ行ってみることを薦めた。今日、晴子が彼の家に一人で尋ねられたのも、その栄恵の後押しがあったからと言っても過言ではない。もし、あの場で電話をしていなければ、今頃約束をすっぽかしていた可能性もある。彼の家の前でインターホンを押すか迷っている姿よりも、後から怖くなり外出を控える自身の姿の方が、帰った今でも晴子の頭には容易に浮かぶ。
<その話ね、じゃないの。だから、どうだったの。そうだ、名前は。名前は分かったの>
電話口からは栄恵の興味津々な浮かれた声がする。声の調子からして、栄恵は親友の動向を心配するどころか、楽しんでいる。
「名前……うん。わかったよ、一応ね」
<一応……?>
歯切れの悪い晴子の答えに、栄恵が首をひねる姿が目に浮かぶ。
一瞬。晴子はその歯切れ悪さの理由を説明しようかと思ったが、ふと思うところがあり一度開きかけた口を閉じた。
話してしまって良いものなのだろうか。彼と桐島祐介のややこしい心身の関係を。桐島祐介の中にいるという謎の青年。半信半疑ではあるが、それが本当だとして、それを栄恵に話してしまったとしたら……絶対に話がややこしくなる。
「ううん。何でもない。そう。名前分かったの。桐島祐介……さんっていうだって」
<桐島祐介?>
「そう。桐島祐介」
ひとまず、それだけは伝えておくことにした。“桐島祐介”で間違いはないのは確かなのだから、そこは教えても構わないだろう。
しかし、名前を伝えたところで、晴子は栄恵の様子が少し変わったことに気が付いた。電話越しでもその変化は少々目立つ。ただそれも、付き合いの長い晴子にしか分からないような些細な変化であるのだが。
<……桐島、祐介? 桐島……桐島。桐島祐介か……>
案の定、何かを思い出すかのように彼の名前――暫定的な――を何度もつぶやく声が聞こえてきた。それはまるで、その名前を聞くのが初めてではないような、何か知っているような響きを持っている。
「あれ、栄恵。どうしたの。もしかすると、知り合い? 聞きおぼえがあるの? 桐島さんの名前」
<んん……。ちょっと聞いたことがあるような、ないような。……いや、気のせいかな。うん。気のせい、だと思う>
「え、やっぱり聞きおぼえがあるんじゃ……あるなら思い出して! いつどこで聞いた名前? どんなことでもいいから」
<んー。わかんないや。ちょっと引っ掛かっただけ。もしかすると、似たような名前の人と重なってるだけかもしれない。ああ。でも、思い出したら伝えるよ、必ず。っていうか、晴子。なんでそんなに必死なのよ。名前が分かったんなら、別に本人に素性を聞けばいいじゃないの。それとも名前以外は教えてくれないとか、また馬鹿な話じゃないでしょうな>
「ああ、うん。ごめんごめん」
栄恵の言葉に、思った以上に気色ばんで迫る自身に若干の驚きを感じつつも、晴子は続けた。
「それがね。教えてくれないってわけではなくて、実は……」
言いだしづらい。これをいった時の栄恵の様子が手に取るように分かってしまう。桐島祐介であってそうでないという例の話は伏せておくつもりだが、それでも晴子が伝えようとしている内容は、それだけの破壊力をもっているのは間違いない。
しかし、晴子はその言葉を口にした。
<記憶喪失!? 何よそれ。本当に? 信じられない!>
案の定、栄恵があちら側で声を荒げている。
<じゃあ何? わざわざ相手の家に出向いて、そんな告白をされちゃったの、あんたは。昨日より余計に話がこじれちゃってるじゃない>
「うん。そうなの」
<え、でも名前も住まいも分かってるってことは、その人の基本的な情報は分かってるってことよね。歳は?>
「19歳。一回生」
あくまでも“桐島祐介”の年齢は、だが。
<てことは2つ下、か。それで、どうするの?>
「記憶喪失なんて重大なこと聞いておいて、そのままにするわけにはいかないでしょう。とりあえず、明日また会うことにしたの。何か記憶を取り戻せるような手掛かりでもあればと思って、手伝ってくる」
<そっか。……あ、ごめん。私そろそろ>
突然、栄恵が声をひそめて話し出した。
「バイト?」
<うん。悪いね。詳しくはまた今度聞かせて>
時刻はもうすぐ午後の4時。いつも栄恵のアルバイトが始まる時間だ。きっと仕事前の空いた時間を使って電話してきたのだろう。そんなに気になったのだろうか。さすが野次馬大好き少女。と、それが彼女らしくて、密かに笑みをこぼす晴子であった。
「いいよ別に。私もあとちょっとしたらバイトに出るところだし。じゃあ、切るよ」
<じゃあね。……あ、晴子? あんまり気にしすぎちゃだめだよ。記憶喪失が事故のせいだったとしても、それ晴子のせいじゃないんだからね>
「うん。ありがと。それじゃあ」
栄恵との通話を終えた晴子は一旦携帯電話を閉じ、ため息にも似た深呼吸を一度だけ行った。そして、
「よし。かけるか」
携帯電話を手に取った本来の目的を実行した。相手の番号を探し、通話ボタンを押す。
数回、否、何度にも及ぶコール。出るまでに時間を要することは分かっている。なにせ相手は携帯電話というものに慣れていない。今頃突然なり出した電話に戸惑っているに違いない。
「早くしないと、留守電に切り替わっちゃうんじゃ……」
しかし、何度鳴らしても出てもらえないとなると、さすがに不安がよぎる。大丈夫だろうか。
と、しばらく待っていると。
<……は、はい。ええと、もしもし>
ようやくあちら側から返事が返ってきて、晴子は安堵した。どうにか電話に出ることには成功したらしい。少々慌てた声が耳に届いた。
「あの、もしもし。麻生ですけど。麻生晴子。桐島さんですよね」
<ああ、うん。はい、桐島……です。一応>
「一応って。まあ、そうですよね。あの、突然の連絡で申し訳ないんですけど、明日のことについてちょっと電話しておきたくて。今電話大丈夫ですか?」
<うん。だいじょ…………っ>
それは突然のことであった。ブツリ、と音を立てて彼の声が途切れてしまった。
「ん? あれ、ちょっと聞こえます? 桐島さーん」
<………………>
相手からの応答はなし。代わりに聞こえてきたのは、通話が終了した時のあの味気ない単音の反復であった。
「……切られた」
晴子は眉をひそめつつも、もう一度、桐島の名前を呼び出し通話を試みた。
電話をとったは良いものの操作を誤って電源ボタンでも押したのだろう、というのが晴子の予想である。きっと切ったのではなく、切ってしまったのだ。慣れない人ならやりかねない。
再び長いこと呼び出し音を耳にしていると、
<もしもし。あ、ごめん。勝手に切れた>
「あはは。いいですよ」
言っておくが、電話が勝手に切れることはない。それはあなたが切ったのだ。と、心中では思う晴子だが、そこは責めたりはしない。
それよりも本題である。思いのほか栄恵と話してしまった晴子には、アルバイトの時間が差し迫っている。
「あの、明日のことについてなんですけど、ちょっと提案が」
<提案?>
「はい。明日、桐島さんの……“桐島祐介”の携帯に収められている電話番号を片っ端から当たってみないかな、と思って。何も手がかりがない今、それくらいしかできないかなって。それで、運よく知り合いに会うことなんてできればな、と。上手くいくかは分からないし、相当怪しまれるとは思うんですけど、それもしょうがないかなって。背に腹は代えられないってやつです。桐島さんも、早く何かしらの情報は欲しいでしょうし。どうでしょう」
若干の沈黙があったあと、電話の向こうから彼の小さな相槌が返ってきた。
携帯電話を使って友人をあたる。その意味を理解するのに時間を要したのかも知れない。
<なるほど。その手があったのか。全然気が付かなかった>
しばらくしてそんな声が返ってくる。どれだけ携帯電話に疎いのか。疑問が心の内で増幅していく晴子ではあったが、話の内容を理解し同意してくれるのなら今は問題はなかった。気を取り直して、晴子は一呼吸置く。
「じゃあ、決まりですね。それでは、さっき約束した時間にそちらに向かいますね」
<ああ、うん。さっきの時間で。分かっ………………っ>
「あれ? あの、桐島さん? おーい。……また?」
話の途中でボタン操作でもしたというのだろうか。それとも単に彼が機械と相性が悪いだけなのだろうか。どちらもあてはまるような気もするが、また切れてしまった。晴子は何度か呼び掛けた後、呆れて溜息を落とした。
「どれだけ携帯に慣れてないっていうの? まあいいけど」
とにもかくにも、用件だけは伝えることができた。こちらからわざわざかけ直す必要もないだろう。かけ直したところで、またいつ唐突に切られてしまうか分からない。用は済んだのだから、これで通話終了ということで構わないだろう。
そうして、晴子はアルバイトに向かう準備をしようと、足元に置かれたままの鞄を拾い上げた。
「着替えるか……」
まずは明日、携帯電話の扱いかたを教えてやる必要があるかもしれない。そんな考えがよぎり、晴子はより一層大きなため息をついた。
――――先が思いやられる。