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木漏れ日  作者: 高城 結衣
第1章 青年は少女と会す
3/4

3. 躊躇いの理由

 青年によって指定されたのは、お世辞にもきれいとは言えない小さなアパートであった。

 電話口での説明では、道に迷ってしまうのではと不安にかられたが、実際歩いてみればそう複雑な道ではなかった。晴子の家から駅を挟んで徒歩10分。近所と言ってしまってもいいくらいだ。

 一歩進むたびにギシギシと音を立てる階段を上がり切り、向かってすぐ左の201号室。晴子はその部屋の前で立ち止まった。


「ここよね……」


 一人呟くももちろん答えなど返ってこない。代わりに頷くことで自ら肯定する。


 昨夜、突然鳴った晴子の携帯電話。相手が公衆電話であること、しかも24時を回ろうかという遅い時間の着信であることに、晴子はいささかの不安を感じ電話に出るのを躊躇(ためら)った。しかし暫くの間、コールはやむことがなく、結局通話ボタンを押しそっと電話を耳元に持っていった。

 しばしの静寂のあとに聞こえてきたのは、


『……あ、あの。麻生晴子さんの携帯電話でしょうか』


 という遠慮がちな男性の声。晴子はすぐにその声の持ち主が誰であるのかを理解した。何故公衆電話からかけてきたのかは不明だが、それは例の青年の声であった。電話口だからか口調は少々控えめだ。晴子が警戒を解き短い返事をすると、電話の向こうの声色は若干の明るさを帯びた。


『突然で悪いんだけど。明日、会えないかな……』


 明日とは、突然にもほどがあるではないか。つい口から出そうになったが、


「いいですよ」


 気持ちとは裏腹に、自分でも驚くほどにあっさりと答えてしまったいた。その場に栄恵がいたとしたら、即答した晴子の頭を撫で回しながら褒めただろう。

 その後、いたって事務的なやり取りの末、青年との通話を終えた。電話の画面に目をやると通話時間約3分という、ごく短い通話であった。



「うむむ……」


 とはいうものの、年頃の女子大生が名も知れない男性の家に一人身を投じるのはいかがなものか。青年の家を目の前にして今になって不安を抱いた晴子は、ドアの横に取り付けられたインターホンに指で触れたまま奇怪なうなり声をあげた。

 いくらなんでも、家を指定された時点で怪しむべきだったのではないだろうか。いささか軽率だったかもしれない。

 晴子を命がけで助けてくれたあの青年も、二人きりになったとたん別人へと豹変しないとは言い切れない。いや、家の中に二人きりとは限らない。中に数人隠れていて……。晴子の脳内には、翌日の新聞におどる「女子大生暴行事件」の文字が、悲惨な事件に顔をゆがめるニュースキャスターの顔が浮かんでいた。


「ど、どうしよう。このままじゃ私の貞操が……」


 晴子はインターホンから手を離し、自らの肩を抱いて青ざめた。頭の中ではあらぬ妄想が浮かんでは消えていく。

 そして一瞬の間。暑い日差しと、蝉の声だけが晴子を包んでいた。


「駄目だ。やっぱり帰ろう。急用ができたからって後で謝りの電話を入れれば済むことだわ」


 もっとも、連絡先の分からない晴子には謝りの電話を入れる手立てなどないのだが。そんなことは今の晴子にとっては二の次である。早くこの場を立ち去らなくては、晴子の頭はそれだけでいっぱいなのであった。晴子は、もと来た階段を降りようと踵を返す。今ならまだ間に合う。何もなかったかのように帰宅して冷たい麦茶でも飲みながら、テレビでも見て――。

 しかし、古びた階段がギシリと一つ音を立てたところで事態は一変した。右足を一段降ろしたままの状態でその場に硬直する晴子。その視線の先、階下には。


「あれ、もう来てたのか。ちょっと買い物に出てて……ってまだ約束の時間まで15分もあるし。早いな」


 怪しむこと、引き返すこと、もう何もかもが遅かった。晴子の目に飛び込んできたのは、買い物袋片手に階段を3段ほど上がったところで足を止め、二階を見上げる青年の姿であった。

 日差しの眩しさのせいか、それとも微笑んだのか、一度目を細めた青年は、晴子の心境など知るわけもなくそのまま階段を上がり始めた。


「ごめん、待たせたかな。暑かったんじゃない」

「あ、いえ。そんなに、待ってないです。今来たところですよ」


 むしろ寒いくらいの数分間であった。が、晴子にはそれを口にすることなどできるわけがない。

 青年は、晴子の横をすり抜けると、ジーンズの後ろポケットから部屋の鍵をまさぐり出した。


「良かった。人が来るっていうのに家に何もなくてさ。急いでそこのコンビニまで買い出しに。まあ、汚い所だけど上がって」

「はい……。おじゃまします」


 こうなってしまっては、諦めるしか道はない。ここで帰ろうとするのは反対に不審すぎる。

 結局、晴子は抵抗する間もなく、促されるままにドアを開けた青年のあとに続き、青年宅に足を踏み入れた。

 と同時に、夏独特のこもった空気に出迎えられる。


「暑いな。ごめん、うち冷房壊れてて」


 などと言う青年の声はほとんど晴子には届いてはいない。そのかわりに晴子の耳には、背後のドアが閉まる小さな音が異常なほどに大きく響いていた。

 晴子は玄関で靴をわざと時間をかけて脱ぎながら、青年越しにちらりと中の様子をうかがう。

 すぐに目に飛び込んでくるのは、簡素なつくりのキッチン――この場合、台所と表現した方がそれらしいかもしれない――。そこを抜けた先には四畳半程度の和室が一部屋のみ。その間取りからして恐らく一人暮らしなのであろう。床に散乱した脱ぎっぱなしの洗濯物、シンクに(うずたか)く積まれた汚れた食器類――というものは一切見当たらなかった。アパート自体の古さは置いておき、男性の一人暮らしにしてはきちんと整頓されており小ざっぱりとした部屋である。少なくとも晴子の自宅部屋よりも――それも実家住まいだというのに――清潔感があった。 

 かといって、一度抱いた警戒心は簡単に解けるものではない。晴子は後ろ手に玄関の鍵が開いていることを確認し、出されたスリッパに足を通した。




 カラン、とグラスの氷が音を立てた。もう何度こうしてこの音を耳にするだろうか。

 いざ青年と向かい合って話をしようとすると、これである。

 そう。沈黙。

 狭い部屋の中央に置かれた小さな丸テーブルとその上にはお茶の入ったグラスが一(つい)。二人はそれを隔てて向かい合い、ときどき互いの様子を窺うように視線を上げてはすぐに下を向いてしまう始末。数日前の喫茶店と、場所は違えどまったく同じ状況であった。おまけに今回は共に仰々しくも正座という奇妙な画が出来上がっている。

 沈黙の中、扇風機が回る継続的な機械音と開けた窓から入ってくる(せみ)たちの大合唱のみがやけに室内に響き渡って感じられる。


(何なの、毎度毎度この重たい空気は)


 先程までは明るい表情で晴子を迎え入れたというのに、目の前の青年はまるで人が変ったかのように静かになってしまった。青年宅に入る前の晴子の妄想劇は今や完全なる空振りとなっている。まあ、豹変と言ったら豹変なのだが……。数分前の自身を想像し、思わず恥ずかしさがこみ上げてくる晴子であった。

 とにかくこの状況を何とかしたい。何か話を振れば、会話が進みだすかもしれない。とは思うものの、何を話したらよいのか。

 「今日も暑いですね」「一人暮らしされてるんですか」

 質問は浮かぶには浮かぶのだが、どれも話がそれ以上には弾みそうにないものばかり。頷き一つで返されて終わりという可能性が高い。勿論、要件を直接聞いてしまうというのも一つの選択肢ではある。しかしこの状況と、これまでの青年の様子からそれはやめた方がよさそうだ。


(というか、そもそも……)


 そもそも、いくら晴子がいつでも連絡しろと言ったとはいえ、突然連絡をしてきた上に急な約束を取り付けてきたのは青年の方である。呼び出された晴子がこんな心配をするのはいかがなものか。

 それでも、黙ったままでいるこの状態を何とかしたいという晴子の思いのほうが勝っていた。と、いうよりも夏の暑い気候の上、この重苦しい空気では気がおかしくなってしまいそうなのだ。


(とにかく話を振れば、この人も何か答えてくれるはずよ。っていうか、答えてよ。答えなさいよ)


 晴子は乾いたのどを潤すためグラスを手に取った。一口冷たいお茶を口に含んだだけで、暑さが和らいだ気がした。

 さて、気分が若干変わったのを契機に――。


「あの」

「あのさ」


 が、晴子がグラスを置くと同時に声を発した途端、それは遮られてしまった。勿論遮ったのは他でもない。青年である。遮ったというか、要するに口を開いたタイミングがかぶってしまっただけなのだが。

 思いがけない事態に、そのまま見つめあう二人。話し出すタイミングを失ってしまった。そうは思ったが、晴子はがっかりはしていない。このやけにころころと性格が変わる青年がやっと口を開きかけたのだから、あとは、


「どうぞ」


 晴子は苦笑いのような微妙な表情を浮かべ、相手の発言を促した。

 それを受け、青年は話し出すかと思いきや、


「これ……」


 と一言だけ発し、何かをテーブルの上に取り出し晴子の側へ差し出した。

 名刺サイズの一枚のカード。表面には青いラインが一本と顔写真、それに氏名、生年月日、住所欄がある。そう、自動車の運転免許証であった。


「え、これ、あなたの……ですか」


 晴子の問いにコクリと小さな頷きが返ってきた。

 いいのだろうか、見てしまって。いや、青年は自ら晴子に免許証を差し出したのだ。

桐島 祐介(きりしま ゆうすけ)

 それが免許証に記載された青年の名前であった。


(でも、どうしてわざわざ免許なんて。私が職務質問でもしてるみたいじゃないの)


 あれだけ渋っていたというのに、突然こんなにもあっさりと素性の告白――それも正式な身分証明をもっての――をされてしまったことに晴子は戸惑いを隠せなかった。


「桐島祐介さん。桐島さんっていうんですか」

「…………」


 反応に困りつつも、晴子は青年の名を確かめるように口にした。しかし、相手からは何の反応も返ってこない。晴子に免許証を見せたきり無言で、そこかしこに目を泳がせている。


「……桐島さん?」


 晴子は恐る恐る名前を読んで相手の目を覗き込んだ。やがて困惑の浮かんだ瞳と晴子の瞳が合わさる。するとようやく青年――桐島は、その重たい口を開いた。今にも消えいってしまいそうな、擦れた声がかすかに耳に届く。


「……あの。これから俺が話すこと、聞いてもらってもいいかな。信じなくてもいいから。……いや、信じてはほしいんだけど」

「はあ」


 状況のの見込めない晴子は、曖昧に頷いて見せた。話を聞くことは大いに構わないが、桐島のその深刻な表情はいったい何なのか。身元を知られるのはやはりまずいことだったのだろうか。晴子は首をひねるばかりであった。

 桐島は晴子の肯定を受け、少し声の調子を取り戻して話し始めた。


「それ、俺の名前なんだけど、俺の名前じゃないんだ」

「……は?」


 話を聞くとは言ったものの、初めから訳が分からなかった。


「で、でも、免許証の写真は……」


 写真にうつるのはどこからどう見ても目の前の人物と同一人物である。双子と言われれば納得はいくが、相手の様子を見るにまずそういった類の話ではなさそうだ。では、何なのか。晴子の頭の中には疑問符がいくつも浮かぶ。それが顔に出ていたのだろう。桐島――ではないらしいが――は、申し訳なさそうにして再び口を開いた。


「ええと。なんていうか。いや、俺もよくわからないんだけど。簡単に言うと、あの事故の日以前の記憶がないんだ」

「え……」


 今度は晴子が言葉を失う番だった。記憶がないということは、その原因を作ったのは晴子自身ではないのか。あの時はけろっとした顔で去って行ったが、実はどこか打っていたのかもしれない。あの日晴子を助けたがために、そうなってしまったということなのでは。


「実はあの日、気が付いたら君を、麻生さんを抱えてあそこに倒れてた。本当はあの時、君と同じくらい気が動転してたんだ。だって、目を開けたら知らない女の子を抱えてて、しかも近くにはぐしゃぐしゃの車が煙を上げてたんだぜ。それでも何故か、君の前では気丈にふるまってて……。名前を聞かれた時には焦ったよ。自分のことが何も分からなかったから。まあ、あの後自分のポケットに入ってた免許証を見つけたから良かったんだけど」


 至って真面目に語る相手の言動に、晴子はまったくついていけていなかった。事故を起こしたのは晴子ではないが、直接的には自分のせいで記憶喪失になってしまった。自分のせいで……それだけが晴子の頭の中で反芻(はんすう)される。


「ごめんなさい。……私のせいで」

「いや。違うんだ」


 何が違うというのか。事故以前の記憶がないということは、完全に直接の原因があの時晴子をかばって飛び込んだことであるのは、誰が考えても分かることではないか。それなのに晴子のせいではないというのは、反対に晴子を苦しめる。直接「お前のせいだ」と言われた方がどんなに楽か――。


「何も違っていないじゃないですか。記憶喪失の原因は、私をあの時助けたことで――」

「違うんだ。……違うんだ、と思う。記憶喪失とかそういうのじゃあないんだ」

「……? よく意味が……」


 先程、桐島ははっきりと記憶がないと口にしたではないか。それなのに記憶喪失ではない、と言われても理解に苦しむ。話が矛盾している、否、むしろ破綻してしまっている。

 

「……だから、ここからが本題なんだ。さっき俺が信じなくてもいいっていったのは、これから話す内容がとても信じられるものじゃないからで。これは俺のただの想像、いや直感でしかないんだけど」


 桐島は、苦々しい表情を浮かべる晴子から目をそむけるようにしてテーブルに視線を落とすと、一瞬の間をおいて言った。


「この体は桐島祐介のものだけど、俺は桐島祐介じゃないんだ」


 今度は何を今耳にしたのだろう。晴子は桐島のその一言を聞いて数秒間、その意味を何とか理解しようと頭をフル回転させた。

 しかし、何度考えても導き出せる答えは一つだけであった。


「そんな話、信じられるわけ……。だいたい、それを記憶喪失というんじゃないんですか」


 自分の名前は何であるのか、住まいは、家族は……。自身に関するそれまでのことがすべて記憶から消え失せてしまう。それを記憶喪失というものだと、晴子は認識している。今現在、晴子が対面している桐島祐介という青年も、その症状に当てはまる。自分であって自分ではない。彼の言っていることは記憶喪失とそう変りないように思える。


「それが、どう考えても記憶喪失じゃないんだ。だいたい、あの時俺は本当に無傷の状態だった」

「そんなの分かりませんよ。だって気が付いたら、もう地面に寝ている状態だったんでしょう?外傷はなくても、それ以前にどこか打っていた可能性だってあるだろうし……。そもそも原因が外からの刺激によるものだとは限らないじゃない。精神的なストレスからくるものだってあるっていうし。そうだ。病院には? ちゃんと検査をしてもらったらきっと原因も――」


 そんなつもりは無かったが、困惑からか晴子の口調は自然を相手を攻め立てるような強いものになりつつあった。それを察した晴子は、一旦言葉を止めた。

 少しあいだを置いて、上ってしまった血を頭からおろすべきだ。晴子は一度深呼吸をすると、冷静さを取り戻そうとやや語調を緩めた。


「ごめんなさい。少し混乱してしまって……」

「いや。こちらこそ。まるでつじつまの合わない話を急に始めたから……。お茶、淹れなおそうか」


 そう言って桐島は、晴子の返事を待たずに、とけ切った氷で薄まったお茶を持って席を立った。


「病院には――」


 台所に立った桐島は、こちらに背を向けたままの状態で話を再会した。


「病院にはすぐに行ってみたんだ。麻生さんが言ったように、俺も最初記憶喪失ってやつだと思ってさ。ちゃんとした検査もしてもらった。だけどやっぱり、心身ともにいたって健康。どこもけがをした形跡はないし、心理的な異常も見つからなかった。そのあとは俺の――桐島祐介の過去の通院歴まで調べたよ。それでもやっぱり――」

「記憶喪失の可能性は薄いと?」


 桐島は振り返って、静かに頷いた。その顔には苦い笑いが浮かんでいる。


「いや、やっぱり記憶喪失なのかもしれない。何か気が付かないような些細なことが原因ってこともあるかもしれないしね。でも、何故かわかるんだ。これは俺の体じゃないって」


 言っていることが、非現実的すぎる。彼が桐島祐介でないことの証拠はどこにもない。

 しかし、晴子には桐島――目の前の青年が嘘をいっているようには到底思えなかった。勿論晴子にもそう思う理由などないのだが。

 それでも、信じてあげたい。無条件にそう思ってしまう。晴子にそう思わせるだけの不思議な力を青年が持っているかのようだ。


「仮に。……仮に、あなたが桐島祐介じゃないとして、だったら……」


 だったら――。


「俺は誰なんだろうね」


 二度目に振り返った青年は、今にも泣きだしそうで、壊れそうな切ない笑顔を浮かべていた。

桐島祐介であって桐島祐介でない。そんな彼の告白でした。

今まで名前を教えてくれなかった理由はこういうことだったのです。

まだまだ謎は増すばかり……。さて、彼は桐島祐介なのか、そうでないのか、それならいったい誰なのか。次回からどんどん真相に近づけていきます。

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