2. 希望の夕暮れ
「それで、その人とはそれきりなんでしょう。何やってるのよ、もったいない」
呆れたようにそう言って、晴子の向かいの席に座る山下栄恵はミニスカートからのびる自慢の長い脚を組み換えた。
長い付き合いの栄恵のことなので、彼女がそのような反応を示すのは想定済みのことであった。否、待っていたと言っても過言ではない。むしろそのほうが話が深刻にならず、晴子にとっては楽なのだ。知った上で話したのだから、晴子は笑いも怒りもせず、話を続行した。
「そうなの。もったいないかどうかは問題じゃないとして、あれから何の手がかりもなし。だいたい名前すら知らない相手を探し出せるわけがないのよ。外に出ればみんな顔馴染みっていうんだったら話は別だけど、こんなに人が多い所だとまず無理でしょう」
「まあそうだけど。じゃあ、諦めるっていうの」
眉をひそめて言う栄恵に、晴子はストローでコップの底に残ったオレンジジュースを啜り取りながら、頷きで返した。本心としては首を横に振りたいところだが、探し出しようがないのならそうするより他ないではないか。すると、再度もったいないという小さな呟きが返ってきた。
先日の出来事について語り始めてここまで、何度その言葉を聞いたことか。さすがにこのままでは話が堂々巡りになりそうだ。そう思った晴子は、今やもったいないが口癖となった栄恵からガラス窓の向こうへ視線を移した。
平日の日中、それもここ数日間続く真夏日とあって、街中の人足はまばらである。誰もが額に汗をかき、気だるそうに歩いている。楽しいショッピングを終えた二人も数分前まで外にいたのだが、暑さに耐えられず、偶然通りかかったファーストフード店に入った口だ。
あの事故から一週間。「まだ」と感じるべきか、「もう」と感じるべきかは個人の感じ方次第だが、晴子の感覚では後者に近い。まくった袖からのぞく絆創膏は、事故からそう時間が経っていないことを物語っている。傷を隠すためのロングスカートも、暑苦しさを感じるたびにほんの数日前の事故を晴子に想起させる。その点を考えるとまだ一週間しかたっていないと表現するほうがいいのかもしれない。
しかし、やはり晴子にとっては「もう一週間も経ってしまった」なのだ。「まだ」と「もう」の境界を問われると、晴子自身明確な答えはない。が、とにかくあの日の出来事は強く印象に刻み込まれたどころか、7日前のこととは思えないほどつい先ほどのことのように思えてしかたがない。とうに晴子の生活は日常に戻っているというのに、心はそこから乖離したように一週間前のあの瞬間にあるように感じてしまう。まったく不思議な感覚である。
それもすべてあの青年の存在によるものであるということを晴子自身分かっている。分かっているからこそこんな気持ちになるのである。晴子を助けた名前も知らない青年。あの時あの瞬間から彼の顔が頭から離れない。もったいないという栄恵のそういう考えとはまったく違う意味で気になる存在。
「また会える確率はほとんどないってわけね。じゃあ、あとはその人との偶然の再会を待つしかないんだから、それまで彼のことは忘れることね。彼への淡い恋心はしまっておきなさい」
栄恵は紙コップの中の氷を器用に一つだけ口に含み立ち上がった。
「恋心って……。だから、そういうのじゃないんだってば」
「今のところは、でしょう」
俯く晴子を軽く鼻で笑ってみせた栄恵は、脇に置いた荷物を素早くまとめあげ一人テーブルを後にする。晴子はその後を追うようにして、慌てて支度を整え席を立った。
店員の棒読みに等しい挨拶に送り出され、再び真夏の太陽の下に出る。と、押し寄せてくる熱気。あまりの暑さに晴子と栄恵は顔を歪ませた。すぐに冷房の下に引き返したい衝動にかられるも、なんとか二人は初めの一歩を踏み出した。
「いいなあ、晴子。私も晴子みたいに劇的な出会いをしてみたい。ま、私はあんたみたいに連絡先も聞かずにさよならなんてことしないけどね。がっちりつかんで離さないんだから」
「まだ言うか」
「言う言う。ああ、でも痛い思いするのはちょっと嫌よね」
晴子の肘にあてられたガーゼを横目に見ながら苦笑を浮かべる栄恵。晴子は大きなため息を落とした。二人はそうして暑さを紛らすように話をしながら街中を歩いた。
そして、しばらくしたのちに見えてきたのは駅前交差点。一週間前の事故現場である。家への道のり上、通らざるを得ないその交差点は今では交通規制もなく通常の車と人の通りを取り戻している。さすがに一週間もあれば、ひしゃげたガードレールや散らばった破片はきれいに片づけられ、道も補正されていた。
しかしながら。
「うわ。そこのコンビニまだそのままなんだ」
信号待ちの中、隣に立つ栄恵の声にふと視線を移すと、横断歩道の先には車が突っ込んだコンビニが立ち入り禁止のテープが張られたまま一週間前と変わらぬ姿でそこにあった。あの時あの場所に居合わせたことを思うと、晴子は治りかけの傷が再び痛みだすような感覚に襲われる。
「大丈夫、晴子」
「あ、うん。平気だよ」
やがて信号は青に変わり、二人も周囲の人々につられるようにして歩き出した。
「そういえば、車とバイクの運転手ってどうなったの」
「さあ。事故の状況を家に聞きに来たお巡りさんの話だと意識不明とかいう話は聞いたけど、それ以降のことは何も知らないの。事故について知ってるのは、ほとんどニュースで流れてた情報と一緒だし、たまたま私がそこにいて助かっただけで事故を起こした当事者のことなんて全然知らなくて」
「そうか。まあ、そんなものよね」
そう。あれは見ず知らずの人が起こした事故であり、晴子はそこに居合わせただけなのである。まあ、被害者ということもできるのだろうが、巻きこまれたのが晴子ではなくても良かったわけで、言うなれば事故とは無関係の第三者、配役でいえば通行人Aあたりなのだ。
「うん。そんなも……の」
「何。どうしたの」
横断歩道の半ば。晴子は自身の目に映ったものに、思わず足を止めた。不思議そうに覗き込んでくる栄恵に、晴子は声も出ず前方を見つめるだけで答えた。そこにいたのは――
「ん? あの男の人がどうかしたの。って、もしかして」
二人の進行方向、崩れたコンビニを背景にそこに一人たたずみ交差点を見つめている人物。遠目だが晴子にはそれが誰であるのかはっきりとわかった。
姿を認めて一瞬の静止ののち、晴子の足は自然と地面を蹴っていた。人の波をかき分け、晴子は横断歩道を渡りきる。
「あ、あの!」
名前が分からないので、呼ぶこともできない。晴子は曖昧に相手を呼び、その傍らに立った。
一息ついてから顔をあげると、驚いた様子で晴子を見下ろす青年と目があった。やはり晴子の思った通り、あの時の青年である。
青年は数秒間晴子を訝しげに見つめていたが、やがて理解したのであろう。ああ、と一言つぶやき細めていた目を緩め、小さく微笑んだ。
「あの時の。うわ、やっぱり怪我してたんだ。大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
晴子から声を掛けたというのに突然の再会にあたふたしていると、またしても青年に話の主導権を握られてしまった。病院には行ったのか、大きな怪我はなかったか等さまざまな質問が降ってくる。しかしいざ目の前にしてしまうと、晴子は聞かれたことに頷きで返すか相槌を打つことしかできなかった。先程まで栄恵と他愛のないおしゃべりをしていた晴子はどこへ行ってしまったのか。というよりも、そのおしゃべりがあったからこそ、変に意識してしまっているようにも感じられる。
このままでは相手のペースに流されて、また名前を聞きだすことができずに別れてしまうのではないか。そうなるときっとまた栄恵に咎められるに違いない。呆れてわざとらしく溜息を落とす栄恵の姿が目に浮かぶ。と、余計なことを思ってもみるのだが、どう切り出して良いのか晴子はつい口ごもってしまう。
「まさかまた会うなんて。見たところ買い物帰りみたいだけど、家は近いの」
「はい」
晴子の両手の紙袋を見て言う青年。それに頷く晴子。
頭では分かっているというのに、この構図を崩すことのできる力量を晴子は持っていなかった。否、この瞬間に限ってできなかったというほうが正しいだろう。
「そうなんだ。じゃあ俺はもう行くから。また今度って言っても会える保証なんてないけど」
「え……。そんな、もう」
「それじゃあ」
晴子が止める間もなく、青年は急ぐようにして点滅する青信号に向かって駆け出そうとする。
ああ、また何も聞くことができなかった……。青年の腕を僅かにかすめた自らの手と青年の走り去る背中を交互に見ながら、晴子はまたもや後悔を――
「ちょっと待った。そこのお兄さん。点滅する信号は渡ってはいけませんの合図ですよ」
「は? え、ちょっと」
晴子の胸に湧いた後悔の念は、良く知った声によってかき消された。
横断歩道に入ってすぐに何者かの手によって腕をからめとられた青年は、晴子の方へバックで戻ってくる。
「栄恵」
青年をすまし顔で連れてきたのは、先程横断歩道に置き去りにしてきた友人であった。狙っていたかのようなタイミングでの登場に晴子は目を丸くする。
引き戻された青年も同様。予期せぬ展開に調子を狂わされ、されるがままに晴子の元に引き戻されてきた。
そして、栄恵は驚きの表情を浮かべる青年を真正面から見据えた。
「付き合ってください」
栄恵の第一声はそれであった。
晴子と青年は言葉をなくし、口を半開きにした。
「それじゃあ、あとは二人でどうぞ」
栄恵はそう言い捨てて、喫茶店を出て行った。
残された二人はというと、テーブルをはさんで向かい合い終始無言。晴子はともかくも、先程まで晴子を質問攻めにしていた青年までも、改めて対面すると少し気まずそうにうつむいて手元のストローを弄んでいる
友人が気を利かせて――そう思うことにした――もうけた席である。ならば自分から話しかけるべきではないだろうか。晴子の中に若干の義務感がわき上がる。
「この前は本当にありがとうございました」
と、まずはお礼から入るのが自然であろう。
晴子が頭を下げると、青年はいやいやと控えめにに首を振って謙遜した。そして先程頼んだアイスティーに口をつける。
この青年、この前と何かが違う。晴子は念願の再会を果たし、青年を前にしたというのに感覚的にそう感じていた。喫茶店に入って対面してからは特にそう思う。少し大人しいというか、挙動不審というか、様子がおかしいのである。ただ先日は状況が状況だっただけに、晴子自身気が動転していたところもあるため、その疑いは確信にはいたらない。晴子と目を合わそうとせず、ときどき何かを恐れるように泳がせる視線。それに何か口にしようとしては、諦めたように下を向いてしまう。そこが見ている晴子としては気になって仕方がないのである。
それでも再び会話をすることが叶ったからには、それよりも先に聞きたいことが晴子にはあった。断られることは目に見えているが、晴子はそれを恐れず小さく息を吸った。
「また会えるなんて思ってなかったから、驚きました。これも何かの縁でしょう? お名前、聞かせてくれませんか」
晴子が言った瞬間、青年がピクリと反応して顔をあげた。名前を聞いただけだというのに、一瞬表情が固まったように見えた。
「ごめん。それは、ちょっと……」
そんなに名前を知られたくないのだろうか。それとも名前を聞きたがる晴子のほうがおかしいのか。だが、助けてもらった相手の名前を知りたいというのは普通のことだと晴子は思う。お礼の有無は置いておき、命の恩人の名前は誰もが知りたいと思うだろうに。これこそ偏見になってしまうが、見たところ個人情報だから教えられないなどと言うようなお堅い人物でもない。だとしたら何か理由があるのかもしれない。
例えば、彼が有名人である場合。晴子はお茶を口に運びながら、ちらりと青年を盗み見る。
(その可能性は、薄いかな)
自分と同年代の、それも名前を聞いただけでピンとくる有名人であるなら、そもそも顔を見ただけで分かる。仮に顔を見ただけでは分からないような有名人だったとしても、同姓同名だとか言ってしまえばいいだけの話である。ならば……。
(犯罪者……とか?)
晴子の背筋に一瞬、冷たいものが走る。しかし、その考えも晴子はすぐに打ち消した。犯罪者だったなら、事故から人を救うなどというわざわざ目立つことはしないはずである。
ならば何故彼はこんなにも拒むのか。
「どうしても、ですか」
青年は頷いて、再び視線を落としてしまった。そしてまたしてもやってくる静寂。
静かに流れる店内のBGM。少し離れた席に座る二人連れの客の話声。しばらくはそれだけが向かい合った二人の間を通過した。
何度聞いても青年個人のことについては教えてはくれないのだろう。このやり取りを何度続けようとも、聞き出すことは不可能。晴子はそんな気がし、無理に聞き出そうとするのをやめることにした。ここまで拒まれれば諦めるよりほかない。ならば――
「あ、そうだ」
優雅な音楽が一曲終わろうとする頃、晴子は突然思い立ったかのように胸の前で手を合わせその沈黙を破った。場の空気を変えるために精一杯の明るい声を出したつもりだったが、若干空回りの感もある。店内の涼しさをよそに嫌な汗が流れたような気がした。晴子はそれを気取られぬよう、反射的に顔をあげた困惑顔の青年に向かって笑顔で持ってごまかす。
「とりあえずお名前の件は諦めることにします。でも、私の方が名乗るのは勝手ですよね。というか、人の名前を聞くからには先に私が名乗るべきでした。ですから……」
晴子はごそごそと膝の上に置いた鞄をあさる。中はそうとう荒れ模様のようである。
「ちょっと待ってくださいね。……あ。あったあった」
と、晴子はそれを取り出し、青年の顔の前にかざした。何を言わんとしているのかそれだけで伝わるだろう。晴子はそう踏んで相手の顔色をうかがった。
「…………」
しかし、青年はきょとんとして不思議そうに晴子を見ていた。
一瞬晴子までもが固まってしまった。が、すぐに気を取り直しテーブルに乗り出す。先程までの遠慮は吹き飛び、普段の晴子が出てしまっているのはこの際問題ではなった。
「だから、私の連絡先を教えますから、あなたも携帯を出してください。ね?」
「ああ。そういうことか」
「はい」
やっと理解した青年はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。それを見て晴子は椅子に座りなおすと、さっそく自分の電話番号を呼び出す。そして青年の携帯電話に向かって自身の携帯電話を近づけた。
「申し遅れましたが、私、麻生晴子っていいます。じゃあ、準備はいいですか?」
今の携帯電話は便利なものである。わざわざ読み上げるという行為をしなくとも通信機能を使えばすぐに情報を届けることができるのだ。
とはいうものの、晴子は携帯電話を持ったまましばらく待つこととなった。
「ええと……」
青年は戸惑い顔で携帯電話を操作している。使い方が分からないのだろうか。いや、見るからに今時の若者の彼にはそれはたやすいことであるはずなのだ。昨今では携帯電話を使いこなす高齢者も少なくないというのに、若者が使い方を知らないなどということは――。
しかし、ついにその時はやって来なかった。持ち上げた腕に疲れを感じ、文字通りしびれを切らした晴子は行動に出ることにした。
「貸してください。私が入れてしまってもいいですか?」
「……お願いします」
晴子は差し出された携帯電話を受け取り、数秒も掛けず慣れた手つきで操作し登録を終了した。
「はい。終わりました。連絡が欲しいなんて押しつけがましいことは言っていませんよ。あ、あと私があなたに気があるとか変な誤解はしないでくださいね。今後何か困ったことがあったらいつでも呼んでくださいということです。もっとも、私がその時力になれるかどうかは分かりませんけど。それとあなたが素性を明かしてくれる気になった時も使ってください」
要するに晴子は恩返しをしたいのだ。しかし、生来の短気な性格災いした上に、言い方としても回りくどくなってしまったため、青年にそれが伝わっているかは不明である。
受けた恩に報いる、それは幼いころから性格として染みついた晴子にとって絶対の信条である。素性を知らないことで、それが守れないとなると恩を受けた身としては罪悪感が残る。そこで晴子は相手にいつでも必要な時に呼び出してもらえるよう連絡先を教えることにした。たとえ今後、青年が連絡を寄越さなくともひとまずは晴子としてはこれで気が収まるといった結果に至ったのだ。
「う、うん。……分かった」
晴子の勢いに気圧されてか、青年からはため息にも似た擦れた返事が返ってきた。
その後、二人の間では取りとめもない会話が行われた。晴子が青年について知ることを諦めたことで二人の間の妙な緊張はほぐれ、青年は固い表情をしだいに先日のような明るいものに変えていった。
「それじゃあ、また会えるかは分からないけど」
「ええ。気をつけて……って、私に言われたくないですね。連絡、する気になったらいつでも下さいね」
二人は笑いあいながら店を出、しばらく歩いたのちにあの交差点で別れた。もちろん今度は先日のように慌ただしい一瞬の別れではなく手を振りあってお互いを見送りながら。
夕焼けに染まった街中は少しだけ日中の蒸し暑さが残っていた。
またしても、晴子は青年について何も知ることができなった。何故青年は自身の一切を隠したがるのか、それすら知ることが叶わなかった。また、自分の連絡先を一方的に教えただけだという事実を栄恵が知った時の顔が容易に思い浮かべられ、その点が少々憂鬱の種ではある。しかし、晴子は以前より幾分か晴れやかな気持ちで歩いている。青年と再会したことで、止まっていたように思えた時間が動き出したかのような不思議な感覚。一歩前進したような高揚感。もう会える保証などどこにもないが、次もまた会えるのではないかという淡い期待を胸にして。
晴子は一人になってから、最後に一度立ち止まり青年を振りかった。そうして再び歩き出した。
『明日、会えないかな……』
そう晴子の携帯電話に、公衆電話からの着信があったのは、それから三日後の夜のことである。
やっと続きが書けました。といっても、あまり進んでないですね(実は進んでいるんです)。栄恵ちゃんをもう少し気の利く女にしたかった……それが少し心残りです。
さて、なかなか頑なな「青年」くん。次回こそは名乗ってくれるのか!?