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木漏れ日  作者: 高城 結衣
第1章 青年は少女と会す
1/4

1. 夏の奇跡

 それは一瞬の出来事であった。

 昼下がりの交差点に突然響き渡る衝撃音。誰もがその音に驚き、足を止めた。

 信号待ちをしていた晴子(はるこ)も同様、携帯電話の画面から顔をあげた。次の瞬間目の前に飛び込んできたのは、とても信じられないような光景であった。どこからか聞こえてくる悲鳴と危険を知らせる叫び声。しかし、晴子はその場を動かなかった。否、動くことができなかったのだ。

 自身に向かって突進してくる乗用車に、足がすくみ指先ひとつ動かすこともかなわない。


――早く逃げないと。死にたくない。死にたくないのに。


 動かぬ体とは裏腹に、頭の中では自身の叫び声が反復される。その間も制御を失った車は速度を落とすことなく突っ込んでくる。


――どうして動かないのよ。動いてよ。嫌よ、車に()かれて死ぬなんて。誰か、誰か助けて。


 晴子の声にならない叫びもむなしく、車はもう目前に迫ってきていた。暴走車を認識してから何秒と経っていないというのに、晴子にはその数秒間が何倍にも長く感じられた。しかし、現実にはそれはほんの一瞬のこと。今や逃げる余地もない。

 もう駄目だ、と瞬間的にそう悟った晴子は唯一動かすことを許された(まぶた)を静かに閉じた。





 晴子は車の大破するけたたましい音とともに、堅いアスファルトの上に投げ飛ばされた。背中を強く打った衝撃で、息がつまり呼吸がうまくいかない。低いうめき声しかあげることができずに、晴子は必死に空気を求めて(あえ)いだ。

 不思議と背中以外に痛みを感じる箇所はなかった。全身を打ったがために、痛みを感じられないくらいに痛覚が遮断されてしまったのかもしれない。ただ聴覚は正しく動作しているようで、その場に居合わせ無事だった人々の声が耳に入ってきた。救急車を呼べだの、もう手遅れだなどと、さまざまな言葉たちが頭上を飛び交っている。その(ほとん)どが目の前に広がる惨状に落胆する声ばかりだ。

 晴子は自身の体がどっと重くなったように感じた。自分はもう死ぬのだと、そう悟ったのだ。 

 しかし晴子のそんな絶望的な思考は、予想外の声によってすぐに遮られた。


(いて)え……おい。あんた、大丈夫か」


 その声はそれまでとは異なる位置から聞こえてくる。若い男性の声だ。


「間に合って良かった。あと少しでも遅ければ、あんた今頃車の下敷きだったぜ」


 すぐそば、それも本当に間近。耳元である。

 そして、その内容をぼんやりとする頭で整理する。たいしたことを言われたわけではないのに、呼吸のできない苦しさに気を取られ必要以上に時間がかかってしまう。声の主は何か重要な言葉を口にしなかったか。たしか“間に合う”いや“間に合った(・・・・・)”か。と、いうことはつまり……。

 晴子は重たい瞼をそっと持ち上げる。少しずつ今置かれた状況が読めてきたからだろうか。それは思った以上に容易なことであった。

 真夏の太陽の光に目が(くら)み、初めのうちはぼやけていた視界だが、次第に晴子の目に映し出される像は鮮明なものへと変わっていく。そして、一番に瞳が捉えたものは、ほんの数十センチという近さで晴子の顔を覗き込む声の主とみられる男性の瞳であった。晴子は突然のことに驚き声を上げそうになったが、不規則な呼吸の状態ではそれすら(まま)ならず咳き込んでしまう。


「おいおい、そんなに驚かなくても。ほら、ゆっくり息吸って」


 涙をにじませて(むせ)る晴子の背中に、そっと男性の手が置かれた。晴子は背中をさすられながら、男性の声に合わせるようにして呼吸を繰り返した。

 しばらくすると、乱れていた呼吸も大分落ち着いてきた。晴子は再び目を開ける。初めに目に飛び込んできたのは、やはり男性の瞳。さすがに二度目は驚かずにいられた晴子だが、何もできずに固まってしまった。この先どう動いていいものか分からない。というのも、現在の晴子は目の前の見知らぬ男性に抱きかかえられる形で冷たい地面の上に転がっているのである。純真無垢な生娘とは縁遠い晴子といえども、この状況では顔を赤らめるほか何もできなかった。

 そんな晴子の心境を男性は知るはずもない。


「やっと落ち着いたな。起き上がれるか?」


 男性はこれまで片肘をつく形で上体を支えていた状態から、一度体勢を整えるように立ち上がり伸びをすると再び晴子の傍らに屈んだ。そして晴子はためらいながらも差し出された手を取った。

 目線が高くなり視界が開けると、晴子は新たに目にする光景に呆然となった。

 晴子の肩を支える男性の背後に見えたのは、先程突っ込んできた車であった。防護柵をなぎ倒し歩道を飛び越えた上、さらにその先のコンビニに突っ込んだとみられる黒い車体は、ぐしゃぐしゃに(ゆが)んで原形を失っている。車の中にはまだ人がいるのか、数人の男性が潰れて開けられなくなってしまった運転席側のドアをこじ開けようとしていた。その救助活動をを遠目から取り囲むようにして野次馬が群がっている。またその反対側、コンビニ向かいの交差点でもぼろぼろになった1台の軽自動車と原形を失ったバイク――いずれも運転手の安否は知れない――が同じく人の群れに囲まれている。

 詳しい状況はともかくとして、大きな事故が起きたことは分かる。そしてその事故に晴子自身巻きこまれ、危うく命を落とすところであったことも。

 そこで晴子ははっとする。


(そうか。私……)


 助かったのだ。助けられたのだ。目の前で安堵(あんど)の笑みを浮かべるその男性に。

 ここにきて晴子はやっと男性を正確に認識した。

 年齢は晴子とそう変わらない、見た目20代前半を思わせる大学生風の青年。明るく茶色に染められた襟足まで伸びる長い髪。時折その間からは耳のピアスが(のぞ)く。Tシャツに穿()き古されたジーンズという服装から見ても世間一般にいう今時の若者といったところだ。


「あ、あの」


 晴子は戸惑いながらも、頭一つ分高い位置にある青年の顔を見上げ声を発した。事故の瞬間、無意識に悲鳴でもあげていないかぎり、恐らくこれが青年と会ってからの第一声となる。しかし、その声も緊張からか(かす)れたものとなってしまった。


「ん。何? ああ、車とバイクの出合いがしらの事故なんだと。それをよけた後続車がハンドル取られてこっちに突っ込んできたみたいだ。ってこれは今聞こえてきたばっかりの野次馬情報なんだけどさ」


 そんな情けない第一声をどう受け取ったのか、青年は事故の状況を語りだした。勿論晴子が言いたかったのは事故についての問いなどではない。晴子もそこまで礼儀知らずな人間ではないのである。晴子は咳払いを一つして、ぺらぺらと一人語りをする青年に向かい再度話すことを試みる。


「そうじゃなくて……」

「間一髪とはこのことだよな。本当危なかったよ」


 しかし、青年は止まってはくれなかった。


「あの……」

「それにしてもすごい音だったよな。自分がこんな事故現場にいあわせるなんて、思ってもみなかったよ」

「だから、違うんです!」


 晴子は相手の隙のなさについ語気を強くして言い放った。相手の言葉を遮るような形になってしまったが、そうでもしなければこのまま口をはさむ間もなく話し続けられそうな気がしたのだ。


「ありがとうございました。助けていただいて」


 一呼吸おいて、晴子は青年に向かって丁寧に頭を下げた。まずは助けてもらったお礼を言うのが先決だろう。遅くはなってしまったが、これは人として言っておくべきことだ。


「あ、いや。どういたしまして」


 晴子につられてか、青年も深々と頭を下げ返した。

 その後、何故かぎこちない空気が二人の間を包み込んだ。一連のやり取りを終えて、今この状況をどうしたものかと、身の置き場に困ってしまったのである。

 落ち着いて良く考えてみると――まあ考えるまでもないのだが――ここは街の歩道上なのだ。多くの注目はコンビニに突っ込んだ車と交差点の車とバイクとに集まって入る。しかし歩道に倒れこんだ二人も十分目立つ存在であることに変わりはなかった。現に晴子が青年から少し視線をずらすと、自分たちを凝視する人々の姿が目に入ってくる。晴子は顔が急激に熱くなるのを感じた。


「とりあえず、立とうか。この状態じゃ落ち着かないし」


 先に口を開いたのは青年であった。晴子は困ったよな笑みを浮かべながら言う青年に頷きで返した。

 自然に差し出された手を借り、立ち上がろうと足に力を入れる。が、しかし。


「やだ。もう、私ったら……ご、ごめんなさい」

「大丈夫か。もしかしてどこか痛めたかな。俺何も考えないであんたのほうに突っ込んだから」


 立ち上がれないのだ。何度か力を込めて踏ん張るのだが、なかなか上手くいかない。それを見た青年は、少々粗雑な口調とは裏腹に目に心配の色が浮かべて晴子を見ている。


「いえ。怪我とかそういうことじゃなくて」


 その後も幾度も試みるが、晴子はすぐにその場にへたり込んでしまう。怪我でなければどうしたというのだ、という風に青年が不思議そうに首をかしげる。焦れば焦るほど、立ち上がるどころか恥ずかしさで体温が上昇していく。

 結局、晴子は断念した。


「とっても情けない話なんですけど。……腰が抜けちゃったみたいで」


 恥ずかしさを(こら)えつつ、晴子はおずおずと青年を見上げる。腰が抜けたなどと言えば、この飄々とした男は必ず自分のことを笑うだろう。晴子はそう思いながら青年の反応を待った。

 一瞬の間。


「ぷっ」


 案の定、青年は笑った。か弱い乙女――ここではあえてそう言っておく――が腰もたたないくらい怯えてしまっているというのに、なんとも心ない態度である。晴子としては、ここは慰めの一言でもほしいところだ。


「笑わないでくださいよ。私は真剣なんです」

「ごめんごめん。つい」


 そっぽを向く晴子に青年は笑いを堪えながら頭を下げた。それを横目に見て笑いがこみあげてきた晴子は、ごまかすように青年をにらんだ。

 が、一旦こみあげた笑いを抑えることは、晴子にとって不可能なことであった。


「失礼ですよ。女の子に向かって」

 

 青年に文句を言おうにも声が震えてしまい、説得力のかけらもない。勿論晴子自身本当に怒っているわけではない。むしろ、こうして緊張を和らげてくれる青年に感謝をしているほどである。突然のハプニングが招いた状況とはいえ、出合ったばかりであるというのに、晴子は不思議と青年に心を許してしまっていた。

 抑えられない笑いはしだいに増していき、二人は共に肩を震わせていた。

 一頻(ひとしき)り笑った後、落ち着きを取り戻した二人はだんだんと近づいてくる救急車のサイレンの音に気が付き顔を見合わせた。それと同時に周囲の喧騒も耳に入ってくる。


「不謹慎ですよね。こんな状況で……。助かったから笑っていられるけれど」

「そうかもしれないな。いや、でも助かったことは喜んでいいと思うよ、俺は。じゃないと助けたこっちとしては、ちょっと困る」

「あの、本当にありがとうございました。こんな言葉くらいじゃ言い切れないくらいで、どうお礼をしたらいいのか」

「いいよ。あの時は何にも考えてなくて、咄嗟に体が動いただけだから。そんなに頭下げられると、居心地が悪くて。礼なんていいから、ほら。今度こそ立てるか」


 晴子はこくりと一つ頷くと、青年に支えられながら立ちあがった。今度は難なく体が動いたことに安堵(あんど)する。

 服の汚れを払い落しながら周囲の様子をうかがう。何人か負傷者が出ているようで、駆けつけた救急隊員が応急処置にあたっていた。青年に助けられなかったら、自分自身もどうなっていたかわからない。晴子はその光景を想像し、一瞬寒さを覚え身震いした。

 

「それじゃあ、俺はもう行くから」


 よそ見をしてた晴子は、突然の青年の言葉にはっとする。見ると青年は立ち去ろうと身をひるがえし、こちらに背を向けている。


「え……」


 いくら通りすがりだったとはいっても、それは急すぎはしないだろうか。仮にも命の恩人である青年に、晴子は礼を述べただけでなにもしていない。助けられておいて頭を下げるだけでは、青年がいくら良いといえども晴子にとってそれは許すまじきことである。それでは晴子がとても薄情な人間にうつってしまうではないか。

 そもそも晴子は大事なことを聞いていない。


「待って」


 晴子は立ち去ろうとする青年の服の裾を(つか)んだ。青年はまだ何か用か、とでも言いたげな怪訝な顔で晴子を振り返った。


「あの、名前。名前と連絡先教えてください。今度何かお礼をしますから」


 そう。晴子は助けてもらった青年の名前も知らなかったのである。晴子自身も名乗っていないのだが、そんなことは彼女の頭の中にはなかった。


「…………」


 晴子の問いに、青年は黙り込んでしまった。それどころか、それまでの優しげな笑顔が消え失せ目が宙を泳いでいる。何か名前を聞いてはいけないわけでもあるのだろうか。否、悪事を働いたわけでもないのに、名乗れない理由などあるものか。

 晴子は、掴んだ服をもう一度引っ張ることで青年に答えを促した。


「……ごめん。俺急いでるから。それに名乗るほど者じゃないからさ」

「いえ。教えてください。名乗るほどの方なのかどうかは、助けていただいた私が決めることです。だから、ね」


 人助けをしておいて、名乗るほどの者でもないと言って立ち去ろうとは、いつの時代の善人なのか。このままでは納得がいかない。むきになっている自分には気が付いてはいたが、晴子は食い下がった。


「いや、だから。えっと」


 しかし、青年も頑なであった。歯切れの悪い口ぶりで一向に名乗ろうとはしない。

 そのまま少しの間、無言の駆け引きが行われた。お互い譲らずに、沈黙が流れる。

 何故、名乗ろうとしないのか――。晴子は助けられた側であるにもかかわらず、苛立ちを覚え始めていた。

 が、その沈黙は第三者の介入によって強制的に破られることとなる。


「こっちこっち、この子たちよ。間一髪逃げたられたように見えたけど、やっぱり怪我してるんじゃないかしら。何て言ったって、すごい勢いで突っ込んできたんだから、あの車。だから見てやってよ」


 どこからともなく女性の声が近づいてきた。と思った瞬間、晴子は空いたほうの腕を後ろから掴まれた。突然のことに驚き振り返り見ると、そこにいたのは買い物袋を片手に持った50代半ばを思わせる女性だった。勿論晴子に面識はない。おそらく事故現場に居合わせ、一部始終を目撃していた人物の一人なのだろう。

 そして次の瞬間には、晴子は女性に気を取られてしまったことを後悔すると共に、その女性を少々うらむこととなる。

 

「おばちゃん、この子怪我してるみたいだから見てもらって。俺は平気だからさ」

「あら、それは大変だわ。ちょっと隊員さん、早く来てちょうだい」

「え。私、たいして怪我なんて……。あ、ちょっと」


 気を散らしたすきに、晴子の手は青年の服から勢いよく離されてしまった。それと共に駆けだす青年。手を伸ばすも(むな)しく、晴子の手は青年を捉えることなく空を切った。青年の言葉を借りれば“おばちゃん”に取り押さえられてしまっていたためである。心配して駆け付けてくれただけに、女性を払いのけることもできずに、晴子は青年の背中に向かって声をあげた。


「だから、名前」

「ごめん。それだけは聞かないでおいて」


 青年は一度だけ振り返り、困惑の色の残った笑顔でそう言い捨てると、雑踏にまぎれ見えなくなってしまった。それと丁度入れ替わりに人垣をかき分け、救急隊員がやってくるのが見えた。


「どうして教えてくれないのよ。……もう」


 晴子は青年の消えた方向を見つめ、うなだれた。

 結局名前を聞くことはかなわなかった。本人が名乗らないと言っているとはいえ、助けられた側の晴子としては納得がいかない。釈然としないのである。いくら青年が親切を押し付けようとしているわけではなくとも、あそこまで意固地になってまで素性を隠す必要があるだろうか。それとも、何か名乗れないような事情があるとでもいうのか。

 色々と思考を巡らせていると、

 

「この子よ、この子」

 

 耳元の甲高い声。それによって晴子は我に返り女性の存在を思いだした。

 今も晴子の腕はがっしりと掴まれている。どう頑張っても離れそうにない。恐るべきパワーである。これでは晴子が悪事を働き取り押さえられているように見えなくもない。状況が状況なだけに恐らくそうは見えないだろうが、目立っているのは確かである。

 晴子の気を知るわけもない女性は、手に持った買い物袋を高らかに頭上へ(かか)げ、親切心いっぱいで救急隊員を呼び寄せる。この行為によってさらに注目を集めてしまった。救急車や警察の到着により場が収束に向かっているとはいえ、野次馬はまだ相当数いる。幾人もの目が一斉にこちらへ向くのを感じ、晴子は下を向いて顔を隠した。





 その後、野次馬の目にさらされる中、晴子は救急車で病院へと運ばれた。

 病院へ到着するとすぐに、血相を変えた両親が病室へ飛び込んできた。診断結果は軽い打撲と擦り傷。腰に湿布、両肘と左太股あたりにガーゼを当てられるだけで治療は終了。傍から見れば痛々しい姿だが、一歩間違えればそれでは済まなかったことを考えると晴子にとっては何ということもない。一応一通りの検査を終え、問題なしと医師に言い渡された晴子は両親とともに帰宅の途に就いた。


「もう、びっりしたんだから。急に病院から連絡が来るんだもの。お宅の娘さんが事故にあいましたって。母さん心臓が縮んだわ。ねえ、お父さん」

「ああ」


 自宅に戻り、リビングのソファになだれ込むようにして体を投げ出した晴子は、母の小言をしばらくの間聞くこととなった。無口な父は終始それに頷くだけである。事故に巻き込まれたというのに説教とは少々理不尽な気もしたが、晴子はそんな両親を見てやっと安心し、生きていることを実感した。

 母の声をいつものように聞き流しながら、晴子はソファに突っ伏したまま片手でテレビのリモコンを手にした。画面に明かりがともると、夕方のニュース番組が映し出される。男性キャスターが固い顔で、今日の出来事を淡々と読み上げている。


「……あ」


 チャンネルを変えてしまおうとしたところで、晴子はふと手を止め画面に見入った。


「あら、今日の事故じゃないの」


 そう。画面にはつい先ほどまで晴子がいた交差点が映し出されていたのである。タイヤ痕のくっきりと付いた道路。そこに散乱するガラス片や血痕。そして、少し離れた所に建つコンビニは入口が分からないくらいに破壊されている。さすがに事故を起こした車両は片づけられたようだが、その痕跡を見るだけでも事故の大きさが十分に伝わってくる。

 あの場所に自分はいたのだ、と晴子はしみじみと思う。今になって事故で負った傷がズキズキと鈍く痛むような気がした。同時にあの状況で奇跡的にも助かったという事実を実感するのであった。

 そして、その奇跡を作ったのは晴子自身ではない。あの名の知れない青年である。

 どこか掴みどころのない飄々とした青年。あの人がいなかったら、今こうしてソファに身を預けテレビを眺める晴子も存在しないのだ。それを思うと、あの青年に何も礼をできない自身が呪わしい。あの時何としてでも名前くらいは聞いておくべきだった。生きているという喜ばしい現実と共に、それだけは後悔として晴子をやるせない気持ちにする。

 晴子は凄惨な事故現場を写すテレビ画面を他のチャンネルに合わせリモコンを置くと、ため息を一つ落としてソファクッションに顔をうずめた。安心したからだろうか。目をとじると眠気がどっと押し寄せてきた。晴子はそのままの体勢のまま、いつしか眠りに就いていた。いつもは自室で寝ろと口うるさい母も今日ばかりはソファで眠る娘を(とが)めることはしなかった。


――もう、彼に会うことは叶わないのだろうか。もし会うことができれば、その時は名前を聞こう。それができなかったとしても、せめてこれだけは言いたい。何度言っても言い足りない。彼の顔を思い出すと、無条件に浮かぶこの言葉。


 もう一度、相手の目を見て心をこめて、「ありがとう」と。


 しかし、青年との再会はことのほかすぐに果されることとなる。

 晴子は事故の瞬間から、すでに青年の存在に(とら)われていたのかもしれない。

 

 と、まあ出だしは少々ありがちな感じになってしまいました。これからどんどん青年の正体に迫っていきたいと思います。

 初投稿なので投稿ボタンを押すのがドキドキでした。それにしても、何日もかかってやっとこれだけ……。先が思いやられる遅筆っぷりですが、多くの方に読んでいただけると嬉しいです。


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