アイシェのありふれた一日
いちゃいちゃ注意。山も谷もありません。
その朝、アイシェは珍しく寝坊した。
「むあー」
いつもより明るい室内に時刻を悟って肩を落とす。しばし反省して、けれど疲れていたのだからしかたがないと思い直し、小さな身体をぴょんと寝台から飛び出させた。
ぽてぽて歩いて寝室を出ようとしたそのとき、足元に光るものに気づき、つぶらな瞳をさらにまんまるく見開いた。
「たいへん、届けなきゃ」
身支度を手早く済ませ、家を出る。
「あらアイシェちゃん、おはよう。お出かけ?」
「おはようございます、お隣りの奥さん。はい、ちょっと都まで」
「おやアイシェちゃん、お使いかい? 気をつけるんだよ」
「ありがとうございます、裏のおじいさん。気をつけます」
「わんわんわん」
「おはようございます、お向かいのお家の番犬さん。ええ、よい天気ですね」
この小さな町は住民すべてが顔見知りだ。しかも基本的にみな仲がよい。中でもアイシェはちょっとした有名人なので、あちこちで声がかかる。
「……不用心じゃないか? あんな小さな女の子をひとりで町の外へ行かせるなんて」
アイシェが町を出たころ、通りすがりの若者が気遣わしげに呟いた。
「兄さん、旅の人かい。あの子は見た目よりしっかりしているからね、平気だよ。行き先は目と鼻の先、王都だろうから道中の危険もまずない。なんといっても王下騎士団のお膝元さ」
「しかし」
「そのうえアイシェの家にはお偉い騎士さまがいる。あの子を害そうなんて命知らず、まずいやしないよ」
「騎士の家の生まれか! それは確かに心配無用やもしれないな。勇猛にして最強と言われる、王直属の高貴なる騎士どのの身内を狙う不届き者が、国内にいるとも思えない」
「いや、ちょっと違うんだけどね」
王下騎士団の第一隊舎は王宮の程近くにものものしく建っている。アイシェの用向きはここにあった。
「お嬢さん、何かご用かしら?」
建物内に入ったところで女性に話し掛けられた。制服からして事務官だろう。
少し考えて、アイシェは答えた。
「副隊長のグリーグさんはおいででしょうか? アミカが来たと伝えていただけると助かるのですが……できれば、こっそり」
「グリーグさんね。わかったわ、小さなお客さま。こっそり呼びに行かせるから、しばらくそこに掛けてお待ちくださいな」
言われたとおり、壁ぎわの長椅子にちょこんと腰を下ろした。すると数人の事務官が茶やら菓子やらを持って寄ってくる。暇なのか。
甘いものが苦手な彼女は、菓子は遠ざけられても糖度過多なミルクティーをどうしたものか思案にくれる。普段はもっぱらブラックコーヒー派なのだった。
「ねえねえ、副隊長さんの妹さんか何かなの? 似ていないけど」
「まさか恋人ってことはないわよね。あの方の守備範囲がいくら広くても、さすがに犯罪だわ」
「いや、わからないよ。これだけの美少女だ。愛の前に歳の差なんてなんの支障にもならないとか、おっしゃっていそうじゃないか」
「きゃー、言いそう! いけない香り! 犯罪者! 逮捕されちゃえばいい!」
ちっとも本気ではない様子で彼らは盛り上がった。完全におもしろがられている。娯楽の少ない第一隊における目下の楽しみは所属騎士の噂話らしい、とアイシェは心に書き留めた。
「どうして、こっそりでないといけないのか、聞いても構わないかい?」
「教えて教えて。秘密の関係だから?」
きらきら好奇に光る複数対の眼を前に、アイシェはいらぬ詮索に巻き込んでしまった知人へ心中で詫びた。
「……いえ、あの、お仕事の邪魔をしてしまって申し訳ないので、せめて他の騎士さまのお耳に入らないようにと思いまして」
「ああ、それは賢明だったわ!」
事務官らは大いに頷いた。
「ウォーカー隊長にばれたら、きっと大変だもの」
「魔王降臨だ」
「怖いことを言わないでよ、想像だけで寒気が走るでしょうが」
「……え?」
アイシェの頬が引き攣る。
「ああごめんなさい、怖がらせてしまったわよね」
「怖い人なんですか」
「そうね、お嬢さんみたいな可憐な子は見るだけで卒倒しかねないわ」
「あの方を前にして萎縮せずにいられるのは副隊長や団長くらいじゃないかな」
「陛下でさえ正視するのに勇気がいるとおっしゃったそうよ」
「つい先日も、表通りですれ違っただけの幼児に泣き叫ばれていたのよね」
次々に告げられる言葉にアイシェは絶句した。それを怯えと見た彼らは慌てて笑顔を取り繕った。
「大丈夫だよ。敵にはすさまじく容赦ないし部下には恐ろしく厳しいけど、無辜の民に危害を加えたりする方じゃない、たぶん」
そのとき、奥のほうから現れた男性がアイシェを見て息をのんだ。
「ア……ミカ!」
グリーグ副隊長だった。
「あっ、こんにちは、グリーグさん。お忙しいところ、すみません」
「いや、それは構わないけれど……どうしたんだい」
現在この都にはいないはずの女友達の名前を使ってまで自分を呼び出した人物を、グリーグは驚きとともに見つめる。
「実はですね、これを届けていただきたくて。今日はこれが必要な日だったと思うんですよ」
アイシェは彼に小さなバッジを手渡した。騎士団に所属する騎士が必ず立ち襟部分に付けておかねばならないことになっている、隊員バッジだ。
「ああ、うん。了解したよ。でもなんで、俺?」
「グリーグさんならお顔が広いから、わたしが訪ねても不自然でないかな、と」
合点がゆかない風のグリーグに説明をしているまさにそのときだった。
「あらたいへん! 隠れて! 伏せて!」
アイシェは事務官の女性によっていきなり長椅子の背もたれの裏へと追いやられた。目を白黒させつつも、その有無を言わせない鬼気迫る様子につい従っていた。
まもなく、グリーグが現れたのと同じ方向から小さなざわめきが伝播してきた。緊張感が広がる。
「お、お疲れさまです、隊長!」
次々に騎士や事務官が敬礼する。無論アイシェには見えていないが、騎士団第一隊隊長ヒュー・ウォーカーの登場だった。
「ウォーカー、出かけるのかい」
「いや……」
不思議に思ったグリーグが声を掛けると、彼は一旦足を止め、事務官が数名固まっている長椅子のほうへ顔を向けた。幼い少女の心に傷をつくるまいと必死の事務官らは、鋭い眼光に身震いしながらも気を確かに持とうと努めた。
その場の衆目を一心に集める男が、再び歩き出す。向かう先には長椅子があった。
「あわわ」
「た、隊長。そこには何もありませんよ」
善意溢れる説得むなしく、彼らの上司はあっさり長椅子の裏を覗き込んだ。するとそこにうずくまっていたアイシェの気まずそうな顔が、彼を見返した。
「あ、あのですね隊長これは」
青ざめる周囲をよそに彼は彼女を、こともなげに荷物のごとく持ち上げた。
「わお」
と呟いたきりされるがままのアイシェを、椅子に座らせるでもなく腕に抱えている。
「どうした、アイシェ」
事務官らの予想に反してアイシェは怯えも泣きもしていない。恐怖の魔王の視線を至近距離で浴び、剰え問いかけられているというのに、微塵も動じていなかった。
「お届けものが、ありまして」
アイシェの手の示す先には副隊長がいる。グリーグは呆れたように笑った。
「つくづくアイシェちゃんに関してはすごい嗅覚だよね……はいこれ。確かに渡したよ」
「なるほど。どこにあった?」
「鏡台の傍にね、落ちていたの」
手の空いていない男の襟にバッジを取り付けてやりながら、アイシェは答えた。
「助かった。わざわざ悪かったな」
「どういたしまして」
先ほどまでと異なる意味合いで顔を青くした事務官らのひとりが恐る恐る口を開いた。
「……お知り合いでいらっしゃるのですか?」
「妻だ」
空気が凍りつくという現象を、アイシェはこの日初めて目の当たりにした。とてつもなく決まりが悪い。
「――初めまして。アイシェ・ウォーカーと申します」
アイシェは地にめり込みそうな勢いで猛省していた。
「あああ……こんなことなら最初から名乗っておけばよかった……神聖な職場を混乱の渦に陥れて、本当に本当にごめんなさい」
帰宅したヒューがまず目にしたのは、玄関先で平伏する妻の姿だった。なかなか頭を上げようとしない彼女を抱き上げてリビングのソファへ移動すると、今度は彼の膝の上で懺悔が始まった。
「そもそもなぜグリーグを呼んだ。バッジならば俺に直接届けてくれればいいだろう」
ヒューは責めているわけではない。詰問のような口調も無表情も、元々のものだ。アイシェもそれを承知している。
「ヒュー。わたしは、自分の外見年齢を自覚しているのですよ」
「それがどうかしたのか」
この夫は鋭い分野と鈍い分野の落差が激しい。
「どうかするよ! どう考えても、ヒューは幼女趣味の汚名を着せられるよ!」
「アイシェは幼女ではないから問題ない」
「えええ? そうなの? 問題ないの?」
ならいいか、と納得しかけて思い止まる。
「ずいぶんな恐怖政治を敷いている、みたいだったけど。威厳とか傷つかない?」
「勝手に連中が恐れているに過ぎない。何を言われようとどう思われようと、これまで通り、従わせるべき者は従わせるしねじ伏せるべき者はねじ伏せる。それだけの話だ」
「……ステキネ、ダーリン」
誰だ。この男をこんな独裁者にしたのは。
「それはともかく、今日は助かった。その後団長らとの打ち合わせがあったから、ねちねち言われるところだった。ありがとう」
後頭部を撫でながら夫が告げた感謝の言葉に、妻は目を剥いた。
「ヒューにお礼なんて初めて言われた!」
「そうか?」
「そうだよ、ヒューはありがとうとごめんねを言わない主義の人かと思っていたもの。悪かったと助かったが限界じゃなかったのね。あ、もうひとつあったね。『責任は取る』ってやつ」
久しぶりにヒューの鉄面皮に動揺が走る。その言葉は彼の急所のひとつなのだった。
「うーん懐かしい。あのときは絞め殺そうかと思った」
「……悪かった」
消沈する大男が気の毒になり、アイシェは彼の首に両手を回して向き合った。腿の上に横座りしている体勢なので少々苦しい。
「わたしもごめんね、いたずらにつついちゃった。あのときのヒューはあれだよね、とっくにわたしが結婚できる年齢だってことをようやく知って、ちょっと暴走しちゃっただけなんだよね。って、ああ違う、ますますいじめたいわけじゃなくて」
彼を抱きしめる力を強くする。
「わかった。ヒューが問題ないというなら、わたしも気にしないよ。ヒューの妻ですって、堂々と名乗ることにする」
宣言したところで、唇を彼のそれでふさがれた。どんどん盛り上がっていく口付けに、溺れる人に似た必死さでアイシェはヒューの服をぎゅっとつかむ。そこではたと思い出すことがあった。
「これだよ」
彼女の様子を訝しんでわずかに顔を離したヒューに、赤い顔で教える。
「昨日も、部屋でこんな感じでヒューの襟を引っ張ったせいで、バッジが取れて飛んでいっちゃったみたい」
「なるほど」
ヒューの行動は早かった。素早く上着を脱いでソファの背もたれにかける。
「これで憂いはないな」
「あっ、そんなところに放置していたら皺になるよ」
「気にするな」
「えええ? 気にしなくていいの? まあヒューがいいならいいのか……って本当に?」
そのころ騎士団第一隊副隊長は、王都の一画にある居酒屋で部下の質問責めに遭っていた。
「いや、だから、違うってば。ウォーカーがそういう特殊な趣味の持ち主というわけじゃないよ」
「嘘ですよ、どう見たって犯罪です!」
「ああ見えてアイシェちゃんはとっくに成人しているし、中身はどちらかといえば老成していてたまに熟年男みたいな言動をするし。そもそもウォーカーはアイシェちゃんの姿を見る前に恋に落ちたんだから、幼女に興奮する変態だなんて、とんでもない濡れ衣だよ」
「えっ、どういうことですか」
グリーグはにやりと口元をゆるめた。
「君ら、七年前のトゥルナゴル事件って覚えている?」
潤沢な地下資源を誇るチュレー地方の領主だったトゥルナゴルが、違法を承知で密かに麻薬植物を栽培し、鉱物の輸出に紛れて売買を行っていたことが判明した一件だ。かなり大がかりな捜査と捕り物が実施されたため、七年を経ても多くの人の記憶に残っている。
「そりゃ覚えていますよ。トゥルナゴル卿の逮捕劇、当時はだいぶ騒がれましたよね」
「アイシェちゃんは大きな商家の娘さんで、当時トゥルナゴルの屋敷に出入りしていた商人のひとりだったんだ」
「あの子の七年前なんて、まだ言葉もおぼつかないころじゃないですか」
「気持ちはわかるけどさ、彼女は君より年上だよ」
部下の浅からぬ衝撃はわきに置いて、グリーグは話を進めることにした。
「かの屋敷に通ううち、彼女はいくつかの不審な点に気づいた。それは特に資金の動きに顕著だった。アイシェちゃんはたいそう優秀な財務能力を持っていたから、トゥルナゴル卿の家臣に気に入られて、屋敷内の勘定の手伝いもしていたらしい。だから見抜けたとはいえ、まあよくもあんな小さな綻びから麻薬取引なんていう大犯罪まで暴き出せたものだとあとで思ったよ」
「彼女があの事件の最初の発見者だったんですか!?」
話を聞いていた者すべてが仰天し、その場が騒然とする。
「うん、そう。でも彼女の立場ではそうそう動けないだろう、相手は貴族だし。そのうえ外見がほら……あれだろう? 当時も目を見張るほどの美少女だったけど、今よりさらに幼く見えた。どこに訴え出ても子どもの世迷い言と相手にされないだろうし、その間にトゥルナゴル卿に存在ごと隠滅させられかねないと危惧して、彼女は手紙を書いたんだ」
「どこにですか」
「国に。宛先は騎士団の団長だったけどね。一般人の彼女が個人として文書を送ることのできる最高位の要人だったんだろう」
「それって、うまくいくんですか?」
「どうだろうね。少なくともそのときはうまく団長の手元に届いたよ。アイシェちゃんが知っていたのか確認したことはないけど、一見ファンレターみたいだったから、女の子大好きな団長は、しっかり目を通す気になったわけだ。そして調査を命じられたのがウォーカー」
「お、つながってきましたね」
「何度か手紙をやりとりしていたみたいだ。思えばそのころから、もうウォーカーは手紙の主に夢中だった気がする。あの言葉足らずの筆無精とは考えられないほど熱心に文を綴っていたし、無表情ながら返事を心待ちにしていたし」
グリーグは今でも鮮明に思い出せる。あのころ、かの友人はこの世の春を迎えたかと思うほど浮かれていた。顔や言葉に出ないぶん、行動は正直だった。はっきり言えば気色悪かった。無愛想で朴念仁の大男が初恋に浸るさまなど、見ていて楽しいはずもない。
「現地に足を運ぶことも多かったけど、彼女は姿を見せてくれなかったみたいだ。まあ、手紙と本人のギャップが激しすぎる自覚があったんだろうね。で、これは俺も参加したんだけど、ついに逮捕に踏み切る日がきた。そのときにちょっとした情報の行き違いがあって、危うく黒幕を取り逃がすところだったんだけど、見知らぬ美少女がそれを知らせてくれた」
「ドラマチックですねえ」
「というか騎士団、情けない失態ですね」
「まあそれはさておいてくれよ。で、ウォーカーはこのときトゥルナゴル卿の身柄拘束と同じかそれ以上の熱意で、手紙の君との対面を心待ちにしていたわけだけど」
「そこに、手紙の君とは結びつかない幼い美少女が現れたんですよね。どうなったんですか」
にわか聴衆はすっかり興奮している。
「一瞬で気づいた。恋に身を捧げた男の執念ってすごいよね。そこからは押せ押せだったよ」
「あの隊長が押せ押せ……想像もつきません」
「つかないほうがいいよ。あれは視覚の暴力だった。ついに友人が犯罪者になってしまったのだと、そりゃもう大いに嘆いたさ。ウォーカーもまさかアイシェちゃんが同い年とは見破れなくて、彼女が結婚可能な年齢に達するまでは求婚を待つとも言っていた」
「ちょっと待ってください今なんだかとんでもない単語が聞こえました」
「僕もですがたぶん聞き違いだと思います」
「じゃあもう一度強調しておこう。ウォーカーとアイシェちゃんとついでに俺は同い年」
「――は!?」
王都の夜はこうして更けてゆく。
「そういえばヒュー。よくも今朝、わたしを起こさず出かけたね」
「疲れていただろう」
「ヒューだって同じでしょう。それに、わたしはいつだって寝直せるんだから、ヒューが出かけるときは起きていたい」
「泣くな、アイシェに泣かれると弱い」
「泣かないよっ、こんなことで。ごめん、八つ当たりだわ。起きないわたしが悪いのにね」
「いや。時計の目覚まし機能を事前に止めたのは俺だ」
「そこに直れ」
おしまい