第百十話 俺を追放した王の孫が、教えを請いに来た
アルノーが持参したのは、祖父の名誉を回復してほしいという嘆願書ではなかった。
地方の堤防工事で使われる予算表だった。
「祖父の時代と同じです。数字の上では完成しているのに、現場では土が足りません」
シリウスは表を一瞥した。
「誰に確かめた」
「役所の担当官に」
「川辺で働く者には」
アルノーは答えられなかった。
翌日、二人は堤防を歩いた。
靴が泥に沈み、図面にはない小さな水路が見つかった。
「机で分かることは多い。だが、机だけでは分からないこともある」
アルノーは工夫して言い返した。
「では、あなたの教えも疑ってよいのですか」
シリウスは頷いた。
「疑ってほしい。そのために教える」
王の孫は、祖父を許してもらうためではなく、自分の判断で人を守る方法を学ぶために、再び訪れると約束した。
アルノーと名乗った少年は、シリウスを追放した王の孫だった。
少年は膝をついて教えを請うたが、シリウスは立たせた。
「祖父の罪でお前を裁くつもりはない。だが、血筋だけで弟子にもできない」
アルノーは唇を噛み、持参した古い勲章を机に置いた。
最初の課題は戦術図ではなかった。
国境の共同学校で、暖房用の薪が足りない理由を調べることだった。
アルノーは兵站の数字を揃えたが、薪を運ぶ老人が橋の段差で荷車を押せないことを見落とした。
シリウスは図面を返した。
「正しい数でも、人が運べなければ届かない」
最初の授業から一週間後、アルノーは学校の薪置き場で老人と口論になった。
荷車が橋を渡れない理由を尋ねたところ、老人は「王家の者に説明する義理はない」と背を向けたのだ。
アルノーは悔しさをこらえ、シリウスに訴えた。
「僕は何も悪いことをしていません」
「その通りだ。だから相手の怒りが間違っているとも限らない」
「どうすればいいんです」
「まず、何に怒っているのか聞け。答えてもらえなければ、無理に聞き出すな」
翌日、少年は勲章を外して橋へ行った。
老人は相変わらず口をきかなかったが、荷車の車輪を直す作業だけは見せてくれた。
段差に板を敷き、重い薪を二度に分けて運ぶ。
少年は手伝いを申し出た。
老人は「手袋が汚れるぞ」と言った。
「洗えばいいです」
夕方、アルノーの手には豆ができた。
老人は初めて笑った。
「王宮の手は、そんなに柔らかいのか」
「もう王宮には住んでいません」
「そうか」
短い会話だった。
だが、少年には初めて自分自身の言葉を聞いてもらえた気がした。
数日後、シリウスは新しい課題を出した。
村に残る戦争被害の記録を読み、支援が届いていない家を探すこと。
アルノーは名簿を追い、家々を訪ねた。
中には門を閉ざす者もいた。
祖父が出した命令で息子を失った女性は、少年を見るなり震えた。
「謝りに来たのかい。謝れば戻ると思うのかい」
「いいえ」
アルノーは答えた。
「僕には戻せません」
「なら、何をしに来た」
少年は手帳を閉じた。
「困っていることがあるか、聞きに来ました。でも、今は帰ります」
女性は何も言わなかった。
三日後、役場へ一通の手紙が届いた。
冬の薪が足りない家の一覧だった。
差出人の名前はなかった。
アルノーはその紙をシリウスに見せた。
「僕は、許されたんでしょうか」
「分からない。許すかどうかは相手が決める。ただ、助けを求める声は届いた」
少年は頷き、薪の配分表を書き直した。
祖父の名を消すことはできない。
だが、その名を盾にも言い訳にもせず、自分の手で今日の仕事をすることはできる。
冬の配給計画が完成した日、アルノーは祖父の勲章を机の引き出しにしまった。
捨てることも、胸につけることもできなかった。
シリウスは理由を聞かなかった。
少年は自分から言った。
「いつか、祖父の話をちゃんと書きたいです。悪いことも、良いことも」
シリウスは頷いた。
「都合の悪い事実を消さないなら、それは歴史になる」
少年は翌朝も薪置き場へ向かった。
橋の段差はまだ残っていたが、老人と一緒に直すための石が届いている。
アルノーは袖をまくった。
王冠を継ぐ者ではなく、壊れた場所を見つけて直す者になりたい。
その願いは、まだ小さく、しかし確かな形を持ち始めていた。
少年は翌日、泥に膝をついて橋の段差を測り直した。
村の子供たちは彼の姓を知らず、ただ「手伝ってくれる人」と呼んだ。
シリウスは遠くから見守った。
王家の名を取り戻す必要はない。
自分の手で誰かの明日を少し軽くできるなら、それが学ぶ理由になる。
アルノーが帰った後、シリウスは机に残された下書きを拾った。
そこには「祖父の罪を償うため」という言葉が何度も書かれ、すべて消されていた。
最後の一行だけが残っている。
「明日、村の井戸を見に行く」
シリウスは紙を折り、返事の手紙に挟んだ。
「償いを急ぐより、見たことを正確に書け」
翌月届いた報告には、井戸の深さと水量、そして調査を手伝った村人たちの名前が記されていた。
アルノーは祖父の名を出せば、村の人々が自分を拒むと思っていた。
実際、最初に訪ねた家では戸を閉められた。
シリウスは代わりに謝らなかった。
「お前自身の言葉で、何を調べに来たのか伝えろ」
三度目の訪問で、村人はようやく戸を少し開けた。
許されたのではない。
話を聞く機会を得ただけだった。
アルノーが最初に提出した報告書には、「村人は喜んだ」とだけあった。
シリウスは赤線を引いた。
「誰が、何に困っていて、何が変わったのか」
少年は村へ戻り、井戸の水を運ぶ女性たちに話を聞いた。
水量は増えたが、桶を下ろす縄が短く、老人には使いにくいという。
アルノーは翌日、縄の長さと滑車の位置を測り直した。
報告書の最後には「喜んだ者もいるが、まだ使えない者がいる」と書かれていた。
シリウスは初めて、その紙に丸をつけた。
アルノーが次の課題を求めると、シリウスは村で聞いた不満の記録を返した。
「改善案の前に、誰が困るかを確かめてこい」
少年は井戸の改修に反対した老人を訪ねた。
老人は新しい滑車が壊れたとき、修理できる者が村にいないと話した。
アルノーは職人を呼ぶ予算と、村人が自分で直せる構造を比較し、翌週もう一度報告した。
シリウスは正解を告げず、費用の見積もりに根拠があるかだけを尋ねた。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
アルノーは帳面を閉じた。
「祖父は、あなたを追放したことを後悔していたのでしょうか」
シリウスは窓の外を見た。
校庭では若い生徒たちが、失敗した橋の模型を囲んで言い争っている。
「後悔したかどうかは、本人にしか分からない。私が君に教えられるのは、後悔する前に何を確かめるかだ」
「僕は、祖父のしたことを償えますか」
「君が償うべきなのは、君自身の間違いだ。祖父の罪を背負う必要はない。ただ、同じ間違いを繰り返さない責任はある」
アルノーは返事をしなかった。
代わりに帳面を開き、次の調査で会うべき村人の名前を三人書き足した。
シリウスはその手元を見て、ようやく微笑んだ。




