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無能と罵られ追放された天才軍師、敵国で英雄になる ~追放した王国が、今さら停戦を求めて土下座してきても遅い~  作者: レモンティー


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第百五話 帝国最強の騎兵隊が、畑を踏み荒らした

畑には蹄の跡が幾重にも走り、若い麦が泥に埋もれていた。

帝国最強と呼ばれる騎兵隊の演習だった。

隊長は「命令どおり最短経路を取った」と胸を張ったが、農夫は折れた苗を一本ずつ起こしていた。

シリウスはその手から泥を拭う布を受け取った。

演習地図には畑の境界が古いまま残っていた。

被害を受けた農夫は金額だけでなく、来年の種麦を求めた。

賠償金が支払われても、播く種がなければ畑は戻らない。

騎兵隊長は初めて、損害を帳簿の額だけで測れないと知った。

軍の地図係は更新を怠り、隊長は村の代表への確認を省いた。

責任は一人ではなかった。

シリウスは損害の調査を農家自身に委ね、苗の再購入費だけでなく、収穫が遅れる間の生活費も算定させた。

補償の話し合いが始まると、農家の間でも意見が割れた。

現金をすぐ受け取りたい家もあれば、来年の種麦を保証してほしい家もある。

畑を貸している地主は地代の減収を訴えたが、実際に耕す小作人の損害はその書類に含まれていなかった。

「帳簿に名前がない者は、畑にいなかったことになるのか」

シリウスは問いかけた。

調査官は返事に詰まった。

シリウスは村の広場で、地主と耕作者を分けて聞き取りを行わせた。

作付け面積だけでなく、苗を植えた日、家族が費やした労働、代わりの仕事を探す間の費用まで記録する。

騎兵隊長は憤然とした。

「そんなことをしていたら、軍の訓練が遅れます」

「遅らせたのは畑を踏んだ者だ。訓練を受ける権利と、他人の生活を壊す権利を混同するな」

ガイルは隊長に軍靴を脱がせ、泥の残る畑へ連れていった。

「ここを歩け。馬なら一息で越えられるだろうが、人間の足ではどうだ」

隊長は足を取られ、膝まで泥に沈んだ。

農夫は黙って手を差し出した。

隊長はためらってから、その手を取った。

「この畑は三年かけて土を戻したんだ」と農夫は言った。

「去年は水が足りず、その前は虫が出た。やっと穂が揃ったところだった」

隊長は初めて地面を見た。

地図に描かれた平坦な緑色の一画が、誰かの三年だった。

補償金の支払いは軍の予算から行い、隊長個人の処罰は軍法会議で決めることになった。

兵士たちの農作業は賠償の代わりではなく、土を戻すための協力として位置づけた。

農家が望まなければ、畑に入ることも許されない。

最初に拒んだ農婦は、三日後に自分から兵を呼んだ。

「水路だけ直して。苗には触らないで」

隊長は命令を待たずに頷いた。

今度は、相手が決めた境界を越えなかった。

軍法会議では、隊長が「地図が古かった」と弁明した。

裁判官は、更新を怠った地図係の責任も認めたうえで尋ねた。

「現地で畑を見た時、なぜ止まらなかった」

隊長は長く沈黙し、「予定の時刻に遅れたくなかった」と答えた。

彼は指揮権を一時停止され、村での復旧作業に協力することになった。

処分の告知を見た農夫は、拍手もしなかった。

「罰を受けたから麦が生えるわけじゃない」

その言葉はシリウスの胸に残った。

処罰と補償は別々に必要で、どちらかだけでは失った収穫を取り戻せない。

秋、隊長は刈り入れを手伝う許可を得て、初めて自分の汗で麦束を一つ結んだ。

騎兵たちは翌朝、馬ではなく鍬を持って現れた。

農夫はすぐには笑わなかった。

「植え直せば元に戻ると思うな。土が締まったら来年も減る」

隊長は返す言葉を失った。

演習計画には耕作地の立入禁止と村側の拒否権が書き加えられた。

軍の強さは、味方の暮らしを踏み潰す権利ではない。

麦畑に残された蹄の跡は、遠くから見ると黒い川のようだった。

昨日まで青かった若い穂が、泥の中で折れている。

「敵を追う訓練だった」

騎兵隊長は説明した。

「村を避ければ予定時刻に間に合わなかった」

畑の持ち主は、黙って折れた麦を拾っていた。

去年の冬、彼女の家は飢えをしのぐために種麦まで食べかけた。

ようやく今年の収穫を迎えられると思っていた。

ガイルは隊長の肩章を見た。

「帝国最強を名乗るなら、畑の一本ぐらい避けて走れ」

隊長は反発した。

「戦場ではそんな余裕はありません」

補償の交渉がまとまる前、隊長は部下の一人から「命令通りに走っただけなのに」と不満をぶつけられた。

隊長は泥の付いた軍靴を見つめ、「だから責任は私が取る」と答えた。

兵士に私費で償わせるのではなく、軍の会計から補償を出し、命令を出した者の記録を残す。

シリウスはその処理を見届けた後、農婦に「畑が元に戻るまで、来月も様子を見に来ます」と伝えた。

「お金だけ払って終わりにしないでね」と農婦は言った。

隊長は返事をする代わりに、雨で崩れた畝へ自分の手で土を戻し始めた。

「ここは戦場ではない」とシリウスが言った。

その一言で場が静まった。

兵士たちにとって、命令に従い速く動くことは誇りだった。

だが戦争が終わった土地で、その誇りが人を傷つけるなら、誇りの使い方を変えなければならない。

補償の後、隊長は訓練計画の最初の頁を改めた。

進路図の上に、農繁期の予定が赤で書き込まれている。

副官は「敵は収穫を待ってくれません」と抗議した。

「だからこそ、平時に道を探す」と隊長は答えた。

農婦から預かった麦束は乾燥させ、作戦室の棚に置いた。

誰かの暮らしを踏まずに速く動ける軍であることが、次の訓練の課題になった。

その後、騎兵隊の訓練規則には、農地と水路の位置を事前に確認する項目が加わった。

隊長は新兵に地図を渡し、まず農夫の家を訪ねさせた。

「敵の陣地を探す前に、踏んではいけない畑を覚えろ」

新兵たちは戸惑ったが、畑の端に立つ小さな石標が、水路の分岐を示すことを知った。

シリウスは村人に被害の見積もりを頼んだ。

役人は踏み荒らされた面積に昨年の平均収穫量を掛けたが、農婦は首を振った。

「去年は干ばつでした。今年はもっと採れるはずだったんです」

「なら、土と種の状態も調べよう」

農学者を呼ぶと、根の残った麦は一部回復する可能性があると分かった。

しかし水路の泥を除かなければ、畑の下側が腐ってしまう。

隊長は補償金の支払いを申し出たが、農婦は収穫までの作業を誰が担うのかと問い返した。

シリウスはそれを認めなかった。

「金は必要だ。だが、失った時間まで買えるわけじゃない」


翌朝、騎兵隊は鎧を脱ぎ、水路の泥をさらった。

兵士の一人は鍬の持ち方も知らず、村の少年に笑われた。

怒りかけた兵士に、ガイルが鍬を渡す。

「馬の手綱より難しいだろう。教わってこい」

少年は得意そうに柄の角度を直した。

三日後、隊長は訓練経路の改訂案を持ってきた。

農地と水源を避けるだけでなく、住民に事前通告する欄を設けていた。

シリウスは一か所に赤い印をつけた。

「雨の日の迂回路がない」

隊長は舌打ちしそうになり、こらえた。

「……もう一度調べます」

収穫の季節、農婦は約束した補償金を受け取り、回復した畑から最初の麦束を刈った。

隊長が頭を下げると、彼女は麦束を渡した。

「兵士さんたちも食べるでしょう。来年は踏まないでね」

隊長は受け取った麦束を、剣より慎重に抱えた。

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