【短編版】旦那様、この悪妻をわからせようなんて百年はや……そ、その反撃はずるいわよ!
だから、結婚なんてしたくなかったのだ。
夫であるアクシオ・ニーベルジュに抱きかかえられたヴィルエは気絶したふりをしながら、心の中で自らの人生を恨んだ。
結婚なんてしたくなかった。ヴィルエにはやることがあり、そのためには嫁がずにいた方が動きやすい。
この国の王――ガードレット王が結婚の提案なんてしなければ、こんなことにはならなかったのに。
***
ガードレット王国の貴族にとって、ヴィルエ・レインブルの名は脅威である。
彼女は国内のあらゆる出来事を掌握していると語られ、その力を借りるべくすり寄る貴族は少なくない。ヴィルエが手を貸せば、政治的相談から細かなトラブルまでどのような問題も解決すると言われている。公にできない不祥事をもみ消すことだって、簡単にやってのけてしまう。
しかし問題は――ヴィルエの気分次第であることだ。
ヴィルエが手を貸す条件は、善悪関係なく、彼女が興味を持つかどうかである。ヴィルエの機嫌を損ねたとされる貴族は没落し、隠し事を暴かれた者もいる。
彼女が興味を持つのであれば、どんな悪事であっても、強い味方となるのだ。
そのことから、ヴィルエは『夜宴の黒花』と呼ばれて恐れられている。
黒く長い髪にガーネットの瞳は闇に咲いた紅薔薇のようで、けれど近づく者に鋭い棘を突き刺す。
気高く、美しく、他人に恐れられる。
この世界にヒーローと悪役が存在するのであれば、ヴィルエは間違いなく悪役であろう。
そんなヴィルエがついに結婚をしたのである。
妹であるオルナと王太子セラティスの婚約発表時に、ガードレット王により提案されたのだ。
結婚相手はニーベルジュ領主であるアクシオ。
会ったことはなく、夜会でも名を聞いたことのない若き伯爵だ。
「……国王陛下より聞いている。お前がヴィルエ・レインブルだな」
顔合わせにて、アクシオは眉をひそめてヴィルエを睨み付けていた。
ヴィルエよりも背が高く、剣術を好んでいるのか体付きもがっちりとしたアクシオは、その長い足を組んで椅子に腰掛けている。
切れ長の瞳に整った鼻梁。涼やかな印象のある顔つきは、初心な令嬢たちの心を射止めそうだ。そのように綺麗な顔立ちをしているというのに、これまでに名を聞いたことはなく、ヴィルエは彼に関する情報をあまり持っていなかった。
もしかすると、アクシオは社交的ではなく、ずっと領地に籠もっていたのかもしれない。
(これが私の夫になる人ね……)
『夜宴の黒花』と呼ばれ、恐れられているような女を妻に迎えるというのだ。内心でアクシオを哀れんでいたのだが、彼の口から発した言葉によりその感情は霧散した。
「俺がお前を愛することはない」
こちらを疎んじているかのように睨みながら、アクシオは続ける。
「俺は妻というものを求めたことはない。だからお前が妻になったとしても、俺からは何も得られないと思ってくれ。俺はお前に興味がない」
「……なるほど。お飾りの結婚ということかしら」
「お前がこの婚姻に期待をしているようでは困るから、先に忠告をしたまでだ」
この縁談を勧めたのはガードレット王である。ヴィルエが断れなかったのと同じように、アクシオも断れなかったのだろう。
(まあ、驚きはないわね)
政略結婚によくある話だ。他の者が勝手に決めた結婚に愛が生じる確率は低い。
例えば、身分の違う好きな者がいるとか、愛人を囲っているとか。そういう貴族が少なくないことをヴィルエはよく知っている。
夫に愛されたいなんて夢を見てはいない。ヴィルエは彼の冷たい提案に対し、悠然と微笑んだ。
「構いませんわ。私も、この結婚に期待なんてしていませんもの」
お飾りの結婚で構わない。
その方がヴィルエにとっても楽である。
(私は、私のやるべきことをするだけ。旦那様が私に興味を持たない、干渉しないというのは好都合よ)
こうしてヴィルエはアクシオの妻となったのだが、宣言通りに愛されることはなく、結婚から一か月が経っても彼と顔を合わせることはない――
はずであった。
結婚から一か月経った今日。ヴィルエは一部の貴族が集まる夜会に参加していた。そうして夜遅くに屋敷に帰ったところで、不審な音が聞こえたのである。
ガラスの割れるような音。その物音が聞こえたのはアクシオの部屋であった。
伯爵邸に忍び込むような不届き者がいるのかもしれない。そう考えてアクシオの部屋に駆けつけたところ――そこにいたのは、血まみれの格好をし、外したばかりであろう仮面を手にしているアクシオの姿であった。
(あの仮面に書かれていたマーク……間違いない。話題になっている暗殺者『夜梟』のマークよ)
紅の月に梟。その模様は暗殺者『夜梟』の模様と語られている。彼によって殺された者のそばには、同じマークのコインが落ちている。彼は常に仮面をつけ、その仮面にも同様の模様があると噂されていた。
その噂が正しいのであれば――アクシオ・ニーベルジュの正体は暗殺者である。
アクシオは突如部屋に駆けつけてきたヴィルエと目を合わすなり、舌打ちをし、こちらを睨み付けた。
「余計なことをする女だ」
そう言って、腰に佩いた剣に手をかける。柄まで返り血を浴びたその剣を引き抜き、こちらに向けた。
(殺される)
暗殺者『夜梟』の正体がアクシオであると知ってしまった。そのため、口封じとしてヴィルエを殺そうとしているのだろう。
彼の目的はわかったが――ヴィルエは殺されるわけにはいかなかった。
(私には、やるべきことがある。ここで死にたくないわ)
そう考え、彼が斬りかかるよりも先に自ら倒れたのである。
気絶――侵入者と血を見て意識を失った、と説明すれば良いだろう。
実際にこの作戦は効いた。突然倒れたヴィルエに驚いたらしく、アクシオの動きが止まっている。
構えを解いたアクシオが、様子を確かめるべくこちらの顔を覗きこもうとし――そこで急いた足音がこちらに向かって来た。
「アクシオ様。先ほどの音は――」
やってきたのはアクシオの従者であるグレンだ。彼もヴィルエと同じように、ガラスの割れる音を聞いて駆けつけてきたのだろう。
「……どうしてここに奥様が。これはどういう状況で?」
部屋に倒れているヴィルエと、剣を手にしたアクシオ。割れたガラス。困惑したグレンが問いかけたようだ。アクシオはため息をついてから答えている。
「俺が戻ってきたら、こいつが部屋に入ってきた」
「あんな風に物音を立てるからですよ。素直に玄関から入ればよかったのに」
「ヴィルエの馬車が止まっていただろ。この姿で会うわけにはいかない。だから窓から入ろうとしただけだ」
「だからってガラスを割ることはないでしょうに……それで、奥様に正体を見られてしまったんですね?」
二人のやりとりから、アクシオが『夜梟』であるとグレンは知っていたようだ。気絶したふりを続けながら、ヴィルエは二人の会話を聞き逃すまいと耳をすませる。
「知られてしまった以上、こいつは殺すしかない」
目を瞑っているため見ることはできないが、おそらくアクシオは剣を振り上げているのだろう。切っ先はヴィルエに向けられているのかもしれない。
だがすぐにグレンの声が遮った。
「ああ、もう! これだからアクシオ様は! 冷静になってください。相手は奥様ですからね。何かあれば面倒なことになりますよ」
「だがこのままにしておけないだろ。口封じをしても、約束を守らずに俺の秘密をばらすかもしれない」
そこでヴィルエの体が何者かに動かされた。声の大きさからしてグレンが近くにいるようだ。ヴィルエの体を仰向けにし、確認しているのだろう。
「奥様は気絶しているようですね」
「突然倒れたんだ。俺は何もしていない。でも、口封じをするなら今がチャンスだ」
「奥様は『夜梟』のことも、この仮面が持つ意味も知らないかもしれませんよ。目覚めた後に奥様と話して、正体を知ったのかどうか探ってからの判断でも良いのでは?」
「話すって……俺が、この女と?」
そこで会話に、少しの間が空いた。続いてアクシオが呆れたように乾いた笑いをこぼす。
「はっ、どうして俺がこいつと話さなきゃいけない」
「いつも言ってるじゃないですか。拒絶せず、もう少し奥様と話すべきだと。顔あわせの時からそうですよ。あんな態度を取らなくたっていいのに」
「そんな余裕はない」
苛立つようなアクシオの声が聞こえた。だが、その声量からしてヴィルエから遠ざかっているようだ。遠くで衣擦れの音もしたことから着替えているのかもしれない。
「この秘密を知ったやつを生かしてはいけない――グレンだって、知っているはずだ」
「わかっていますよ。でも、奥様を殺してしまえばレインブル家に説明するのは僕の仕事になるのでしょう。これ以上仕事が増えたらやってられませんよ。あーあ、アクシオ様がガラスを割らなければこうならなかったのに。まーた僕の仕事が増える」
グレンが嫌みたっぷりにぼやいている。二人は主従関係だと思っていたが、このやりとりからして主従というよりも友人関係に近いのかもしれない。そのようにヴィルエが考えていると、アクシオが大きなため息をついてグレンのぼやきを打ち消した。
「わかった。明日、こいつと話せばいいんだろ?」
「そうです。それで奥様が気づいていないようであれば殺す必要はないでしょう。僕だって仕事が増えなくて助かります――ということで、奥様を部屋に運んでくださいね」
「ああ……って、俺がやるのか!?」
驚いているのかアクシオの声量が少し大きなものになっている。
「こいつは女だぞ? 俺が触るわけには……」
「ですが、ヴィルエ様はアクシオ様の妻ですから。僕がご主人様の奥方を運ぶなんてできませんよ。他人の妻じゃないですか。僕の方が触れませんて」
「そ、それはそうだが……でも、俺がこいつを妻と思ったことは――」
「でも世間一般的にはアクシオ様の奥様ですから。ね?」
けらけらとグレンは笑っているが、アクシオの動揺はすさまじいようだ。
(別に抱きかかえて運ぶだけでしょう。女性としては平均的な重さだと思うから、底まで嫌がらなくてもいいけど。失礼ね)
アクシオがそこまでヴィルエを抱きかかえることを拒絶するとは予想外であった。ヴィルエは気絶したふりをしながらも内心で腹を立てる。
結局グレンを説き伏せることはできず、ヴィルエはアクシオに抱き上げられる形となった。
アクシオはヴィルエを軽々と抱き上げ、屋敷の廊下を歩いて行く。
「……ぐっ、こんな時に、力仕事か」
廊下に出て数歩ほど歩いたところで、アクシオが小さな声でそう呟いた。うめき声が交じっていたようにも思える。
(本当に失礼ね。私に触れたくないと拒否するばかりか、文句までつけるなんて)
目が覚めている時ならば問答無用で彼の頬を叩いていたかもしれない。それほどの憤りがこみ上げたものの、彼が歩を進めるたびにうめき声が聞こえるため、苛立ちの感情は鎮まっていった。思えば何かを庇うような歩き方をしている。
(……もしかして。怪我をしているの?)
確かめるべく、彼に気づかれぬように薄目を開けてみる。脇腹を庇っているのだろうか。廊下には点々と血のしみが落ちている。
会話からしてグレンは気づいていなかったのだろう。これに気づいていたのならばアクシオを気遣い、ヴィルエを運ぶのはグレンだっただろう。
(怪我をしていると言い出せなかったのかしら。よくわからない人ね)
表は田舎の領主でありながら、本当の顔は皆が恐れる暗殺者。彼が血塗れであったことから今宵も仕事をしていたのだろう。
暗殺者の正体に気づいてしまえば、殺される。
(……殺されたくない。だから私は、知らないふりを続けないといけない)
どうしても生にしがみつきたい理由がある。
そのためには、ここで夫に殺されるわけにはいかなかった。
***
その後はアクシオによって部屋に運ばれ、ヴィルエはベッドで眠ることとなった。
アクシオに殺されないために、気づいていないふりをしなければいけない。アクシオを騙さなければいけないのだ。
その舞台は朝日がのぼると同時に始まる。
「だ、誰か! 誰かいないの!?」
ヴィルエが大声で呼べば、廊下にいたのだろう侍女が何事かと慌てて駆け込んできた。
「奥様、どうされました!?」
「大変よ。不審者が、不審者が――」
体を震わせながら、ヴィルエは侍女の体に縋り付く。知らぬ者には不審者に怯えていると見えるだろう。
「奥様、落ち着いてください。大丈夫ですから。きっと悪い夢でも見たのでしょう」
「でも不審者がいたはずだわ。逃げないと――そうだわ。旦那様にも知らせないと。ねえ、旦那様は無事なの!?」
取り乱した様子で叫んだため、廊下には使用人たちが集まっていた。
この騒ぎは別室にいたアクシオの耳にも届いたのだろう。まもなくして、彼が姿を現した。
「何の騒ぎだ?」
しかめ面をしたアクシオがこちらにやってくる。その後ろにはグレンもいる。
ヴィルエは二人の到着を確かめると、今度はアクシオのもとに駆け寄った。
「旦那様!? よかった、ご無事ですね……」
裾をきゅっと掴み、彼の身を案じる。
ここまでは想定していた通りであった。
昨晩については『血まみれの不審者を見て意識を失った』とするべきだとヴィルエは考えている。本当にその状態で意識を失っているのなら、目を醒ました時には不審者がいるかもしれないと怯えるだろう。場所がアクシオの部屋であったため、彼の安否を心配するはずだ――そう考え、ここまでの行動を取っている。
(旦那様から呼び出されるまで待っている方が不自然だもの。自分から行動を起こした方がいいわ)
これは全て計算して行っているものである。朝から騒げば、アクシオやグレンも無視できないだろうと考えていた。
アクシオはまず使用人らに向き直った。
「お前たちは戻っていい。あとは俺とグレンで話を聞く」
まずは廊下に集まった者たちを鎮めるべきだと考えたようだ。彼が命じると、集まっていた者たちは次々に離れていく。ヴィルエを宥めていた侍女も一礼をした後に去っていった。
そうして静かになったところでグレンが扉を閉める。この密室に、ヴィルエとアクシオ、グレンの三人だけが残った。
(始まりね。あなたなんかに殺されないよう、うまくやってみせるわ)
ベッドに腰掛けながら不安そうに震えるヴィルエだが、心の中では覚悟を決めていた。
「不審者と言っていたな。何があった?」
「昨晩……私が夜会から帰った後、旦那様の部屋から何かの割れるような音が聞こえたのです。夜遅くでしたのでただ事ではないと思い、勝手ながら旦那様の部屋に向かいました」
アクシオに問われ、ヴィルエが語る。一息に語ったが、彼は口を挟むことなく黙ったままである。
「ですが旦那様の部屋に入った時に――不審な者がいたのです」
「不審な者? どういうやつだった?」
こちらに何の感情もないと告げるかのように、冷たい声の問いかけだ。
ヴィルエは両手で顔を覆った。恐怖を思い出し、怯えたかのような演技である。
「申し訳ございません……あまり思い出せなくて」
「思い出せない?」
「男の方……だったと思いますわ。でも血まみれの姿を見た後からが思い出せないのです。気づいたらベッドに寝ていましたから」
弱々しいふりをしながらも、ヴィルエは彼らに気づかれぬ程度に指の隙間からアクシオとグレンの様子を観察していた。
グレンは得意げな顔をし、アクシオに視線を送っていた。声に出してはいないが『ほら、覚えていないじゃないですか。僕の言った通りですよ』と告げるかのようである。これに対し、アクシオは瞼を伏せてうんざりとしていた。
「奥様、安心してください」
グレンが告げたため、ヴィルエは顔を上げる。
「不審者については不明ですが、ガラスが割れる音などの話は他使用人からも聞いています。仰る通り、何者かが忍び込んでいたのでしょう。既に屋敷内の捜索を終えていますが、それらしき不審な者は見つかりませんでした」
「そんな……では逃げられてしまったの?」
「わかりません。引き続き不審者の捜索を行います」
「私がしっかりしていれば……少しでも特徴がわかれば力になれたのに……」
「そうやって自分を責めないでください。奥様がご無事で何よりです――では、気分を落ち着けるためのお茶を持ってきましょう」
この返答からして、グレンはヴィルエの話を信じたのだろう。部屋を出て行く背にもこちらを疑うような空気は感じられなかった。
グレンが部屋を出て行けば残るのはアクシオとヴィルエのみである。しかしアクシオはまだしかめ面をしていた。
考えごとをしているのかアクシオは黙り込んでいる。グレンと違って、アクシオはまだ疑っているようだ。
(そういえば、昨日の怪我はどうなったのかしら)
確か脇腹を庇っていた。こうしているからには深い傷でなさそうだが、ちゃんと手当てはしているのだろうか。気になってしまい、ヴィルエの視線が脇腹の方へと移る。
(あの怪我は『夜梟』として暗殺対象のところにいった時の傷なのかしら。あの後、グレンに怪我のことを話しているといいけれど)
そうしてじっと脇腹のあたり――彼の下腹部である。そのあたりを凝視していると、動揺した声が聞こえてきた。
「……っ、おい! お前、どこを見ている」
アクシオのその声によって我に返り、ヴィルエは彼と目を合わせる。アクシオは気まずそうにし、妙に頬が赤くなっていた。
「はい? 何のことでしょうか」
「だから! なぜ、俺の……腹のあたりを見ているのか聞いているんだ」
どうやらヴィルエに見つめられていると気づき、照れているようだ。声音も変なところで上擦っていて、彼の動揺が隠し切れていない。それを隠すように咳払いしていたが、頬はまだ赤かった。
(確かに、じっと見つめていい場所ではないわね。誤解されてしまうわ)
怪我が気になって脇腹を見ていただけではあるが、熱視線を送るには相応しくない部位である。しかし、そこまで照れなくても良いだろう。いつもの偉そうな態度と大違いだ。
彼の動揺っぷりはヴィルエにとって不思議なものであった。
ヴィルエがよく接するような貴族らは悠然としているのを格好良いとする節があり、令嬢たちに対してスマートな振る舞いをし、動揺を見せることはなかった。クールでいることを求められているのだ。
そんな中、顔を赤らめて照れるアクシオは新鮮だった。社交デビューしたばかりの男子よりも初々しい。
(ふふ……私を愛することはないと宣言していたくせに、初心な反応じゃない)
笑ってしまいそうになるが、ぐっと堪える。
「旦那様を見つめていたつもりはありませんの。結婚してから今日まで、旦那様と顔を合わせることがなかったものですから。ようやく顔を合わせたのがこのような機会だなんて、と考えていただけですよ」
怪我が気になった、ということは告げなかった。それを告げれば、昨晩気絶していたことが嘘になってしまう。
ヴィルエの返答に、ようやくアクシオの心も落ち着いたのだろう。彼の態度はいつものものに戻っていた。
「お互いに望んだ結婚ではないから顔を合わせる必要はない。お前だって好き勝手に出歩いているだろ」
「出歩く……ああ、旦那様は私が夜会に出ることをいやだとお考えで?」
「別に。お前に興味を持つことも、お前が俺に興味を持つこともないと話しただろ。だから、今回のお前の行動は理解できない」
アクシオは険しい顔をし、ヴィルエを睨み付けた。
「夜会に出歩いて男漁りをするほどお前は俺に興味がない。だというのに、昨晩のお前は俺の部屋に入った。そして目が覚めた後に俺の身を案じていた。俺はお前に冷たく接していたのに、突然あんな風に縋り付くなんて矛盾している」
アクシオが妻に興味を持っていないのと同じで、ヴィルエも夫に興味を持っていなかった。彼が言うことは正しい。夫の身を案じた演技をわざとらしいと見抜いたのかもしれない。
ここは素直に彼の疑念を払えばいい。不審者を目撃し、恐怖に怯える純粋な令嬢のふりを続けるのだ。
そうわかっているのに――ヴィルエは苛立ちを抱いていた。
興味はない。愛することはない。勝手な宣言から始まり、いざ秘密を知ってしまえば殺そうとする。
『夜梟』という秘密を隠したいのならばガラスなど割らなければよかった。物音立てず屋敷に戻ればヴィルエだって知ることはなかった。ヴィルエだけの責任ではなく、アクシオにだって非ががある。
(少しぐらい、文句をつけたいわね)
ただ文句をつけるだけではつまらない。『夜宴の黒花』と呼ばれる所以――ヴィルエが隠し持つ棘がうずき出す。
「私が旦那様に興味を持つことはありませんが、だからといって旦那様の心配をしてはいけないというルールはないでしょう?」
「その通りだが、今回に限って部屋に入ってきたのかが引っかかる。俺と顔を合わせない生活を良しとしていたはずだろう」
言葉で負けてはならない。相手を前に臆してはならない。どんな状況であれ、笑え。
動じぬ強い心を持ち、場面を掌握せよ。
それが貴族の思惑渦巻く夜会でも咲き誇る術――ヴィルエの口端が弧を描く。
「一度、気にかけただけ。それでも旦那様は、そこに深い意味を求めようとするのですね?」「意味って……」
「旦那様。口元に、何かついていますわ」
ヴィルエの言葉にはっとし、アクシオが自らの口元に手を持っていこうとする――が、彼よりも先に着いたのはヴィルエの指先であった。
身を乗り出し、潤んだ瞳で彼の顔を見上げながら、その唇を指でなぞる。
「なっ……」
「あら。見間違いだったみたいですね。でも――」
突然のその行動にアクシオは固まっていた。元に戻ったはずの頬が、じわじわと再び赤くなっていく。
ヴィルエは彼を見上げたまま、もう一度囁いた。
「お顔が赤くなっていますわ」
「っ……な、なんで、今の……」
「まさか、これにも深い意味があると思いました? 私はあなたを気遣っただけなのに」
挑発的なヴィルエの言葉に、アクシオの瞳が動揺で揺れている。
ただ唇に触れただけである。キスをしたわけでもない。だというのに、彼は顔を真っ赤にし、それどころか後退りまでしている。
(……これは愛人どころではないわね。恋愛経験がないとか、女性が苦手とか、そういう方なのかしら)
結婚時に『お前を愛することはない』と宣言していたことから、愛人でも囲っているのかもしれないと思っていたが、この程度で顔を赤くするのだ。愛人を囲うような器用さは微塵も感じられない。
それにしても良い反応をしてくれるものだ。彼を挑発するべく蠱惑的に微笑んでいたヴィルエであったが、内心ではうずうずしていた。
ヴィルエだって男性経験が豊富なわけではない。むしろゼロだ。
夜会では『夜宴の黒花』として妖艶な女性のふりをしているものの、近寄ってくる男性は全てあしらっている。その結果、手さえ繋いだことのない、見た目だけは悪の妖艶な令嬢が出来上がっている。
下心を隠して近づくような男は多く、スマートに振る舞う貴族らは見慣れてしまっていた。だからこそ、アクシオのこの反応は新鮮で、とても良い。
「旦那様ったら、意外と可愛い反応をされるのですね?」
言い終えた後で気づく。あまりの可愛らしい反応に、つい口にしていた。
その言葉はもちろんアクシオに届いていた。彼の顔はより赤くなり、わかりやすいほど動揺している。
「っ……か、か、可愛い!? 俺が!?」
「ふふ。そうでしょう。少しからかっただけでこの反応ですもの」
「お前、俺をからかうなんて――」
アクシオが反論しかけたところで、扉が開いた。
現れたのはグレンである。彼はお茶を載せたワゴンを押しながら、ヴィルエとアクシオの様子に首を傾げていた。
「お茶をお持ちしましたが――どうされました?」
「……なんでもない。お前は気にするな。俺は部屋に戻る」
深掘りをされたくないらしく、アクシオは逃げるように部屋を出て行ってしまった。
殺されることなく話し合いが終わったのだから、ヴィルエにとっては大成功である。この場は何とか逃げ切ることができた。
(でも旦那様はまだ疑っているかもしれない。私だって命が惜しいもの。これからも旦那様を騙していくしかないわ)
この場をやり過ごしたとしても、油断はできない。グレンが淹れてくれたハーブティーだって心落ち着く温かさを保っているのは今だけだ。気を抜けば冷えてしまう。
(……私は、私のやるべきことのために)
彼を騙し続ける。正体を知らない妻を演じる。
今日はまだ、ハーブティーが温かい。
***
朝食の後、ヴィルエは実家から届いた手紙に目を通していた。
(そろそろ仕事をする時かしらね)
手紙の内容は――セラティス王太子の暗殺を企む不届き者がいるという話であった。
その情報を掴んだのはヴィルエの父である。詳細は掴めず噂話だけというが、このまま黙っているわけにはいかない。
(『王家の耳』――それが私の仕事だから)
ヴィルエの表情は険しいものへと変わっている。これは彼女が『夜宴の黒花』として社交界に君臨する理由でもある。
ヴィルエの仕事とは、社交の場に赴いて貴族らの動向を窺うこと。そこで得た情報はガードレット王のもとへと送られる。表向きは『夜宴の黒花』として存在しているが、真の目的は王家のスパイである。それが『王家の耳』と呼ばれる仕事だ。
悪事を暴くには、悪に染まった者を演じて近づくのが最適だ。そのため、善悪関係なく気分によって振る舞う『夜宴の黒花』を演じてきた。
誰が首謀者かわからない話であっても尾を掴み、計画を暴く。さらに国がその者を捕えられるよう証拠を得る。今回のような噂話でも見過ごせない。それが本当に計画されていることならば大事である。
(必ず、守るわ)
ヴィルエは瞼を伏せ、愛しい妹の姿を思い出していた。
可愛らしい、大切な妹であるオルナ。想い人である王太子セラティスとようやく結ばれ、やっと婚約発表まで辿り着けたのだ。
オルナとセラティスの美しい恋路を守るためにも、二人に傷をつけたくない。
「……まずは情報収集ね」
やるべきことは決まっている。ちょうど知り合いの侯爵がパーティーを開く日である。参加については悩んでいたが、仕事となれば関係ない。
夕刻になり、ヴィルエは出かける支度を終えていた。胸元が大きく開いた深紅のドレスはお気に入りのもので、腰から斜めにかかった黒のドレープが目立つ。黒の生地を折り重ねて作った花飾りは薔薇のようで、『夜宴の黒花』の名に相応しい。
情報を得るため、色仕掛けのように接近することもある。そういった時に、露出の高いドレスは役に立つ。それでも触れさせることは絶対にないのだが。
パーティーに向かうため屋敷を出ようとし――しかし、玄関に向かうヴィルエを待ち構えていたのはアクシオだった。
(……いやなタイミングで会うわね)
腕を組んで廊下の壁にもたれかかり、どこからどうみても不機嫌なアクシオである。目を合わせるなり、彼がこちらにやってきた。無視して進むわけにはいかないようだ。
「そんなにめかしこんで、どこへ出かけるつもりだ?」
「旦那様には関係のことでしょう。私に興味を持たないはずでは?」
「俺はただ妻の心配をしているだけだ」
いつぞやにヴィルエが告げた言葉である。間を置かずに言い返してきたことから、ヴィルエが来るのを待っている間にこのやりとりを想定していたのかもしれない。
「お前を放っておくと何をするかわからない。せめて行き先ぐらいは教えてほしいものだな」
「無粋なことを聞くものですね。パーティーに行くだけですわ。私がそこで何をしようと旦那様には関係ないはず」
アクシオの振る舞いは、初めて会った時と同じ冷たいものだ。だがそれが崩れてしまう瞬間をヴィルエは知っている。
(冷静にしている旦那様を見ていると……少しいじわるしたくなるわね)
からかって、また照れさせてみたくなる。
ヴィルエはあえて、彼の方へと一歩近づいた。
「まさかパーティーで他の男に近づくなと注意するつもりですの? あなたが私を放っておいたのに」
「放っていたのは……理由が……」
「でも事実でしょう? だから私が外で何をしていても、旦那様は文句を言えませんわ。今さら嫉妬されても困ります」
ヴィルエは彼を見上げたまま、さらに距離を詰める。ドレスについた薔薇の飾りが彼に触れてしまうほどの距離だ。
そこまで近づけば、困ったようにアクシオが顔をそむけてしまった。心なしか、頬が赤く見える。
「……っ、わ、わかったら少し離れろ! そのドレスは……あまり……その、肌が……」
「ただ近づいただけですわ。なのに、こんなにも照れてしまうなんて。旦那様ったら女性が苦手なんですの?」
「くっ……違う! 苦手じゃなくて……その……」
「ああ。では女性に慣れていないのですね」
ならば、とヴィルエは彼の頬に手を添える。そして無理矢理にこちらを向かせた。
至近距離で視線が交差する。その時にはもう、アクシオの頬が真っ赤に染まっていた。
「頬に触れただけで赤くなるなんて。もう少し、女性との接し方を練習した方がよいのでは?」
「……っ、あまりからかえば、お前が痛い目を見るぞ。俺は男だって、お前にわからせてやる」
拗ねたような反論をしているが、表情と言動が一致していない。それが可笑しく、口元が緩んでしまう。
ヴィルエは蠱惑的に微笑み、彼の唇に指で触れた。
「どうぞ、できるものなら――今は外の方が魅力的ですけどね」
これ以上馬車を待たせることはできない。ここが引き時と考え、ヴィルエはアクシオのそばからするりと逃げる。
距離をとっても、アクシオの表情には動揺がはっきりと現れていた。ヴィルエにからかわれ、追いかけるような元気は失われたのかもしれない。その初心な反応に満足しつつ、ヴィルエは屋敷を出て行った。
***
ヴィルエを乗せた馬車が動き始めた頃、屋敷に残るアクシオは深くため息を吐いていた。
(あいつ……散々からかいやがって!)
暗殺者であることを知られたかもしれない夜の後から、ヴィルエと話すように心がけているがそのたびに言い負かされている。
そして、アクシオが女性に慣れていないことも見抜かれているのだ。だからかヴィルエは距離を詰めてアクシオの心を揺さぶってくる。これがどうでもいい女性であるのなら、ここまで動じることはないのだが。
(……初めて会った時から綺麗だとは思っていたけど、だからってあんなのはずるいだろ!)
結婚のために顔を合わせた時、これほどに綺麗な女性が自分の妻になるのかと驚いていた。見蕩れてしまいそうなところを堪え、動揺を隠すように冷たく振る舞っていたのだ。
さらに言葉を交わせば、この調子である。彼女の挑発はアクシオにとって刺激が強すぎる。
これが弱々しく、美しいというよりも愛らしい令嬢であれば『まあ……こんなもんか』であしらえていたのかもしれない。しかしヴィルエは違う。こちらを見上げる瞳は妖しげに揺らめき、しかし簡単には触れられない気高さを感じる。
それは暗殺者として仕事に出る時の感覚にも似ている。相手が強い者であればあるほど惹かれ、剣を交わしてみたいと願ってしまう。猛者を相手にした時の高揚感と同じものをヴィルエに感じる。
――で、剣を交わして解決できるなら良いのだが、問題はヴィルエの仕掛けてくる攻撃がどれもアクシオに致命傷を与えている。
(あんなに近寄ることないだろ! ドレスの胸元だってあんなに開いて……いや、あれが普通なのか? でもヴィルエは平然としてたな……俺が慣れていないだけなのか? いや慣れるとか無理だろ。目のやり場に困る!)
思い出しそうになり、アクシオは首を横に振る。
そうしていると、グレンが階段を下りてきた。葛藤しているアクシオに気づいているのか、彼の口元はにやにやと緩んでいる。
「いやあ、奥様の方が一枚上手のようですね」
「……見ていたのか」
「あれでは探りを入れるどころか、近づいただけでやられていますね。女性に慣れていないことまでバレているじゃないですか」
グレンの言葉は正しい。ヴィルエに近づき、彼女が正体を知ってしまったのかどうかを探りたいのだがこの調子だ。これでは探りを入れるどころではない。
「あれはどうみても、アクシオ様の好きそうな女性ですもんねぇ。色気たっぷり妖艶な人で、こちらを誑かしてくる。アクシオ様はどちらからというといじられ役ですからね」
「俺のどこがいじられ役だ」
「今だって、従者である僕に散々言われているじゃないですか」
その通りでは、ある。この手の言い合いになるとグレンにはまったく勝てない。からかわれ、反論できず、アクシオが諦めるまでがいつもの流れである。
「『俺は男だって、お前にわからせてやる』までは格好よかったんですけどね。というかそんな宣言をして、これからどうするおつもりで?」
「どうするって言われても……」
「アクシオ様は優しすぎるんですよ。もっと、ぐいっと迫って壁ドンとかしちゃって『外よりも俺のそばにいろ』とか言っちゃえばいいんですよー。格好いいじゃないですか。アクシオ様は顔は格好いいんですから、自信を持って迫りましょう! 目指せすうぱあだありんですよ!」
「わかったから落ち着け。謎の言語を喋るな」
ヴィルエと結婚してからというもの、グレンは浮き足立っている様子だ。ヴィルエとアクシオを応援しているというよりも、ヴィルエがやってきて困惑しているアクシオを見守るのが楽しい――のだが、アクシオはそれに気づいていない。
「しかし……困ったな。あいつはたびたび夜会に行って何をしているんだ?」
「奥様と貴族らの繋がりは濃いですからね。単なる男漁りだといいんですけど……それもこれもアクシオ様が不甲斐ないからですよ。初めて会った時から格好つけてあんな宣言をして……夫婦仲良くしていれば、奥様だって夜会に行かなかったかもしれないのに」
「俺が? 何を言ってるんだ。俺にそういうのは似合わないって、わかってるだろ」
暗殺者になるべく育てられ、だからこそ光のあたる場は似合わない。
事情によりニーベルジュ領主となってはいるが、それも目的を果たすための仮の姿に過ぎない。
(そうだ。暗殺者である俺が、誰かを好きになるなんておかしな話だ。人を好きになるような余裕なんてないだろ)
アクシオの目的――そのこと頭に浮かべ、彼の表情が冷えていく。
自分が暗殺者であるが故に、ヴィルエを遠ざけた。妻と心を通わせたとしても、アクシオは命を奪い合う仕事をしている。もしも命を落としてしまえば、深く傷つけてしまう。
ヴィルエだって、アクシオが暗殺者だと知ったら恐れるだろう。
だから、顔を合わせた時から彼女を遠ざけてきたのだ。
「……俺にはやるべきことがある。遊んでる暇はない」
ヴィルエのことばかり考えていてはいけない。やるべきことをやらなくては。
(……あいつと顔を合わせないように願わないとな)
部屋に戻ったアクシオが手に取ったのは、木箱の中に隠されていた暗殺者の仮面だった。
***
パーティーに参加したヴィルエは、一階ホールが見渡せる二階バルコニーのソファに腰を下ろしていた。
誰にでも優しく声をかけて回す姿は『夜宴の黒花』に相応しくない。それならば皆が見渡せる場所に座し、不敵な笑みを浮かべて黙っている方が迫力がある。そう考え、彼女はいつもほどほどに挨拶を済ませた後は、ソファで悠然と構えるようにしている。
(不審な動きをしている者を捜さないとね)
純粋な気持ちで交流を楽しむ者やダンスに興じる者。それらを眺めながら壁際で商談をする者――社交の場ではそれぞれの思惑が交差している。
ヴィルエは目を光らせ、怪しい動きをする者を捜していた。
王家に楯突くような大きな事柄は一人では成し得ない。協力者が不可欠である。今回のパーティーを企画した侯爵は王家に不満を持っている。集まった者たちも同じ考えを持つ者が多い。
ヴィルエの妹は皇太子と婚約をした身である。そのためヴィルエも王家側と見られてしまいそうなところを、妹との不仲を演じ、王家に不満を抱いているふりをしてこの場にいるのだ。
そうして会場を眺めていると――一人の貴族と気になった。彼は壁にもたれかかり、ワインを飲んでいる。しかしパーティーを楽しむのではなく、集まった者たちの悪意を探るような目つきをしていた。
(あれは……ロキゼルフ伯爵かしら。最近は表にでていなかったのに、珍しいのね)
ヴィルエにとってはあまり好きではない相手だ。というのも、ロキゼルフ伯爵は何とかして娘を王家に嫁がせようと画策していた。セラティス王太子とオルナが想い合っていると知っていても、地位のために二人を別れさせようとしていたのだ。
そのためオルナは大変な目にあっていた。他の令嬢を陥れただの、セラティス王太子を唆しただのと身に覚えのない言いがかりをつけられていた。
(あの時は大変だったわね。ロキゼルフ伯爵とロキゼルフ伯爵令嬢の嘘を暴くため、証拠を集めて王家に届けたのよ)
このままではオルナの立場が危うくなり、セラティス王太子とも結ばれない。そう気づいたヴィルエは、一足先に彼らの計画を暴き、嘘の証拠を集めて回った。その結果、ガードレット王が動き、咎められるのはオルナではなくロキゼルフ伯爵令嬢となった。
ヴィルエは『王家の耳』という立場を使ってオルナとセラティスの恋路を守ったのだ。
ヴィルエの暗躍があることをロキゼルフ伯爵は知らない。表向きはオルナとヴィルエは不仲である。だからか、目を合わせるなり、ロキゼルフ伯爵がこちらにやってきた。
「まさかヴィルエ様もいらっしゃっていたとは。挨拶が遅れて申し訳ございません」
「久しぶりね。いろいろあったと噂は聞いているわ。大変だったわね」
ガードレット王がロキゼルフ伯爵の企みを暴いた際、爵位剥奪まではならなかったが彼の評判は地に落ちた。そのためロキゼルフ伯爵は領地に籠もりきりで、社交の場に出てくることはほとんどなかったのだ。今日現れたことも、珍しい。
そのことを示唆するような物言いをしたためか、ロキゼルフ伯爵は苦く笑うしかできなかったようだ。
「これはこれは。『夜宴の黒花』に隠し事はできないようだ」
「心配をしているだけよ。でも、そんなあなたがこの場に現れるなんて捜しものでもあるのかしら?」
ロキゼルフ伯爵ならば、誇りを傷つけられた恨みとしてセラティスを狙う可能性がある。そう考え、ヴィルエは彼に寄り添うような言葉を選んだ。
「何でもお見通しとは恐ろしいですな。ですがいくらヴィルエ様といえ、明かすことはできません。あなたには大切な妹がいらっしゃるでしょう」
「そうね。王太子と婚約をした妹ならいるけれど――一緒にしないでほしいわ。私は私だもの。家にも妹にも縛られたくないわ。楽しいと思うものに手を貸すだけよ」
相手の計画を暴くには、その懐に入りこまなければならない。オルナと不仲だと信じ込ませ、味方のようなふりをして企みを壊すのだ。
本当は心からオルナを可愛がっている。だが、オルナとセラティスを守りたいのならば、そんな素振りを見せてはいけない。『王家の耳』として悪事を暴くために。
ヴィルエは挑発するように笑みを浮かべ、傍らに立つロキゼルフ伯爵を見上げた。
「今の問いかけは合言葉でしょう? 私を試したのだと思うけれど、これで満足かしら?」
「……なるほど。では同じ志を考えてもよろしいでしょうか」
「あなたの考えは楽しそうだもの。仲良くしましょうね」
ヴィルエは確信を持った。間違いなくロキゼルフ伯爵は国に関する悪い企み事をしている。
ロキゼルフ伯爵が妹について問いかけてきたのは、ヴィルエとオルナの不仲説を確かめるためだ。そしてヴィルエの返答から、味方となりうるかどうかを探っていた。
悪事であろうが何でも叶えてくれる――そんな噂のある『夜宴の黒花』を味方に引き入れたいところだろう。
(セラティス王太子暗殺を企んでいるのが彼なのかはわからないけれど、ロキゼルフ伯爵が何かを企んでいることはガードレット王の耳に届けて良さそうね)
ロキゼルフ伯爵はヴィルエという味方を手に入れて満足したらしい。彼が今日のパーティーに参加した目的は協力者を得ることだったのだろう。
「今日はお時間がありますかな。よければヴィルエ様と今後のお話をしたいのですが」
「構わないわ。場所を移した方がいいかしら」
「ええ。では、こちらに――」
伯爵に促され、ヴィルエはパーティー会場を後にする。
会場から少し離れたところに、ロキゼルフ伯爵が用意していたのだろう馬車があった。
(……なるほどね。馬車で密談ということかしら)
悪事を企む者は人のいない場所を好むが、ヴィルエとしてはあまりよろしくない。というのも命を狙われる危険がある。
万が一のことを考えながらも、ヴィルエは馬車に乗り込んだ。ここで逃げ出してロキゼルフ伯爵に反感を持たれては、彼の計画が暴けないためだ。
「ヴィルエ様にお会いできるなんて今日はツイている。これで我々の計画もうまくいきますよ」
馬車が動き出したところで、対面の座席に腰掛けたロキゼルフ伯爵が言った。これにヴィルエはわざとらしく首を傾げる。
「素晴らしいお話なのでしょう。もったいぶらずに教えていただきたいわ」
「ははっヴィルエ様もわかっているでしょうに。この国は腐敗している。セラティスなんぞを王太子に選ぶなんて、ガードレット王の目は曇ってしまった。我々が王の目を醒まさせなければいけない」
「……面白い話ね」
やはり、セラティス暗殺を企んでいるのは彼なのだろうか。
しかし突然馬車が動きを止めた。
何事かと構えるヴィルエに対し、ロキゼルフ伯爵はふらりと立ち上がる。
「ですから……まずは『王家の耳』を潰さなければ」
彼の手には剣がある。どうやら座席に隠していたらしい。
(私が『王家の耳』であることを知るのはごく一部の者なのに……厄介ね)
馬車が止まったのは王都の外れである。最初からロキゼルフ伯爵はヴィルエを狙っていたのだ。
「あなたがいなければ、今頃私の娘は王太子妃となっていた! ロキゼルフの名がここまで落ちることもなかった!」
「何のことかしら。身に覚えのない話ばかりね」
「王太子を殺す前に、まずはあなただ――!」
こちらに向け、ロキゼルフが剣を振り下ろす。
こうなるかもしれないと可能性は考えていた。レインブル家にはパーティーに行く旨を伝え、荒事に強い者を派遣してもらっている。あとは馬車に乗り込んだヴィルエを助けにきてもらうだけだ。
(それまで逃げないといけないけれど……)
ぎりぎりのところで剣撃を交わし、扉に向かう。
乗り込んだ時に、扉の鍵について確かめていた。伯爵に気づかれぬよう施錠は外してある。
体当たりをするように扉にぶつかり、外へと転がり出る。
しかし馬車の外で待っていたのは――剣を構えた男たちが数名。これも事前にロキゼルフが用意していたのだろう。
(……囲まれているのね。私でも厳しいかもしれない)
助けが来るまで耐えるにしても人数が多すぎる。これ以上の逃げ場はない。
「ヴィルエ様。あなたもこれで終わりだ!」
追い詰められたヴィルエに再び剣が振り下ろされようとし――痛みに備えてぎゅっと目を瞑ったヴィルエであったが、いつまでも痛みを感じることはなかった。
「ぐ、う、ああ……」
聞こえてきたのはロキゼルフ伯爵の苦しげな声。
驚きに目を開けば、いつかの夜に見た漆黒の外套が揺れていた。彼はロキゼルフ伯爵の体から剣を引き抜く。飛び散った真っ赤な鮮血がヴィルエのドレスや肌を汚した。
(まさか……『夜梟』)
漆黒の外套を纏い、仮面を着けた男。その仮面には紅の月に梟が描かれている。その模様は暗殺者『夜梟』であることを示している。
驚き、座り込むヴィルエであったが、『夜梟』はそれに構わず身を翻した。そして血に塗れた剣を構える。
ロキゼルフが用意したのだろう男たちが次々に『夜梟』へと襲いかかった。しかし彼は冷静に彼らの剣撃を躱し、隙をついて男たちを倒していく。
その剣技は鮮やかなものであった。剣術に明るくないヴィルエでさえ、見蕩れてしまうほどに美しい動きである。外套が揺れるたび、彼の体がしなやかに動く。流れるような所作で、しかし的確に相手を倒すのだ。
(旦那様って……実は強かったのね?)
ヴィルエに迫られて頬を赤らめていた者だとは思いがたく、ただ呆然とするしかなかった。
そうしているうちに『夜梟』は集まった男たちを全て倒していた。最後の一人が剣を手放し、その場に倒れ込むのを見届けた後、一仕事終えたというかのように短く息を吐いた。
そして懐からコインを取り出し、ロキゼルフ伯爵のそばに置いた。コインにも仮面と同じ模様が描かれている。知らぬ者が見ても伯爵を殺めたのが『夜梟』だとわかるだろう。
(……このまま、私も殺されるのかしら)
ヴィルエは『夜梟』の様子をじっと眺めていた。しかし彼がこちらに剣を向けることはない。
(私を殺さない……ということは、助けてくれたのかしら)
彼は立ち去ろうとし――けれどすぐにその足を止めた。こちらに振り返る。
「……ついてこい」
その言葉はヴィルエに向けたものだ。慌てて立ち上がり、彼の背を追いかける。
しばらく進むと、林の影に『夜梟』のものであろう馬車が隠されていた。馭者らしき男が控えていたが、彼も『夜梟』と似た仮面をつけているため顔はわからない。確証はないがグレンの背丈に似ている気がした。『夜梟』がアクシオであることから、馭者がグレンである可能性は高いだろう。
『夜梟』に促され、ヴィルエも馬車に乗りこむ。そしてすぐに馬車は動き出した。
行き先はわからない。しかしこの馬車はニーベルジュ領がある方面へ向かっているようだ。
ヴィルエの向かいには『夜梟』が座っている。彼は腕を組み、じっとこちらを見つめているようだった。顔の上半分を仮面で隠しているため表情が掴みづらい。
「助けていただき、ありがとうございました」
二人の間に流れていた沈黙を壊したのはヴィルエだ。
まさか『夜梟』が助けてくれるとは思ってもいなかった。そのことについて礼を述べたのだが、『夜梟』は驚いたようにしばしの間答えなかった。
「お前、お礼を言うような女だったのか」
ようやく『夜梟』が喋ったと思えば、独り言のような呟きである。ヴィルエは顔をしかめた。
「だって私を助けてくれたでしょう? お礼を言う必要があると思いましたが。何かおかしなことでも?」
「……悪い。今のは独り言だ」
その反応からして、声に出して呟く予定ではなかったのだろう。思ったことをうっかり口にしてしまったようだ。
誤魔化すように咳払いをし、『夜梟』が改めて告げる。
「お前を助けたわけじゃないから、礼はいらない。あれはロキゼルフを消すついでだ」
「消す……ああ。その模様、暗殺者の『夜梟』ですものね」
ヴィルエが答えると、彼が息を呑んだ。仮面の向こうでは険しい顔をしているのかもしれない。
くす、と悪い笑みを浮かべ、ヴィルエは続ける。
「貴族の間で噂になっていましたから。誰も止められない最強の暗殺者がいる。彼は紅の月に梟のマークを愛用していると」
実際に『夜梟』の噂は聞いている。ここで『夜梟』なんて知らないと嘘をつくこともできるが、あれほど夜会に顔を出しているヴィルエが知らないというのもおかしな話である。
ならば知っていると認めた方がいい。けれどその正体がアクシオだと知っていることだけは伏せなければならない。ギリギリを攻めるかのような情報戦だ。
「あなたは暗殺者なのね」
ヴィルエが言うと、『夜梟』の唇が弧を描いた。
「俺が恐ろしくなったか?」
その言葉に彼の表情を確かめれば、口元は笑っているけれどどこか悲しげに見える。仮面で隠されているため正確に読み取れないのがもどかしい。
暗殺者を恐ろしいと思うだろうか。ヴィルエは自問する。
(不思議と……怖くないのよね)
アクシオの正体を知った夜も、二人で馬車に乗っている今も、恐ろしいと感じたことはない。
どうしてだろうか。恐怖を抱かぬ理由を考え――浮かんだ答えを口にした。
「恐怖はまったくないわね」
「ほう。珍しいな」
「だって、あなたはやるべきことがあるのでしょう? 享楽を理由として暗殺者になったのであれば私を助けてはいない。あなたはやるべきことのために暗殺者をしている……そうではなくて?」
やるべきこと。その言葉がすんなりと出てきたのは、ヴィルエ自身も同じものを背負っているからだ。
『王家の耳』という仕事。そのやるべきことのため、人を欺いても構わない『夜宴の黒花』となったのだ。
『夜梟』が暗殺という仕事をしているのも、彼なりのやるべきことのためかもしれない。
目的のために生きているのはヴィルエも同じだ。だから恐ろしいとは思わない。
「……そうだな。俺にもやるべきことがある」
「俺に『も』?」
「お前だって、やるべきことがあるから『夜宴の黒花』でいるんじゃないのか?」
他人から言い当てられるのは初めてのことであった。どのようにして彼は見抜いたのか。困惑しているヴィルエに、『夜梟』が続けた。
「パーティーでも何かを探しているようだったからな。男漁りかと思ったが、ロキゼルフに声をかけるぐらいだからな。よほど見る目がないのか、別の目的があるのか」
「……あなた、随分と詳しいのね」
まるでパーティーでの様子を見ていたような口ぶりだ。ロキゼルフが暗殺対象と話していたことから潜入していたのかもしれない。
「お前の目的は何だ?」
仮面の向こうで『夜梟』の瞳が細められたような気がした。
「名乗る時は自分からって教わったでしょう? あなたの目的を知らないのに、私が話すと思ったのかしら」
「お前の目的によっては、殺さないといけない」
「どうぞ。殺されたら、目的を喋ることはできないけれど」
きっと彼は殺せない。殺すつもりならば、ロキゼルフと共にヴィルエを殺していた。
そう考え、挑発するように告げたのだが――彼が立ち上がった。
「……俺を甘く見るなよ」
彼の言葉と共に、影が落ちる。
ヴィルエは咄嗟に逃げようとしたが、先に腕を掴まれた。
「っ、離して!」
振りほどこうとしたが、彼の力は強く、腕が自由に動かせない。
それどころか振りほどこうとしたはずみでバランスを崩し、ヴィルエは座席に倒れ込む形となってしまった。
腕は座席に押しつけられ、身動きが取れない。『夜梟』はこちらに覆い被さるようにし、ヴィルエを見下ろしていた。
「あれだけ言っていたのに、力が弱いな」
「……女性には優しくした方がいいと思うわ」
「はっ。お前が優しくしたいと思えるような女だったらな」
悔し紛れに反論するも、拘束されて逃げ場がない。
仮面で隠れているからなのか、中身はアクシオだとわかっているのに別人のような気がしてしまう。これほど近くにいれば照れて恥じらうだろうに、ヴィルエの瞳に映る彼は感情が先走ってそのことに気づいていないようだった。
「この細い首を簡単に斬ることだって、できる」
彼の指先がヴィルエの喉に触れる。余韻を残すようにゆっくりと、首を横になぞった。
ただ、それだけの接触であるのだが――ヴィルエにとってはじゅうぶんだった。
ひっかくようなその動きに頬が熱くなる。
散々アクシオをからっていたが、ヴィルエだって男性経験はまったくないのである。
自分から覚悟を決めて近づくのではなく、相手から迫られる。そんな経験は初めてだ。こみ上げた恥じらいを隠すように唇を噛む。
(整った顔をしているのがまた腹立つ。普段はあんな奥手そうにしているくせに、なんなのよもう!)
仮面で隠してはいるが、その素顔は整っていることを知っている。そんな彼が、ヴィルエを組み敷いている。からかっていた時が可愛らしく見えていたからこそ、今の姿が凜々しく思えてしまうのだが、認めたくない。
「お前が望むのなら仕方ないが、この白い肌に傷をつけるのは勿体ないと思うぞ?」
さらに攻撃の手は緩まず、今度は鎖骨に触れている。胸元の開いたドレスを着ていたのが仇となった。
(な、なんで心臓がこんなに騒いでるのよ! 相手は旦那様なのに! もう! 調子が狂う!)
心の中での願いは届かず、『夜梟』の頭がゆっくりと落ちる。彼の髪が肌に触れてくすぐったい。うなじに、吐息がかかった。
「目的を言え。そうしたら許してやる」
「っ……だ、誰が言うものですか! それよりも離れて!」
「強情な女だ」
その囁きの後、首筋に痛みが走った。
ぴり、と痺れるような痛みに、ヴィルエはきゅっと目を閉じる。柔らかなものが触れ、その後に痛みが走った。
(い、今のって――!)
『夜梟』が噛みつく。それだけではなく、滲んだ血を味わうかのように噛みついた箇所を舌で舐め挙げる。
突然の接近と接触。『夜宴の黒花』という名を忘れてしまうほど、顔が熱い。
髪も声もアクシオと同じ。なのに敵わない。ヴィルエの眦には悔しさの涙が集まっていた。
(こんなの反則でしょう!? 耐えられないわ……)
逃れたいのに逃れられず。しかし首筋の口づけが気になって、神経を集中させてしまう。
「も、もう――」
許してと告げようとした時、馬車ががたんと大きく揺れて止まった。
馬車が停止したためか、『夜梟』が我に返ったかのように顔をあげる。
「はっ……悪い。これは――」
感情が暴走してヴィルエの首筋に噛みついてしまった。そのことを詫びようとしていたのかもしれないが、彼の言葉は途中で止まった。
こちらを見下ろす『夜梟』の顔に動揺がある。けれどヴィルエが彼の表情を確かめることはできなかった。自分がどんな顔をしているのかわかっている。だから、目を合わせるなんてしたくない。
「なんで……お前、そんなに顔が赤いんだ?」
「離れてください」
「……あ、ああ。すまない」
なぜか『夜梟』の方が呆然としていて、すんなりと腕の拘束を外した。
自由になった隙にヴィルエは彼の体を撥ね除けて起き上がる。
どうやら馬車が止まったのは、ニーベルジュ領に着いたからのようだった。場所までは告げていないくせに、屋敷の前で止まっている。
これ以上、『夜梟』に反撃されたくない。ヴィルエは振り返らず、馬車の扉に手をかけたまま早口で告げた。
「近くに着いたようなので失礼しますわ」
彼の返答を待たずに馬車から出て行く。
(いつもはあんなに初心な反応をしているのに……こんな反撃をするなんて予想外だわ)
馬車から離れても心臓はまだ急いている。あれ以上近くにいたら、この騒がしい心音が聞こえてしまっていたのではないかというほど。
アクシオは『あまりからかえば、お前が痛い目を見るぞ。俺は男だって、お前にわからせてやる』と言っていた。その通りに、痛い目を見るところであった。
(普段とさっきの振る舞いと、ギャップがありすぎるのよ!)
悔しさを胸に、ヴィルエは屋敷へと戻っていった。
***
翌朝。朝食を取るべく自室を出れば、廊下にアクシオがいた。
食事の時であっても顔を合わせることはなく、食事を自室に運ばせることの多いアクシオであったが、昨晩のことがあるためかヴィルエを待っていたようだ。
「……おはようございます」
彼を直視しないようにしながら、むすっとした声でヴィルエが告げる。
「あ、ああ……おはよう」
返ってきたのも気まずそうな返事であった。
昨晩の出来事はアクシオではなく『夜梟』が相手であったが、そのことさえ忘れていそうなほどアクシオはぼんやりとしている。
「その、昨晩は……」
しばし沈黙が続いた後に、アクシオがそう切り出した。しかし続きの言葉を遮ってヴィルエが淡々と告げる。
「パーティーはとても楽しかったですわ」
「え……あ、ああ。よかった……な」
「それ以外に変わったことはありませんわね」
アクシオはまじまじとヴィルエの様子を確かめている。昨晩に見たヴィルエが恥じらって顔を赤くしていたことを思い出し、今の様子を比べているのかもしれない。
そうやって見てくるのもまた腹立たしい。アクシオ相手に赤面してしまったことを認めたくない。
「何か? 私に気になることでも?」
「いや……なんでもない……」
気まずそうに告げ、再びアクシオは口ごもる。
アクシオとしても昨晩のことを自ら告げれば、『夜梟』は自分だと明かすようなものだ。だからか、言葉選びに苦戦しているようだ。
(挑発しすぎると、旦那様が感情的になって暴走する――よくわかったわ。でも悔しいから止めてあげない)
簡単にわからせられると思わないでほしい。そう考え、ヴィルエはあえてアクシオに近寄る。
「は? お、おい、お前――」
ツンとした態度であったヴィルエが突然近くに寄ってきたのだから、アクシオは戸惑っているようだ。それに構わず、ヴィルエは毅然とした態度で告げる。
「少し、屈んでくださる? 旦那様ったら背が高いから届かないの」
「何をするつもりだ? 屈むって……」
「きゃんきゃん吠えないでください。いいから屈んで」
強い語調で伝えるとアクシオが渋々と身を屈めた。
昨晩は、『夜梟』であったから強気にでていたくせに、今は大人しいどころか可愛らしく身を屈めている。そのギャップが、たまらない。
(こうしていたら可愛いのに)
彼に気づかれぬよう微笑みながら、ヴィルエは彼の頭に手を置いた。
そして優しく撫でる。
「っ、ヴィルエ、何をしているんだ」
「可愛いなと思ったから撫でているだけですよ。ほら、いいこいいこ」
「か、可愛い!? こんな俺が? お前の目はどうなっているんだ!?」
「昨晩、パーティーに行って欲しくないと寂しそうにしていたけれど、私の帰りを待てたでしょう? だからご褒美ですよ」
本当は『夜梟』の姿をしているアクシオと会っているのだが、それを明かせば正体を知っていることになってしまう。もちろんアクシオだってそのことを自分からは伝えられない。彼はもどかしそうしながらも、その頬は恥じらいに赤く染まっていた。
「まんざらでもなさそうですわね。もしかして甘えるのがお好きでした?」
「違う! 別に……悪くないなんて、少しも思ってない」
真一文字に引き結んだ唇がぷるぷると揺れている。案外、ヴィルエの言葉は当たっていたのかもしれない。むすっとした表情をしているくせに、本気でヴィルエを止めようとはしていないのだ。
その可愛らしさに、笑ってしまう。
「ふふっ」
「……なんだ」
「旦那様をからかうのも悪くないと思いまして。これからも楽しくなりそうだわ」
すると、アクシオがこちらを見上げた。
「……いつか反撃してやる」
「構いませんわ。でも、簡単にわからせられると思わないでくださいね?」
彼の秘密を胸に秘め、自らの目的のために生きる。
目的のためなら手段を厭わない。まっすぐすぎる生き方ではあるが、その途中に寄り道をしたっていい。
時には可愛らしく、時には最強で、悔しいけれど格好よさもある旦那様を愛でるのも悪くないかもしれない。
「……ありがとう」
小さく、呟いた。
その言葉にアクシオの目が丸くなる。何かを言いかけようとしていたが、先にヴィルエが微笑んで止めた。
「ふふ。可愛らしいから言っただけですわ」
「わかったから、その可愛いってのをやめろ。あと頭を撫でるのも……お前がそうしていると落ち着かない」
これ以上続けていればまだ反撃されるかもしれない。感情にまかせて暴走した時の彼を思い出し、ヴィルエはさっと身を引く。
「そうですわね。では朝食にしましょうか」
「……あ、ああ」
落ち着かないなどと文句を言っていたくせ、ヴィルエが離れた後のアクシオは少し寂しそうにしていた。
「行きますわよ」
名残を惜しんでいるのかまだ動かないアクシオを残し、ヴィルエは歩き出す。
『夜宴の黒花』と『夜梟』――表と裏の顔を持つ二人が結ばれる日はまだ先の話。
からかい、時には反撃をされる。闇に生きる夫婦の攻防は続く。
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後書きです。まずは読了ありがとうございます。
本作品は長編版『悪女わからせ』を短編化したものです。
ヴィルエとアクシオのやりとりが好きすぎて短編版も書いてしまいました…!
二人を襲う大きな問題やアクシオの真の目的、アクシオの過去などは長編の方で触れております。(短編では入りきらずすみません…!)
現在は一部が完結し、二部もいずれ執筆する予定です。
ここまでお読みいただきありがとうございました!




