完全犯罪の陥穽
田崎秀一は、非常に頭のよい男であった。見かけは、痩せぎすで、長髪を蓄え、妙に肩を振って歩くという癖を持っていた。当時、彼はごく当然のように進学高校を首席で卒業し、浪人をすることもなく、東京大学の法学部に合格した。そして、両親の仕送りを受けることも拒んで、家庭教師のアルバイトを掛け持ちして、生活費と学費を賄っていた。そして、正直なところ、田崎は飽き飽きしていたのである。大学の授業は、彼にとって退屈至極なものであったからだ。むしろ彼は、好きな諸外国の書物を原書で読破して、そこから得られた独特の発想を盗み取るように吸収していった。知識よりもその書物から得られる概念に魅力を感じていたのである。そして、そんな田崎が、最近に魅了されたのが、手品の趣味であった。そもそも彼は、人一倍、自尊心が強く、その分、優越心も高かったために、ひとを騙す歓びで、大学の同級生を簡単な手品で騙しては、ひとりで悦に入っていた。そして彼の心は、自然と、騙す歓びから、完全犯罪の現実的な可能性へと移行していった。犯罪は確かに悪事である。しかし、頭脳派の田崎は、悪事という事実よりも、何ぴとにも露見しない完璧な完全犯罪の創出に魅了されたのである。果たして、それは実現可能であろうか?そして、その方法とは?彼の夢想は果てしなく続いた。しかし、ここに東大生の秀才である田崎秀一の孤独なる挑戦が始まったのである。
まず、彼が目をつけたのは、犯罪の発覚である。発覚して、彼が犯人として逮捕される危険はあえて犯したくない。では、どうすればいいか?その時、彼の頭に浮かんだのは、偶然の存在である。犯罪を犯すものは、必ずに直接的に手を下すものだ。しかし、それよりも、偶然をうまく利用すれば、犯人として捕まる可能性はかなり低くなる。タイミングが悪ければ、犯罪として成立しない。しかし、田崎は、タイミングに賭けて万が一の犯罪成立に賭けることにした。これをプロバビリティの犯罪と呼ぶらしいことは、読書家の彼は熟知していた。
次は、犠牲者、すなわち、被害者の選択である。これは、当初より、彼の父親と決めていた。彼の父親は、とある貿易商であった。若い頃より、彼の父親も才覚を現して、財を成し、ひとなりにも財産家と呼ばれるだけの資産を有していた。その財産に、田崎は目をつけたのである。そこで、偶然を利用する。つまり、事故死で彼の父親を殺害すればいい。そうすれば、ひとり息子である田崎には自動的に莫大な財産が転げ込んで来るという寸法だ。
次に彼は、父親の殺害方法を考えた。どう殺せばいいか?彼の父親は、小高い山の中腹に住んでいた。そこに邸宅を構えていたのである。そして彼の父親は、毎朝、その邸宅から、車を使って約三十分ほど、急な下り坂を降りていき、麓の街まで出る。そこを利用しようと彼は考えた。そして彼は綿密に殺人計画を練った。
やがてその計画は出来上がった。見事な出来映えであった。彼は、内心でほくそ笑んだ。いや、ついに笑い出した。こう、いとも簡単に人を殺せるのかと可笑しくて堪らなかったのだ。彼は、その日の夜、繁華街のバーで酒を飲んだ。飲みたくなって仕方なかったのだ。結構、美人のホステスを相手に彼は雑談をした。何度、彼は犯罪計画のことを彼女に吹聴しようとしたことか。彼は正直なところ、いい気になっていたのだ。しかし、彼の持ち前の慎重さがそれを抑えた。彼は、洋酒をストレートで五杯飲み明かすと、勘定を済ませてまた街に出た。キラキラと星の綺麗な夜空であった。
それから数日後、田崎は計画を実行に移した。彼は、駅前で、レンタカーを借りると、それを使って彼の父親の住む山の中腹にある邸宅の近くに密かに停車させた。誰にもみられてはいなかった。こっそりと、邸宅に忍び込むと、そのまま地下にある駐車してあるガレージに隠れるように入り込んだ。
車に細工する道具は準備してボストンバッグに入っていた。計画は綿密で抜かりはなかった。彼は、慎重に父親の乗る車のフロント部を分解すると、内部の二系統のブレーキホースともに、ごく小さな穴を金属具で空けた。やがて、ごく少しずつ、ブレーキフルードが油滴となって漏れ始めた。こうしておけば、やがてブレーキは効かなくなるだろう。それで、父親が、うまい具合に事故死するかどうかは偶然にかかっている。そこが、所謂、プロバビリティの犯罪なのであった。それを確かめてから、今度は、ブレーキの警告灯の電源コードをうまく切断しておいた。これでいい。仕事を終えた田崎は、工具類を仕舞い込んで、また密かにガレージを抜け出た。結果は明日の朝に出る。もう深夜であった。彼は、滑るような勢いで、帰りの下り坂を車で駈け降りていくのであった.................。
翌日、田崎はあえて大学を欠席していた。昨夜の結果が心配でしようがなかったのだ。しかし、昼前になって、慌てふためいたような母親からの電話を受けた。案の定であった。彼の父親は、会社への通勤途中の車で、山からの下り坂の半ばにある急カーブから崖下に転落して、事故死したらしい。泣き濡れている母には、慰めの言葉を掛けて、すぐに僕も駆けつけるからと言って、電話を切った。終わったのだ。犯罪は成功した。彼は有頂天だった。嬉しくて仕方ない。しかし、まだ安心は出来なかった。最後の仕事は残っている。
実家の邸宅へ赴く途中で、田崎は、カーブの所で、転落した車の残骸と、周囲に群がる警察の人々の姿を車から垣間見た。邸宅に到着すると、母親は、何とか気を取り直した様子で、穏やかに息子の彼を迎え入れたのであった。
父の葬儀を終えて、すぐに田崎は、警察からの聴取を受けた。しかし、それは形式的なものであり、警察の見解によれば、被害者である父は、車の走行中に急カーブで運転をうっかりと誤って崖から転落死したものと断定されたらしい。これは、田崎にとって非常に都合のいい成り行きであった。しかし、最後に刑事が、一応、事故を起こした車の残骸は、警察で引き取って、後ほど返却すると聞いたときには、さすがの田崎もギクリと動揺した。もしも、車の細工がバレたら、と思ったのである。だが、その田崎の疑念も杞憂に終わった。数日後には、一応、確認はしたとのことで、無事、車両は実家に返ってきた。
そして、先刻も述べたように、田崎には、最後の仕事が残っていた。つまり、車の細工の修復作業である。たとえ、残骸といえようと、どこから彼の犯罪の足がつくか分からないのである。それで、田崎は、再びレンタカーを転がして、実家のガレージに忍び込むと、用意した工具を使って、細工の跡が残らないように、暗いガレージの中で作業をし、終わると、逃げるように邸宅をあとにした。
それで、完璧であった。彼の完全犯罪は、まんまと成功に終わった。田崎は、心の底から嬉しかった。その夜は、銀座のスナックで飲み明かした。両脇に、美人のホステスを抱えて、田崎は上機嫌であった。何杯も洋酒を空けて、大声で歌い出すほどのはしゃぎぶりであったのだ。まるで、夢見心地の気分である。
それから数日後の昼過ぎに、田崎の住むアパートに、突如、ふたりの刑事が訪問してきた。初老の刑事は、村山と言った。村山は、人懐っこい笑顔で、
「突然にすいませんねえ。田崎さん、ちょっと、お時間をよろしいですかな?」
と、上がり込んできた。そして、片手にノートパソコンを抱えた若い刑事を佐川と紹介した。
「何です?突然に?」
と、田崎は急に不意を突かれた形で、少々うろたえながら尋ねた。
「少し、あなたに見てもらいたいものがありましてねえ?」
と、相変わらずに笑顔を崩さずに村山が言った。
三人は、部屋に置いた座卓に座って向かい合った。すると、若い佐川が、パソコンの電源を入れながら、
「これなんです。ごく短い動画なんですがね?」
と、座卓に置いたパソコンを見つめた。田崎もつられて、画面に見入った。やがて、パソコンに、薄暗い画像が映った。そして、目を凝らして画面を見ているうちに、徐々に田崎の顔が引きつってきた。それもそのはずである。そこに映っているのは、暗いガレージの中で、秘かに作業をしている田崎自身の姿であったからだ。
「悪いとは思ったんですがね?」
と、山村が言った。
「あなたを罠にはめたんですよ。この画像はね、あの車の残骸のフロントガラスに取り付けた超小型隠しカメラで撮ったものなんです。ほら、あなた、一生懸命に車に仕掛けた工夫を戻そうとしていますねえ?ははは、警察を甘く見ちゃいけませんよ。あなたが巧妙に偽装して父親である被害者を事故死に見せかけて殺害したことは我々にお見通しなんですからね。ねえ、あなた。この動画の、あなたの行動をどうご説明なさいますかな?」
田崎の目の前で、大きな壁がガラガラと崩れていくような気がした。あり得ない。僕の完全犯罪が露見した。そんなこと、あり得ない。
「確かにあなたは頭がいいようです。でもね、こんな事件が起こった場合は、警察は、事故車をエンジンの内部まで、厳密に調査するものなんですよ。粘り強さが我々の味方です。あなたは、少々いい気になられたんじゃありませんかな?」
田崎は下をうつむいた。その瞳には、涙が浮かんでいた。それは、若き秀才の無念の敗北の涙であったのだ...................。




