第三十八話 結婚について
まさかこんな場所でプロポーズを受けるとは思わなかった。麻里子さんは真剣な眼差しで僕を見ている。そんな顔も可愛いのだから困ったものだ。
麻里子さんとはすでに半同棲状態で、結婚してもそれほど生活は変わらないと思う。
僕もいつかは麻里子さんと結婚するのだろうと漠然と考えていたが、今がその時とは思わなかったな。
そう言えば初めて結婚という言葉を意識したのは結城瑞樹から言われた時だ。まああれは冗談の域を出なかったが。
でも結城瑞樹と再会して、ごく短い期間ではあるがつきあっていたときは結婚という言葉を意識していなかったとは言えば嘘になる。
結城瑞樹とはあんな別れ方をしたけど彼女のことは嫌いにはなっていない。だって初恋だったからね。この思いは誰にも言わずに一生黙っておこうと思う。それに僕の大好きな彼女は目の前にいる女性だからね。
「そうだね、麻里子さん結婚しましょう」
僕が答えると麻里子さんは両手で顔を押さえて、若干わざとらしいとも思えるほどうえんうえんと泣き出した。本当に感情豊かな人だな。
でもさすがにこんなところで大泣きされたら、注目を浴び過ぎる。
「ま、麻里子さん」
僕は鞄からタオルを取り出し、麻里子さんに手渡す。魔女メイクがとれかかっている。メイクがとれても麻里子さんの素顔が見えなくなることはない。
すっぴんの麻里子さんは童顔で可愛いんだよな。
そうか、麻里子さんは顔喪失症から完全に解放されつつあるということか。過去のトラウマから解放されたのだろう。それが僕の助けによるものなら、こんなに嬉しいことはない。
五分ほどで麻里子さんは泣きやんだ。僕のタオルは彼女のメイクと涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
すっかりメイクが落ちてほぼすっぴんになっている。
「麻里子さん、メイク落ちちゃったね」
「あら、本当ですね」
えへへっと麻里子さんは舌をだして笑う。この吐息混じりのエッチな笑い方も好きなんだよな。僕はすっかり麻里子さんの全てを好きになっていた。
僕たちはサークルテーブルに戻る。
そこでは江戸沢麻美香さんがある若い男性と話をしていた。彼は江戸沢麻美香さんのアシスタントで梅図一樹といった。高校三年生で来年には大阪芸術大学を受験するという。
すらりと背の高い美少年である。
「こんにちは、野平先生」
梅図少年はていねいな挨拶をする。
「こんにちは梅図君」
挨拶を応える麻里子さんを梅図少年はまじまじと見つめる。
「野平先生ってそんな顔してたんですね」
あんまりにもずっと麻里子さんの顔を見つめるので、江戸沢麻美香先生がおほんっと咳払いする。
すいませんと梅図少年は謝る。
「良いんですよ」
麻里子さんは寛容だな。さすがは僕の彼女だ。
梅図少年は他のサークルも見て回るということでこの場を去っていった。
テーブルの上の新刊はほぼなくなっていた。残りは数えるほどだ。
「麻里子さんの素顔久しぶりにみたわね。あなたが高校生のとき以来かしら」
江戸沢麻美香先生はにこりと微笑む。
誰でも麻里子さんの顔が認識できるということは、それだけ彼女の精神状態が安定しているということだ。手前味噌だが、麻里子さんの精神を安定させる材料が自分だと思う。
僕は江戸沢麻美香先生に先ほどのいきさつを説明する。彼女は丸い目をさらに丸くして驚いた。分かりやすい人だな。
「コミックカーニバルで結婚を決めるなんてあなたがたらしいわね」
江戸沢麻美香先生は我が事のように喜んでくれた。
「はあ、麻里子さんに先をこされちゃったわね」
今度はうってかわって江戸沢麻美香先生は暗い顔になる。これを励ます術を僕は知らない。
これは触れないほうがいいだろう。
江戸むらさきの最後は新刊すべて頒布で終了した。来年からは恋泉耶雲として僕たちは正式に活動することになる。
コミックカーニバル終了後、僕たちは婚約したことを関係者に伝えた。
阿良又に猫矢夢乃さん、竹河不由美それに妹の敦子である。
皆、それぞれにおめでとうと祝ってくれた。
「お前らに続きたいな」
阿良又が言うと猫矢夢乃さんは顔を赤くした。まだ早いかなと小声で彼女は言う。
猫矢夢乃さんはタレントとして活動するのだから、それが落ち着いてからだろうなと思う。来年のテレビのレギュラーもいくつか決まったと言ってたな。
「まああんたらが結婚するのは当然だわね。おめでとう。でも完熟メロン、だからといって締め切りを守らないのは許さかないからね」
竹河不由美が人差し指をたて、真面目な顔で僕たちに言う。それは喫茶すみれで打ち合わせをしていた時のひとコマである。
竹河不由美とはこれからもビジネスパートナーとしてつきあうことになるだろう。これほど頼りになり、信頼できる人間は他にはいない。
僕はこらからきっと仕事のことは竹河不由美にすべて相談することになるだろう。
結婚式は麻里子さんの誕生日である十一月十一日に決めた。それに向けて、いろいろと動いていかなければいけない。
冬のコミックカーニバルで麻里子ちゃんにプロポーズをされ、それを受けてから約半年が過ぎた。
六月のある日のことだ。
その日は朝から雨だった。ずっと雨がふり、止む気配はなかった。
相変わらず麻里子ちゃんは原稿に必死に取り組んでいた。毎回綱渡りだが、原稿は落とさずに来れている。本当に綱渡りだけどね。
妹の敦子は大学を出て、正式に麻里子ちゃんのアシスタントになった。
竹河不由美と僕は恋泉耶雲を法人化させるために本格的に動きだした。大変だけど、生きている実感が味わえる。恐らく、僕は恋泉耶雲が晴れて法人化し、株式会社になったら会社員をやめてそちらに専念するだろう。
二足のわらじでやれるほど甘くないのは身をもって知ったことだ。竹河不由美のサポートがなければ早い段階であきらめていただう。
そんないそがしくも楽しい日々を送っていた僕は夕ご飯の準備をしていた。その日は敦子もいたので、妹の好きな唐揚げをつくった。
市販の唐揚げ粉を使っただけのものなのに麻里子ちゃんも敦子も気に入ってくれている。
リビングのテーブルに唐揚げを並べ、サラダを盛り付けているとテレビから夕方のニュースが流れてきた。
大阪市内在住の結城瑞樹さんがインサイダー取引ならびに売春斡旋なのどの容疑で逮捕されました。
液晶テレビの中の女子アナウンサーは淡々とにを読み上げた。




