らぶらぶカップル創設特別執行部 〜王子と悪役令嬢をくっつける簡単なお仕事です
「あなた方を、らぶらぶカップル創設特別執行部に任じます」
銀髪をきっちりと撫でつけた男――この国の宰相は、真顔で言った。
ラリサはくるりと後ろを振り返った。誰もいない。
と、いうことは、銀縁眼鏡の奥に覗く銀色の目が見つめているのは、間違いなくラリサで、宰相が話しかけているのも、どうやらラリサらしい。
「らぶらぶカップル特別……何でしたっけ?」
ここ、筆頭魔術師の仕事場である魔術塔は、辺鄙も辺鄙、可能ならばできるだけ来たくはない場所にある。王城から徒歩でおおよそ2時間、その間にあるのはひたすら草原と高原と平原。野生の魔物に襲われることもざらで、心なしか宰相の立ち姿にも覇気がない。
だがそれでも、宰相自ら足を運んできたのだ。何事かと思えば。
宰相は、苦いものを口の中に溢れんばかりに詰め込まれたような顔で繰り返す。
「らぶらぶカップル創設特別執行部です」
「……詳細の前に聞きたいんですが、それ本当に私の仕事です?」
「正確に言えば、そこにうずくまっている筆頭魔術師殿の仕事です。助手のあなたはおまけです」
ラリサは思わず、部屋の主に視線を送る。
雑多な薬品や魔石で散らかった室内。部屋の隅でボロ切れよろしく丸まっている、筆頭魔術師アーネスト。相変わらず手元から目を離さず、来客に一切興味を示そうとしない。
アーネストについては諦めて、ラリサは尋ね返した。
「……内容は聞かなくていいですか?」
「あなた方には、これから、イヴァン王太子殿下と、その婚約者のアリーナ嬢との仲を取り持っていただきます」
「聞きたくないって言いました。わざわざご足労いただいてちょっと申し訳ないんですが、できれば帰ってほしいです」
「陛下の仰せです」
「王命ぃ……」
宰相は無感情に続ける。
「最近イヴァン殿下と同じ学園に通っている男爵令嬢ルーナとの距離が近く、殿下が自分で婚約者を選ぶなどとふざけたことを言い出す……いえ、自立心に溢れたことをおっしゃるのも、時間の問題だとのお考えです」
「へぇ……」
「婚約破棄などという事態になったら始末に終えません。それを未然に防ぐというのが、あなた方の使命です」
「ちなみに、ですけど」
そろり、とラリサは手を上げる。
「その名前をつけたのは誰です?」
「どの名前です?」
「らぶらぶカップル執行……何でしたっけ」
「らぶらぶカップル創設特別執行部です。命名は陛下です」
「一応聞くんですが、拒否権は……」
「あると思います?」
「ですよねぇ……」
ラリサは頭を抱えた。
仕事内容はわかった。よくわかった。
でも、普通に面倒だし、そもそもラリサもアーネストも専門分野はそこじゃない。
そこまで考えて、はっとラリサは思いつく。
「待ってくださいよ宰相さん。あのアーネスト様が、それ、やるっていうと思います? アーネスト様ですよ?」
「その手綱を握るのがラリサ、あなたの仕事でしょう」
「みんな私を猛獣使いみたいな言い方しますけど、私、別にそんな特殊能力持ってませんからね?」
「それでもあの男相手にここまで長く続いた助手はあなただけです」
「それはただ私が辞めないだけですって。だからってアーネスト様を思いのままに操れるとかそんな大それたこと――っと!」
咄嗟にラリサは身体を捻り、それと同時に手に持っていた筆記用の板をくるりと垂直になるように回す。そのまま洗練された仕草で、まるで盾のように背後へと掲げた。
「五月蝿い」
低い声と共に飛んできた黒い物体が、板に当たって、べしゃりと音を立てた。
ずるりと板を滑り、床に落ちて黒いしみを作っていくそれを、ラリサは薬指と小指だけで嫌そうに持ち上げた。ぬるぬると滑る感触に顔をしかめながら、アーネストに聞こえるように大きなため息をつく。
「アーネスト様、研究中に部屋に入ってきた人間にきくらげを投げつけるのはやめてください。いつも言ってるじゃないですか」
「勝手に入ってくる方が悪い」
「失礼ですよ」
「……」
それきり無視を決め込んだ男を、両手の人差し指で指差しながら、ラリサは全力で主張する。
「いやいや、あの人が協力すると思います?」
「王命です」
「あの人に王命とかいう概念ないですって、ほんと、きくらげの研究以外何の反応もしないですから」
王の右腕となって働く筆頭魔術師の称号を唯一保持し、天才的な魔法の才能を持つ男。
そう信じて、かつてのラリサは、アーネストの部屋の戸を叩いた。戸を開いた瞬間に感じたのは、むせかえるようなきくらげの臭気だった。
なぜに、きくらげ。
ありとあらゆる人が、そう聞いた。アーネストはその全ての質問を無視した。
筆頭魔術師に与えられる莫大な給金を全て断り、代わりにきくらげの輸入を恒久絶やさないことを約束させた男である。なぜにきくらげかは、誰にもわからない。もちろん、ラリサにも。
「まあ、そんな気はしましたが。……アーネスト! あなた、王命を無視する気ですか!」
半ば叫ぶように放たれた宰相の声も、アーネストは黙殺する。
散らかり放題の部屋の中でも、なお艶を持って輝く長い黒髪。腰をつたって流れ落ちたそれは、床にまで広がり黒々と模様を描いている。伏せがちになった漆黒の目が、気だるげに瞬きながら手元を追っていた。
どこか浮世離れした、どこまでも自由な、男。
「ほらなんにも聞いてないでしょう! だから陛下には無理ですっていい感じに伝えといてください!」
「あなた方はまた……」
胃が痛い、という顔で薄くなり始めた頭をなぞった宰相だったが、不意にその表情を変える。
銀縁眼鏡の後ろで、嫌な感じに、その目が光った。
「それではラリサ。どんな理由があろうと、イヴァン殿下とアリーナ嬢が婚約破棄した瞬間に、あなたは解雇です」
「えっ!? ちょっと、さすがに宰相さんでも、言っていい冗談と悪い冗談があるんじゃないかなーって」
「へえ? 理解しました、解雇希望ですね」
「いやちょっと待ってくださいって、ほら、私と宰相さんの仲じゃないですか」
「どういう仲ですか」
「アーネスト様をなんとかしよう同盟ですよ! ほら同志ですって! そんな私を解雇ですか?」
筆頭魔術師、すなわち、王の右腕。
王からアーネストに指示は出る。だがそれを伝えるのは、宰相である。そしてラリサでもある。
きくらげの前から意地でも動こうとしないアーネスト相手に、ひたすら戦った仲間。それはもう、戦友と呼んだって差し支えないはずだ。
必死で主張するも、呆れたようにラリサを見つめる宰相の視線は、氷のように冷ややかだ。
「ちょっとアーネスト様! 本気で私の首がかかってるみたいなんで話だけでも聞いてくださいよ!」
ラリサの決死の叫びに、アーネストが、不満たらたらといった様子で視線だけを上げた。その指先はとんとんと机を叩き続けており、反対の手は何かを描くように机の上を滑っている。
きっと、今もその頭の中では何かを計算しているのだろう。
けれど、それで十分だ。半分でもこちらの世界に来てもらえれば上等。そしてこの人の頭なら、半分でも多すぎるくらい。
「王命です」
「内容は」
「聞いてなかったんですか」
「ああ」
「いちゃいちゃカップル作成格別委員会? あれ?」
「らぶらぶカップル創設特別執行部です」
宰相さん、ありがとう、とラリサは目線でお礼を言う。
アーネストへと視線を戻せば、その指先はぴたりと動きを止めていた。わずかに寄った眉。微かに傾けられた首。やや上に投げられた視線。
「よかったですね宰相さん。この人がこんなに混乱している様子、なかなか見れないですよ」
「これは混乱しているのですか?」
「それはもう、とっても、私が見た中では5本の指には入りますよ」
「この他にもあったのです?」
「……きくらげの研究の話ですけど、聞きたいですか?」
「遠慮しておきます」
呑気にラリサたちが会話している間、完全に熟考体制に入っていたアーネストだったが、2人の言葉が途切れたタイミングで、重い口を開く。
「説明を」
かくかくしかじか、とラリサが説明する。
要は、王太子イヴァンと公爵令嬢アリーナを、らぶらぶカップルにすればいい、ということ。
「承知した」
あっさりと頷いたアーネストに、驚いたのはラリサである。
「わかったんです!?」
「ああ」
「え、いいんですか?」
「ああ」
「本気で、あつあつカップル制作特殊実行部隊をやるって言ってるんですか?」
「らぶらぶカップル創設特別執行部だ」
「さすがの記憶力ですね」
「まあ」
「本当にやるんですか?」
わずかに視線を細めた後、アーネストは立ち上がってゆっくりとラリサの元へ歩いてくる。
「ラリサが、解雇されるならやるしかない」
面倒くさそうに長髪をかき上げながら。
近づいてきた男は、宰相へと視線を動かすと、今度こそ首を傾げた。
「で? 作戦は?」
◇
「これ、勝算あるんですか?」
宰相の力作「㊙︎らぶらぶカップル創設特別執行部企画書」をぱらぱらとめくりながら、ラリサは唇を尖らせる。
「杜撰な作戦だな」
企画書を放り捨てて、アーネストが平然と言い放つ。
「あなた方は……もう……」
ぷるぷると震える宰相の肩に手を乗せて、ラリサはまあまあ、と生暖かい目を向けた。
「この人が社会生活不適合者なのはもう諦めてください。人の心ってものがありませんから」
「杜撰なのは仕方ありませんよ! 人間の心を取り扱おうとしているんです、手っ取り早く惚れ薬でも作ってもらえないかとも思って来たんですが!」
「俺はきくらげ以外は扱わん」
「そこをなんとかと思ってました!」
「断る」
「それでも――」
「ちょっと宰相さん。無理強いは褒められたことじゃないですよ」
ラリサが口を挟めば、ちらりとアーネストの視線が向けられる。
「別に無理強いするつもりはありませんが、せっかく使えない魔法はないくらいの天才なのに、才能の無駄遣いじゃないですか」
「無駄遣いかどうかは、アーネスト様が決めることです」
ラリサは肩をすくめた。
「私たちみたいな凡人に、この人の頭の中が理解できるわけないでしょう」
「何がなんでも惚れ薬の類は使わないってことですか」
「アーネスト様はそういう気分なんでしょうね」
「それなら杜撰だの何だの文句を言わないでください! ――っ!?」
宰相の言葉が途切れる。
飛来したきくらげが、びしゃり、とその顔面に直撃した。
「五月蝿い」
「力技で口止めですか? 相っ変わらず失礼な方ですね」
「面倒」
「あーもう、筆頭魔術師であるあなたの衣食住の確保をしているのは誰だと思ってるんですか?」
「俺は今すぐラリサと逃げてもいい」
その言葉に、宰相はう、と息をつめ。
せめてもの意趣返しとばかりに、ラリサに囁く。
「懐かれてますね」
「はい、なぜかはよくわかりませんけど。助手としては、身の回りの世話以外、何かしたつもりはないんですよね」
「あの人にとっては、『余計なことを何もしない』ってことが何より重要なんでしょうね」
ラリサは気恥ずかしくなって視線を落とす。
ラリサだって、幼い頃にアーネストに命を救われ、そのままおしかけ助手を始めた身なのだ。気に入ってもらえるなら、そばに置いてもらえるなら、それは嬉しい。
でもまあ、アーネストにとっては、全自動掃除機、兼調理器具と大して変わらない存在かもしれないけど。そんなことは知っているし、それ以上を期待するつもりもない。
ラリサは再びきくらげに手を伸ばしたアーネストへと目をやる。
人の心ってものがなさそうだ。他人を認識しているかも怪しい。誰かを特別に気にいるだなんて、ましてや恋愛感情を抱くだなんて、想像できない。
この人に男女の仲を取り持たせるなんて、流石に人選を間違えすぎてないかな、とは思うけれど。
「もうやるしかないんですよね。私の首がかかってるので。私の首がかかってるので!」
「やる気を出してくださって何よりです」
「宰相さんのその笑顔、一番嫌いです」
「ええ、そうですか」
「きくらげ」
突然割り入ってきた声に、ラリサは振り返る。
いつの間にか定位置に戻っていたアーネストは、手に持った禍々しい色の液体に浸かったきくらげから目を逸さぬまま、言い放った。
「報酬」
宰相がため息まじりに答える。
「はいはい。わかりましたよ」
「じゃあ」
ラリサは立ち上がった。筆記用の板を裏返し、さらさらと書き込んでいく。
目標:らぶらぶカップルの創設。
手段:企画書通り。
報酬:きくらげ。ただし失敗したら、ラリサの首が飛ぶ。
「らぶらぶカップル創設特別執行部第一作戦、名付けて『吊り橋効果作戦』!」
始動。
◇
王太子イヴァンは、不貞腐れた気持ちを隠そうともせず、正面に座る婚約者を見つめた。茶器の間に肘をつき、深いため息を漏らす。
公爵令嬢アリーナ。豊かな体つきと整った顔立ちは評価に値するが、その高慢で我儘な性格は、どうにも気に食わない。
優秀な女だ。だがそれだけだ。世の中の全ての基準を学問にするなど、馬鹿げている。もっと大切なものがある。
例えば、優しさだとか。思いやり、だとか。愛嬌、とか。
「イヴァン殿下、何か御用でしょうか」
つんとした声は、やはり気に障る。答えるのも面倒になったイヴァンが視線を逸らせば、その視界の端でアリーナが扇子の影に顔を伏せたのがわかった。
扇子を握る手が微かに震えているのを目にして、イヴァンは笑みを浮かべる。
普段からそれだけの可愛げがあればいいものを。
王宮の庭園にある、静かなガゼボ。白い茶器と色鮮やかな菓子で彩られた、優雅な空間。
しかしそこに広がるのは、2人にとってはもはや慣れた沈黙。だった、が。
「――っ!?」
突然、地面が揺れた。
「殿下!」
立ち上がったアリーナがイヴァンを助けようと手を伸ばすが、すぐに揺れに足を取られて転びかける。イヴァンはといえば、恐怖の表情を浮かべて座り込むのみ。
やっとのことでテーブルへと掴まり身体を支えたアリーナは、慌てて辺りを見渡した。
揺れている。とはいえ、何かが崩壊するときのような揺れ方ではない。
ふわふわと妙な浮遊感を伴うこの不規則な揺れは、例えるならば、吊り橋の上、のような――。
◇
「そこでアリーナ様を助けなさいよ馬鹿王子!!」
思わず絶叫したラリサは、はっと口を塞いだ。恐る恐る傍のアーネストへと視線を送るが、アーネストは相変わらず面倒臭そうな表情のままだ。
どうやら、聞こえてはいないらしい。我関せず、という態度を貫き続けている。
イヴァンとアリーナの座るガゼボからやや離れたところにある、もう一つのガゼボ。
その屋根の上に仁王立ちするラリサと、きくらげ片手に座り込んでいる漆黒の魔術師。アーネスト。
もちろんこの振動の原因は、アーネストの魔法である。
「『吊り橋効果』! 恐怖のドキドキを、恋のドキドキと勘違いさせる作戦! なのにどうしてあの王子は怯えてるのかなあ! アリーナ様の方がちゃんとしてるって!」
「……」
アーネストは無視。思考の半分以上をきくらげに奪われながら、残った思考でガゼボを振動させている。
吊り橋の揺れを魔法で完全再現してみせた男は、けれどその成果には全く関心がないらしい。
それにもとっくに慣れてしまったラリサは、1人じっと成り行きを見守る。
立ち上がったアリーナ。けれどあまりの振動に動けない様子。
座り込んだままのイヴァン。どうやら腰が抜けている。
「情けな……うわぁ……」
「緩めるか」
アーネストがラリサを見上げ、端的に尋ねる。
「うーん癪だけど……あの程度の振動なら耐えてアリーナ様を助けてほしいけど……無理そうなのでお願いします」
「ああ」
その一言とともに振動が1段階穏やかになる。
そこで動き出したのは、アリーナだった。まとわりつくスカートに苦心しながら、イヴァンの元へと向かう。揺れる地面をどうにか進み、イヴァンへと手を伸ばしたアリーナだったが、イヴァンはただ首を振るのみ。どうやら助けを拒んでいる様子。
「ええぇあそこでプライド? ないわ」
「ラリサ」
「なんでしょう」
「ああいう男は好みではないか?」
「そりゃそうでしょ、なし寄りのなしです。私は守ってもらいたいタイプなので」
「そうか」
ちょっとなんですかその質問、と唇を尖らせたラリサだったが、どうでもよくなったらしいアーネストは再びきくらげへと視線を戻している。
今度は、炎天下で徐々に乾いていくきくらげを観察している様子。
イヴァンを助けようとするアリーナ。アリーナを拒むイヴァン。両者の顔に浮かぶのは、紛れもない苛立ち。
「失敗かぁ……私の首……」
「次がある」
アーネストが自ら口を開くことは珍しい。ラリサが驚いて見下ろせば、気だるげにきくらげを弄んでいた男は軽く手を上げた。
こういう背中は格好いいのになぁ、とラリサは目を細める。
それは、ラリサがまだ幼かった時。
村が、壊滅した。
原因は、突如襲いかかってきた魔物の群れだった。今思えば、それはのちに起こる魔物の王都大侵攻の予兆にすぎなかったのだけれど、なんの備えもないごく普通の村で捌き切れるような魔物の量ではなかった。
ラリサは阿鼻叫喚の中を、たった1人で逃げていた。悲鳴と、魔物の唸り声と、大切な人を求めて絶叫する声。両親を探して泣き叫びながら走っているうち、魔物の一部がラリサの姿を捉えた。
子供の足で逃げ切れるほど、魔物は弱くない。あっという間に壁際に追い詰められて、目の前には大きな魔物が3匹もいて、幼心にも死ぬな、と思ったのをうっすらと覚えている。
その記憶がどうにもぼんやりとしているのは、その後に植え付けられた記憶が、あまりにも、鮮烈だったから。
魔物がその口を開き、濁った唾液がラリサの胸元に滴り落ちそうになった、その瞬間。
強い光が視界を焼いて、魔物の顔が目の前から消えた。
こつ、と足音が路地に響く。
ラリサと魔物の間に突如現れたその人は、黒髪を熱風に吹き上げられながら、3匹の魔物を一瞬で粉微塵にしてみせた。
ラリサよりは年上だろうが、大人というほどの年でもない。まだ少年らしさを残した華奢な身体つきと、妙に貫禄のある雰囲気がどこかアンバランスだった。
ふうと息をついた青年は、怯えて震えるラリサに視線を向け、やや困ったように眉を下げる。こつ、足音を鳴らして、青年はゆっくりと近づいてきて。
軽く、ラリサの頭に手を乗せた。大きな手が、無造作に細い毛を掻き回した。
「後は俺に任せろ」
そう言って消えていった人。筆頭魔術師アーネスト。
当時から若き天才と謳われ、ありとあらゆる魔術研究分野に刻まれたその名を知ったのは、魔物の群れがあっという間に鎮圧され、街の復興が進んできた頃だった。
ずっと憧れて、あんなふうになりたくて。
平民として生まれながらも魔法学校を卒業し、研究をして、特訓をして、その助手に申し込んだ――時点で、あまりの倍率の低さというか、ラリサ以外には応募者が誰もいないという現実に、少し、あれ、とは思ったけれど。
審査はとんとん拍子に進み、面接という段階になって、緊張と興奮に胸を高鳴らせて扉を叩き。
扉を開けた瞬間に顔面へと吹きつけてきたきくらげの臭気に、思わず鼻を塞いだ。
言い訳させてほしい。断じて、初めて出会った時には、アーネストはきくらげの研究などしていなかったのだ。その腰に下がっていたのも、乾燥きくらげではなく、多種多様な魔石や魔道具だった。
なぜに、きくらげ。
もちろん聞いた。もちろん、答えてもらえなかった。
そしてすったもんだの末に、こうしてあまあまカップル鋳造臨時取締役、などというものを2人でやっているのだから、人生何があるのかわからない。
「――次だ」
「っはい!」
ぴくりとも動かないイヴァンに呆れた視線を送ったアーネストは、振動を止めると立ち上がる。
その腰に揺れるきくらげはともかくとして、ラリサは、跳ねるような足取りでアーネストを追いかけた。
◇
王太子イヴァンは、そろそろうんざりしてきていた。
起床して、廊下に出た時に一回。朝食の席で一回。執務室に向かうまでの廊下で一回に、マナー講師との面談前にも一回、剣の稽古前に一回、一回、一回、一回――。
気に食わない婚約者、アリーナの顔をこれでもかとばかりに見るのだ。しかもそのアリーナも、なぜこんなところにいるのかと聞けば、道に迷った、と答えるのみ。
「これだけ入り浸っている城で道に迷うも何もあるか!」
「ええ、わたくしもそう思います」
何度目かもわからなくなった邂逅に、痺れを切らしてイヴァンが叫べば、アリーナは案外真剣な面持ちで頷いた。
「違和感があります。わたくしは慎重に道を確認してから動いておりますが、思わぬところに道が繋がるのです。こうなりますと、何か人為的な力が働いているとしか思えません」
「ありえん。其方が勝手に道に迷っているだけだろう。ご自慢の知性も形無しか?」
「……わたくしは自慢などしておりません。この際それは良いのです、わたくしの方で少々調査をしてもよろしいですか?」
「そこまでして自らの失敗を誤魔化したいか?」
イヴァンは顔を顰めた。
前々からこの婚約者は、自らの知性を鼻にかけるところがある。大方、イヴァンに学園の試験で数度勝ったことが誇らしくてたまらないのだろう。
いつまで過去の栄光に縋っているつもりだ、と言ってやりたいが、それを口にするほど子供ではない。これでも王太子としての分別はある。
「違います、わたくしはただ、御身に何かあったらと――」
「もういい。下がれ」
承知いたしました、と言ったアリーナの顔に完璧な微笑みが浮かぶ。
この表情の読めない笑顔が嫌いだ。ルルの方がよほど可愛らしい。
◇
「アリーナ様鋭いっ! そしてごめんなさいっ!」
窓から一部始終を覗き込んでいたラリサは、思わず飛び出した声を抑え込むように慌てて口を塞いだ。
その拍子にずるりと箒から身体が滑り落ち、かけたところをアーネストに捕まえられる。
首根っこを。猫の子でも捕まえるように。
「捕まえてくれたのは嬉しいですけど……」
不満たらたらにアーネストを見上げれば、アーネストは感情の読めない黒い瞳で見下ろしてきた。
ややあって、ふわりと身体が浮き、アーネストの腕の中に囲い込まれる。ラリサの身体を横向きにして、肩の下と膝の裏に手を通して――。
「なんでお姫様抱っこっ!?」
あわあわと両手を動かすラリサを、アーネストは黙って見下ろす。
その表情に変化はないが、纏う空気は心なしか満足そうだ。
熱が集まり始めている顔を隠すため、ラリサは俯く。きくらげ狂いの変人とはいえ、アーネストは初恋の人なのだ。変人とはいえ。恋人になる気なんてないとはいえ。変人と恋人って字面がそっくりだ。
「アーネスト様!」
ばたばたと暴れて、箒の上に戻してもらう。アーネストが必要最低限しか魔法を使いたがらないから、王宮に数ある備品のオンボロ魔道具に2人乗りしていたのだけれど、それでもアーネストの腕の中よりは心臓に優しい。
ラリサが箒の上によじ登った瞬間、2人分の体重を乗せて、箒ががたがたと震え始めた。尾が次々と抜けて地面に落ちていき、ぷしゅう、と空気が漏れるような音がする。
……アーネストの腕の中よりは心臓に優しい。多分。きっと。
どうにかこうにか体勢を整えたところで、ラリサは王宮の中に視線を戻した。
あからさまに不機嫌そうな顔のイヴァンが、腕を組んで廊下を歩いていく。
「……失敗、というか今回は悪化させましたよね」
単純接触効果。
すごく簡単に言えば、人はたくさん見たものを好きになる、というやつである。
パーティーに行ったとき、初対面の人よりも、たとえ一瞬でも二度、三度あった人の方が話しかけやすいというあれ。もしくは毎日のようにきくらげを食べていれば、意外ときくらげがおいしく思えてくるというあれ。
「思うんだが」
アーネストが珍しく口を開いた。
「不可能では?」
「それは言わない約束です」
ラリサは頭を抱えた。
「宰相さんの作戦が杜撰すぎるというのを考慮に入れたとしてもですよ」
どう考えても無理。イヴァンの方がダメダメすぎる。
「どうしようもないですって」
アリーナは器量よし、頭よし、性格よしの三拍子揃った娘だ。身分だって申し分ない。正直、何が不満なのか全然わからない。
けれどそれを口にしてしまえば、終わりというもの。
「アリーナ様が可哀想すぎる! 私がアリーナ様もらいたいくらい」
「……そうか?」
「そうですよー。アリーナ様可愛いし、優しいし、あのあほ王子……いえ失礼、あの殿下にあげちゃうの勿体無いくらいの女性だと思いません?」
「思わん」
「え、どうしたんですか」
急にアーネストの口調が固くなった。ラリサは驚いてその顔を覗き込む。
普段からあまり感情を見せないアーネストだから、こんなに感情が表に出てくることは珍しい。まさかアーネストまでアリーナが嫌いだなんて、
「ラリサはやらん」
「……ああ、そういうことですね! 大丈夫ですよ、いくらアリーナ様付きの侍女が、いつも綺麗なものと匂いで満たされていて主人が一般的に見て完璧すぎるくらい完璧な方で給金もずっとよくてしかも今募集中だとしても、私はアーネスト様の助手やめませんから」
「そうか」
アーネストはしばらく黙って、言う。
「給金を上げる」
「え、やった」
ラリサは素直に喜んだ。あまりお金に頓着しない方だが、毎日アーネストの隣にいるとなると髪型にも服装にもそれなりに気を遣う。どうせアーネストは見てない、などと言ってはいけない。まごうことなく事実ではあるのだが、それでも気になるのが乙女心というものだ。
だがそうすると、もちろんお金がかかる。筆頭魔術師助手というそれなりにいいポストについているのに、実家にあまりお金を送れていないことは、まあ人並みには気にしていたのだ。
「ありがとうございます」
「辞めないか?」
「元から辞めるなんて言ってません。必死すぎですよ、前の助手から私まで何週間空いたんです?」
「3ヶ月」
「なんかすみません」
思ったより長かった。じと、とラリサはアーネストを睨む。
本当に助手を繋ぎ止めておきたいのなら、その無愛想な態度ときくらげを改めればいいのに。
でも、そうでもなければ平民出身のラリサがアーネストの助手になれたとは思えないので、まあいい、ということにして。
「次行きましょ次! 次は宰相さん曰く『助けたとき効果』でどうですか! 助けた方も助けられた方も、ともに好感を抱く効果! 一説によると、人助けをしたという達成感と自己肯定感が、相手への好意と入れ替わるとか――」
早口で語るラリサの話を案外真剣に聞きながら、手のひらの中で魔法を試すアーネスト。
2人の時間は驚くほどの速さで過ぎていき。プランも決まり、いざ実行、という日。
「――ラリサ様、ですわよね? 先日から、わたくしたちの近くで何をされているのでしょう?」
あっさり、バレた。アリーナに。
絶対に逃してなるものかという凄まじい意気込みを感じる。心なしか背景の色が暗いアリーナを目の前に、ラリサはたじたじと壁際まで下がっていく。頼みの綱のアーネストはといえば、いい感じに目くらましの魔法を自分にだけかけつつきくらげを弄っていた。
「――っあの!」
「どうされました?」
「い、いえ何も。それよりアリーナ様、喉など渇きませんか? アーネスト様が最近開発したきくらげ茶の試飲など――」
「結構ですわ」
ばっさりと切り捨てられる。
「近頃何をされていたのか、お答えいただけます?」
ラリサの頭は猛回転した。
さすがにどろあまカップル錬成格別座談会として働いているだなんて、本人を前に言えるわけがない。
ないけれど、それ以外に説明する方法を思いつかない。
ラリサが黙れば黙るほど、アリーナの目が鋭くなっていく。
もはや黙る方が怪しい。苦し紛れに、ラリサは言った。
「ルーナ様の件で」
言った瞬間、ラリサは後悔した。
アリーナの目が、未だかつて見たことがない角度まで吊り上がったからだ。あれ、これ大丈夫? みんなの憧れアリーナお姉様のイメージ崩れてない?
そのままの顔で、アリーナはぴしゃりと言った。
「ええ、存じております。あなたも他の方々のように、わたくしを可哀想だと笑いにきたのですか?」
「笑いに? なんでそんなこと私がするんですか?」
びっくりしたラリサは、丁寧な言葉遣いも忘れて聞き返す。
慌てて言い訳をしようとしたラリサだったが、その隙も与えずアリーナがこぼした。
「笑われないのです?」
怒り心頭といった表情は消え失せ、純粋に不思議そうな表情を浮かべて、アリーナは言った。
どうやらアリーナは、ラリサが笑いに来たと思ったらしい。婚約者に浮気されてるのに周りから笑われる。踏んだり蹴ったりにも程がある。
貴族、大変。
貴族でなくてよかった、とラリサは独りごちる。
母に聞いた話によると、どうやら実は貴族のお偉い誰かの血が混じっているらしいが、それを明かしたことはないし、貴族として生きようとも思っていない。どこから手に入れたかは聞かないことにしているお金のおかげで魔法の勉強ができた、それだけで十分だ。
初めは、平民の成り上がり、とそれなりの陰口も聞こえたものだが、アーネストの助手を長年務めるうちに、なんか根性あるやつ、に変わっていった。
「笑うわけないじゃないですか。だってアリーナ様に非はありませんよね?」
アリーナの目が、こぼれ落ちそうなくらい大きく見開かれた。
「あ、もしかして非あります? こう、池に突き落としたりとか、物を隠したりとか」
「わたくしはそのような恥ずべき行いはいたしません」
「そうだと思います」
「信じるのですか?」
「アリーナ様はそういう方だと、前から思ってましたから」
アリーナが少し眉を下げた。控えめな微笑みが、その薄桃色の唇に宿る。
「あのバカ王子を捨てて、ラリサ様と婚約しようかしら」
ちょっとアリーナ様から聞いてはいけない言葉が聞こえた気がしたけれど、それより、とラリサは動く。
筆記用の板を掲げて、べちゃり、と。
床に落ちたきくらげを拾い上げながら、ラリサは言った。
「宰相さんはともかく、アリーナ様にまできくらげを投げるなんて、信じられません」
音もなく廊下に現れたアーネストに、ラリサは深いため息をついた。
◇
場所は変わって、アリーナの休憩室。
まだ婚約者という立場であるため、城にアリーナの私室は作れないが、何かと王太子イヴァンの執務を肩代わりしているために、執務室として使える部屋が必要になったのだという。
まさか執務室と名付けるわけにはいかなかったから、休憩室、と呼ばれるようになったのだとか。
そんなことを説明しながら、アリーナは手ずから入れたお茶を2人の前に置いた。
恐縮するラリサに対し、アリーナは、お呼びたてしたのはこちらですから、と笑う。つくづく素敵な人すぎて、イヴァンの気持ちがわからなくなるばかりだ。
アリーナも自分の分のカップを手に取り、向かいに腰掛ける。剣呑な雰囲気は消え失せていたが、それでもラリサから真実を聞き出すまで部屋から出す気はなさそうだった。
その辺りはさすが未来の王妃だ。貫禄が違う。
ここまできたら、とラリサは腹を括った。あまりにも美味しすぎる紅茶を一口飲んで、口を開く。
◇
「――なるほど、陛下が」
なんとも気の抜けるような説明を聴き終えた瞬間、アリーナはため息をついた。
「陛下も望まれている結婚なのですね」
「それは、」
ラリサは口篭った。
アリーナがこの婚約に乗り気でないのは明らかだし、あれが相手では当然だろう。正直、あれはやめた方がいいとしか思えない。生涯あれと添い遂げるだなんて、想像するだけで全身に鳥肌が立つ。
けれど王命、しかもラリサの首がかかっているとなれば、ラリサの立場は難しい。
首がかかっていることはまだ黙っておこう、と決めて、ラリサは確認のために問いかけた。
「アリーナ様は、望まれてないんですよね?」
「……いいえ、と言っても嘘だと思われるのでしょう?」
「それは、まあ、はい。でもあれが相手だったら……いえ失礼」
「構いません。あれが相手なので辛いです」
アリーナが真顔で言った。
あれ、と茶化しているようだけれど、本当に嫌なのだと思う。
その証拠に、少し目が潤んでいるように見えた。たおやかな手は、膝の上できつく握られている。細い指先が真っ白に染まっていた。
きっと今まで誰にも言えず、苦しかったのだろう。周りからの期待に応えることを、頑なに自分に課す人だから。
その表情を見て、心は決まった。
「やめちゃいましょ、婚約」
「そんな、軽くおっしゃるようなことでは」
「私は貴族でないのでよくわかりませんが。こんなにもあれに非があることは明らかなんですから、アリーナ様の評判が落ちるようなことはありませんよ。私も、アーネスト様の名前を勝手に使って証言しますし。アリーナ様のことを想われてる男性もたくさん知っていますし」
脳内のアリーナ親衛隊リストから、なるべく家柄がよさそうな人を探す。
「ラッチェン公爵令息とか」
アリーナの顔は晴れない。
なるべく顔がよさそうな人の名前をあげてみる。
「ルーエル侯爵令息とか」
アリーナは首を振った。
それなら、とラリサが知る限り一番性格のいい人の名前を呟いてみた。
身分的に、ないかな、と思いつつ。
「ルドレ伯爵令息とか」
アリーナの顔が、真っ赤に染まった。
あらあら、という気持ちでラリサは身を乗り出す。
「もしかして、もしかしなくてもそうなんですか?」
「い、え、わたくしは、あの、その」
アリーナはラリサから露骨に視線を逸らして、わざとらしくお茶を飲んだ。その指先はさっきとは違った感情でぷるぷると揺れていて、耳の先まで赤みが広がっていく。
普段の公爵令嬢然とした微笑みが崩れ、初恋に戸惑っている少女の顔は、端的にいうと、可愛い。
すごく、可愛い。
ラリサは腹を括った。
首になったら、仕方ないからアーネストに泣きついてみて、それが駄目だったら街の薬屋かどこかで働こう。
一度決めてしまえば、あとは実行するだけだ。
「作戦変更しましょう、アーネスト様。あれとアリーナ様から、ルドレ伯爵令息アントン様へとアリーナ様へ」
「構わんが、」
アーネストが言わんとしていることを察して、ラリサは慌ててアーネストの口を塞ぐ。
耳元に口を寄せると、アリーナに聞こえないように囁いた。
「私の首はこの際いいんです、どうにでもなります。婚約なんて一生ものですよ、アリーナ様のために」
「人が良すぎるのでは?」
「どこかの誰かのせいで、人助けに憧れてたんです」
「……」
ラリサは、肩をすくめて。
㊙︎らぶらぶカップル創設特別執行部企画書をぺらぺらとめくりつつ、アリーナに計画の概要を説明しようとした、そのとき。
前触れもなく、アーネストが言った。
「ルーナって女、魔族だが、放置でいいか?」
たっぷり数秒、部屋に沈黙が広がった。
アーネストがその沈黙に若干戸惑いつつ、でももういいや、と目を伏せ、きくらげに手を伸ばしかけたとき、ラリサが我に返った。
「なんて言いました?」
「だから、あの女が魔族だと」
「魔族って、人間界に出てこなくなって久しいじゃないですか」
「ああ」
「なんで今更」
「さあ」
一向に要領を得ない会話に、アリーナが助け舟を出す。
「魔族が出てこないのは、アーネスト様を恐れているからだとか」
魔族とは魔物の上位個体で、人の姿を取り、人語を解す。
魔法も操るため強敵と言えるが、同時にそれなりの知性も持ち合わせている。アーネストを強く警戒しても、おかしくはない。
「真っ向勝負で敵う相手ではございませんから、こうして狡い手に出たのでしょう」
アリーナの手が震えていた。その目が爛々と輝く。
白くたおやかな手を机へと叩きつけて、アリーナが叫んだ。
「ぶっ潰してやりますわ!」
女の怒りって怖いな、と思った。
◇
「――捕まりましたね」
「捕まりましたわね」
アリーナと目を合わせて、溜め息をつく。
後ろ手にラリサの手首を縛っている魔力鎖が、しゃらりと音を立てた。
「してやられました」
「まさか攫われるだなんて、思ってもいませんでしたわ」
「多分私たちのせいですね。元々らぶ設が怪しまれてたっぽいです。なりふり構わなくなったというか、思ったより強硬手段に出てきちゃいました」
「らぶ設?」
「らぶらぶカップル設立特殊部隊の略称です」
アリーナが苦笑した。
「わたくしの記憶と少々名前が違う気がいたしますが、わかりやすいですわ」
「よかったです」
薄暗い部屋だ。
その辺に転がっていた板を適当に組み合わせたような、ところどころ隙間のある壁。そこから細く差し込んでくる光が、土が丸出しになった床をうっすらと浮かび上がらせている。藁があちこちに散らばっていて、部屋の隅には古い農具が積み重ねられていた。
きっとどこかの納屋なのだろう。動物を飼っている場所に独特の匂いが微かに漂っていて、決して快適とは言い難い。
ラリサは仕方なく、身体を捻るようにして壁際ににじりよる。壊れそうな壁に寄りかかってみれば、ぎし、と木が軋む音と共に、不自然な反発があった。
どうやら魔法が使われている様子。見た目に反してそれなりに強固、と言ったところか。
「まさか女子会中を狙われるとは思いませんでした」
「アーネスト様を禁制にしたのが裏目に出ましたわね。魔族はアーネスト様の動向に注目しているでしょうから、むしろアーネスト様を外すことで怪しまれずに作戦を詰められると思ったのですが」
「そういう意図だったんですね。シンプルに女子会だと思って楽しみにしてました」
「……まあ、今となってはの話ではございます。さすがアーネスト様、ですわね。いらっしゃるだけで抑止力になっていたとは」
「いやぁ、不甲斐ないです。襲われるまでは、もうちょっと魔法使えるかなって思ってました」
「魔族相手に魔法で張り合えるのは、アーネスト様だけです。ラリサ様が責任を感じられることではありませんわ」
「アリーナ様優しい……」
まあ、とラリサは続ける。
「向こうにとってもこれは、最善の作戦ではないですよ。元々は多分、王太子との距離感を縮めて懐に入る作戦だったんでしょうけど、それが私たちに見抜かれたと勘違いして、焦ったんです」
それでは、とラリサは言った。
「アーネスト様を待ちましょう」
「……ラリサ様は落ち着いておられるのですね」
その言葉にふとアリーナの方を見れば、気丈な微笑みを浮かべているものの、その顔はやや強張っている。膝の上で握りしめられた手は、真っ白に染まっていた。
ラリサは足を投げ出して、あっさりと言う。
「大丈夫ですよ、アーネスト様が助けに来るので」
「信頼されているのですね」
「昔、救われましたから」
「……きくらげでもですか?」
「……きくらげでも、です」
多分。
余計な言葉を封じ込めて、ラリサは目を閉じた。
腐ってもラリサは筆頭魔術師の助手。近くの魔力くらい、感じ取れる。魔族は強力な分、その気配も濃いのだ。
「扉のすぐ側に気配がありますが、今のところ敵意はなさそうです」
おそらく、とラリサは言った。
「アーネスト様狙いですね。私たちは囮、兼人質といったところでしょうか」
「……助けに来ては、危ないのではないですか?」
「いえ。あの人は勝ちますから。存在してるだけで、魔族への抑止力になるような人ですよ?」
「きくらげでもですか?」
「…………きくらげでもです」
だから今ラリサたちに必要なことは。
いざアーネストが来たときに、人質にならないこと。
では、あるのだけれど。
「多分アーネスト様なら、私が人質になっても普通に助けられます。隠密系の魔法の天才なので」
「そうなのです?」
「元々の専門はそっちですからね」
アリーナがわずかに身を乗り出した。少しずつ緊張がほぐれてきているのがわかる。
「お詳しいのですね」
「はい。……女子会の続きでもします?」
「と、おっしゃいますと?」
「初恋の人なので」
きゃ、とアリーナが歓声を上げた。
「どういうところがお好きなのです?」
「助けられた瞬間に、もうころっと。ほんと単純ですけど」
「そんなことありませんわ」
「きっかけはそうなんですけど。あの人、ああ見えてすごく優しいんですよね」
「……そうですか?」
「あんまり印象ないと思いますが」
ラリサはすっと目を細めた。
その腰に揺れるきくらげを思い出しつつ、口にする。
「アーネスト様がきくらげしか扱わない理由、教えてはくれないんです。でも、アリーナ様、5年前の大侵攻って覚えてます?」
突如として徒党を組んだ魔物が、警備の隙を縫って一気に王都に雪崩れ込んできた事件だ。
アーネストが到着するまでの間、魔物は王都中を暴れ回り、破壊の限りを尽くした。
魔物の被害自体は珍しいことではない。ただその事件が大きく歴史に名を残すことになったのは、魔物が明らかに統率の取れた行動をとっていたからだ。そのため対応は後手に回り、街に大きな被害ができた。
そして後に、魔物操縦の魔法が使われていたことが判明する。
「その魔物操縦術の骨子を作ったの、アーネスト様なんです」
「……」
「元々は魔物に対抗するために作られた術なんですよ。だって魔物が自主退却してくれたら、これに勝るものはないでしょう? ただ悪用されちゃっただけなんですよね。私に言わせれば国の管理が甘かったって感じですけど」
「……それで、アーネスト様は責任を感じられて?」
「わかりません。ただアーネスト様が大侵攻を治めた報酬に望んだのが、きくらげでした」
そういう人なのだ。
困った人を見捨てられず、一人では重すぎる責任を背負った結果、自ら誰も傷つかない道を選んだ。
少なくともラリサは、そう思っている。
「……わかります、ラリサ様の気持ち」
「心がわりしました?」
悪戯っぽくラリサが言えば、アリーナは慌てて首を振った。
「別に競おうとは思っておりませんわ」
「競うも何も、元からアーネスト様とどうこうなろうなんて思ってませんから」
「そんな、」
「いいんですよ。助手として側に置いてもらってるだけで十分です」
もとより誰かを愛するような人には見えない。
あの人にとっては、魔法が世界の全てなのだ。
……最近は、きくらげなのかもしれないけれど。
「それより、アリーナ様の話を聞かせてください。ルドレ伯爵令息の――」
そのときだった。
爆音と共に、目の前が真っ白に染まる。
地面が揺れる。物が砕け散る音が響く。それでもラリサのすぐ近くだけは、まるで晴れの日の沖みたいに、ぴたりと凪いでいて。
もうもうと上がる土埃の奥で、黒い布が翻る。飛んできた真っ黒な物体が、べしゃりと音を立てて床に落ちる。
こつ、と踵の高い靴が床に叩きつけられた音は、不思議と高く鼓膜を打った。
こつ、こつ、と。これまでになく性急な音が近づいてきて。
「ラリサ」
普段はひどく気だるげな目が、今は確かな焦りを纏わせて、ラリサを見下ろしていた。
「アーネスト様」
「ラリサ」
ラリサ、と何度もアーネストはラリサの名前を呼ぶ。
はい、とラリサは何度でも答える。
「助けに来てくれて、ありがとうございます」
ちょっと見捨てられるかと、と茶化しかけた言葉は、結局口から出なかった。
真剣な、これ以上ないくらいに真剣なアーネストの目が、ラリサを見下ろしている。
「ラリサ」
ばたばたと足音が聞こえてくる。アーネストの立てた物音を聞きつけて人がやってきたのか、それともアーネストが誰かを連れてきたのか。けれどすぐに、後者だとわかる。
「アリーナ様!」
城の近衛兵の制服を纏った男たちは、アリーナへと駆け寄るなり何事かささやいた。よろめくアリーナに手を貸して、外へと連れ出そうとする。それに従ってアリーナは立ち上がり、けれど躊躇うようにラリサに視線を向けた。
ラリサは笑って首を振る。
「もう大丈夫ですよ」
「ですが、」
「アーネスト様に手出しできる人なんていません。ああもちろん、人以外もですが」
安心させるように、アリーナへと頷く。
わかりました、と呟いたアリーナは、それでもどこか心配げな様子で、だからと言って立ち止まることもせず、何度かラリサを振り返りながら彼らに連れられていった。
後に残されたのは2人。
ラリサと、アーネスト。
痛いほどの沈黙に、ラリサは目を逸らす。
やっぱりおかしい。元々別に口数が多い人ではないから、というか黙っている方がデフォルトだから、別に沈黙自体が変なわけじゃない。というか沈黙の方が、ラリサなど視界に入っていないような態度の方が普通で、そうだ、
アーネストが、ラリサを見ている。
まっすぐ。目を逸らすことなく。ただラリサだけを視界に入れて。その他のものなど何も目に入っていないかのように。
おかしい、だってラリサは、
「私、きくらげじゃないですよ……?」
すとん、と気が抜けたようにアーネストが笑う。
「何の話だ?」
その顔が、不思議と柔らかい。黒い目が、穏やかにラリサを見下ろしている。
おかしい、おかしい、だって、
――元からアーネスト様とどうこうなろうなんて思ってませんから。
そうだ、その言葉に嘘はない。
ラリサはアーネストのそばにいられればそれでよくて、それ以上を望んだことなんてなくて。
それなのに。
「無事か」
「それは、まあ、はい」
「そうか」
それを聞くなり、露骨に顔を緩めるアーネストなんて、知らない。
「アーネスト様なら助けに来てくれると思ってましたよ」
「そうか」
俺なら当然だという偉そうな顔の後ろに滲む、微かな喜色なんて。
「ラリサだからな」
細められた目の奥に揺れる、松明の炎に似た熱なんて。
それら全てから逃れるように、ラリサは立ち上がって、アーネストの視線から逃れる。
途端に、見渡す限りの更地が視界に飛び込んできた。遠くに見える王城から察するに、どうやら王都の外れのようだが、ここは元々森だったはずだ。
ぐるりと顔を巡らせても、砂と土しか見えない。確か宰相さんがこの辺りを開拓したいと言っていたはずだが、それはそれとして文字通りなんにもなくなっている。
「ちょっと、やりすぎじゃないですか。いくら魔族って言ったって」
アーネストは答えない。
冷たくなり始めた夕方の風が、二人の間を滑っていく。
「……あんまり魔法使いたくないんですよね。ごめんなさい、ちょっと油断しました」
「……どうしてそれを」
「見てればわかりますよ」
ラリサは苦笑した。
「アーネスト様、多分周りの人が思ってる以上に、わかりやすいです」
「なんだ」
「あー、悪口じゃないですから怒らないで。褒めてるんです、ほら」
意味もなく、足元にあった農具の残骸を蹴ってみる。
「優しいってことです」
「……どこが」
「きくらげ」
アーネストが押し黙ったのを感じて、ラリサはほくそえんだ。この人がこんなに動揺しているのは珍しい。5本の指には入るだろう。らぶ設の話を聞いたとき以上だ。
少しだけその喜びを噛み締めて、でも、とラリサは明るく言う。
「もう魔法を使う必要はないですから、安心してください。元々アーネスト様狙いの誘拐でしたからね、これ」
「……それがなぜ」
「珍しいですね、わかってるでしょう。解雇ですよ、解雇。助手辞めれば、もう攫われることなんてありません」
「……は?」
「最初に言いましたよね、任務に失敗したら解雇。私だって流石に、今からアリーナ様とあのバカをくっつけようだなんて可哀想なこと、したくありませんし。いい子ですよ、アリーナ様。……あーあ、仕事探さなきゃ」
ラリサは両手を天に伸ばす。
真っ青な空。痛いくらいに目を焼く、強すぎる夕日。じわりと目頭が熱くなる。
「アーネスト様、なんかいい仕事先知りませんか? アーネスト様の紹介なら、もしかしたら雇ってくれるかな、なんて、」
「ラリサが望んだことだ」
「はい?」
「だから」
アーネストが苛立ったように、地面を蹴り付けたのがわかった。
「ラリサが、俺の助手になりたいと言った」
「そうでしたね」
「……もう嫌か」
「私、そんなこと言ってませんよ」
一つ、ため息。
嫌だなんてとんでもない。できるものなら助手を続けたいし、本音をいうと空に向かって呪詛の一つや二つ吐きたいくらいだけれど、約束は約束で、王命は王命だ。仕方ない、ラリサは失敗した。
けれどアーネストは、未練がましく助手の座に縋り付くような、過度な干渉を好まないことを知っているから。
「ただ、王命ですから、仕方ありません」
「それでいいのか」
「え?」
「それで、いいのかと聞いている」
珍しくアーネストの口数が多い。
「……まあ仕方ないんじゃないですか? 私、王命に逆らう勇気なんて持ってませんし」
「ラリサ」
俺は言った、とささやく声。
「今すぐ、ラリサを抱いて逃げてもいい」
「……何言ってるんですか」
本気で言っている、なんて思わない。
それにしたって、わざわざどうしてそんなことを言うのか。質の悪い冗談はやめてほしい。
「筆頭魔術師様が失踪だなんて、国をあげての大騒ぎですよ」
「どうせ何もしていない」
「アーネスト様が王家に仕えてるってだけで、多方面に対して多大なる圧力がかかってるでしょうに」
ラリサは首を振る。
「ダメですよ、戦争とか私嫌ですし」
「……」
「あー、もしかして私が辞めた後の心配ですか?」
ラリサはぽんと手を打った。
それならわかる。何せ前任からラリサまで3ヶ月空いたという。次の人が見つかるまでどれくらいかかるかラリサにもわからないし、アーネストは助手という名の雑用係なしに生活ができるほど器用ではない。一応、こう見えて生粋の貴族だし。
「それはちょっと私も考えてませんでした。一応つてを辿ってみますが――」
「ラリサが、」
ラリサの言葉を遮って、アーネストが言った。
「ラリサがいい」
「……ちょっと、やめてくださいよ」
そういうことを言わないでほしい。
わかっている、アーネストが求めているのはあくまでも便利な助手だ。ある程度生活能力があって、それなりの魔術に関する知識があって、面倒な対人業務を全て引き受けた上で不必要なことを何もしない。
そういう人間はそれなりに貴重だし、アーネストが惜しむのもまあ、わからなくはない。
けれど。
これでもラリサは、アーネストに勝手に恋をしているわけで。
「変なこと言わないでください。それともそれも貴族お得意のリップサービスってやつですか」
熱くなった頬を抑えて、ラリサは俯く。
2人きりがよくないのか。そうに違いない、それならすぐにでも城に戻らなくては。事後処理とかもあるだろうし。
「まさか」
距離を詰めようとしてくるアーネストの視線から逃れるように、ラリサは城に向かって歩き出そうとして、
アーネストの右腕に、遮られる。
黒いローブに包まれた腕が、明確に、ラリサの行く先を阻み。絶対に逃さないとでも言いたげに、アーネストの身体が寄せられる。
「本気だ」
「……わかりました。本気で私に辞めてほしくないのはわかりましたけど、どっちにしろ私は首ですから――」
「嫌だ」
「子供じゃないんですから、もう、私も困りますって」
「わかった」
ラリサは思わずアーネストの顔を見上げる。
突然おとなしく引き下がったかと思えば。けれどアーネストは静かに、けれど熱のこもった目で、ラリサを見下ろしていた。
「辞めていい。だが行くな」
「助手でもないのに居座れませんって。それなりの立場ってものが必要です、ほら、対外的にも」
「弟子ならどうだ」
「実質助手ですよね。っていうかアーネスト様、人に魔法教えられるんです? 天才肌のくせして」
「なら友人」
「魔術塔に居座るにはちょっと無茶だと思いますよ」
「ペット」
「私の人権無視しないでください」
「宰相」
「いや、クーデターとか絶対嫌ですからね?」
「なら」
アーネストが言った。
「恋人」
あっさりと。なんでもないことのように。
「ならどうだ」
「……どうだ、って」
思わず唇が震えた。
「それでいいんですか」
アーネストは黙って頷く。
「……その、程度なんですか」
アーネストにとっては。
恋人という名前は、ただ便利な助手を引き留めておくための、都合のいい方便しかなくて。
「そんなにあっさり、人にその名前をあげられるんですか」
結局そこに込められた意味を、本来その後ろにあるべき感情を、意識しているのはラリサだけなのだ。
――元からアーネスト様とどうこうなろうなんて思ってませんから。
は、と小さくラリサは笑いを漏らす。
大嘘だ、大嘘。そう思っていたはずなのに、こうしてアーネストにあっさりと現実を突きつけられれば、心の奥底に隠しておいた本音は容易く顔を出す。
どうこうなろうなんて思ってない。
だって、アーネストがラリサのことを好きになるだなんて、万が一にもありえないから。
どうこうなろうなんて思ってない。
だって、どうこうなろうとして、傷つくのが怖いから。
そうするくらいなら。せめて「振られてはいない」曖昧な立場に立っていたいと。
結局のところ、そういう話だった。今にも目の端からこぼれ落ちそうな涙が、その証明だった。
「……お断りします」
早口でつぶやいて、ラリサはアーネストに背を向ける。
気持ちの伴わない恋人なんて。
そんなものになるくらいなら、解雇されて新たに職を探したほうが、ずっと、ずっとましだ。
なのに。
「……なぜ」
呆然と、アーネストが呟く声がする。
本当にわかっていないのだ。ラリサが嫌がった理由を。自分が口にしたことの意味を。
そう思った瞬間、頭の中で、ぷつ、と何かが切れる音がした。
「あのですねえ!」
ラリサはばっと振り向くと、アーネストの腕を掴む。
そのままアーネストの長身を引き寄せて、息がかかりそうな距離で、ラリサは怒鳴った。
「恋人ってのは、好き合ってるもの同士がなるものなんです! そりゃ契約だのなんだのあるかもだけど、普通は好きな人だけがなれるものなの!」
昂る感情に任せて喉を震わせれば、それに感化されたように涙が溢れた。それを拭うこともせず、ラリサは叫ぶ。
「アーネスト様にとっては恋人なんてどうでもいいかもしれないけど、そうじゃない人もいるの! 簡単に言わないで! どうでもいいことのように扱わないで! それって」
それって、とラリサは喉を詰まらせた。
「……すごく、残酷」
「……」
アーネストは大きく目を見開いた状態で動きを止めていた。
その感情の抜け落ちたような表情に、ラリサの頭からも、すとんと熱が抜け落ちる。
「……すみません」
ただの、八つ当たり。振られた腹いせ。
アーネストが自分の恋人の座をどう扱おうが、少なくともラリサが口を出すような話ではない。
わかっていた、はずなのに。
「今日で辞めます。お世話になりました」
最後の最後で一方的にキレたりしなければ、アーネストお気に入りの助手でいられたのにな、なんて思って。
今度こそその場を離れようとしたとき、アーネストがぽつりと漏らした。
「知っている」
「……何がですか」
「恋人の意味も、価値も」
アーネストの手が、ラリサの手首を少し痛いくらいの力で掴む。
「だから、ラリサに渡したいと思った」
「い……や、え?」
「ラリサ」
アーネストが一気に顔を近づけてくるのを見て、ラリサは咄嗟に手で口を覆った。
「……」
不満そうな目が向けられるけれど、待ってほしい。
「ちょっと、え? 私に恋人の座を渡したいって、そんなの」
「だから」
不満げな目の縁が、赤い。
「ラリサと恋人になりたいと、何度も」
「……何度もって、いや、だって!」
ラリサは混乱する頭を振りながら、言葉を絞り出す。
「あんなの。私を手元においておく方便として恋人を名乗るって意味にしか取れないですよ」
「……そうか?」
「そうか、じゃないですよ! おかしいです、本当にあれで告白したつもりだったんですか!」
アーネストは黙って頷く。
「いや、それじゃあ、私のしたことって」
とんだ一人芝居。
両手で顔を覆ったラリサに、アーネストが追い打ちをかける。
「ラリサだから、辞めてほしくない。辞めるというのなら、と」
「……辞めなければ、恋人になるつもりはなかったんですか」
「そうではなく」
アーネストが口籠る。
「助手としてでも近くにラリサがいるのなら、それだけでいいと」
「……私たち」
ラリサは、はあっと長い息を吐き出した。
「同じこと考えてたみたいですね」
「……そうか?」
「伝わってなかったんですか」
ラリサは一度目を逸らし。
「いいですか。恋愛ど素人なアーネスト様に教えてあげます、告白ってのはこうやるんですよ」
指先でアーネストの顎をさらって。
「アーネスト様。好きです」
その頬に、自らの唇をそっと押し当てる。
「……わかりました?」
アーネストは文字通り、ぴたりと固まっている。その様子がおかしくて、ラリサがくすりと笑い声を漏らした瞬間、アーネストが動いた。
同じようにラリサの顎をさらって、無防備になった唇に向かって、かがみ込んで。
「……好きだ」
微かなささやきと共に、柔らかいものが唇に触れる。
息が混じり合いそうな距離で、アーネストの目が少し細められた。
時を止める魔法ってあっただろうか、なんて思う。
痛いほどに高鳴る心臓の音を聞きながら、ラリサはそっと目を閉じた。叫び出したいような熱い感情が、行き場をなくして身体の内側で渦巻く。
初めて味わう口付けは、温かくて甘くて、
……少しだけきくらげの匂いがした。
◇
「えー」
銀髪をきっちりと撫で付けた男――この国の宰相は、重々しく口を開いた。
「この度、イヴァン殿下とアリーナ嬢の婚約破棄が成立しました」
「おめでとうございます」
ラリサはあっさりと言った。
「私も嬉しいです」
ちなみに、と聞いてみる。
「アリーナ様、他の方と婚約されました?」
「……まだ、ですが」
「まだってことは当てがあるんですね」
「噂には事欠かないということです」
「最有力候補は」
「どうせ知ってるなら聞かないでください」
「ルドレ伯爵令息?」
宰相は疲れたように頷いた。
「あなたに感謝を伝えてほしいとアリーナ嬢に言われました。どうもありがとうございます。本当に何をしてくれてるんですか」
「いやぁ、人助けは気分がいいですね」
「任務の内容を忘れたんですか?」
「いやあのバカ王子、どうしようもないですって。ちなみにどうなりました?」
「魔族と強い関わりがあったため勾留中です。そのうち婚約関係についても調査が入るでしょう。アリーナ嬢は慰謝料をぶん取ると息巻いてます。あ、そうだ、どうも魔族退治お疲れ様でした」
「宰相さん、軽い」
ラリサは唇を尖らせる。文句の言葉を垂れようとしたところで、宰相が被せるように口を開いた。
「そんなことより」
そのこめかみが、ひくりと動く。
「あなたは、婚約が破棄されたということの意味がわかっていますか?」
「あー、はい。解雇ですよね。これ、お返しします」
筆頭魔術師助手であることを示す首飾りを外して、宰相に渡す。しかし宰相はそれを受け取ることはせず、代わりに探るように言った。
「……その割に、撤収する気は皆無のようですがね」
宰相は、部屋の隅に積んであったラリサの荷物に視線を送る。きくらげが少し混ざり込んでいなくもないが、基本的にごく一般的な日用品がおいてあるだけだ。
「まあ。私、ここに住むことにしたんで」
「……理由を聞いても?」
「あ、聞いちゃいます?」
「聞かないです」
「そんなノータイムで答えなくても」
「聞きたくないです」
「またまた、宰相さんったら」
口にしかけて、ラリサはふと思いとどまり。
くるりと振り返って、持っていた筆記用の板を掲げる。
びしゃり、と。
飛んできたきくらげが、板に当たって落ちた。
「距離が近い」
そしてきくらげを追って飛んでくる、不機嫌そうな声。部屋の主、筆頭魔術師アーネスト。
音もなくラリサの隣に現れたアーネストは、宰相の視線を遮るようにラリサの身体を抱え込んだ。
「ラリサ」
「えへ」
締まりのなくなった頬を、ラリサは両手で押さえる。
「そういうことなので。宰相さん、邪魔しないでください」
「……あなた方は、また」
ひくひく、と宰相のこめかみが動いた。
何事か言いかけ、口を開いたり閉じたりして、一拍おいて。
宰相は深いため息と共に言った。
「おめでとうございます」
「……はい?」
「任務達成です。きくらげもどうぞ。解雇もなしです。働いてください、馬車馬のように。私の代わりに。私より多く」
「ちょっと何言ってるかわからないんですが」
宰相は懐から、1束の書類を取り出した。
㊙︎らぶらぶカップル創設特別執行部企画書。なんとも懐かしい紙だ。
「それがどうしたんですか?」
「いいですか、あなた方に渡したのはダミーです。こっちが本物です」
半ば投げやりな口調で、宰相は言う。
ラリサは黙って、それに目を落とす。アーネストが、その背後から覗き込む。
目標。らぶらぶカップルの創設。
手段。企画書通り。
報酬。きくらげ。失敗したら、ラリサの首が飛ぶ。
対象。
筆頭魔術師アーネスト、およびその助手ラリサ。
「……は?」
「言ったでしょう、最初に」
宰相はやれやれと首を振った。
「吊り橋効果。首がかかった任務のドキドキを、恋のドキドキと勘違い!」
あはは、と宰相は空に向かって笑う。
「単純接触効果。度重なる作戦会議! いやでも顔を合わせて会話! たくさん見れば好きになる!」
あははは、と宰相の背がしなっていく。
「助けたとき効果。人助けをしたという達成感と自己肯定感が、相手への好意と入れ替わる! あーもう、見事な救出劇でしたよ王都の一部を更地にさえしなければね!!」
すん、と宰相の顔から全ての表情が抜け落ちた。
「私も陛下もうんざりしてたんです。ようやっとくっついてくださってありがとうございます。ではらぶらぶカップルのお二人はこれで任務終了です、きくらげは追って届けます」
すたすた、と宰相はそのまま部屋から出ていった。
ラリサとアーネストは、黙って顔を見合わせる。アーネストの手から、ぱさりと書類が落ちた。
「嘘ですきくらげは触りたくないので取りにきてください」
つかつか、と戻ってきた宰相が、一声叫んだ。そして流れるように、再び部屋から出ていった。
ラリサとアーネストは、互いの目を見つめる。
「……」
先に口を開いたのは、ラリサだった。
「らぶらぶカップル製造……何でしたっけ」
珍しくため息まじりに、アーネストが呟く。
その声は、きくらげ香る部屋の中で、やけに大きく響き渡った。
「らぶらぶカップル創設特別執行部」
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