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【なないろの泡。】(DAY13)

 朝6時。キッチンにはまだ甘辛いすき焼きの匂いが残っていて、わたしは換気扇のスイッチを押した。ガーッという音と共に、昨晩の名残がゆっくり吸い込まれていく。全部引き連れていってくれればいいのに、と、わたしはその闇の広がる網目を睨んだ。


 昨晩杏の部屋から帰ってきてから、必死で目を冷やしたが、夫が帰ってきたころにはまだ腫れは引いていなかった。一目見てすぐギョッとした様子を見せた彼に、感動映画を観て泣いてしまった、という言い訳は何とか通用した。


 だが問題はあと一つ。わたしが指輪をしていないことにも、夫は気付いていただろう。わたしは「会社に用事があって行ったら、お手洗いに忘れてしまったの」という言い訳を準備していた。失くしたと言えば彼は怒るし、マンション内や近所に忘れたと言えばすぐに取って来いと言うだろう。だから多少無理があるもののこれしかないと思った。だが何故か彼は指輪には、一言も触れてこなかった。目敏い彼が、気付かない筈などないというのに。それが妙に不気味に思えた。


 とりあえずは無事に、彼は今日も出勤していった。彼を見送った後は、いつも一つのステージをクリアした後のような気持ちになる。だが生き延びていても、現実ではレベルアップも報酬アイテムも何もないのだった。


(とりあえず、今日は指輪を返してもらわなくちゃ)

 わたしはポケットの中に手を入れて、そこにあるものに確かめるように触れる。ひやりと冷たい感触が指先に伝わった。それは、杏の部屋の合鍵だ。昨日彼女の部屋を出る時のやり取りを思い出す。


『指輪、返して?』と言ったわたしに、丸めた手を差し出す杏。案外素直に返してくれるのだなと安心しつつ(若干がっかりもしつつ)受け取るために伸ばした手に落ちてきたのは、指輪ではなくこの鍵だった。

 わたしはすぐ杏に返そうとしたが、彼女は背中の方に手を回して、受け取りを拒否する。一度手にしてしまった以上放り捨てることもできず……本当は玄関にでも置いておけば良かったのだが、何故かそのまま持って帰ってきてしまった。夫がそろそろ帰ってくる時間だったため、彼女と指輪争奪戦を繰り広げる時間もなかった。


 わたしはそのカギを目の前に掲げて眺める。同じマンションだから当たり前だが、自分の部屋の鍵と同じ見た目をしていた。キーホルダーも何も付いていないただの鍵。なのにとても特別なものに見える。これをわたしに渡した杏は、どういう気持ちだったのだろう。


 とりあえず夕方頃、彼女の家に行ってみようと思った。いくらあの部屋に生活感が無かったとしても、早朝に訪れて彼女の家族に会ってしまうようなことがあればまずい。昨日と同じくらいの時間なら、彼女は一人で居る可能性が高いはずだ。


(ちゃんと話をして、指輪も返してもらおう)


 わたしは自室に戻り、パソコンを立ち上げ、かなり早めに仕事を開始する。今日は遅くならない内にタスクを終えてしまいたい。


 さて、彼女に何を差入れしようかな?と、そわそわしながら一日を過ごすのだった。




 *




 カーテンの隙間から差し込む光が、青白いものから、黄色がかったものへ、そして橙色に変わる。オンラインミーティングを終えたわたしは、立ち上がり伸びをした。時計を見ると18時を回っている。そろそろ杏のところへ行ってみよう。


 冷凍庫を開け、昼の内にコンビニで買っておいた幾つものアイスを、ビニール袋ごと取り出す。大福のようなアイスを、楽し気にもちっと伸ばす杏。大きなシャーベットの棒アイスに一気にかじりついて、米神を抑える杏。クッキーに挟まれたアイスを、ボロボロカスを落としながら食べる杏。……想像力逞しい自分に、我ながら呆れてしまう。


 早く会いたい、と思った。いくら精度の高い妄想でも、実物の彼女には敵わないのだ。


 部屋を出てエレベーターを呼ぶ。いつもは下に行くことしかなく、昨晩と、屋上に行った時を除いては、上に行くのは初めてだった。エレベーターに乗り、受信機部分に鍵をかざす。ピーっという認証音が鳴り、31階のボタンが点灯した。……エレベーターが上る瞬間、外で人影が動いたような気がしたのは気のせいだろうか?


 エレベーターを降り、自分の住む階と変わらない作りの廊下を進んでいく。全て同じ見た目のドアを一つ、また一つ通り過ぎて、昨日出入りしたたった一つの前で立ち止まった。表札もドア飾りも何もない量産型のドア。でもこれは、世界で一番特別なドアなのである。


 インターホンを鳴らすと、マイクとスピーカーがONになるのが分かった。だが家主は無言である。彼女ではなかったらどうしよう、と一瞬焦ったが、中でカメラに映るわたしの姿を確認できたからか『待ってて、今開ける』という早口でぶっきらぼうな少女の声がした。


 わたしはにやける顔を彼女が出てくる前に何とかしようと、ギュッと力を入れて俯く。と、背後から影が差した。よく知っているような匂いと、重苦しい気配。振り返るとそこには、今日も遅くなると言っていた筈の夫が仁王立ちしていた。階段を上って来たのか、僅かに前髪が乱れ、息が切れている。


「怪しいと思って、尾けて正解だな」

 何故怪しいと思われたのだろう。やはり昨日指輪を付けていないことが、まずかったのだろうか。いつから尾けていたのだろう。仕事に行くふりをしてどこかで見張っていたのだろうか。……気持ち悪い。


「おい、それどういう顔だよ」

 彼はわたしの顎を乱暴に掴み上げ、強引に自分の方を向かせる。苦しさに顔が歪んだが、その前のわたしはどんな顔をしていたのだろう?わたしは何とか逃れようと彼の腕に縋る。ここで争うわけにはいかない。彼女にだけは見られたくない。


「まさかマンション内で浮気とはな。どういう神経してるんだ?」

 彼が吐き捨てるようにそう言った瞬間、わたし達の前でドアが開く。彼は今にも人を殺してしまいそうな凶暴な目をそちらに向け――そこから出てきた華奢な少女を見るなり、呆然とした。彼が想像していたような浮気相手ではなかったからだろう。杏はわたし達の様子を見て少し顔を引き攣らせたが、いつも通り静かな口調で、場違いに自己紹介した。


「はじめまして。奥さんにはいつもお世話になってます」


 杏の敬語を聞くのは、それが初めてだったように思う。




 *




「浮気だなんて疑って、悪かったな」

 杏の部屋から帰ってくると、彼は珍しく落ち込んだ様子でそう言った。誰も浮気を否定などしていないのに、彼は勝手にわたしと杏の関係を年の離れた友達だと結論付けている。親が多忙で一人寂しく過ごす少女に同情した心優しき妻が、甲斐甲斐しく世話していたとでも思っているのだろう。


 わたしは杏が『忘れものだよ』とあっさり返してくれた指輪を見下ろす。何事もなかったかのように薬指に鎮座するそれが、とても憎らしく思えた。


「本当に、悪かった」

 彼はそう言ってわたしの頭をそっと撫でる。その太い筋肉質な腕と粗暴な口調からは想像できないほど、大切そうに優しい手つきで撫でる。彼は結婚してもなお、わたしの事をまるで扱いが分からない物のように扱うのだ。


「わたしこそ、不安にさせてごめんね」

 素直に謝ると、彼は自分の一連の行動を思い出しているのか、その顔にさっと赤みが差した。とても居心地が悪そうな顔だ。それをわたしに見られたくないのか、彼は誤魔化すように咳払いをして、乾いた笑いを浮かべる。


「それにしても、お前にあんな可愛いお友達が居たなんてな。今時珍しい、清楚な美少女って感じだよな」

 わざとらしくこちらの様子を窺いながら彼女を褒める彼は、きっとわたしに妬いて欲しいのだろう。彼には昔からこういうところがあった。浮気などする気も無いくせに、時々こうやってわたしの愛情を確かめようとする。わたしはそれを知っていながら、いつも妬いたふりをしていた。本当に妬いていた時代も、あったような気もする。

 だが今はそれを思い出せないし、ふりもできそうにない。たとえ冗談でも彼が杏のことについて何か言うのが、杏がわたしにとって嫉妬の対象にしかならないと思い込んでいることが、不快だった。


「でしょ。本当に可愛くていい子なんだ。でもよく怪我してて……夜中によく外にいるし、心配なんだよね。ご両親も見たことないし」

 乗らないわたしに彼は一瞬だけ拗ねたような顔をするものの、わたしが彼を頼って相談しているように見えたのか、どこか満足そうに、真面目な顔を装って頷く。


「それで、放っておけないって?」

「そう……かな」

 それは嘘ではないが、本当でもない。確かに杏のことは心配だが、わたしを杏の元に向かわせる原動力はその感情ではない。しかしそれを口にすべきではないということは、分かり切っている。


 彼は暫く何も言わなかった。「うーん」と唸り、難しそうな顔で何かを考えているように宙を見ていたが、やがて少し言い難そうに口を開く。


「あまり、他所の家のことに口出しするのは、良くないんじゃないか」

 わたしは彼を見つめた。正直、彼の発言に大した感情は湧いてこなかった。それが例え、杏の状況を見て見ぬふりしろ、彼女を見捨てろと解釈できる言葉だとしても、そこに怒りも悲しみも生まれなかった。わたしは彼女のことについて、彼に何の期待もしていない。彼の意見を求めてもいないのだ。


「もしどうしても気になるなら、俺が専門の相談所に連絡してみようか」

「それは……」

 彼女に聞いてみてからじゃないと、と口籠るわたしは何を考えているのだろう。そう。今彼が言ったようなことを、かつてのわたしも考えていた。彼女に出会ったばかりの時には、その選択肢が頭の中にあった筈だ。


 彼女を救える可能性があるなら、適切な他人に託すべきではないだろうか。しかしそうしないのは、自分だけが彼女を救える存在でありたいと思っているからではないだろうか。ああ、また自分の中の汚い自分に気付いてしまった。


「俺はお前が心配なんだ。厄介なことに関わってほしくない。分かるだろ?」

 肩を抱かれて、覗き込むようにそう言われると、何も言えなくなる。違う、何を言っても無駄だと諦めてしまう。ただ彼の気持ちは、彼が言うようによく分かっていた。わたしは安心させたくて、頷く。彼はそれに安心したのか、調子に乗ったような笑顔を浮かべた。わたしは彼と過ごしてきた経験則から、嫌な予感を抱く。


「いやー……それにしてもお前が子供と仲良くしてるなんてな!子供嫌いだとばかり思ってたぜ。ようやく母性が目覚めたって感じか?」

 ならそろそろ、と顔を近づけ腰を引き寄せる彼に、もうわたしはゾッとして咄嗟に押しのけてしまった。それがいけなかったのだ。彼の中のスイッチを押してしまった。

 彼の目に剣呑な光が灯り、腕を掴まれる。掴まれた部分がミシミシと軋む。


(ああ、もう、いやだ)


 彼は本当に、わたしの扱いが下手なのだ。

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