プロローグ
オレンジ色の石畳から柵の向こう、一段下がった道をさらに下ると深い堀がある。
街を真っ二つに裂いたような川である。川というには常時水が堀の10分の1もないが、ずっと向こうの山から流れているこのキハル川は嵐の日があれば1週間は擦切ったように堀が水で満たされる。
アルベラン公国の首都から少し離れた郊外のこの街は山も畑もある田舎だが、列車に揺られ1時間もすれば乗り換えなしで都市へ出れる。その恩恵を受け人口はそこそこ多く空気は綺麗で、街の行政は発展していた。
昨日は大雨が降った。
噂好きで事件好きな街の人々は川の周りに集まっている。ジャケットを脱ぎシャツの袖をまくり上げた男が人混みをかき分け焦った様子で姿を現した。その腕にはずぶぬれになった 何か を抱えている。
少女だった。
まだ10代後半であろうか。ウェーブがかった黒髪と、来ているのはシンプルな婦人用のブラウスとワインカラーのロングスカート
ずぶ濡れでみすぼらしいが、そこらへんにごまんといる全く平凡な少女だった。
増水した川に流されて来た少女。退屈な街にはそれで十分だった。まだ息がある彼女を居合わせた人々は応援した。「頑張って!」「きっと助かるから!」この街の人たちは皆基本は良い人たちなのだ。
しかしこの少女はどこの誰なのか知るものはいなかった。彼女を運んできた濁流は一緒に彼女が誰であるかの手がかりを何もかも流してしまった様だった。
「スミカ、今日は朝食全部食べれたのね~よかったわ~」
スミカとは私の名前。
ここはアルベラン公国首都の郊外にあるシダ市の市立教会だ。ここは浮浪者や孤児たちの寝泊りの場所になっている。
私は1か月前に増水したキハル川に流されていたところを助けられた。
目が覚める前の記憶が全くない。記憶喪失なのだ。助けてくれたおじいちゃん先生は金がとれずほとほと困っていたが、身寄りない私を気の毒に思ってくれて市警に届けを出してくれたり、市立教会にお世話になる為の小難しいやり取りをしてくれた。
ちなみに、身元保証人もおじいちゃん先生だ。自分の事を何もわからない私にとっておじいちゃん先生は親みたいなものだ。
「スミカ、体調も戻ったようだしお話していいかしら?」
子供達や寄る辺ない人達に施しとして配給した朝食のお皿を洗い終えた私に、長い廊下の先にあるドアから管理人さんがニコニコと手招きしている。
彼女はこの市立教会を管理している娘さんだ。年の頃は18歳くらい、私が来るまでは一人で教会に来る人々の世話をしていた。
「何ですか?管理人さん?」
管理人さんは私に笑いかけながら自分の前の椅子を指さした。座れということだろう。
「スミカ、顔色も良くなったみたいだけど、体調の方はどうかしら?」
「はい、体調は全く悪い所はありません。…まだ何も思い出せないですが」
私は申し訳なくて肩をすくめた。
ここへ来てから皆、私の事を心配してよくお世話してくれる。
そんな善意を無下にしている様で、日々うっすらとした罪悪感があるのだ。
「まあまあ、そんな顔しないでね。記憶は戻ったらいい事には変わりないけど、新しい人生を始めるきっかけと考えたらいいかもしれないわ」
管理人さんは他人事だからか楽観主義なのか、軽い言い方で話を進める。
「お手伝いありがとうね。助かってるわ」
「いえ…申し訳ないので、一日何もしないで食べ物とベッドを頂くのは…」
管理人さんはうんうんと目をつむってうなる。
おもむろに引き出しからノートの切れ端のような紙を取り出して片手で私に差し出した。
「青春真っただ中のお嬢さんが何もせずに引きこもってるのはもったいないって、私も思ってました!」
「は…はぁ…」
私は差し出された紙を受け取って二つ折りを開く。
中には簡単な地図のようなものが描かれていた。インクの扱いが雑なのか若干滲んでいる。
管理人さんも私と同じくらいの年齢だと思うけど
「海側の町で働き手を探していてね、内容は染織工場みたいだから若い娘さんとかが良いんじゃないかって」
浮浪者の中には求職している人たちもいる。だから教会にはこういう人手を雇いたい工場等からの呼び込みもはいる。紙をよく読むと、少し歩くが徒歩でいけないこともない距離だった。
確かにありがたい話だ。外に出るきっかけにもなるし、友人も作れるかもしれない。お金を稼いだら教会に恩返しができるかも…何といっても肩身の狭い思いをしなくて済む。
「いいですね。やらせてください」
私の言葉を聞いて管理人さんはニコニコして、お給料もらったら可愛い服でも買いなさいとか、素敵な彼氏が出来るかもしれないとか、希望を持たせることばかりを上機嫌に話してくる。
この人はちゃんと教会からお給金もらっているのかな?人のお世話をしたり気分を良くしてもらうことが本当に好きな人なんだなぁと感心する。
早速地図をもって外へ出かけることにした。
今日から働けるわけではないが、どんなところかだけでも見てみようと海の方に向かって歩き出した。
シダ市はちょっと無理すれば歩ける範囲で海と山が近くにある。都会に比べれば田舎だが、本物の田舎と比べればちょっとした都会だ。
隣の道路を真っ赤なバスが通っていった。いいなぁ、バス…楽そう、でもお金ないし
教会は税金で運営してるので皆を食べさせるお金はあるが、個別にお金を配ったりは出来ない。
でもきっと私も働きだしたらバスに乗れるかもね
ふと、私はバスに乗ったことがないのか?と考えてみる。
が、思い出さない事はしょうがないのですぐに考えるのをやめた。今朝の管理人さんの言葉を思い出す。
新しい人生がなんちゃらかんちゃら…さっきは軽く言うな~と思ったがあながちそうかもしれない。
あまり前の記憶や人生に興味がないし、興味が持てない。
この一か月で、これは与えられた運命?チャンスなのかもしれないと自分でもそう思うようになってきたのだ。
実質今の私は労働という新しいウェーブに身が踊りだしそうになっている。
こうやって目的をもってお出かけするのも初めてだ。
春の陽気が暖かい風にのり、新鮮な花々の香りと交じり合って頬をなぜる。
私は自然と湧き上がってきたリズムを鼻歌にして足取り軽く街を下って行った。