愛してた、と伝えたい―――シルヴィア―――
あぁ、来てくださったのね、イゼール様。
寝台から起き上がろうとする私をあなたが優しく止めてくださる。
「シルヴィア、具合が悪くなったと聞いたよ。君が呼び出すなんて初めてだからびっくりしたよ」
そうね、私からあなたをお呼び出ししたのは初めてね。
昔からあなたは勝手に我が家に来ていたけれど。
◇ ◇ ◇ ◇
私、男爵家長女シルヴィアが侯爵家次男イゼール様を初めて認識したのは、私が5歳、イゼール様が7歳の時。
侯爵家第二夫人の子であったイゼール様は、第一夫人及びその嫡男から嫌われていたようで、我が男爵家の領地にほど近い、侯爵家領地の外れで隔離されるように育てられていた。
もともとは平民だった第二夫人が住んでいた場所だったが、彼女は産後の肥立ちが悪くそのまま身罷られてしまったそうだ。
第一夫人に隠れるように、それでも足繁く通っていた侯爵は、彼女のことを本当に愛していたのか、彼女が亡くなった後は、この屋敷は思い出が多すぎると言ってイゼール様を置き去りにしたまま来なくなったとか。
代わりに第一夫人が使用人にお給金を渡すという名目のもと、数か月に一度嫌味を言いながら最低限の金額を手に屋敷を訪れているのだけれど。とても侯爵家とは思えない額を。
男爵家の我が家より少ない金額でやりくりしないといけない程度の額だったという。なのでイゼール様は、乳母と最低限の使用人と、小さな屋敷の中で暮らしていくしかなかった。
5歳を過ぎて、暇を持て余していたイゼール様は、少しずつ家を抜け出すようになって、近くに男爵家の屋敷があることを知ったようだ。イゼール様と年の近そうな兄(実際には兄はイゼール様より2こ上)と私が遊んでいる様子を遠くから見かけて、自分も混ざりたいと思っていたそう。
何度か話しかけようと試みて、やっと兄が護衛と共に出かけるときに声がけしたのが7歳になる直前。その後、兄がイゼール様を公的にお呼びする形で、我が家に遊びに来ることとなった。
そうやって初めてお会いした我が家でのお茶会は、お茶会の体をなさないまま終了した。侯爵家の子息ではあったものの、イゼール様は高位貴族としての教育が全くされていなかったからだ。すなわちお茶会とは何ぞやというレベルであった。
乳母からもそれは本人にきつく言われていたようで、イゼール様は恐縮仕切りで自分に学がないため所作に不作法があるだろうことを最初に謝ってはいたけれど、男爵家である我が家の、まだお茶会などに出たこともない、淑女教育など一切していない5歳児である私程度の礼儀しかないようでは、今後高位貴族として生きていくのは大変だろうと自分を棚に上げて私でも思ったものだ。
教育をまだ受けていない私でも、家でティータイムを共に過ごす兄の洗練された立ち振る舞いは、見ていて貴族だなぁと思う。イゼール様はそうした振る舞いを一切することが出来なかったのだ。
兄は最初にイゼール様を招待はしたものの、その後は男爵家嫡男として幼いながらも父について見回り等を行うことが多く、あまりイゼール様と遊ぶ機会はなかった。
けれど、家にいてもすることのなかったイゼール様は、私を話し相手とするためにちょくちょく我が家に勝手に顔を出すようになった。おそらく我が家で出すおやつにも心惹かれていたと思うのだけれども!
イゼール様は侯爵家としてはあまりにお粗末な身なりで、また貧弱な体だった。食事の量もあまり多くはなかったのだと思う。兄のおさがりや我が家のおやつを喜ぶ侯爵家次男って何だろう?
イゼール様は怖がりで泣き虫で、よく私のもとで泣いていた。第一夫人が嫌味を言うからに始まり、庭の虫が怖い、途中にいた平民の子供に石を投げられた……まで。
護衛もいない貧弱な体つきの子供が貴族だとは誰も思わないだろう。おそらく平民の子供は、時折見かけるイゼール様に彼らなりの流儀で遊ぼうと声をかけていただけに違いないが、言ったところで彼は怖がるだけであっただろう。私はいつも、私より年上なはずのイゼール様を慰める係だ。
とはいえ、さすがに読んだ絵本が怖い、は慰めのしようもなかったけれど。
王子が愛した平民の娘が、王子を愛する魔女に魔法をかけられ、カエルにされる。王子が真実の愛を持っているならば、姿を変えられた娘がわかるはず、と言われたが、とうとう王子はカエルとなった娘を見つけられなかったという悲恋話だ。
誰だオイ、こんな絵本作ったやつ。誰も幸せにならない話ってどうなのよ?
イゼール様は自分ならきっと真実の愛でカエルとなった娘に気付くのに!とか言うけど、それ以上に魔女が怖いと言って泣き出してるしねぇ。しかし、真実の愛って一体……。
ま、侯爵様も真実の愛だとか言って第二夫人を見染めたらしいから、政略結婚の第一夫人としては、そりゃあイゼール様が嫌いなのはしょうがないよね、としか言いようがない。正妻を差し置いて、真実の愛って言われてもね。
とはいえ、屋敷に来るたびに第一夫人は、イゼール様の心をより抉るために亡くなった第二夫人の悪口を好んでしているそうだ。出来が悪いのは母親譲りだと。
仕方がないから、とりあえず男爵家で5歳の私が習い始めた拙い教育をイゼール様に教えつつ、私はイゼール様を抱きしめる。出来が悪いんじゃないよ、教育を施さない侯爵家が悪いんだよ、と宥めながら。
そうこうしているうちに8歳になったイゼール様に、というか第一夫人に侯爵が告げたそうだ。そういえばイゼールに教育は与えているのか、と。
その話をイゼール様から聞いたとき、息子の様子を見に来たことのない父親が何を言う、って怒りが私まで沸いたけど。ま、確かに家政は第一夫人の領分だから、侯爵が第一夫人に言うのは間違っちゃいないんだろうけど。
というか侯爵サマ、イゼール様のこと覚えてたの? それとも、ふと思い出したって感じ?
どっちにしろひどい話だけど。で、急遽イゼール様に教育が施されることとなった。それも、超スパルタなヤツ。
ま、立ち振る舞いとかはスパルタでも仕方がないとは思う。今までやっていなかった分、超特急で詰め込んでいかないといけないからね。特に侯爵家なんだったら、うちみたいな男爵家よりはるかに上位貴族としての所作の優雅さが必要だろうからね。
でも、いきなり訳のわからない勉強を押し付けられて、教師が帰った後イゼール様はまた我が家に大泣きでやってきた。腕は蚯蚓腫れだし、こりゃあ鞭でビシバシ打たれたね~、って見てすぐわかるくらい痛そうな線が何本も走ってた。
話を聞いてる感じだと、教わっている座学はおそらく中級の学問。完全に第一夫人の嫌がらせが入ってる。そりゃ、確かにわかる訳ないよね、という代物だ。
私はイゼール様に教科書を持ってきてもらい、また兄の部屋から兄が過去に使った初級教科書を探し出した。私自身は幼いからまだ全部の初級教科書は持っていないのだ。で、兄の初級教科書の内容を二人でうなりながら解読し、何とか中級を学べる下地を作った。そして私はイゼール様に進言する。
「第一夫人がイゼール様を嫌うのは、第二夫人に侯爵を取られたという嫉妬もあるでしょう。でもそれ以上に、イゼール様が第一夫人が産んだ嫡男から侯爵家跡取りの座を奪おうとするのでは、という心配もあると思います。だから、イゼール様は侯爵家を継ぐ意思が全くないこと、できれば騎士や魔導士など、平民として仕事ができる職に就くつもりがあることをお伝えすれば安心されると思います」
「どうやって伝えればいいの」
泣きそうな顔で悩むイゼール様に、私は更に告げる。
「絶対に第一夫人と教師は繋がっているでしょうから、教師に騎士や魔導士になりたいと思っていると言えば、きっと伝わると思います」
しばらく考えたイゼール様は、僕の貧弱な体じゃ騎士は無理だから、魔導士を目指すよ、といった。イゼール様が持ってきた中級の教科書には魔術本もあったので、二人でその本を理解しようと頑張った。
第一夫人にとってイゼール様が賢くなることは不快だろうけれど、侯爵家として子息が優秀であることは外聞が良いし、イゼール様が家を出ていくことを目標としているとわかれば、これ以上悪手は打たないと思う。
そう思った通り、少しずつイゼール様が私に泣き言をいう回数が減ってきた。また、初級レベルをクリアしたイゼール様は教師の教える内容もどんどん吸収できるようになり、そして魔法の才もあったのか、学園を卒業する前に魔塔からお声がかかったとか。
学園に通う頃になると我が家に来ることはほとんどなくなっていたので、それ以降の彼の活躍は噂でしか知らなかったけれど。
年若く魔塔に就職できたイゼール様は、儚げな美人であった第二夫人の相貌を継いで中性的な美男子となった。将来は平民になるのだと本人は言うが、現在は侯爵家次男で魔導士として将来有望。最年少で入塔した過去の大魔導士の再来か、と言われているとかいないとか。
そりゃあもう、沢山のご令嬢たちから婿の誘いやら一夜のお遊びのお声がけまで、ひっきりなしにあったらしい。一服盛られて既成事実を作らされそうになったこともあったとか。ほんと、恋するオンナって怖い。
でも、幼い頃からずっと第一夫人の嫌がらせを受けて、侯爵からは存在をほぼ忘れられていて、学園では、魔塔から声がかかるまでは平民の庶子と周りから嘲笑を受けていたイゼール様。
本当は、第二夫人は妾ではなくそれこそ“第二夫人”として手間とお金をかけて婚姻届が出されていたから、きちんと嫡子として登録されているのだけれど、母親が平民だったから庶子と揶揄されていたらしい。そんな人たちが、将来有望とみるや手の平を返すその様子に、イゼール様は他人を信用できなくなっていたという。
特に、適当にあしらってはいるものの肉食な令嬢たちは、御淑やかさをどこかに置き忘れていらっしゃるようで、鼻息荒く付き纏って来られて何度も貞操の危機を感じたとか。弱虫なイゼール様じゃあ、強く言って追い返すなんて手段も取れなかったでしょうし。
で、そこから逃げるためにどうしたか。ハイ、いきなり我が家への婚約打診と相成りました。侯爵家と男爵家ってどうよ? ま、平民になるけどついてきてくれ、っていう言葉もあんまりだとは思うけれど。
基本他人を信じられないけど、我が男爵家は幼い頃から第二の我が家みたいに遊びに来てたから、ここの人間なら信じられるからと告げられた父は、イゼール様の境遇に涙し、情に絆されてホイホイ婚約届けに判を押していた。私の意志はどこ行った? ま、いいのだけれども。
◇ ◇ ◇ ◇
でもね、家族枠で私を信用しているとはいうけれど、でも本当は信用しきれなかったのでしょうね。だから、あなたは私にこっそり隷属魔法をかけたのでしょう? 婚約の承諾を得たいから、二人きりで話をさせてくれといったときに。
自分を裏切らないで。自分以外を見ないで。そう言いながら……。
男爵家で、初級程度の教育しか受けてないから、魔導士でもないから、禁術の隷属魔法なんてかけてもわからないと思ったのでしょう?
焦らなくてもいいのよ。誰にも言っていないから。
でもね、どうして隷属魔法が禁術となっているかは教えてあげるわ。
それは、心は縛れないのに、魂に隷属すべきと刻まれるからよ。
あなたは私という婚約者を持ちながら、それでもどこかで夢を見ていらっしゃったのでしょう? 自分の望む伴侶を、それこそ絵本にあった真実の愛などというものを。
肉食令嬢は気に入らないようだけれど、見た目が華奢な、それこそ第二夫人のような儚げな美女タイプの人と、夜会で話をされている姿はよく見かけたわ。その後お忍びデートしていたのを見かけた私の友人から報告を受けることもあったし。相手が夜会のたびに異なっていたので、真実の愛は見つかっていないようでしたけれども。
狼狽えないで。別にもう、いいのよ。私は、もう。
あのね、隷属魔法をかけられても、私の心は動くの。
あなたを裏切る気は元からなかったわ。だから、それに対しては良い。でも、あなた以外見ない、ということは現実問題無理よね。その、無理が起こるたびに心が軋むの。心臓が痛むの。呼吸が苦しいの。隷属している者が、その主の意志に背くことは、かなりの苦痛を伴うことなのよ。
そして、あなたが私以外の人と夜会で親密になる姿を見せつけられる。裏切るなという人間が、裏切りを見せるその矛盾に、私の心はあなたを詰ってしまうでしょう? それがより一層、私の心を軋ませる。
もともと隷属魔法とは、魔獣を馴らすために作られたのよ。でも、隷属魔法をかけると、なぜか魔獣は早死にしていたの。意思に反したことをお願いしていたからね。それも魂にまで刻まれるって……。最初からわかっていたらこんな魔法、公にしなかったのに。
あなたは私を絶対に裏切らない者としてキープしながらも、家族枠でしかなかったから、女性としては私を見ていなかったでしょう。だからこそ、真実の愛に焦がれた。怖がりで泣き虫な、そして夢見がちなあなたは。
ごめんなさいね。お呼び立てして。
そういうわけで、私の心臓、そろそろ持たないの。あまりに軋んで軋んで、もう長くはないわ。
あなたにとって私は家族枠でしかなかったでしょうけれど、私はあなたのこと、本当に愛していたのよ。だから、あなたが夜会で誰かを伴って私の視界から消える度、とても辛かった。
夜会という人の多い場所で、あなた以外の人を目に映すこと自体が心臓に負担をかけるのに、それ以上にあなたの態度は私を苦しめた。
だから、最期のお願い。この隷属魔法を解いて。私はもう死んでしまうけれど、来世でまで隷属されたくはないの。これは魂を縛るから。せめて来世では自由に生きたいわ。
どうしてわかるのかって?
私、前世を覚えているのよ。幼い頃は朧気だったけれど。
おかしいと思わなかった? 5歳の子供が初級とはいえ教科書の中身がわかるなんて。教科書を見ながら、内容を理解できる自分に違和感しかなかったわ。
でも、困っているあなたを何とか助けたいと思っていった結果、少しずつその違和感が形を成してきて、自分の前世が見えてきたの。私、それこそ隷属魔法を作った大魔導士だったわ。魔獣たちが早死にして、きっと何か問題があるはずと禁術にしたけれど、まさかあなたがそれを、人間相手に使うとは思わなかったわ。
これね、もし私が魔塔に訴えたら、あなた魔導士の資格を剥奪されて、魔力を封印された上で永久追放処分だからね。絶対にやってはいけないことなのよ。
私も、魂まで刻まれていると知ったのはあなたに隷属魔法をかけられてからだったから、転生しているであろう過去にかけた魔獣たちへの隷属魔法、あわてて解いたもの。早死にする魔獣たちが多いから、どこかに問題があるのだと思って禁術にして、その時生き残っていた魔獣たちの隷属魔法は解いたけれど、既に亡くなっていた魔獣たちの隷属魔法って解いていなかったからね。
妙に一部の動物から好かれると思っていたら、前世で隷属魔法かけられた魔獣の転生した姿だったと知った時の驚き、ホント涙なくして語れないわよ。
自分の命なのに飄々としているように見えるなら、それは前世の記憶が完全に戻ったからじゃないかしら。前世ではそこそこ生きたのよ。あの頃は魔獣も多くて、国は今よりはるかに疲弊していたわ。
大魔導士なんて言われてはいたけれど、要は平民だったから一番酷使しやすかったってだけよ。魔力量も多かったしね。隣国とは緊張状態だったから常に防御壁を張らされていたし、現れる敵は殺すように命じられた。そして、空いた時間は魔獣が現れる最果ての森へと繰り出しては、魔獣を殲滅させられてた。私の手は常に赤く染まっている気がして、もう殺すことが嫌になっていたの。だから魔獣を殺さずに済む方法を考え出した。そんな人生。
勿論恋なんてしている暇もなかった。だから、今世は恋に生きるのもいいじゃない、と思って。
本当は、学園に行く前にあなたに防御魔法をかけたりしてたのよ。その頃には大体前世を思い出していたから。でも、知識は思い出してもこの体は魔力が少なくて、それくらいしかできなかったのが残念だけど。
それでも、学園であなたがひどい目に遭わないか心配だったから。私の心配は常にあなたのことだったもの。だから、あなたを裏切ることなんて絶対しなかったのよ。隷属魔法なんてかけなくても。
だけどね、来世は何もかも忘れて自由に生きたいから、隷属魔法、解いてほしいの。
それから、これから先出合う大切な人に、こんな魔法かけたらだめよ? 隷属させるってことは相手の意志を損なうということだからね? 必ずお相手様は心臓の痛みで医師にかかることになって、どこかの時点で魔術だと絶対ばれるから。相手を信じることも頑張って覚えてね。
泣かないで。そして、もっと近くにきて。
そう、手を握ってくださいな。
私が隷属魔法にかかっていることは誰にも言っていないから、あなたが罰せられることはないわ。そうよ。親にも言っていないんだから大丈夫。あなたは、ただ婚約者を病で亡くすだけ。次こそは、愛する人を見つけてね。前世大魔導士であった私の知識を譲るわ。今は廃れてしまっているものもあるだろうから、これがあればあなたは稀代の大魔導士となれるわ、きっと。そうすればあなたを貶めるものは誰もいなくなる。
第一夫人に怯える必要なんて、もうなくなるのよ。怖くないわ、大丈夫……。
ごめんなさい。眠くなったの。きっと、もう目覚めない。だから、最期までこの手を握っていてほしいの。……愛していたわ。
掌を包むあなたの大きな手の温かさにうっとりしながら、私は自分の持っていた知識をあなたへ流し込む。ずっと軋んでいた心が、今はとても凪いでいる。
あなたを裏切らない、あなた以外見ない。どちらも守っているからかしら。でも、もう私の心臓は限界。目を瞑る直前に見えたのは、あなたの涙に濡れたお顔。口が動いているようだけれど、ごめんなさい、もう聞こえないの。
さようなら、イゼール様。
誤字報告いただきました。ありがとうございます。修正いたしました。