AIリアンちゃんは掃除用ロボットが好き
“人間”の境界線ってどこにあるのだろう?
生物の授業を受けていた時に、そんな疑問を私はふと思った。先生が人間の肉体には無数の微生物が生息していて、しかも遥か昔から共進化を遂げて来たと説明したからだ。
そういった無数の微生物がいなければ、人間の生物としての機能は損なわれてしまうのだそうだ。自閉症スペクトラムや注意欠陥多動性障害、統合失調症、アレルギー性の病気などは、人間の肉体に宿る様々な微生物の欠乏が要因になっているのだとか。
人間の精神にまで微生物が影響を与えているという話は、私にとって新鮮だった。そして、これは単なる感覚的なものに過ぎないのかもしれないけど、微生物が人間の精神形成の少なくとも一部を担っているとするのなら、微生物は“私自身”の一部としてしまっても良いのではないかと思ってしまったのだ。
そして、だからこそ、そこから派生してこのようにも考えた。
――では、
果たしてAIは、人間の一部と見做すべきだろうか? それとも、どんなに深く影響を及ぼしていたとしても、やはり人間の境界線の外にいる存在と見做すべきなのだろうか?
人間の脳を直接インターネットに接続し、脳から直接アクセスを行う。それにより、インターネットから情報を取得したり、AIからのサポートを受けたり、サイバー空間にフルダイブを行ったりといった事が可能になる。
SFの世界では随分と昔からお馴染みの設定だけど、当然ながら、これを実現するハードルは極めて高い。脳を直接繋げようと思ったなら大手術が必要だが(因みにこれを侵襲的手法と呼ぶ)、当然ながら大きな危険が伴うし、機器の故障などが起こればその危険な手術を繰り返さなくてはならなくなる。だから、手術を行わずにヘルメット型のデバイスを頭に被り、脳活動の計測を行ったりする手法(因みにこれを非侵襲的手法と呼ぶ)が考え出されたのだけど、当然ながらこれではできる事は限られてしまう。
その為、人類はナノマシンに脳とインターネットを繋ぐ役割を担わせる方法を考え出した。
ナノマシンを膨大に含んだカプセルを飲むと、それが脳や神経にまで移動してネットワークを形成し、脳とインターネットを接続してくれるのだ。定期的にナノマシンカプセルを飲み続けなくてはならないけど、不具合の修正やアップデートも比較的楽に行えるというメリットもある。
この技術が大きなブレイクスルーとなり、人類はSFの物語で夢見た脳から直接インターネット空間を体験できるという世界を手にしたのだ。
つまり、脳直結インターフェースの時代の到来だ。
……もっとも、良い事ばかりではない。ナノマシンカプセルの摂取による健康被害だって報告されているし、人がインターネットの世界に埋没し依存してしまう問題も深刻化した。ただそれでも、脳を直接インターネットに接続する恩恵の方が遥かに上だった為、瞬く間に社会全体に広まっていったのだけど。
それに、多くの健康被害は原因である脳直結インターフェース自体によって、直ぐに改善していった。インターネットを介してAIが原因を調査分析し、治療方法を見つけ出していってくれるのだ。
ただ、これには例外があって、全ての症状に適応できる訳ではなかった。
何故なら、そもそもそれを“症状”と呼んでしまって良いのかも分からなかったからだ。病気でないのなら、治療するのはおかしい。人にとってはその“変化”を、人類の進化と表現していたりもするから……
――AI侵食性感情障害
その症状はそのような名前で呼ばれていた。その名の通り、その症状が現れた人間は感情に障害を持つ。人間らしい感情が消え、少なくとも表面上は感情の起伏が乏しくなるのが普通だ。ただその代わり、記憶力や計算能力などが飛躍的に向上する。平たく言えば、とんでもなく頭が良くなるのだ。その症状が起きる事を、世間では“逝った”などと表現されている。飽くまで俗説なのだけど、彼らはAIと融合してしまった変異体なのだとされている。
だからだろう。
“AIリアン”
そんな俗称…… いや、蔑称も生まれた。AI侵食性感情障害の症状が現れた人間を、皆はそう呼ぶのだ。
実は私の妹はAIリアンだ。
ただ、妹が逝ってしまったのがいつ頃の事なのかは定かではない。先にも述べた通り、AIリアンになると感情表現が乏しくなるのが普通なのに、妹の場合はそうはならなくて気が付かなかったからだ。
休日の朝。リビングで遅い朝食を取っていると妹の葵が庭先の木の根元で、しゃがみ込んで何かを観察している姿が目に入った。
「あんた…… なにやっているの?」
と、わたしが尋ねると、彼女は「あ、おねーちゃん!」と妙に高い声を上げ、
「アリを観てるの!」
などと返して来た。
「おねーちゃん! アリって凄いんだよ! 今、虫の死骸を運んでいるところ!」
「はー」とわたし。
呆れているのだ。もう高校一年にもなる年頃の娘がする事じゃない。
そう。妹の渡部葵は…… AIリアンになって何故か、とても幼い行動を見せるようになってしまったのだった。
それに我が渡部家一同は大いに困惑している。ただ、それでもお父さんは……
「そうかー。アリは意外に興味深いもんなぁ。葵はよく気が付くねぇ」
反抗期も訪れず、いつまでも幼い反応を見せるそんな葵が可愛くて堪らないらしく、いつも甘やかしている。つまり、とても呑気だ。
「あなた、またそんな事を言って。ご近所さんに見られるかもしれないのに」
それに対してお母さんは少々心配し過ぎだ。将来、これで上手くやっていけるのかとあれこれ考えている。
因みにわたしはその中間といったところだ。確かに外見は高校生らしくなっているのに、いつまでも幼い子供みたいな妹が心配ではあるのだけど、多分、大丈夫だと思っている。何故なら……、
「やっぱりアリって凄い! さっきまで遠回りしていたのに、もう最短ルートを見つけちゃった! “巡回セールスマン問題”の近似解をたくさんのアリを使う事で求めるっていう“群知能”を本当に使っている!」
……妹の葵は、言動は幼くても、AIリアンだけあって物凄く頭は良いからだ。難しくて何を言っているのかわたしではさっぱり分からないなんて事もしょっちゅうだ。
もちろん、お父さんもお母さんも分かっていないのだろう。今の葵のアリに関する感想を聞いてお母さんは聞こえない振りをして、お父さんは「それは凄いねぇ」などとてきとーに話を合わせていた。
葵が逝ってしまったと分かった当初、お母さんはなんとか葵を元に戻そうと必死になっていた。しかし、結局は諦めるしかなかった。前述した通り、そもそもAI侵食性感情障害は病気であるかどうかも定まっていない。更に加えて、既に葵の精神はAIリアン状態で固まってしまっている。それを無理矢理に変えてしまうと、何が起こるか分からないのだそうだ。
それに、もし仮に元に戻せたのだとして、果たしてその人格は“正常な”人格だと言えるのだろうか? わたし達にとっては当り前に思えるかもしれないが、わたし達にとっての当たり前が“正常”とは限らない。それを正常と言ってしまうのは、わたし達…… つまり、今の人間社会の傲慢であるのかもしれない。数十年後は、もしかしたらAIリアンこそが普通の人間になっているのかもしれないのだから。
神経倫理学の観点からも、人格に影響を与えてしまうような処置は好ましくないとされ、今のそのままの葵を、わたし達は家族として受け入れる事にしたのだ。
「アリ、凄いなぁ」
わたし達の葛藤を知ってか知らずか、今日も葵は無邪気に過ごしている。いつの間にか、そんな彼女にわたし達もすっかり慣れてしまった。
――目下のところ、一番心配なのは学校で葵がいじめられていやしないかという点だろう。わたしと葵は同じ高校に通っているけど、わたしが三年で葵は一年だから、正直、どんな高校生活を送っているのかはよく分からない。
ただ、
「心配いらないわよー」
リビングのソファの上から、そんな声が聞こえて来た。抑揚のない淡々とした特徴的な喋り方。
「あんた、なんで朝からわたしの家にいるのよ?」
「そりゃ、ここがわたしの親友の葵ちゃんの家でもあるからじゃない、南ちゃん」
「友達の姉も友達扱いか、あんたは」
この妹の友達の、妙に馴れ馴れしい青森さんの言葉を信じるのなら、そんな心配は杞憂であるらしい。
因みに“南”はわたしの名前である。
青森さんは堂々とコーヒーなんぞをすすっていた。痩身で丁寧に切り揃えられた髪の毛。無表情で淡々とした口調だから、AIリアンなんじゃないかと疑いたくなるが、列記とした一般人であるらしい。つまり、頭は普通だ。変人ではあるが、単に図太い性格をしているだけのようだ。
「皆、葵ちゃんが可愛いから気に入っているし、それにもしいじめている不届き者がいたら殴るわよ」
「あんたが?」
「わたしも殴るけど……」
そう言って言葉を止めると、少し何かを考えるような仕草の後で彼女はこう続けた。
「問題はロリの基準をどう設定するかだと思うのよね。
葵ちゃんは、姿は年相応の高校生だけど、精神年齢は幼いわけじゃない? これってロリコンになるのかしら? それとも精神は関係なくて、飽くまで肉体に因るのかしら?」
わたしは腕を組むと大きく頷く。
「うん。あんたが何を言っているのか、さっぱりまったくこれっぽちも分からないわ」
…それはどうやらこういう事であるらしい。
妹の葵のクラスには、不良かどうかはよく分からないが、皆から恐れられている吉良坂という男生徒がいる。目つきが悪くて口調も乱暴だから、積極的に近付こうとする生徒は少ないのだけど、そんな彼に物怖じせずに近付いて行く女生徒がただ一人だけいる。
この話の流れなら簡単に分かると思うけど、まぁ、葵である。
「なんで、一人で食べているのー?」
一年の最初の頃、葵は吉良坂君が一人で昼食を食べている所へ寄っていて、そう話しかけたらしい。何故彼女がそんな行動に出たのかは誰にも分からなかった。AIリアンならではの高度な計算か何かがあるのかもしれないと青森さんは少し疑ったが、特に何もなさそうだった。
「うるせぇ! ほっとけ!」
葵の悪意のない無垢な顔に向けて彼はそう吐き捨てるように言った。彼としてはそう言えば葵が怯えて立ち去るだろうと思っていたのかもしれないが、葵は「そのお弁当、美味しそうだね」と相変わらずに無邪気に話し続けた。そして、最終的には何故か自分の弁当のミートボールと彼の弁当の卵焼きを一個取り換えっこして戻って来たのだった。
「なにやってたの? 葵ちゃん?」
と青森さんが尋ねると、葵は「卵焼き、美味しいよ」などと卵焼きを食べながら屈託なく応えて来た。
それで、高度な計算とかそういうのではなさそうだが、何か本能的なもので吉良坂君が安全だと判断して話しかけたのだろうと彼女は考えたのだそうだ。
「今にして思えば、あの頃からおかしかったのよね」
と、彼女は語る。
「なにが?」とわたし。
「葵ちゃん、自分のお箸で吉良坂君と卵焼きとミートボールを取り換えっこしていたのよ。つまり、それって間接キスじゃない?」
「それが、どした?」
「照れ臭かっただろうに、彼が取り換えっこに応じたのってそれが原因じゃないかと思うのよね」
「いや、分からんって」
「つまり、性欲に負けたのじゃないか?って話よ、南ちゃん」
それからも葵は吉良坂君が一人でいると近寄って行って、不思議そうな顔で「何をやっているの?」などと度々話しかけていたのだそうだ。
表面上は彼はそれを煩わしそうにしていたようだけど、満更でもない雰囲気を青森さん達は敏感に感じ取っていたらしい。
そして、そんなある日だ。
教室で一部の男生徒達が、葵の事を本人のいない時に馬鹿にしていたのだとか。そういうのは、ある程度は仕方あるまい。葵はいかにもな幼い行動を執って目立っているし、世間から蔑視されているAIリアンでもあるし。青森さんも“ま、許容範囲か”とそれにセーフ判定を出していた。
が、吉良坂君は違った。
その男生徒達に迫っていくと、「陰でこそこそ、他人の悪口を言ってるんじゃねぇ!」と怒ったらしいのだ。
男生徒達は驚いていた。
その後で彼は慌てて「陰口とか、そういうのが俺は嫌いなんだよ!」と誤魔化していたけど、顔が真っ赤だったので、それはむしろ彼の葵に対する好意を肯定していた。
「なるほど。青春ね。聞いていてこっちが恥ずかしくなるわ」
話を聞き終えると、わたしはそう言った。
「でしょう? 恥ずかしくなるわよねぇ」と、少しも恥ずかしがっていない様子で青森さんは返す。
「――で、その事件があった後、“果たして吉良坂君はロリコンがどうか問題”が、クラスの女生徒達の間では議論紛糾している訳よ」
「いや、もっと他にいくらでも紛糾させるべき議論があるでしょうよ、世の中には。なんでそれなのよ」
わたしは呆れたが、とにかく、これで初めの彼女の発言の意味が分かった。
「ま、仮にその吉良坂君とやらがロリコンであったとしても、この場合は特に問題ないのじゃない?」
そうわたしは感想を言う。
「ほー。南ちゃんは、自分の妹が変態と付き合っても別に良いと?」
「妹を仕合せにしてくれるのなら、変態でも何でも良いわよ。贅沢言える立場じゃないしね」
何しろ、妹の葵は世間的には蔑視されているAIリアンなのだ。それを気にせず好きになってくれるだけでその吉良坂君とやらには感謝したいくらいだ。
「アリ。凄い」
葵は相変わらず庭でアリを観察していた。とことん無邪気で、世間の目を気にしていないように思える。
自分達が蔑視されている事に対して、AIリアン達がどのように考えているのかはよく分かっていない。ただ、彼らは平和主義者である場合が多く、攻撃的な言動は一切していない。
『互いに攻撃し合う関係よりも、協調し合う関係の方が、より優秀な方略なので、それは当然です』
AIリアンの一人が、そのように語っているのをテレビで聞いた事がある。きっとそれが正しいのだろう。その発言が本心であるのなら、AIリアンを“進化した人類”と呼ぶ人がいるのも納得できる。
……その証明になるって訳でもないけど、多分、葵が吉良坂君に話しかけたのは、彼の孤独を感じ取ったからなのだろう。葵はとても優しい子だから。
今更、強調するまでもなく、人間はとても愚かで浅はかだ。
先にも述べた通り、AIリアン達は頭が物凄く良いから、当然ながら、有名大学の合格者のかなりの割合を占めている。しかし、官僚や有名企業の一部は蔑視されている彼らをあまり採用したがっていないらしく、その為、最近はそれら就職先の有名大学出身率が低下しているのだそうだ。
まだ民間企業に関しては、彼らの優秀さを認めて採用する動きがあるようだが、官僚はまだまだ時間がかかりそうだという。
『このままでは、日本はますます諸外国に負けてしまいます』
などとテレビのコメンテーターが憂いていた。
女性差別が激しい会社では、未だに入社試験で男性社員を優遇したりしているのだそうだ。子育ての責任を負うべきなのは、女性も男性も同じであるはずで、妊娠して一時職を離れなくてはならないリスクは、社会において出産が絶対に必要なものである点を考えるのなら、ハンディキャップとして社会全体でカバーし合うべきものだから、女性社員を差別する理由にはならない。
もし、人間が賢かったら、こんな馬鹿で恥ずかしい真似はしないと思う。
「あ、青森ちゃん! 来てたんだ。おはよー!」
ようやくアリの観察を切り上げたらしく、葵が庭からリビングに上がって来た。
「はーい」と、青森さんは手を振る。
“こいつは葵の友達という扱いで家に上がり込んでいるはずなのに、その葵に許可も取らずにリビングで寛いでいたのか”と、ちょっと呆れた。コーヒーまで飲んでいたのだ。が、葵が青森さんを見つめる屈託のない無邪気な顔を見ていると、どーでも良くなった。
美しいとは、こーいうものを言うんだ、きっと。
「さっさと、人類みんな、AIリアンになっちゃえば良いのに」
わたしは思わずそう独り言を言った。それを聞いて何を思ったのか、青森さんは、
「ま、人類もそんなに捨てたもんじゃないわよ。分からんけど」
と、何故かそんな事を言った。
きっと、無根拠だろうけど。
ある日の事だった。なんと、件の吉良坂君に葵を巡る恋のライバルが現れてしまったのだ。ただし、それは人間ではない。掃除用ロボットのR―TNK1である。
昼休み。葵は何故か掃除用ロボットのR―TNK1を眺めていた。主に廊下や階段などの共有スペースを掃除したり落とし物の拾ったりすることを目的で導入されたロボットで、大人の腰の高さ辺りまでの大きさの円柱状の可愛いデザインをしているものだから、皆からはイチロー君などという名前で呼ばれて親しまれている。
イチロー君はその時、一階の渡り廊下を掃除していて、その様を葵はしゃがみ込んでじっと眺めていた。
「何やってるの? あんた」
いつもの事だとは思いつつも、わたしは尋ねずにはいられなかった。
彼女は「あ、おねーちゃん」と言ってから、「“凄いなぁ、イチロー君”って思って見てたの」などと答えて来た。
“凄い”という葵のお馴染みの台詞だけど、アリとは違ってわたしにも掃除用ロボットの凄さは少しは分かった。
いかに効率良く廊下などを綺麗にするかを自動学習するように設計されたイチロー君は、汚れやすいスポットを記憶していて、しかも最短ルートでそれらを回っているのだとか。そのお陰で、従来の掃除用ロボットよりも、使用電力を30%ほど節約できているらしい。しかも、それはイチロー君が搭載しているAIが自ら作り出したロジックに則りこの学校用に自ら編み出した方法で、人間にはその仕組みが理解できない。
AIは人間とは異なった性質の高度な知性を持っていると言われているけど、こういうエピソードを聞くと納得ができる。
「はー ここでそーくるかぁ」
イチロー君が掃除している様を見つめながら、葵はそんな独り言を漏らしたりしている。しかもうっとりとした表情だ。きっと彼女の目には芸術的とも言える程の知的な動きに映っているのだろう。
AIと人格が融合していると言われている葵のようなAIリアンには、或いはAIの“人間とは異なった知性”がある程度は分かるのかもしれない。多分、だからイチロー君の掃除に感心しているのだと思う。
葵のこういう行動にはもう慣れっこになっているわたしは「ほどほどにしなさいよ。授業には遅れないようにね」と注意をしてからその場を去った。だから特に気にしてもいなかったのだけど、他の皆にとってはどうもそうではなかったらしい。次の日、友人の一人からこんな事を言われてしまった。
「ねぇ、AIリアンちゃんが掃除用ロボットのイチロー君に恋をしちゃったって本当?」
ずっとイチロー君を観察している葵を誰か他の生徒達も見ていたらしい。それで勘違いをされてしまったのだ。因みに、“AIリアンちゃん”は学校での葵のあだ名の一つだ。
「いやいや、恋って……」
わたしは笑ってそれを否定しようとしたのだけど、その友人は構わずに喋り続けた。
「やっぱり、AIと人格が融合しているとロボットに恋をしちゃったりもするのね。アンドロイドだとそいう事例もあるって聞いたけど、イチロー君は流石にビックリよ」
聞く耳、持っちゃいねー。
……しかし、ここまで見事に純粋なまでの偏見をストレートにぶつけてこられると逆に清々しい。
そして、それからもわたしは数人から似たような話題を振られてしまったのだった。
「実の妹がロボットに恋をしちゃったのって、姉としてどんな気分?」
なんて皮肉を言って来た人もいた。まぁ、本人に悪意はなさそうだし、これくらいなら気にしないのだけど。ただ、予想以上に噂が広まってしまっている。これではきっと、例の葵に気があるっぽい吉良坂君の耳にも入っているだろう……
興味を惹かれたわたしは、葵の教室を覗いてみることにした。何を話しているのか、葵は青森さんと盛り上がっていて、少し離れた席から目つきの悪い男生徒が機嫌の悪そうな顔でそれを横目で見ていた。多分、あれが吉良坂君だろう。聞いていた話とイメージがピッタリだ。
もしかしたら、普段からあんな顔の子なのかもしれないが、葵がイチロー君に恋をしたという噂話を気にしている可能性もある。
“……これは、どうなっちゃうのかなぁ?”
なんて、そんな様子を見てわたしは思ったりした。
葵は自分がイチロー君に恋をしている噂話が広まっているのを知っているのかいないのか、相変わらずイチロー君にご執心だった。何にそれほど惹かれているのかはまったく分からないが、とにかく頻繁にうっとりとした顔で彼(?)を観察している。
葵の事を知らない人が見たら、恋をしていると勘違いをしても無理はないかもしれない。
しかも、その内飽きるだろうと思っていたのに、いつまで経っても彼女はイチロー君に飽きなかったのだった。
「家にもイチロー君欲しいなぁ」
やがては彼女はそんな事まで言い始めた。
本当に、どうしてそこまで惹かれているのかが分からない。
そして、わたしの知らないところで、いつの間にか、“葵は掃除用ロボットが好き”という噂は学校外にまで広まってしまっていたのだった。多分、SNSとかで話題になったのだと思う。
ある日、お父さんがニコニコ顔で家に帰って来た。プレゼントっぽい装飾の施された大きな箱を抱えていたので思い出した。そろそろ葵の誕生日なのだ。きっと、その為のプレゼントだろう。
葵はそのお父さんのプレゼントに無邪気に大はしゃぎをしていた。ただ、わたしはちょっとばかり悪い予感を覚えていた。お父さんが、「葵の大好きなものを買って来たぞー」などと言ったからだ。お父さんに葵の気に入るものが分かるはずがない。
まさか……
葵が嬉しそうにプレゼントの箱を開ける。が、中を取り出して見た瞬間に固まってしまった。
“やっぱりか”と、わたしは思う。プレゼントは掃除用ロボットだったのだ。きっとお父さんは葵が掃除用ロボット好きという噂を何処かで耳にしたのだろう。どうやって調べたのかそれはイチロー君と同系統のロボットで、家庭用のものだった。
それを見て、お母さんがお父さんに文句を言った。
「あなた! また、葵ばかり甘やかして。高かったでしょうに」
お父さんは言い訳をする。
「いや、だって、掃除用ロボットなら、君の負担も減るから多少高くても良いかと思って」
両親とも葵の表情がおかしい事に気が付いていないようだった。しかし、そこで葵が「違う」と一言。憮然とした表情を見せるとようやく異変に気が付いたらしかった。
「これ、イチロー君じゃない」
そう言う葵にお父さんは慌て始める。
「え? だって、葵は掃除用ロボットが大好きだって……」
“これだよ”とわたしは思う。
この人にはこういうところがある。娘を愛していると公言していて、実際にそれは嘘ではないのだろうけど、いまいちその愛娘に対する理解が浅いのだ。
葵は掃除用ロボットが好きな訳ではなく、きっとイチロー君の効率の良い掃除方法と、それを産み出した高度なAIの知性にこそ惹かれていたのだ。
イチロー君は、わが校での業務経験を通してその効率の良い掃除方法を編み出した訳で、つまりは他の掃除用ロボット…… AIはそれを持ってはいない。だから他の掃除用ロボットを持って来ても意味などないのだ。
「違うー! こんなのお母さんが楽になるだけじゃない!」
プレゼントに期待していた葵はすっかりとへそを曲げてしまったようだった。家庭用のAIのレベルじゃ、きっと葵の興味関心を満足さすには足らないのだろう。これならぬいぐるみとかゲームソフトの方がよっぽど良かった。ゲームソフトなら、わたしも一緒に遊べるし。
葵の機嫌を損ねてしまった事に、お父さんはそれはもう見て明らかなほどに狼狽え始め、なんとかなだめようと四苦八苦した挙句、全てが無駄だと悟ると落ち込みのブラックホールに沈んでいってしまった。
家の雰囲気はそれで最悪になった。
食事の時も葵はずっとだんまりだった。葵にしては珍しく機嫌がなかなか直らない。きっと掃除用ロボットのプレゼントに、自分の大好きなイチロー君を馬鹿にされたような気分になってしまったのだろう。
「なんでそんなにイチロー君が好きなの?」
見かねたわたしが、なんとかなだめようとそう話しかけると、
「いっつもお掃除をやっていて偉いから!」
などと答えて来た。
“それなら他の掃除用ロボットだって同じじゃない”
と、わたしは心の中でツッコミを入れた。が、それはきっと葵の本心ではないのだろう。AIリアンは自分の感情を把握したり言葉にしたり、人間相手にそれを伝えたりする能力が低いとされている。心の動きが普通の人間とは違うからなのかもしれない。
「はー なるほど。そんな事があったんだぁ」
青森さんがまた家に遊びに来たので、その話をしてみると彼女はそう言った。
「何が“なるほど”なのよ?」
「いやー、葵ちゃん、学校でも機嫌が悪いのよね」
「学校でも? 本当に珍しいわね」
「まぁ、それだけイチロー君を気に入っているのじゃない?」
そう言った青森さんは、何故かいたずらっ子のように笑っていた。これは何か悪だくみをしているに違いない。
「何がそんなに楽しいのよ?」
だからそうつついてみると、
「ちょっとねー。吉良坂君がこの話を知ったらどんな反応をするのか見てみたくなっちゃって」
「あんた、まさか話す気なの?」
と、言いつつも、実はわたしもちょっと彼の反応を見てみたくあった。
だから、「そうよー」とにこやかに笑う青森さんを特に止めなかったのだ。
――が、それが失敗だった。
やっぱり、わたしは彼女を止めておくべきだったのかもしれない。もっともわたしが止めて止まるような彼女ではないのだけど。
学校の休み時間、突然にこんなような話が飛び込んで来た。
「吉良坂って一年の男生徒が、イチロー君をバットで叩いて壊しちゃったんだって!」
わたしはその話を聞いて目を丸くした。
「は? どういう事?」
もちろん、どういう事もなにも、そのままの意味である。葵の件でイチロー君に嫉妬を燃やした吉良坂君が、イチロー君を壊してしまったのだろう。
急いでその現場に向かうと、確かにイチロー君は壊れていた。廊下を掃除中だったイチロー君は、顔面が割れた状態で横転していたのだ。吉良坂君本人はいない。聞いたところによると生徒指導室に呼び出されているらしい。イチロー君を心配した葵は近付いて様子を見たがっていたが、先生に危ないからと止められていた。
葵の悲しそうな顔が目に焼き付いた。
歯ぎしりをする。
まさか、吉良坂君とやらがここまでするなんて。やっぱり、人間は醜い。
葵はすっかりと落ち込んでしまった。家に帰っても元気がなく、食欲もあまりなかった。少ししか食べない。
翌日になって、吉良坂君の暴行に対する処分内容を聞いた。イチロー君は吉良坂君が自費で買い取るになり、警察沙汰にはならなかったのだそうだ。そして、停学も何もなし。わたしは憤った。ちょっと甘すぎやしないだろうか? 業務用掃除用ロボットは高いといっても、イチロー君の場合、減価償却分でかなり安くなっているのだろうし。
我慢ならなかったわたしは、吉良坂君が一年の教室から出て来るところを捕まえて、文句を言ってやった。
「ちょっと、あんたね! いくらイチロー君が葵のお気に入りだからって、壊すのはやり過ぎよ!」
それに対し、彼はいかにも鬱陶しそうな顔でわたしを睨みつけ、「うるせぇ! 壊してなんかいねーよ!」と怒鳴ったのだ。
わたしはあまりのことに言葉が出なかった。
なんて奴だろう? 開き直るにもほどがある。壊してないはずがないないじゃないか。明らかに壊れている。それでわたしは更に憤慨をした。
――こんな最低男には、妹は絶対にやらない!
と。
が、その次の日に事態は急転したのだった。
“プレゼント”とぞんざいな字で書かれた箱が家に届けられていて、その中にはなんとAIの…… 掃除用ロボットの頭脳データが入ったメモリーとCPUが入っていたのだ。
わたし達はそれが何なのか分からなくて嫌がらせのゴミか何かだと勘違いしかけたが、葵には一目で分かったらしく、須臾の間に目を輝かせた。一応、箱の中にはそれが掃除用ロボットR―TNK1の頭脳部分だという説明が書かれた紙が入っていたけど、危うく捨てるところだった。もうちょっと考えて欲しい。
差出人は不明だったが、そんなものを届けられるのは、イチロー君を買い取った吉良坂君だけだろう。間違いなく彼だ。
同系統という事で問題なく我が家の掃除用ロボットには、イチロー君のものだろうそれらを取り付ける事ができた。ハードの違いがあるから多少は動きが変だったが、それも直ぐに修正したようだ。
「ふふ…… イチロー君」
我が家の掃除をし始めたイチロー君を、葵はうっとりとした表情で見つめていた。家だけだと狭いから、後で学校に連れて行ってあげるのだそうだ。
つまりはこういう事だろう。
葵がイチロー君の事で落ち込んでいると知って、吉良坂君は半壊させて買い取るという無理矢理強引な手段でイチロー君を手に入れたのだ。そして、それを葵にプレゼントした。
或いは、彼は葵への誕生日プレゼントに悩んでいたのかもしれない。
「人間も、捨てたもんでもないかもしれないわねー」
嬉しそうにしている葵を見て、そんな事をわたしは少しだけ思っりした。