R.E.D
人の善意は時に悪意として映る。
傍観者は常に善意を差し向け、愚者はそれを悪意として受け取る。
では、此処で一つ質問をしよう。
その善意に気づいた時、愚者は何を想うのだろうか。
過剰なまでに洗浄された白い部屋の中で目覚める。
普通の生活であれば、窓から光が差し込んでカーテンを開ける。だが、此処には窓がない。それどころか余剰が何一つない。ただ、目覚めるのと同時にライトが点灯する。いやに眩しい光に眉をひそめながらも、身体を起こしていつもの場所へ向かう。
そこには病的に細身の血色の悪い男が座っている。その後ろには同じような若い女性。またも白い部屋。床に何かを擦ったような跡はなく、それどころか細かな傷一つない。どこまでも新しさを覚える部屋だ。
そのままぼうっと立っていると、男がこちらに気づいて声をかけてくる。
「やあ、”RED”。調子はどうだい?」
「だから、先生。何度も言ってるじゃないですか、僕は――」
その言葉を遮るようにして、彼は言い放つ。
「いいんだ。君は”RED”で良いんだよ。それに、そう呼ぶのは君の為でもある」
そう、此処で目覚めた初日と同じことを言われる。
記憶は定かではないが、僕はある日突然、此処で目覚めた。
そして、その日初めて会った人間が此処にいる男だ。
「そうやって濁してますけど、じゃあ此処はどこなんですか」
「それは、難しい質問だね」
またも、初日と同じことを言われる。以前もこんな風にして濁された。
だから今回も――。
「ああ、でも。教えてあげよう」
――そう、思っていた。
思わず声が漏れる。
この場所には日付を記録するものが何もないから何日経ったか覚えていないが、少なくとも、このやり取りは3回目になるはずだ。濁されるたびに何日か考え事をして、やはり納得できずに尋ねることを繰り返して3回目。だからそろそろ尋ねることさえやめようと思っていたのに。
それを知ってか知らずか、彼は微笑みを湛えて。
「此処は病棟だ。君達を守るための施設だよ」
そう言ってのける。
その言葉に「はあ……」と理解の及ばない声が漏れる。
もし、先生の言う通り、此処が病棟だとして。じゃあ何のために僕たちは此処にいるのだろう。身体はどこも痛まないし、精神的な何かがあるわけでもない。見知らぬ誰かの声を聴くわけでもないし、心が囚われることもない。骨が折れてるわけでもないし、呼吸が苦しいとかもない。
なのにどうして。その思考を遮るようにして、先生は話しだす。
「まあ、理解しようとしなくてもいい。厳密に言えば、理解するべきじゃない」
妙に真剣な面持ちでそんなことを言うものだから、理解は更に遠のく。
「世の中を良く生きるには程よく馬鹿でいる必要がある。要は、人の悪意だとかに気づかず、人の善意に気づける程度の知性と言うやつだ。悪意に気づけるほど心が疲れていくのは想像ができるだろうが、何よりも重大なのは、それに気づけてしまうということそのものだ。言ってしまえば、気づきと思考の習慣だ。それがあるだけで、世の中で起きているあらゆることを深く考え、洞察してしまう。そして、その過程でもし何かに気づいてしまったら。それは間違いなく不幸を招く」
――だから、理解するべきじゃない。
彼は僕にそう告げた。どこか迷いを孕むかのように視線を動かしながらも、たしかにそう告げた。でも、それは本心じゃないだろう。そんな、そんな善意はエゴだ。
「そうやって誤魔化さないでください」
ふつふつと湧きあがった不満は、明確な言葉として吐き出される。
だが、彼はきわめて冷静に、僕の目を真っすぐ見据えて続ける。
「誤魔化しているわけじゃない。君が気づきと思考の習慣を持っているからこそ、選択の余地を与えているんだ。君がたとえ自ら望んだとしても、私が真実を教えてしまったら君は拒絶するだろう。それは、他人に教えられるという過程を経るからだ。だが、自ら望み、自ら真実を手にした場合はそれを受け止める他ない。だから、知りたければ君自身が自ら知るしかない」
そのうえで――と続ける。
「君がもし、真実を望むというなら、ペンとノートを渡そう。そこにこの日常の中で感じるすべての疑問を書き出していけばいい。そして、その解答となるものを考えてみると良い。そうすれば、君は答えに辿り着ける」
そんなどこか冷たく、されどなぜか妙に親身にも感じられる言葉の前には閉口する他なく、気まずい沈黙が流れたところで、またも、今度は一段と明るく話しだす。
「と、まあ医者というよりも少々人間的な部分で話をしてしまったし、冷たい物言いにもなったけど、ともかく君にはペンとノートを渡そう。さて、この話はこれで終わりだ。さあ、座って。今日の体調を確かめよう」
腑に落ちない部分はあるが、ひとまず言われた通りに健診を受ける。その最中にさっき言われたことを考えたりもしたが、何よりも疑問なのは、なぜ今になって話したのかという点だ。これだけは釈然としないままだった。
健診も終わると、傍に立っていた女性がいつの間にかペンとノートを渡してきた。白いノートにどこにでも売っている市販の黒色のボールペン。華がないことにげんなりしつつも、抗議するにも居心地が悪く、そのまま受け取って形式的な礼をして部屋を出た。
その後は、これもいつも通り、食堂へと向かった。
食堂もやはり真っ白で、そこには自分と似たような子たちが集まっていた。食堂のおばちゃん曰く、病棟にいる子全員らしくざっと60人ぐらいらしい。3か月に1度、全体での席替えはあるものの基本は割り当てられた場所に座って、同じ子たちとの食事になる。
今日もいつものように全員が列に並んで、同じ食事を受け取る。四角く切り取られた白いパンとフードプロセッサーで粉々に砕かれた野菜の入ったシチュー。野菜だとわかるのは食感と味だけだが、それでも不味いわけではなかった。ただやはりこうも色味がないとどこか味気ない。先の事もあり、僕は目の前の子に声をかけてみた。
年齢はおそらく10歳前後、僕から見て7歳ほど下の子だ。いつも黒色のリストバンドのようなものをつけていて、物静かな子。そんなに話さないけど、名前は確かグリーンと言ったか。
「ねえ、グリーン。これどう思う?」と食事を指しながら訊ねる。
「別に。美味しいよ」
「んー、じゃあさ。あの先生どう思う?」
「優しいから好き」
そこで会話は途切れる。こうも会話とは難しいものだったか。僕が此処に入ってからあまり人と話をしてなかったのはあるけど、それにしても会話が弾まない。あまりにも会話が弾まないので、あまり触れたくなかったが、仕方なくリストバンドについて触れることにした。
「そのリストバンド、誰から貰ったの」
「先生。リストバンドと同じ仇名をつけてくれたんだ」
思考が一瞬止まり、瞬間、疑問があふれ出す。
リストバンドは黒色だ。だから、仇名をつけるならブラックになるはずなのに。いや、もしそうじゃなかったとして、グリーンなんてメーカーはあっただろうか? メーカーマークの刺繍もされていないし、記憶にもない。
というか、そもそもこのリストバンドは僕の知ってるリストバンドのような材質じゃないことにも今気づいた。なら先生のお手製か? いや、その線も薄い。あの人がこれを自作するなんて考えにくい。
何かがおかしい。そう周囲を見渡して理解した。
僕以外の全員がリストバンドをつけている。白、仄かに明るい黒、グレー……。
全員が同じ形態のリストバンドをしていて、それが何よりも強烈な疑問を突きつける。
――じゃあ、どうして僕にはついていないんだ?
思考が進むにつれてじとりと汗をかく。それは十中八九、僕にとっての絶望だとわかる。この異端な環境下で同じ集団に含まれないという絶望ではなく、自分が特殊であることによる絶望。そして、その絶望の鍵がこのリストバンドへの質問で開こうとしている。
聞くべきではない。聞かなければまだわからない。だが、知っていた方がいいだろう。今更戻れるわけもない。そんな想いが渦巻く中で、先生の言葉を思い出し、気づく。
――だから先生はあんな風に言ったんだ。
こんなことを知って狼狽えない人はいない。だが、僕は常に冷静に先生と会っていた。僕が言い続けたのは「此処が何処であるか」と「自分の名前について」だけだ。つまり、先生は僕が気づいていないことを知っていた。それを知っていたからこそ、あんな風に言ったんだ。ノートとペンを渡して、色に注目させる。疑問を書き出すという行動を推奨することで、自然と思考はそう動く。普段踏み込まない場所にまで踏み込むことさえ、あの些細な一幕に印象付けられた行動に過ぎない。
気づいてしまった以上、もう戻ることは出来ない。
だから、小さく息をしてリストバンドについて尋ねた。
「……そのリストバンドってグリーン?」
「うん、緑色」
ドクンと一際大きく心臓が脈打った。