第三章「今晩のおかずは大根です」
崇拝子ちゃんは冷蔵庫から大根を取り出し、手早く下ごしらえを始めました。
小さい鍋に水を入れたら火にかけ、湧いている間に大根の菜っ葉を切り落とし、適当な大きさに刻んでいきます。
そのままの流れで厚さ4センチ程度に大根を切り、短冊切りにします。これは皮を残したまま食べても触感を気にしなくて済むようにという崇拝子ちゃんなりの工夫です。
(汝、欲する物を余すことなく全て得よ)という悪魔王様の教えに基づき、毒のある部分以外は可能な限り全て美味しく食べるのが彼女の主義なのです。悪魔王様自身は「そういう意味で言った訳ではない」のですが、食材を無駄にしない心掛けそのものは大切な事なので特に止めるような事もなさいません。
こうしてお料理をしている最中、悪魔王様のありがたい教えを思い出した事で、連鎖的に色々な事を思い出しました。
あれは、そう、崇拝子ちゃんが悪魔王様と共にこのお仕事を始めたばかりの頃。
彼女は素朴な疑問を抱きました。
「ねえねえ悪魔王様―」
(なんだ?)
「悪魔王様は悪魔崇拝をどんどん広めたいのですにゃ?」
(うむ。それと並行して神への信仰を挫く事も忘れてはいかんぞ)
「悪魔の力は万能なのに、そのお力で、こう、ぱあっと手っ取り早く悪魔崇拝を広められないのですにゃ? やっぱり神様の力のほうが上だから出来ないのですにゃ?」
悪魔王様に対しては疑問に思ってもなかなか問いかける事の難しいであろう質問を無遠慮にぶつけていく崇拝子ちゃん。この娘には怖い物がないのでしょうか。
しかし悪魔王様は特に気分を害された様子もなくお答えくださいました。
(崇拝子。我々と神が現在、戦争状態にある事は理解しているな?)
「神魔戦争ですにゃ?」
(そうだ。我とお前が出会った最初の頃にも、一度説明したな。そして双方とも一撃必殺の攻撃方法を有してはいるが、それを使うと領土を著しく破壊してしまう為、そこからの復興費や戦勝国としての統治責任の発生により、それを使う事が出来ない。そこで、破損の修復が容易な低次元への侵攻という作戦がとられた。三次元生命体のお前にも分かりやすく説明すると、立方体である建物を破壊すると修復は大変だが、建物の絵であれば複写が容易であろう? 次元が一つ違うというのはそれぐらいの差があるのだ。そうして次々と低次元への侵攻が重なっていき、ついに三次元に達した)
「それってもしかして、相手にとっても楽勝な感じの戦争なんですにゃ?」
(そうだな。そして当面の作戦目的は、人々の魂をより多く集める事である。つまりエネルギーの奪い合いだ。そして先程の質問だが、これを悪魔力で無理やりに行ってはならない)
「えー? 全世界一気に悪魔崇拝者にしてしまえば、相手もそれ以上魂を得られないのですから弱体化はできないまでも、それ以上に強くはならないのではないですにゃ?」
(…お前は天然なのか、実はとんでもない天才なのか分らんな。その案は確かに議題にあがった。そして否決された)
「どうしてですにゃ?」
(崇拝子。お前、漫画や小説が好きだったな?)
「にゃ? はいですにゃ」
(ではイケメンの主人公とその仲間たちが、祖国を救済する為に苦難の果てに強敵を打ち倒し、いよいよ感動のフィナーレという場面でページをめくったら、その瞬間に主人公が錯乱して王族を次々と殺して回る猟奇漫画に変貌し、その血みどろの姿を見た仲間の僧侶が深層心理の奥底に眠っていた性癖を覚醒させ、発情し、その僧侶の変態っぷりに絶望した武闘家が急に俳句を読んで恋心を暴露してから飛び降り自殺をはかるというラストになっていたらどうする?)
「今までのお話は何だったんだ!? ってなりますにゃ!」
(うむ。そしてそんな漫画には読者はつかない。つまり価値が無い。もしかしたらとんでもないモノ好きが読むかもしれんが、少なくとも商業作品としては成立しない。そして二次元で表現されたそれらは三次元では評価の対象にならないという事が説明出来たな。三次元の存在は、いかようにも二次元をいじくりまわす事が出来るが、物語やキャラクターを破綻させるとゴミの山を築く事になる。そうなると、後の処理に忙殺される事になる。つまりパワーダウンにつながる。それ故に、我ら悪魔と神もまた、その権能で人々の意識を無理やり変えるのではなく、あくまで本人の自由を尊重して意思決定させねばならんのだ。それに何より…)
悪魔王様は少し悲しい声音で言いました。
(自由意思を失い、自らの頭脳で考える事を止め、自分以外の何者かの意思で動く人間の魂には輝きが宿らない。そのような光の鈍った世界を見るのは、心が痛い)
「…悪魔王様……なんて立派なんですにゃ」
これが、悪魔王様がその強大なお力で人々を意のままに操るような事をなさらない理由です。
崇拝子ちゃんは短冊切りにした大根を湯の中に投下した後、再び大根を切り分けます。
今度は2センチ程の輪切りを二つ用意しました。今度は皮をぐるりと一周むいてしまい、その皮は細く切って鍋に入れます。そして皮をむいた大根の輪切りには、表面に細かく切り込みを入れました。そうこうしているうちに鍋の中がいい塩梅になったようです。火を止め、味噌をスプーンですくって、みそこし用の網に移し、菜箸を使って鍋の中で広がるようにとかしていきます。大根のお味噌汁が完成しました。
崇拝子ちゃんは鍋に蓋をして台所の脇に移動させます。
実は崇拝子ちゃんのおうちにはガスコンロが設置されていません。キャンプなど屋外使用を主な用途とするカセットコンロを使っています。この部屋に引っ越しをした際、ここの型に合うコンロを探して買うのを面倒に思った崇拝子ちゃんは、もともと持っていたこのコンロ一つでこれまで料理をこなしてきました。一人暮らしであればガス代には大差がないので、もうこれでいいかなと思っています。ゴミが出やすいのと、ガス缶の買い置きは面倒ですが、新しいコンロを買うタイミングを完全に逃した今、何万円もする買い物にはなかなか手が出せずにいるのです。
そういう事情があり、彼女は料理を一品ずつしか仕上げられません。
さてお味噌汁を完成させた崇拝子ちゃんは、次にフライパンを置いて熱します。
ゴマ油をたらし、良い匂いがしてきたところで先程刻んだ菜っ葉を炒めました。砂糖、醤油、めんつゆの順に味付けをしていき、最後に鰹節を入れて余計な水分を吸わせて完成です。手早く小皿に盛って、ちゃぶ台に置きます。
さていよいよメインディッシュに取り掛かります。濡らしたキッチンペーパーで汚れをぬぐったフライパンに油を引き、熱した上に投下されたのは、先程の切り込みを入れた厚さ2センチの大根の輪切りです。もうお分かりですね。崇拝子ちゃんは大根ステーキを作ろうとしているのです。具合を見ながら火加減を調整し、両面からしっかり火を通してきます。料理の本などでは、一度電子レンジで加熱し、余計な水分を落としてから焼くのが良いと紹介される事が多い大根ステーキですが、崇拝子ちゃんはそのままフライパンで焼きます。頃合いを見て醤油をかけて焼き色をつけ、少々のバター、ブラックペッパーで味を調えたら完成です。
崇拝子ちゃんは冷凍庫からタッパーに入れたご飯を取り出し、電子レンジで温め始めました。もちろん電子レンジ対応タッパーです。これはご飯の支度を短縮し、電気代をわずかに節約する悪魔王様のお知恵です。毎日炊飯器を稼働させるよりは、ごはん毎に電子レンジを五分使うほうが安いのです。
電子レンジがご飯をぐるぐる回しながら温めている間に、崇拝子ちゃんは大根ステーキを皿に移し、お味噌汁を椀によそって、それぞれちゃぶ台に運びます。
そして最後に、ごはんと、冷蔵庫で作り置きしていた麦茶が運ばれ、晩御飯の準備が整いました。
「いった、だっき、ます、にゃー♪」
崇拝子ちゃんは笑顔で食事をします。
「いやー、日本は素晴らしい国ですにゃ。安全な食材を探さなくていいのはとっても楽ですにゃー。特に大根は最強ですにゃ。生食できるし、毒は無いし、全身捨てる所が無い無敵食材ですにゃ」
崇拝子ちゃんは少々独特な感想をもらしました。
しかしそれも無理からぬ事。今から少し前の出来事なのですが、崇拝子ちゃんは異世界でサバイバル生活をしなければならない羽目に陥った事があるのです。
最終的には悪魔王様のお力で無事帰還できたのですが、当時、水着しか身に着けていなかった崇拝子ちゃんは、石器を作成する所から始まり、樹皮をはがして裂いて叩いてよりあわせて縄を作り、弓引き式着火装置を作成して火を用意し、炭を作成し、その炭を使った水のろ過機を作り、灰を溶かした水のうわずりからアルカリ性殺菌液を取り出し、生活拠点を作り、害獣や虫の脅威から身を守り、食べられる物を見つけるだけで一日が終わる事も珍しくない日々を生き抜いたのであります。
飲める水すら入手が困難な中、熱中症で死にかけるような事もありました。
そんな経験を積んだ彼女にとっては、安心して食事ができるという事はとても大切な幸福のひとときなのです。
なお、サバイバル生活をする上で川の水は絶対に飲んではいけません。人間に管理されていない生態系では、湧き水にだって細心の注意を払わなければいけません。もし薬がない状態で細菌を取り込み、下痢にでもなれば、それだけで致命的。際限なく水分を失い、ついに体温保持もできなくなり、頭痛と目眩に苦しんで幻覚に悩まされ、毒虫をはらう力すら無くなって殺されてしまいます。
崇拝子ちゃんは悪魔王様の教えに従って適切な対応が出来たからこそ生き延びる事が出来たのです。素人は決して真似をしてはいけません。
(ふむ。あのサバイバル生活を経て以来、お前も随分と料理の腕前が上がったな)
「当然ですにゃ。食べる方法も分かっていて、水も使いたい放題、火の用意も簡単、調理器具だってあるんですにゃ。失敗する方が難しいですにゃ」
平べったい石を見つけて固定し、その下で火を起こし、熱された石に水をかけて蒸発させ、その勢いで汚れと雑菌を弾き飛ばして石焼き料理を作っていた頃が懐かしく思い起こされます。樹皮を加工して鍋を作成したのも初めての経験で、今ではいい思い出です。
今の崇拝子ちゃんの実力ならば、畑を作っての自給自足の生活も可能でしょうが、そもそも畑を作るような土地を購入するのが難しく、種や肥料も、政府の愚策で高騰しております。遭難した等の緊急事態であれば、森や山で果物を取るのも許されるかもしれませんが、基本的に無許可で採取するのは違法です。サバイバル技術を身に着けているのに、相変わらず生活の為にはお金を稼がなければならない事に、崇拝子ちゃんは少し不満でした。
そのサバイバル生活の途中、悪魔王様を目の敵にしている宗教団体「トナカイ教団」との死闘や、どう猛な肉食獣との戦いなど、語るべき事は多くありましたが、それはまたの機会とさせていただきましょう。
「ミーちゃんは、元気ですかにゃー…」
(崇拝子。分かっているだろうが、あの娘は…)
「大丈夫ですにゃ。ちゃんと分かってますにゃ。あのミーちゃんは、あちきの本当のミーちゃんではないですにゃ。並行世界の、そっくりさんですにゃ」
(そうか。それならばいい)
そう、崇拝子ちゃんには生き別れの妹がいるのです。それがミーちゃん。
最初は無人島だと思っていた異世界のその場所は、探索を進める事で大陸である事がわかり、崇拝子ちゃんは川に沿って移動し、人里を探す事を決意しました。
そしてついに見つけた村では、並行世界のミーちゃんがいて、異世界のその村の崇拝子ちゃんと勘違いされた崇拝子ちゃんは束の間、生き別れの妹と交流し、楽しい時間を過ごしたのです。
そして、自分が異世界の姉のそっくりさんだと気づかれぬように、静かに村を離れたのです。
崇拝子ちゃんにとっては、久しぶりの安らぎでした。
「さて、ご飯も食べたし、後はお風呂入って歯を磨いて寝ますにゃ。明日はバイトを頑張らなくてはいけませんのにゃ」
(うむ。励むがいい)
崇拝子ちゃんの本来のお仕事は悪魔崇拝を広める事ですが、それだけでは生活費がまかなえませんので、普段からアルバイトに勤しんでおります。察しのいい読者様はもうお気づきでしょうからお伝えしますが、そもそも崇拝子ちゃんが悪魔王様と共に働くようになったきっかけとは、ミーちゃんの命を救う為なのです。その為に崇拝子ちゃんは悪魔契約を交わし、悪魔王様と主従関係となり、願いの対価として悪魔崇拝を広める活動をしているのです。
彼女はその時に名前を崇拝子と改め、美しかった金髪は、緑色になりました。悪魔王様の解説によれば、これは魔女の証なのだとか。
人ひとりの命を救う願いの対価とは、崇拝子ちゃんが死ねばそれで済むような話ではありませんでした。
彼女の長い「借金返済」は、まだ始まったばかりと言えるのです。




