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第十一章「かつて神や天使と呼ばれたものたち」

 某所。そこは一見してごく普通のトレーニングジムでした。駅から徒歩十分程度の場所にある五階建てビルの二階フロアに構えられており、ビル一階部分にあるコンビニでは、行きかえりに生活必需品を購入できる事がとても便利で、指導員の説明も丁寧である為に高評価。近隣にある同様の施設としては最も多くのリピーターを持つジムです。

 トナカイ教団九天使、五星将のリーダーである「筋肉のコメット」は、普段はここで働いておりました。

 栄養士の資格も併せ持つ彼は、トレーニーの食事指導役も兼任しており、ある意味ではこの場所で最も信頼されている人物です。

 ですから彼は、ここではトナカイ教団の幹部である事は秘密でした。

 日本には宗教の自由がありますし、宗教によって差別的な事が横行してはならない事になっておりますが、人々から差別意識が消え失せた訳ではありません。新興宗教の幹部である事が知られれば、もしかしたらジム経営者や同僚にいらぬ被害が及ぶ事も考えられます。それゆえ彼は、特に必要でもない限りは、トナカイ教団員としての活動と、それ以外の生活はきっちり分けるよう心掛けていたのです。

 それゆえに今、彼は困っておりました。

 今日は彼にとって休日で、思う存分トレーニングに励み自分を追い込み、帰りには焼肉を食べて帰る予定を組んでおり、楽しみしていた筈の日でしたが、突如として何者かに襲われたのです。その襲撃者は「筋肉のコメット」を名乗っておりました。

 彼は、この自称筋肉のコメットを偽物だとして抗議しようと思いましたが、それをすると自分が本物のコメットだと周囲に知られる不安もあったのでやりませんでした。

 実際に、この襲撃者は偽物ではなく、残虐超神によって召喚された別次元の本物のコメットなので、抗議する意味もありません。

 彼が悩んでいると、襲撃者が言いました。

「ふ。分かるぞ。この場所での戦いはお前にとって不都合だらけだろう。だが容赦をする訳にはいかない。聖獣トナカイへの信仰を失い、悪魔に加担したお前を、俺は絶対に許さないからだ!」

「さっきから何を言っているのか分からないな。ここは肉体を鍛え、それを通して人間的成長を感じる、侵されざるべき場所。俺はその手伝いをする、ごく普通のトレーナーだ。このまま訳の分からない事をまくしたてるようなら、営業妨害で訴えるぞ!」

 コメットの対応はとても常識的でした。

 しかし、別次元のコメットには通用しなかったようです。やはり次元が違う事で、同一人物だとしても細かい違いがあるのでしょう。

「あらためて名乗ろう」

 別次元のコメットがポーズを取りつつ名乗ります。

「やあやあ我こそは、トナカイ教団九天使が一人、筋肉のコメット。悪魔を相手に容赦はしない。この筋肉で成敗してくれるわ!」

「むう!? かっこいい」

 コメットは思わず素直な感想を漏らしました。それと同時に気づきます。今、目の前の人物が行った口上は、いつかコメット自身が使おうと考え、ずっと心の中で温め続けてきたものだったのです。

(もしや、本当に本物なのか!?)

 コメットは想像を働かせます。仮に、この襲撃者が本物だったとして、それを成立させる可能性とはどのようなものだろうかと。

 様々な連想の果てに「神による異次元からの召喚」という発想に辿り着きます。

 何度も反芻して考え、それを否定する為の思考も並列して行いますが、何度考えても、この認めたくない結論に戻ってきます。もう、どうあがいても否定のしようがありません。

 その時でした。

 このジムは、建物の外を通る道路に向かって一面がガラス張りになっております。そのガラスを突き破って新たな侵入者が登場しました。

 それはトナカイ九天使のメンバー。破壊のダンサーと、狂言のブリクセンでした。

 ダンサーは愛用のバイクでジャンプして、ブリクセンはパワードスーツに搭載された飛行機能を使ったのです。

 ダンサーがコメットに声をかけます。

「無事か、コメ…いや、トレーナーのお兄さん」

 ダンサーはコメットの事情を知っていましたので、気を使ってそのように呼びました。

 その気の回し方から、彼らが自分の同志であるダンサーとブリクセンだと判断し、コメットは安心します。この際、ガラスの弁償だとかは思考の脇に追いやります。緊急事態なのです。

「…バイクのお兄さん、この男の事を何か知っているのかい?」

「オレも車庫の掃除をしていたら急に襲われた。逃げる途中でロボットのお兄さんを見つけて話を聞いたら、ロボットのお兄さんも襲われたそうじゃないか。何かが起こっているようだが情報が足りん。判断は後にして、先ずは戦力の合流を優先して走ったら、案の定だ」

「…ロボットのお兄さんて僕の事かい? まあいいけど。気を付けて、僕らの所にも『同じように敵が来た』けど、戦闘能力は互角。だが躊躇(ちゅうちょ)や遠慮がない分、もしかしたら僕らより手強いよ」

「同じように、だと?」

 そう、ダンサーとブリクセンのもとにも、別次元より召喚された九天使が向かっていたのです。彼ら自身が、最も油断するだろう場所や時間を知る故に、襲撃には同一人物が割り当てられたようだと推測出来ました。

「くくく。いいや、互角ではない。僕たちは神より新たな力を与えられているが、君達は既に神とのリンクが切れているだろう。旧時代的な能力では新時代には勝てない。悲しいけれど諦めたほうがいいよ」

 いつの間にか建物の外に、別次元のブリクセンが浮かんでいました。

「な!? それは僕がずっと欲しいと思っていたホバリング機能。ずるいぞ、君だけ搭載されるなんて!」

 誰にとってもどうでもいい情報ですが、ブリクセンの飛行は、噴射によって勢いよく飛びあがり、その後に滑空する事で成立するものなのです。空中に留まり、腕を組んで「くくく」などと思わせぶりな言葉を投げかけるような事がずっとできなかったのですが、別次元のブリクセンはそれができるようで、ブリクセンはとても悔しい気持ちになりました。

 それだけではありません。別次元のダンサーのバイクも、車輪を変形させて、ドローンのような飛行機能を有しておりました。ブリクセンに並んでこちらを見ている姿は、まるで悪を追い詰める特撮ヒーローです。

「ちい。旧時代だとかなめやがって」

 内心では羨ましいと思いつつもダンサーは悪態をつきました。

 それらのやり取りを見て、コメットが判断を下します。

「よし、ならば先ずは連携して一番弱い奴を倒そう」

 一同が緊張しました。「一番弱い奴というのが誰を指すのか」その回答によっては今後のコミュニケーションに支障が出ます。「なんて危ない発言をする奴なんだ。筋肉のコメット。やはりリーダー職にあるやつは思い切りが違うぜえ」と、六人中、四人が思いました。

「いくぞお! 筋肉のコメットとやらあ!」

 意外にも、最初に倒すべき敵として指名されたのは別次元のコメットでした。

「なにぃ!? ぐああ」

 虚を突かれた別次元のコメットは、コメットの全力のキックを受け、建物の奥へ追いやられます。それに追従し、ダンサーがバイクで加速、その真上をブリクセンが飛んで行きます。バイクによる突撃で別次元のコメットの体を跳ね上げ、空中で身動きできない所をブリクセンが抱き着いて捕獲し、もう一度加速。そのまま壁を突き破って外に出た所で、思いっきり地面に投げつけました。普通の人間なら絶対に死んでいる攻撃です。良い子の皆は真似をしてはいけません。

「先ずは一人!」

 コメットのその声とほぼ同時に、今度は別次元のダンサーとブリクセンが同時にコメットに襲い掛かります。連携の結果、コメットが敵にとって最も近い場所に残る事になったのです。

 空中での加速力は、もともと噴射によっての飛行能力をもっているブリクセンが勝っていたのか、最初に接敵したのは別次元のブリクセンでした。

 凶悪なドリルナックルがコメットを襲います。

 しかし、ドリルナックルは手首から先のパーツを回転させているだけのもの、コメットは攻撃を冷静に観察し、前腕部分を横からはたいて軌道をそらして対処しました。

「どのような攻撃も、当たらなければ脅威ではない」

 コメットはそのまま相手と体を密着させます。そうして壁のようになった別次元のブリクセンの向こうから襲い来る、別次元のダンサーの気配を感じ取り、敵である二人が衝突するように位置を調整します。コメットの鍛え抜かれた筋肉はそれを可能としました。

 別次元のダンサーもブリクセンも、そのコメットの考えに気づき、慌てて回避しようとしました。

 結果として、急ハンドルを切った改造バイクは軌道を保てずに壁に激突し、コメットは身をよじる別次元のブリクセンの動きを利用して勢いを作り、床に転ばせ、そのまま転ばし続けて破壊されたガラス面から外に放り出したのです。高さは3~4メートル程度でしたが、受け身が取れなかったのか、別次元のブリクセンは衝撃で気絶しました。

 なんということでしょう。能力のスペックだけ比較すれば別次元の勢力が有利であったはずですが、勝ってしまいました。

 後にコメットは、この場面を振り返ってこう語ります。

「全部計算ずくだったのかって? そんな訳ないだろう。少なくともブリクセンとダンサーは油断ならない相手だと思っていたよ。あの二人はどんな能力が追加されているか想像も出来なかったからな。では何故、別次元の俺を最初に攻撃したのかって? ああ、それはな、俺に与えられていた権能ゆえに、それほど大きな拡張はされていないだろうと思ったからだ」

 筋肉のコメットは生来とても体の弱い少年でした。

 酷い喘息を患っていたために思うように運動が出来ず、学校が終わっても友達と遅くまで遊ぶような事もせずに、家で漫画を読んで過ごすような子供だったのです。

 日光にもあまり当たらずに過ごす為、ビタミンなどが影響する生理的な機能も弱っていき、喘息以外の病気にもかかりやすくなり、それゆえ更に外に出なくなり、運動不足になってやせ細っていくという悪循環に陥っていた時期があったのです。

 少年時代の彼は、それもこれも喘息が治るまでの事だからそれでいいと思っていました。病気をしっかり治して、治ったあかつきには、これまでやれなかった色々なスポーツにも挑戦しようと思っていました。

 しかし、彼が高校生の時に虐めの標的になってしまい、強く後悔する事になるのです。

 彼はとても健全な精神の持ち主でしたが、肉体が弱い者は、強い者に攻撃された時には基本的に対処できません。

 腕立て伏せでもスクワットでも、喘息を患いながらでも、負担が少ない運動量で継続して鍛えていれば、もしかしたら違った未来があったかもしれないと思い。その思いの強さが、彼の筋肉へのこだわりに繋がっているのです。

 コメットに与えられた権能とは「超超回復」と言います。

 超回復とは、運動によって損傷した筋肉が、回復していく過程でより強く太くなり、次回以降は同じ強度の運動にも耐えられるようになろうとする性質の事です。すなわちトレーニングとは、筋繊維を破壊し、それを超回復させる事を繰り返す事なのです。その適切な破壊の見極めや、回復を助ける為の栄養摂取等の助言、安全への配慮などが、トレーナーと呼ばれる人たちの主な仕事となります。肉体の弱さを悔いたコメットが神に望んだ能力は、それにまつわるものでした。

 コメットの超超回復は、個人差はありますが通常72時間かかると言われている筋肉の回復を24時間に短縮するというものでした。

 それだけ聞くと大した能力ではないように感じますが、神が拡大解釈し、コメットに与えられし超超回復は、生きてさえいればどのような損傷も24時間で回復するというものだったのです。

 彼はこの能力をフルに活用し、生きるか死ぬかのギリギリを攻めた危険な任務を積極的にこなし、戦闘経験を重ねてきました。

 このように、余りにもメリットが大きい能力なので忘れられがちですが、ダンサーやブリクセンのように、何かしらパーツを加えればそれだけ拡張される、というような能力ではないという難点もあので、コメットは別次元のコメットこそ最初に倒すべき敵と判断したのですね。

 さて、ひとまずの勝利を得て、コメットが言います。

「お騒がせしました。トレーニーの皆さん。ここは危険です。急いで避難して下さい」

 これまで事態の展開についていけず、黙って成り行きを見守っていた人たちは、その声に反応し、我先にと出入り口に殺到します。

 コメットは他の職員に指示を出し、避難誘導から貴重品を含む荷物の確実な返却、オーナーへの連絡、警察への通報などを行わせました。

 仕事を与えられた事によって、他の職員はそれにかかりきりになり、コメットたちへの注意が薄れます。その隙を狙って、彼らは現場から静かに姿を消しました。


 一方その頃。

 トナカイ九天使の他のメンバーも、やはり戦っておりました。

 人形のドンナー。悦楽のヴィクセン。夢想のダッシャー、そして奇跡のキューピッドも、他のメンバー同様に合流し、力を合わせて戦っていたのです。

 コメット達と違い、こちらは苦戦しているようです。

 彼女たちは現在、住宅街を抜けて逃走しようとしている最中であり、追い詰められて建物の陰で身を寄せておりました。

 悪魔王様との戦いでは雑魚として扱われたダッシャーですが、そもそも彼はトナカイ四天王の一人です。目を合わせるだけで人に催眠術をかけられるというのは、実は結構な能力でした。ヴィクセンの快楽刺激グローブは近づかなければ効果を発揮しませんし、ドンナーの射撃も狙いをつける必要があり、目線を隠す訳には行きません。別次元のダッシャーがにらみを利かせ、逃げられないように別次元のドンナーが射撃で牽制し、触れさえすれば一撃で人を戦闘不能にできる別次元のヴィクセンが物陰から忍び寄ってきます。

 なりゆきで隠れる事になってしまいましたが、これにより追い詰められる形が出来上がり、それ故に相手に広い視野で戦う事を許してしまい窮地に陥っているのです。

 そして奇跡のキューピッドの権能は、状況故にこの場で最も役に立たないものでした。

 キューピッドの能力。それは「トナカイ教団員の蘇生」でした。

 例えどれだけ死者を出そうとも、キューピッド自身が健在である限り、トナカイ教団の信者であれば誰でも、傷を癒して生き返らせる事が出来るのです。ただし自然死である場合は生命としての限界を迎えた事が原因ですので、すぐにまた限界を迎えてしまいます。蓄積された疲労や、失った血液が戻るという事もありません。

 例えばコメットが任務に失敗して死亡したとしても、遺体を回収できればキューピッドが蘇生させられます。そして、生きてさえいればコメットはあらゆるダメージを24時間で回復できるのです。戦闘部隊としてはこれ以上を望めないコンボ性能を発揮できる二人の存在は、九天使の戦闘の支柱と言えましたが、今はコメットが不在です。もしこの場にコメットが居れば、死ぬ事も恐れず超高速で動くキラーマシンとなり目をつむって暴れまわってくれたでしょうが、居ないものは仕方ありません。

 これまた厄介な事に、相手の攻撃属性も「洗脳」「快楽刺激」「催眠」という非殺傷型であります。相手にとってもそうでありましょうが、この場ではキューピッドは只の足手まといでした。

 このままジリジリと包囲を狭められていけば、確実に負けてしまうでしょう。

 小声でドンナーが言いました。

「おいどうする。いちかばちか、俺様が出てダッシャーを仕留めるか? 数を一人でも減らし、数的優位を得れば、もしかしたら逆転の目も転がってくるかもしれんぞ」

 ヴィクセンが賛成します。

「そうだな。もし神によって快楽刺激攻撃の効果範囲が拡張されていたら、そのうち確実に射程に捉えられる。もはや苦しみと言える快楽の連続だ。そうなれば死ぬ事もできず全滅しかない」

 死ぬ事もできず全滅とは、なかなか特殊な状況でしか使えないパワーワードですね。

 ダッシャーが可能性を提示します。

「もし、もしの話をするぞ。もし、奴の催眠攻撃が既に成功していて、我々が全員、もう夢の中だとしたらどうにもできん。そして、夢を見ている間はそれを夢だとは気づけないんだ。怖い。ああこわ…ぐはあ」

 パニックになり絶望的想像しか口にしなくなったダッシャーをドンナーが殴りつけました。

 ここでキューピッドが言葉を発します。

「いけませんね。全員まいっているようです。落ち着いて、冷静さを欠いては相手の思うつぼです」

「では具体的にどうする。リーダー?」

 僅かに皮肉を込めてドンナーが言いました。

 無理もありません。もともとこの四人は、それほど仲がいいとは言えない四人です。

 九天使という、志を同じくする仲間として一定の信頼をおいているものの、それぞれ劣等感が非常に強く、それが故に自分を必要以上に優秀に見せようとする傾向があるからです。

 まずダッシャー。

 トナカイの仮面を被っている為に気づきにくいのですが、彼はもう50を過ぎた老人です。いつまでも催眠術の芸だけで生活をやりくりできるかと言えば、それは大変難しく、事実として最近の彼は教団としての活動が生活のメインとなっています。

 施設での受付係やボランティアへの参加で、教団通貨であるトナーカを得られます。1トナーカは日本円にして0.8円程度の価値があり、トナカイ教団の関連施設内に限り、食堂や遊技場、宿泊施設の利用に使えるので、一生懸命頑張れば教団活動だけで生活は出来ます。

 信者から届く布施をトナーカと両替する事でこれが可能なのです。新興宗教と聞くと警戒して怪しむ人が多いのですが、トナーカのような試みによって、普通の社会では就労する事の難しい人でも生活基盤を得られるという恩恵もあるのです。ダッシャーはその恩恵故に特に熱心に活動していました。それ故、その信仰心はとても大きなものですが、では生活の全てを教団の為に使うのが彼の本懐かと言われればそうではなく、彼にだって人並みに社会に認められたい欲求はあるのです。しかし、それは人生を折り返した今でさえ、叶う兆しを見せていません。

 そしてヴィクセン。彼女は性風俗店で働いており、どうやら才能もあったらしく、今ではやりがいを持って取り組んでいるそうですが、当然、社会に出たその日から性風俗で働いていた訳ではありません。

 もともとの彼女の夢はシンガーソングライターでした。

 ギターを持って路上に立ち、歌い、自作のCDを売って、知名度を上げ、いずれはテレビ出演や大手レコード会社からのデビューを夢見ていました。

 そして夢で終わったのです。

 CDの手売りで得られる収入では生活が出来ず、アルバイトなどをしなければなりません。しかし、高時給のバイトでなければそれだけ長時間働く必要に迫られます。具体的には月15万以上は稼がないといけません。それだけ稼げる仕事をした上で音楽の修業をし、ライブなどをこなさなければならないのです。若い頃は睡眠時間を削る等して、それらの時間を捻出していましたが、そんなやり方はいつまでも通用しません。すぐに生活は破綻し、音楽を諦めるか、より時給のいい仕事を探すかの二択になりました。こうして彼女は風俗店で働くようになったのです。

 風俗の店ですから、世間的にあまり宜しくない、評判の悪そうな人ばかりを相手にしていそうな雰囲気がありますが、意外に普通の感性を持ったお客様が多いそうです。

 その中には、ヴィクセンの身の上に同情してくれる人や、親身になって相談に乗ってくれる人も居たようでした。その人たちの応援もあって、もう少し頑張ろう。あと少し頑張ろうとして年月を過ごし、段々と生活に必要とするお金も増えた事で、ついに売春を始めてしまいます。

 ちなみに日本では、売春法によって金銭などを対価として性行為をする事は禁止されていますが、個室で男女が仲睦まじいやりとりを繰り返す内に、お互いに恋心が芽生えたという(てい)で行われているので、それは恋人としての行為だったとして言い逃れるそうです。なるほど。抜け道っていくらでもあるものなのですね。

 何度か本当に相手に恋をして、その度に破局するという事も繰り返して、徐々にヴィクセンの心は擦り切れていきました。いつの間にか音楽への情熱も冷め、そうなった事により性風俗で働く意味も見失い、ついに人生を振り返って考える度に鬱になるのですが、これを解決したのが宗教への傾倒なのですから、まさにトナカイ教団と彼女の出会いは天啓であったと言えるでしょう。しかし、それでも彼女の根底にある、自ら志した道で「誰からも認められなかった」という劣等感は払拭できていないのです。

 そして現職自衛官であるドンナー。

 彼女はある意味で、この中で最も悲惨と言えるかもしれません。

 彼女の夢は声優でした。

 小学校から高校卒業までの数年間、放送部や演劇部で活動を重ね、その実力において誰も疑う者のない有望株として知られていたドンナー。とある養成所から特待生待遇での入所も持ちかけられていた程でしたが、その養成所の大元となる事務所は弱小でした。

 将来性の不安という理由で親族一同からの反対にあい、やむなく大手の養成所に通う事になります。その競争率は大変なものでしたが、彼女は講師からも一目置かれる程の才能を持ち実力を伸ばしていきました。多くの仲間たちと共に舞台を成功させ、稽古では切磋琢磨し、強い絆で結ばれた友人が一人、また一人と、実力不足からオーディションに落ちる事をきっかけに養成所を止めていくのを何度も見てきましたが、その度に友人たちは彼女に感謝を伝えました。「ありがとう。君のような役者と共に舞台に立てたのは自分の誇りだ」と。しかしついに、ドンナー自身が養成所を去る事になります。金銭的余裕がなくなり、受講料を払えなくなったのです。

 芝居の修業として沢山の舞台を経験しましたが、それが事務所との契約に繋がるという事はついになく、生活を切り詰めて芸を磨くという事が続けられなくなるのは、よくある話でございます。

 ある時、ドンナーは街を歩いていると急に男から声をかけられました。彼は、かつてドンナーよりも先に養成所を去った役者仲間でした。一度は夢を諦めたが、あのあと別の養成所に通って、今では仕事も貰えるようになったと嬉しそうに語っていました。その養成所というのが、かつてドンナーを特待生待遇で迎えてくれると約束してくれた養成所だったのです。「いつかまた君と同じ舞台に立ちたいな」と、そのように言ってくれる友人に感謝しつつ、彼女の中に暗い感情が沸き起こるのです。あの時親族の反対なぞ無視して、あの養成所に通っていれば、自分も今頃は夢を叶えられていたかもしれないと。

 大手と中小以下では取れる仕事の量も質も確かに段違いですが、それでも現場を経験できるというのは貴重な成長の機会です。大手養成所では機会すら得られない事が多いのですが、ドンナーの友人は着実な成長を遂げていると感じられました。

 彼女は才能も実力もあったのに、親族に反対されたという理由で得られるはずの成功を得られなかったと、そう感じているのです。

 彼女は既に自衛官として働いておりました。彼女が尊敬する女性声優が出演した、女性自衛官を主人公とした映画を見たのがきっかけでしたが、彼女は自衛官としての才能もあったらしく、特に不満のない生活を手に入れていました。

 もし自衛官としての才能が無く、生活に不満があったなら、もう一度役者として挑戦してみようかなと考えられるのだろうかと、ちらりと想像しましたが、すぐに忘れました。

 このように、この場にいる者達は皆、人生に失敗した者達であり他人を羨む暗い理由を抱えているのです。一度ネガティブな状況に陥ると脆い集団と言えます。

 最後にキューピッドですが、彼女は小説家を目指すような事をしていたのですが、新人賞にひっかからないどころか、ネット小説サイトの感想コーナーにすら反響がないようなヒエラルキー底辺の存在でした。自信があったから小説を書いて公表するというような暴挙に出たのですが、これが暴挙であると結果が物語ってしまうのでどうにも否定のしようが無く、己の行為を暴挙だったとして毎日ふりかえる自虐的な行為を繰り返して消耗し、ついに宗教活動を始めてしまうのです。

 あれ? 小説が上手くいかないのはともかくとして、そういえば私はどうしてトナカイ教団なんて言う、名前からして怪しい所を選んで入信したのでしょう。うつむいたキューピッドの視界の端で、自身の緑色の髪が揺れました。緑色の髪が揺れるのを見ていると、何かを思い出しそうな気がするのですが上手くいきません。設定? う、頭が割れそうだ。

 そうキューピッドが考えていると、別次元のキューピッドの声がしました。

 一同が更に緊張します。

「さて反逆者の皆さん。そろそろ覚悟は決まりましたか」

 こつこつと靴音を響かせて存在を誇示し、静かではあるものの遠くまでよく通る声でした。

「既に大勢は決しました。このまま降伏するのであれば悪いようには致しません。修業をやりなおし、聖獣トナカイに仕える機会を与えましょう」

 これは降伏勧告であり、動揺を誘う作戦であり、別次元の勢力への注意をそらす言葉でした。別次元のキューピッドの、リーダーとしての仕事ぶりに感心しつつ、キューピッドは、ある覚悟を決めます。

 彼女は携帯電話を操作しました。すぐに相手に繋がり、音声は小さなものでしたがドンナー達にも会話が聞こえます。

 その電話の相手は悪魔王様でした。

「やあキューピッド。この悪魔テレフォンに連絡をするという事は『我の予想が当たった』のかな?」

 実は先日の戦いの後、キューピッドと悪魔王様が連絡先を交換した際に、悪魔王様は一つの予言を与えられました。

 それは今、キューピッド達が陥っている状況を示しておりました。

 ただ悪魔王様としても神がここまで早く九天使を見限るとは予想を超えていたため、対応が遅れていたのであります。

 悪魔王様は電話越しに新たな助言をキューピッド達に与えました。

 短い言葉で的確に状況と対応法について説明し、人を納得させる様子は尊敬に値し、こんな人が上司だったら部下も頼もしいだろうなあと、崇拝子ちゃんをちょっぴり羨ましく思いました。

 やがて、隠れていた場所から四人は姿を現します。

 別次元のダッシャーはさっそく催眠をかけようとしますが、これを別次元のキューピッドが止めます。別次元のキューピッドには、彼女たち四人が観念した様子に見え、本当に降伏するのかもしれないと思えたのです。なので、そのように声をかけました。

「観念なさいましたか」

「ええ、観念しました。これはどうあがいても、あらがいようがありません」

 キューピッドの声は、どこかせいせいしたような雰囲気でした。

 キューピッドは続けて言います。

「できれば認めたくない事でした。私共は本当に聖獣トナカイを信仰していましたし、それに繋がる神にも、同様に信心を傾けていたのです。本当です」

「なるほど。それは何よりです。裏切ったのは、何か気の迷いがあったのですね。悪魔王との接触が影響したのでしょうか。やはり悪魔は信用なりません。僅かな時間でも関われば、どのように人の心の隙間に入ってくるか分かったものではありませんね」

「私共は本当に神を信じていたのです。ですから、どうしても受け入れがたい事実でしたので、いらぬ手間をかけてしまいました」

「……? 何を言っているのです」

「ところでブリクセンのパワードスーツには電話による通話機能があった筈。今、連絡は取れますか?」

 別次元のキューピッドに代わって別次元のドンナーが連絡を試みます。彼女はその結果を身振りで伝えました。

「どういう事です!」

 別次元のキューピッドの声が凄みを増します。この時、彼女は判断を間違えました。イレギュラーな事態の為、情報を得ようという判断でしたが、この時ばかりはダッシャーに催眠攻撃をさせるべきだったのです。だからキューピッドの行動を許してしまいました。ドンナーは銃を下ろしていたので、不意打ちをするにしても別次元のドンナーや別次元のヴィクセンで対応できましたし、何があったのか分かりませんがダッシャーは気絶しているようだったので、依然として主導権は自分達にあると油断したのです。

「先に申し上げるべきなのでお知らせしますが、現状、私共は神とのリンクが切れておりますが『依然として権能を扱えます』ね。これは、私共が神ではなく『悪魔王様より恩恵を(たまわ)っている』からでございます」

「……なんですって!?」

「ええ。ええ。驚かれる事でしょう。私共としても不本意な事でしたが、結果として悪魔王様の仰る通りになっていますので、もう否定のしようがありません。観念するしかありません。観念して受け入れるしかない事態です。いやあ。信じたくなかったですね。あげくに私が、まさか『トナカイ教団の信者ではなかった』とはー」

 キューピッドの声は緊張感の欠片もないもので、むしろもう何もかもがどうでもいいというような雰囲気さえ感じられるので、別次元のキューピッドは最初、その言葉が指し示す意味を理解できませんでした。

 キューピッドは携帯電話の音量を上げて、別次元のキューピッドにもよく聞こえるように掲げました。やがて悪魔王様のお声が響きます。


「さあ世界を救いにいこうか」


「ぐうああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 その言葉を聞いた途端、キューピッドが苦しみだしました。

「ああ、すでに神に見放された私と違い、まだ繋がっているあなたでは反作用があるのですかね。これは配慮が足りず、申し訳ありません。『別次元のミセスクイン』」


 さて一方その頃。税務署前にて。

 崇拝子ちゃんが悪魔王様とキューピッドの会話の内容を理解できずに質問しました。

「今のは何の意味があるんですにゃ?」

「ただの合言葉だよ。我の言葉に反応して、ミセスクインに施した記憶の改ざんが解除されたのだ。今こそ言おう。トナカイ九天使のリーダーであるキューピッドは、我と共闘関係にある正義のテロリスト。ミセスクインだ。この時代におけるあやつの敵を追い詰める作戦の一環として、最も危険視される宗教に無意識に入信するよう術を施した。神がこのような攻勢に出た今、もはや潜入は不要。ここからは我らの反撃である。ダンサーたち他の九天使についても、我が悪魔契約に自動で切り替わるように仕込んでおいたので刺客に負けるという事もあるまい」

 携帯電話の契約を他社に乗り換えても、同様かそれ以上のサービスを受けられるようなものだと例えれば分かりやすいでしょうか。今回は神が一方的に切った契約であるので非難されるいわれもございません。


 キューピッド改めミセスクインは高らかに名乗りました。二人分の声が住宅街に響きます。

「「我が名はミセスクイン。悪と戦う最後の希望!!」」


 ミセスクインの覚醒の情報が神のネットワークで共有されたのか、崇拝子ちゃんを襲った人たちが浮足立ち、受肉して対応していた悪魔王様に言いました。

「悪と戦う希望なのに悪魔と一緒になって戦うのかよ!」

 これに対する悪魔王様の返答はシンプルなものでした。

「勉強が足りんな。そもそも現代において悪魔と呼ばれるものの大半は、元々はそれぞれの地域で神や精霊と呼ばれる存在だ。戦争に敗北し、文化を破壊され、神とされるものが悪魔と呼ばれるようになる。当たり前に繰り返されてきた歴史だよ。古い時代を知る者にとっては善なるものが、今の時代に悪と呼ばれているだけだ。だから我はなるべく善だの悪だのと言いたくないのだが、やれやれ、あやつもまだまだ研鑽が足りんようだ。まだ悪と戦うなぞと言っておるのか」

 悪魔王様は僅かな間をおいて、ポーズを決めつつ「では、我も様式美に則って名乗ろうか」と前置きして声を響かせました。

「我は悪魔王! 神に背き、人の祖に知恵の実を勧めた蛇の末裔にして、悪魔界の全権をあずかる者なり! 残虐なる神に与する者共よ、こらしめてくれるわあ!」


 戦いの行方は神のみぞ知る。という言い回しがありますが、今回ばかりは神にも分かりません。悪魔王様がついに本気で神と戦う時が来たのです。


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[良い点] 素晴らしい。ここまで物語を熱くできるのは才能です。あとキャラへの愛情がすごく深い方なのがわかりました。 [一言] やけにリアリティのある設定はミセスクインさんの経験値なのか!?すごい武器な…
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