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端の街

作者: 大場 みや

 通勤や通学の波が終わった昼間のホームには少女のほかには誰も居なかった。

 秋の気配も昼間は影を潜めていた。

 低くなってきた太陽に照らされ少女は眩しそうに目を細めた。腰まで届きそうな長い髪がセーラー服と一緒に風にさーっと揺れた。


 未知は何時間もこうして学校へ向かう電車を何本も見送っていた。


 なぜか何もかも嫌になってしまったような変な思いが体を支配し、未知をその場にとどめ続けた。


 ポケットから名前以外何も書かれていない進路表を広げると、くしゃくしゃに丸めながら無造作に鞄に押し込んだ。


「なんか、どうでも良くなってきちゃったな」


 そう呟くとホームに入ってきた電車に未知は静かに乗り込んだ。

 誰も乗っていない電車はガタガタと心地よい振動をさせながら、徐々にスピードを上げていった。

 流れていく景色が徐々に変わっても、未知はぼんやりと窓の外の眺めるだけだった。


 将来なんてわからないよ。


 中学3年になり、学校から提出を求められた進路表は未知を大きく悩ませていた。何をもって進学する高校を決めれば良いのかまるで分からなかったからだ。


 将来の夢もない。

 行きたい場所も、欲しい物もこれといってある訳でもない。

 よく言えば無欲。そして、悪く言えば何に関しても無関心だった。

 それは自分の事にも当てはめられた。

 先の事を考える。それは一体何処まで先の事を考えれば良いのか。

「自分の事だけど・・・」


 自分の事だから。


「考えるの面倒だな・・・」


 盛大な溜め息をつきながら未知はシートに体を預けた。背中から伝わる心地よい振動と、考える事を放棄した思考は未知をゆっくりとまどろみの世界へと誘った。

 幼い頃、迷子になるといつも必死に探しに来てくれる人が居た。

 一人で勝手に外に出て道に迷い、不安で泣いていると大きな手で抱きかかえてくれる人が居た。

 いつも「もう迷子になっちゃだめだぞ」と笑ってくれた。

 大きな手で頭をくしゃくしゃっとなでて、泣き止むまで抱きしめてくれた。

 しっかり手を握った帰り道は知らない道でももう怖くなかった。

 

 未知が目を覚ますと電車は止まっていた。

 終着駅だったらしくドアが開いたままの状態で停車している。放たれたドアからは風が吹き込み、未知のスカートを小さく揺らした。


「寝ちゃったんだ・・・」


 時刻は夕刻を指していた。

 黄昏時らしく、まるで蜂蜜の中に入ってしまったかのようなねっとりとした黄色があたりを包んでいた。吹く風も夕焼けに温められているかのように、少し生暖かいような気がした。

 電車を下り、時刻表を確認すると三時間ほど後に折返し運転を行うようだった。駅員は休憩にでも行っているのだろう。

 三時間ホームでボーっとしている位なら、少し周りでも見てみようと未知は無人の改札を出た。



 商店街独特の活気のある雰囲気がそこにはあった。一つ一つの店を眺めながら、未知は駅からあまり離れないように歩いていた。商店街には屋台のような所がいくつもあり、仕事終わりの男達が酒を飲み始めていた。

 行きかう人が声を掛け合っているのを何度も見かける。

 まるで昭和の古き良き日本の風景を見ているようだった。

 にぎわう商店街をキョロキョロと歩きながら見てまわる。


「こんな町もまだ残ってるんだ」


 肉屋のコロッケの前で未知の足が止まった。そういえば朝から何も食べてなかった。空腹を実感したからだろうか、まるで催促するように腹の虫が鳴る。


「あら、お姉ちゃん。何にする?見ない顔だけど、おつかいかい?」


 店の中からピンクのエプロンをした恰幅のよい女性がニコニコと笑顔で出てきた。テレビに出てくるような肝っ玉母ちゃんの風貌に、フリルのついたピンクのエプロンが少しミスマッチなような感じがした。


「あっ、いえ、ごめんなさい。見てただけです・・・」

「あら。美味しそうだった?嬉しいわ~。思わず立ち止まるほど美味しそうって事だしね」


 ただ見ていただけだというのに女性は怒る事もなく、むしろ上機嫌にコロッケを一つ差し出した。差し出されたコロッケは出来たてなのか、ふんわりと美味しそうな香りが鼻腔をくすぐった。


「あの、ごめんなさい。お金持ってないんです」


 未知が頭を下げると、女性は大きな声で笑った。


「いいのよ。これはサービス。立ち止まってくれたサービスよ」


 そう言ってカウンターから出ると、未知の手に温かいコロッケを握らせた。


「あの、でも、悪いですし」


 返そうとする未知に女性は不思議そうな顔をした。


「なんだい。あんた、悪い事でもしたのかい?」


 大真面目な顔でそう返され、未知はどうしていいか分からなくなってしまった。


「あの、ありがとうございます」


 その言葉に女性は満足そうに頷いた。


「そう。子供は甘えればいいの。で、ありがとうございますがきちんと言えればいいのよ」


 女性はエプロンのポケットから一枚の写真を取り出した。写真には女性と小学生くらいの姉妹が笑顔で写っている。


「ほら、私の娘。可愛いでしょ。あの子達もあんたみたいに綺麗な子に育つといいんだけどね。なんせおてんばだから、困ったもんよ」


 そう言うと、女性は大切そうに写真をエプロンに仕舞い込み、店の奥に消えていった。

 未知は女性が消えていった方に小さく会釈した。

 コロッケ貰っちゃった。立ち止まったサービスでコロッケあげてたら、利益なんか出ないんじゃないのかな。まだ温かなコロッケを見つめながら、未知は商店街を歩いた。

 商店街の終わりに差し掛かった所には、小さな子供達が楽しそうな声を上げながら遊んでいる。

 小学生かな?そんな事を考えながらコロッケをほお張ろうとすると、下からスカートをツンツンと引っ張られた。

 さっきまで楽しそうに遊んでいた子供の一人が未知のスカートの裾を持っていた。


「お姉ちゃん。遊んで」


 白いポロシャツに黒い短パンをはいた少年は、微笑む事もなく未知を真っ直ぐ見上げていた。未知は困ったように、少年の目線の高さまでしゃがんだ。


「お友達たくさん居るじゃない。あの子達と遊んで来たら?」


 そう言いながらさっきまで子供達が居た場所を指差すと、そこには子供の姿はなかった。

 思わず立ち上がり、あたりを見回すが、子供達はどこにも居なかった。


「誰もいないよ。ねえ、遊んでよ」


 裾を引っ張り続ける少年は表情を変える事無く未知を見上げ続けた。


「えっと、ちょっと用があるから遊べないよ。ごめんね」

「用って?」

「帰らないとお母さん心配しちゃうよ」

「帰らなくても心配しないよ」

「でも、もう日も暮れるし。ね。真っ暗になったら怖いでしょ?」


 未知のその言葉を聞くと、「大丈夫だよ。日は暮れないから」と言うと少年はにた~と笑った。


 口だけ歪ませたようなその笑いは、何か爬虫類を連想させた。背筋がぞくっとするような悪寒が走った。

 その場から走って逃げたいのに、なぜか足が凍り付いてしまったかのように動く事が出来ない。

 背中に冷や汗が流れた。


「おい、だめって言われてるだろ。ガキだろうが、しつこい男は嫌われるぞ」


 いつのまにかくわえ煙草をしたひょろっとした男が少年の近くにしゃがみこんでいた。「チョーップ」といいながらスカートを持つ手を切り離すと、煙草の煙を少年に吹きかけた。

 顔を手で隠すと、少年は苦々しい顔をしながら駆けていった。少年が立ち去る後姿を見送りながら、未知はほっと息を吐いた。

 よれよれのスーツを着た男は険しい顔で未知を見ていた。年は三十歳ほどだろうか、櫛を通してないぼさぼさの頭に、無精ひげが生えていた。髭のせいで表情はあまり読み取る事は出来ないが、あまり青白い顔をしているような気がした。


「あの、ありがとうございました」


 深々と頭を下げてお礼を言う未知に、男は険しい顔を緩めた。


「お、いいのよ。ガキは基本的に嫌いだし。躾のなってるガキならまだ我慢できるんだけど、それ以外は俺にとってクソガキだから」


 未知は相槌を打つ事も同意する事も出来なかった。この男の年齢からすると自分も十分ガキであると思ったからだ。それにしても口が悪い・・・。


「まあ、お礼したい気持ちがあるなら、そのコロッケ頂戴」


 そう言う間もなく、未知の手からコロッケを奪うと二口ほどで食べてしまった。


「・・・・・・」


 まあ、ただで貰ったコロッケだけど。なんか・・・。こうゆう大人にはなりたくないと思わせるような人だな・・・。


「ありがとうございました。じゃあ、私はこれで・・・」


 しかし、男はそそくさとその場を去ろうとする未知の隣を歩き始めた。


「あの・・・」

「駅に行くんだろ?そこまで一緒に行ってやるよ。どうせ暇だし」


 煙草の煙を燻らせながら男は言った。


「あっ、いえ、ご迷惑ですし。一人で大丈夫です」

「ふ~ん。またあのガキに絡まれても大丈夫?」


 にやっと笑う男に未知は返す言葉がなかった。



「電車まだ来ませんね」


 車庫に入ったのか、駅に電車は止まってなかった。

 商店街を往復して来たのだが、時刻はまだ黄昏のままだった。携帯を見ると圏外表示されている。

 駅のホームに設置された椅子の端と端に二人は座っていた。


「おい、お前なんでここに来たんだ?」


 男の顔を見ると、こちらを見る事無く煙草に火をつけようとしていた。煙草の匂いがふわっとあたりを包んだ。その匂いに未知は少し顔をしかめた。


「なんでって何がですか?」

「ん?ここは何もないだろ。わざわざお前みたいなガキが来る所じゃないし」


 未知は溜め息をついた。


「別にここに着たくて来た訳じゃないです。なんかどうでもよくなっちゃって、ただなんとなく電車乗って、着いたのがここってだけです」

「何?お前みたいなガキがどうでもよくなってって。そんな悩みなんてないだろ?」


 馬鹿にしたような笑いに未知はむっとした。

 鞄から進路用紙を取り出すと、男に渡した。


「進路?」

「そうです。その紙の通り。何をしたいのか。何が出来るのか。何になりたいのか。まったく分からない。将来の事とか言われてもどうしたらいいか分からなくて・・・」


 親にも教師にも言えなかった悩みは、他人だからかすんなり口にする事が出来た。


「未知か。いい名前じゃん。未知数の未知だな」

「お先真っ暗。先行き不安の未知です」

「この名前、嫌いなのか?」


 未知は唇をつきだしながら、小さく唸った。


「好きでも、嫌いでもないかな・・・」


 男は進路表をひらひらと手で遊ばせている。


「そうか。俺はいい名前だと思うぞ。未知の可能性。お前が望めばなんにだってなれるし、誰にだって会いにいける。本当に望めば欲しい物も手に入る。とかそんな意味なんじゃないのか。俺、子供なんか居ないから知らんが」


 男はそういうと進路表から手を離した。手のひらほどの紙は風に舞い上がり、ひらひらと舞った。はらりと地面に落ちた進路表を未知は冷めた目で見つめた。


「何も望まない場合はどうしたらいいの?将来に夢や希望なんてないよ」

「なんか色々考えるの嫌になってきた…」


未知は椅子から立ち上がると大きく背伸びをした。そして地面に落ちた進路表を拾うと、鞄にしまい込んだ。


「そうして、自分の人生から逃げるのか?」


 男の冷たい言葉に、未知はいらっとした。


「別に、あなたには関係のない話です。どうしようが私の勝手です」

「ああ、関係ない」


 男は未知の顔を見る事なく、煙草を燻らせる。ホームに沈黙が流れる。そして男は口を開いた。


「お前、帰れなくなるぞ」


 男のその言葉に、未知は首を傾げた。


「帰れないって、どうゆう意味ですか?」


 男は煙草の煙を空にふきかけながら話を続けた。


「そのままの意味だよ。ここから帰れなくなるって事。ここは自分の人生から逃げ出した奴らが最後に行き着く所なんだよ。どんな人間でも受け入れてくれるよ。大人でも子供でも、男でも、女でも。動物だってな。そして、少しずつ忘れていく。悩みも忘れて、いづれ自分が誰かも忘れて、忘れた事すら忘れ、そして消えてく。お前にはまだ聞えないんだろ?鐘の音が。それが一つなるたびに、一つずつ消えていくんだよ」


 男はいたって真面目に話しているようだった。まるで物語の世界の話を真剣に話す男の姿は異様なものにうつった。

 小さくあとずさると未知はきびつを返して、走り出した。男が追いかけてきたらどうしようと考えると、怖くて後ろを振り返る事が出来なかった。

 先ほど歩いた商店街を全力で走り、肉屋の前に立つ女性に抱きついた。


「あら。どうしたの?そんなに慌てて?」


 息を整えると、未知は顔を上げた。


「ごめんなさい。変な男の人が居て。それで怖くて」

「あら。それは心配だね。女の子が一人で歩くと危ないしね」


 そう言いながらカウンターに入る女性のエプロンから、何か地面に落ちた。それを拾い上げると、女性の大切にしていた写真だった。


「あの、写真・・・」

「で、お姉ちゃん。何にする?見ない顔だけど、おつかいかい?」


 写真を差し出した状態で、未知は固まった。


「ん?なんだいこれ。写真?あらやだ、私にそっくりね。でも、こんな写真撮った事ないし、人違いだよ」


 そう言うと女性は店の奥に消えていった。未知の手の中に残された写真には、先ほどと変わらない親子の笑顔がおさめられている。

 一つずつ消えていく。

 さっき聞いた男の声が聞こえてきたような気がした。

 頭がくらくらとして、考えがうまくまとまらなかった。


「あー、お姉ちゃん見つけた~」


 そんな未知の耳に入ってきたのは、少年の声だった。十メートルほど離れた商店街の入り口から、少年が未知を指差し笑っている。


「ね~、一緒に遊んでよ~」


 そう言いながら走り寄ってくる少年を避けるように未知は反対方向に走った。


「鬼ごっこ~?僕が鬼かな~?走ってるって事は遊んでくれるって事?嬉しいな~」


 少年の声は走る未知の背中に何度も向けられた。恐怖で体が硬くなるのを感じた。足がもつれそうになりながら、未知は必死に足を動かした。

 どんなに走っても少年が後ろにいるような気がした。

 小さな倉庫に身を隠すと、体が恐怖でガタガタ震えた。遠くの方で少年の声が聞える。心臓の鼓動がすごい速さで鳴り続けた。その鼓動の音で少年に気付かれてしまうような気がして、未知は呼吸する事も忘れていた。


「お姉ちゃ~ん。ここかな~?」


 向かいの倉庫の中を少年が探しに入るのが隙間から見えた。その時、ポケットの中の携帯が小さく震えた。慌てて携帯を探ると、頭の上から声が降ってきた。


「見つけた」



 未知は手をひかれて走っていた。

 相変わらずくわえ煙草のままだったが、未知の手をしっかりと握り、駅に向かって男は走っていた。未知の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。

 黄昏の黄色の中に、電車が止まっていた。


「お前、見えるか?」


 走りながらホームを指差す男に、未知は何度も頷いた。


「そうか。見えるなら大丈夫だ。見えるって事はまだ帰れるって事だ」


 表情は見えないが、男はとても嬉しそうな声だった。ホームに滑り込むと、丁度発車のベルが鳴り響いた。ドアの前までたどり着くと男は未知の頭をくしゃくしゃとなで笑った。


「もう迷子になっちゃだめだぞ」


 男の顔を見ているとなぜか涙が溢れてきた。


「一緒に!一緒に帰ろうよ」


 未知がそう言うと、男は少し寂しそうな困った顔をした。


「俺は少しここに長く居すぎたんだ。戻るには遅すぎた」


 俺には見えないんだ。という声は未知の耳には聞えなかった。なおも食い下がろうとする未知の耳に少年

の声が聞えた。未知を帰さない為に少年が必死に追いかけてきているのが見えた。


「あいつに捕まると厄介だ。寂しさを紛らわす為に、誰でも引きずり込もうとするからな。ほら!急げ!」


 男は未知を電車の中に押し込んだ。閉まるドアの向こうに優しく微笑む男の姿があった。小さく遠ざかる景色に、どこからか鐘の音が聞えた気がした。



 気がつくと辺りはすっかり夜の帳が下りていた。

 ホームで未知はぼんやり立っていた。いつからこうしていたのか、頭がぼんやりしてはっきり思い出せない。

 ポケットに入れた携帯が小さく震えた。


「はい・・・」

『未知!いま何処に居るの!?』


 電話の向こうから、母親の声が聞えてきた。


「いま・・・?」


 母親の声にぼおっとあたりを見回すと、毎日利用している最寄の駅のホームに立っている事に気がついた。


「えっと。駅」

「居た!!」


 そう言うか言わないかで、駅の階段から母の幸子が姿を現した。

 かっちりとした黒のスーツに、ベージュのコートを翻しながら走ってきた。

 未知の姿を確認すると、幸子は頬を平手で叩いた。頬を叩く乾いた音が駅のホームに響く。


「どれだけお母さんが心配したと思ってるの!携帯も繋がらないし!本当、生きた心地しなかったわよ」


 そう言うと、幸子は未知の体をしっかりと抱きしめた。久しぶりに感じる母の温もりは未知の心を優しく包んだ。

 学校に連絡する幸子は電話だというのに、何度も頭を下げて謝っていた。その後姿が嬉しいような、くすぐったいような気持ちになった。


「こんな風に未知と手を繋いで帰るなんて、何年ぶりかしらね」


 空に瞬く星を見上げながら、幸子は少し嬉しそうに呟いた。ぎゅっと握った手からはお互いの体温が行き来した。


「小さい頃はよく繋いでたね」

「そうね。あんたはすぐ迷子になるから、いつもお父さんが必死に探しに行ってたわね」


 未知は小首を傾げた。


「そうなの?」

「覚えてないの?一人でどこかに行っては迷子になって泣いてたのよ。お父さん、未知の事は絶対おれが探すからって。いつも飛び出していっていたわ」


 思い出すように笑う幸子の横顔を、未知は不思議そうに見つめた。


「お母さん、お父さんの事恨んでないの?」


 未知の真っ直ぐな目を見つめ返すと、幸子は首を横に振って笑った。


「お父さんが突然居なくなった時は驚いたし、悲しかったけど。でも、お母さんには未知が居たし。お父さんが居たから未知と出会えたって思ってるから、恨んでないよ」

「生きてるか、死んでるかも分からないのに?」

「お父さんは優しい人だったけど、とても弱い人だったのよ。どこかで生きてるかもしれないし、もう死んでるかもしれない。それは分からないけど、お母さんはお父さんを愛していたし、今でも感謝しているわ」


 未知が幼稚園の頃、財布も何も持たず、まるでふらっと散歩に行ったかのように消えてしまったと聞いていた。


「私はお父さんの事、覚えてないや」

「そう・・・」


 幸子は未知の体をぎゅっと引き寄せた。


「未知って名前はお父さんがつけたのよ。未知の可能性って。こいつが望めばなんにだってなれるし、誰にだって会いにいける。本当に望めば欲しい物も手に入るって口癖のように言っていたわ」

「未知の可能性?」

「そう、可能性の卵だから未知にしようって。」


 大きな手と優しい眼差しが見えたような気がしたが、煙草の煙のようにふわりと消えて後には何も残らなかった。



 電車に乗ったその先に、誰も知らない小さな町がある。

 遠くに行ってしまいたい人々が集う町。

 どこか古臭く、どこか懐かしい。どんな人間も優しく包み込む。蜂蜜のようなねっとりとした黄昏時が永久に続く町。

 時折、どこからか小さな鐘の音が聞えてくる。耳を傾けると心地よい響きに体がすっと軽くなるような感覚がする。そして心の中の大切なものがまた一つ溶けて消えてしまう。

 どこから来たのか、どこに行くのか。

愛する人も、大切な物も。そして、自分自身の存在が消えてしまうその日まで、彼らは静かに時を刻んでいく。

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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして。 突然、感想をお届けすることをお許しください。 素敵な物語だったと思います。 自分が何をしたいのか、何ができるのか、何をしなければいけないのか……。物語のヒロイン・未知は、…
2019/05/21 12:36 退会済み
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