1話
「お願いします。陸上部に入ってください」
それが、彼女との初めての出会いだった。
強い日差しに隠されて、彼女の顔はよく見えない。
蝉の喧騒の中で彼女の声はよく通る。
そして、思い出したように彼女は言った。
「あっ、えっと、自己紹介遅れてすみません。私、五月雨恵美っていいます。三谷、凜…….さんですよね?」
恵美と名乗る彼女は、私の顔を覗き込む。
突然現れていきなり勧誘とは、中々礼儀というものを知らないのかもしれん。
人が折角走るために足を延ばしているところだというのに。
極力不快な顔をしないように応える。
「すまないが、今からランニングのつもりなんだ。ストレッチの邪魔だからあとにしてくれないか?」
そう言うと、先ほどまで期待に満ちた顔でこちらを見ていた少女の顔が少し沈む。
少し罪悪感も覚えたが、面倒なことには関わらないのが一番だ。
正直アスファルトの上で長く話していたくないという気持ちもあった。
「じゃあ」
残念そうな表情をしていた彼女は、落ち込むのをやめたのか顔を上げる。
顔の高さがそろったことで、彼女の表情が良く見える。
きっと先ほどと同じような、輝いた眼で彼女は言う。
「一緒に走りませんか!」
そう、しゃがみこんで目を合わせながら言った。
「はぁ?」
想定外の返しに声を上げてしまった。
いかんいかん。
いくらこの問答が面倒になったからといって、新入早々悪い噂が立ってしまっては困る。
そもそも決めつけていたが、彼女が先輩である可能性はないのだろうか。
ああ、もう面倒だなぁ。
「ついてこられるなら、ついてきてみろ」
意地の悪いように、私は全力で足を踏み出した。
「えっ、ちょっ……」と声を零す彼女を置き去りに、アスファルトの上を走りだす。
ただのランニングのつもりだったのに面倒なことに巻き込まれてしまった。という思いから、少しだけ意地の悪い走り方をする。
私の武器は短距離だ。
少なくとも最初の数歩からついてこられる女子など、滅多にいないだろうという自負がある。
それを活かして彼女を置き去りにすれば、きっとついてくることも諦めるだろう。
そもそも、うちの学校の陸上部といえば、昨年廃部になったと聞いた覚えがある。
一から作り直すつもりなら、私に着いて来られないようでは話にならないな。
そんなことを考えながら、3つ目の角を曲がった後、とうとう彼女の姿は見えなくなった。
「悪いことしたかな」
そう呟き、息を整えるように歩幅を下げる。
久しぶりに全力疾走したためか、少し疲労感がある。
瞼に乗った汗を拭いながら、ほとんど歩きと同じになったペースで前へ進む。
「私はどうして、走り始めたんだたかな」
そう呟いたあと、また少しだけペースを上げて走り出す。
私は、少なくとも小学校の頃は、ランニングなどしたことがなかった。
部活動にも所属していなかったし、50m走が早いのが自慢ではあったが、それを伸ばす努力をしていた訳ではない。
敢えて理由というものを探すとすれば、暇になったからだろうか。
中学時代、友人が多い方では無かった私にとって、帰宅後の時間というのはあまり充実しているとはいえないものだったし。
幸いか災いか、勉強は得意だったので、塾などに通う必要もなかった。
体を鍛えるにはランニングぐらいが丁度気持ちが良い。
そんなことを考えていると、後方からリズミカルな足音が聞こえた。
しかも、まあまあな速さでこちらへ向かってくるようだ。
道を開けようと歩道の左側へと体を寄せた。
が、後方の走者が私を追い抜いていくことはなかった。
「やっと追いつけた……。凛さん……早いですね」
驚いた。
着いてきてみろとは言ったものの、着いてくるともこれるとも思っていなかった。
部活動に所属していないとはいえ、体力測定でも50m走・1000m走共にクラス内トップクラスの私に着いてくるとは。
「まさか本当に着いてくるとは思っていなかった。一緒に走る……だったか?着いてこいといったのは私だし。行こうか」
そう声を掛ける。
「ありがとうございます」
恵美という少女は、そう満面の笑みで答えた。