第八話「先輩、見ないでください」
「すまない。遅くなっ――そんな鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてどうした?」
部屋の中で本を両手に握り締めたまま固まって居ると、先輩がズズッという重々しい音と共に扉を開けて顔を覗かせ、目を白黒させている。
「……先輩。大変です。文字が書いてあります」
「……本だからな?」
先輩の顔を見てとっさに出た言葉は、意思伝達のコミュニケーションとしては最低と言っていい。
まったくもって意味の伝わらない言葉だった。
(確かにそうなんだけど――そうじゃないんだ……っ!)
「そ、そうじゃなくて……ッ! 先輩、その、そう、サイン! ――サインがッ! 京 青嵐先生のサインが――ッ!」
言葉が伝わらないもどかしさから、勢い込んで本を掲げて見せながら先輩にサインがサインがと連呼する。
その姿を見て、ようやく得心がいったらしい。先輩が『ああ』を納得の声をだした。
「そう言えば、いつも先生はサインして渡して来たな。サインなぞいらんと言って居るのだが……そうか。すまない。やはり綺麗な本の方がいいだろう。後日新品を購入するようにするか?」
「――なんてことを……ッ!?」
一体この先輩は何を言っているのだろう?
サイン本……あの、『京 青嵐』先生のサイン本なのに……
(――ていうか、そもそも、京先生じゃなくても、サイン本を嫌がる訳がないっ!)
よほど私は必死の形相を浮かべていたのだろうか?
先輩が戸惑った様子で引き攣った表情を浮べた。
「お、おう……それで良かったか?」
「もちろんだ――……ですっ! それよりも、こんな貴重なもの頂いてもいいんですか!?」
「ああ……サインもあるし、変に売るのも気を遣ってな。良ければ持って行ってくれ……」
「いいんですか? いいんですね!? 本当に頂きますよ!?」
「――あ、ああ……どうぞ」
(――やったあ!)
内心喝采を上げていた。どうやら、本当に貰ってもいいらしい。
この所『ついてない』だとか思っていたけど、いいこともあるものだ。
「――でも、先輩、サイン本を貰うって事は、ひょっとして京 青嵐先生とお知り合いなんですか?」
「そうだな。まあ、知り合いであるのは確かだ」
「じゃあ、お会いしたこともひょっとして……」
「まあ、それなりにはあるな」
(――凄い。身近に有名人がいた)
……いや、別に先輩自体が有名人ではないんだけど、それでも、こう、気分としては家の隣にハリウッドに出ている俳優の弟が住んでた!とか、きっとそういう気分だ。
(京 青嵐先生ってどんな人なんだろう……?)
思わず、そんな質問をしそうになるけど、あれだけ本が売れてもメディアに露出していないってことは、そういうのは苦手な人なんだろうし、勝手に詮索するというのは、きっと……ファンとして――人としてよろしくないはずだ。
ぐっとのど元まで出かかった質問を飲み込む。
――しかし、どうやら、やっぱり私は顔に出るらしい。
先輩が私の姿をみて、困った子供を見るような苦笑を浮かべた。
「君は、本当に京先生のファンなのだな」
「はい。それは――もうっ!」
『如何にファンか』なんて恥ずかしくて語ることは出来ないけど、それでも『ファンである』という意気込みだけは伝えるつもりで精一杯力強く返事をした。
「――私からすると、うかつに隙を見せられない変人……いや、変質者の類いにしか思えないのだが……知らないというのは幸せなものだな」
「――え!?」
先輩が、ぽつりとなんだかとても気になる独り言を言った。
(き、気になる……凄く気になる)
でも、さっき詮索はしないと決めた。
だから、軽く首を振りながら好奇心を押さえ込む。
――すると、前髪が、頭を振ったことでまた風に揺れそうになって。
慌てて髪の毛を片手で押さえ込んだ。
(――っとやばい……大丈夫かな?)
「――どうした?」
「なんでもないです」
(見られなかったよね……?)
こんなことで傷跡を見られそうになるなんて、普段はまずしないミスだった。
やはり、興奮してしまうと言うのはあまりよろしくない。
ついつい細かな事に気を遣うのを忘れてしまう。
(大丈夫……大丈夫。先輩もなにも反応してないし、部屋も、薄暗いし、きっと……大丈夫)
明らかに不自然な私の挙動に、先輩が不思議そうに聞いてくるが、私はすっと一瞬で冷めた頭で誤魔化し、自分を納得させるのだった。
***
「随分遅くなってしまった。せめて送ろう」
「そんな、気にしないでください。あとちょっとですから」
「その『ちょっと』で倒れられたりした日には、目覚めが悪いのでな」
「――すいません」
先輩の言葉に、私はしゅんとなるしかない。
やはりどうやら、昨日の一件で、先輩の中での私はよほど病弱なイメージになってしまったようだ。
先ほど先輩から頂くと決めた本も、先輩が袋をがっしりと持って、渡してくれる様子がない。
(昨日倒れたばかりなんだから、仕方ないか……)
情けない気分で、先輩の見送りを伴って歩き出す。
「ほら、もう見えてきましたよ?」
ほんの数分歩いただけで、我が家が見えてきた。
入り口近くに作られた納屋が土塀から頭を覗かせているのが見えた。
「なるほど。あそこか。立派なお宅じゃないか」
「田舎家で広いだけですよ。――それに、一人だとちょっと広いですから」
「……そうだったな」
……また、つい弱音が口をついて出た。
でも、今日一日、どれだけぶりか分からないけど、随分笑ったし、楽しかった。
誰かとこんな風に話すのは久しぶりで、暖かくて……
――再び、一人になってしまうのが、昨日までとは比べものにならない位に寂しかった。
無言のまま、家の前までたどり着いてしまう。
(……ああ、だめだ。せめて、笑顔で先輩にお礼を言わないと)
本当なら、対して関わりの無い私なんかにここまでする必要なんて無かったはずなのだ。
それをずっと時間を割いて、話を聞いて貰って……
「――先輩……っ!」
「――おお、いかんいかん。忘れるところだった」
意を決して、顔を上げ、なんとか笑顔を作ろうと口元に力を入れたところで、先輩が戯けたような声をだした。
「ん? なにか言いかけたか?」
「いえ……その……どうしました?」
意気込んでいた分、どこに向ければいいのか分からない脱力感を感じながら、先輩の言葉の先を促す。
「ああ……これを渡そうと思って準備していたのだが、うっかり忘れるところだったのでな」
「木箱……?」
先輩が、どこからともなく取り出したのは、菓子箱ほどの大きさの木箱だった。
差し出されたので、反射的に手を伸ばして受け取る。
「ふむ……悪夢を見るという事だったのでな。ちょっとした御守りだ」
「……本当に……何から何までありがとうございます。――開けてもいいですか?」
「ああ。寝室の窓際にでも掛けておくといい」
『窓際に掛ける』という先輩の言葉に、内心首を傾げながらも、受け取った木箱の蓋を開く。
すると、出てきたのは輪っかの中に蜘蛛の巣状に網が編まれ、羽やビーズで装飾されている謎の飾り物だった。
とても可愛いし、割と私の趣味にもあっている――けど、ネイティブアメリカンでもやって来そうな見た目だ。
「『ドリームキャッチャー』というインディアンの悪夢よけの御守りだ。良い夢だけを運んできて、悪夢は網で引っかけてくれるらしいぞ」
――本当にネイティブアメリカンの御守りだった。
いや、本当に気遣いは嬉しい。
こんなに誰かに心配されたのは久方ぶりだし、本当に気を遣ってくれた結果だというのは分かる。
――分かるんだけど……
(ちょっと予想外の方向性に飛んでいきすぎやしないか?)
ドリームキャッチャー……実は『すべては宇宙人の仕業だったんだ!』とか嫌だよ……?
昔読んだ小説の内容を思い出しながら、そんな馬鹿な事を考えた。
まあ、しかし、でも――
「ありがとうございますっ!」
今度こそ、大きな声で、笑いながら先輩にお礼をいった。
――予想外の物を渡されたせいなのか。
なんだか、さっきまでの寂しさはどこかに飛んで行ってしまっていた。
だから、自分で思っていたよりしっかりと笑いながら先輩に御礼が言えたと思う。
「うむ。良い眠りを」
先輩はそう言って手を振って去って行った。
私は、先輩が見えなくなるところまで玄関先で立って見送る。
先輩の背中が遠くなって、見えなくなる直前に、先輩が振り返った。
ぺこりと私が頭を下げると、先輩が応えるように大きく手を振った。
それを見て、私は家の中へと入っていく。
――たくさんの本と、先輩から貰った御守りを持って。
***
一人きりの簡単な食事を終えて、お風呂を上がり朱色の鏡台の前に立つと、先輩から貰った木箱が目に入った。
(御守り……かぁ)
前を向くと、口元が微妙ににやけている自分の顔があった。
(――まったく、何をにやけているんだか)
現金な自分に呆れながら、ドライヤーを片手に、手早く髪の毛を乾かしていく。
――そうすると、否が応にも目に入ってくるものがあった。
顔の左半分を覆うように、引き攣れて色が変わってしまっている大きな火傷跡だ。
高揚していた気持ちが、一瞬で冷めていくのを感じた。
両親と一緒に巻き込まれた落石事故。あの時に負った傷は、今もこうして呪いのように私に残っている。
(本当は、もっと綺麗に治るはずだったんだけどな……)
髪の毛を掻き上げていた手を止めて、指先で傷跡に触れながら思う。
お医者さんも、なぜここまで跡が残ってしまったのかが分からないらしい。
そもそも、私が病院に担ぎ込まれて治療を受けたとき、異常なほど傷の治りが悪かったらしいのだ。
――だから、もう十年以上も私の顔はこのままだ。
年頃なんだしとおばあちゃんが買ってくれた、結局使わなかった目の前のスキンケア用品の瓶を指先で小突いた。
(穂積先輩……か)
ドライヤーを止めて、まだ微かに湿気の残った前髪を引っ張り、傷跡を隠しながら今日出会った先輩のことを考えた。
(――傷跡、見られなくてよかった……)
本当に、先輩の事を考えれば考えるほど、この傷跡を見られなくて良かったと思う。
(随分……本当に、すごく、変わった先輩だったけど、いい人だったなぁ……)
今日一日、なんだか凄く久しぶりに濃い一日だった。
もう随分長い間『楽しい』って思ってなかったのに……
友達と遊んだりする楽しさなんて、もうずっと物語の中だけだったのに……
――今日は、普通に『遊んだ』って気がした。
傷跡がちょっとでも目立たないように掛けはじめた、度の入っていない伊達眼鏡を掛けて鏡を見ると、またにやけている顔がいた。
……先輩とは学年も違うし、会うことは滅多にないだろう。だけど――
(またいつか会ったときに『よっ』の一言でも声を掛けてくれる位、友達になれたらいいなぁ)
そんなちょっとした願望を考えながら、緩んだ口元を引き締めた。
(――だからこそ、この傷は見せないように気をつけないと)
――大抵、私の傷口を見た人は言葉を失った後、二種類の反応をする。
一つは、素直に『気持ち悪い』と言って言葉の刃を向けてくる輩だ。
だけど、これはたまに妙に絡んでくる奴らさえ気をつければ、距離を取っていれば襲って来ない。
やっかいなのは、もう一方の場合だ。このタイプは――哀れみの視線を向けてくるのだ。
――可哀想にと。
意図せず私を下に見た、眼差しと態度で私に接するのだ。両親を亡くしているという身の上を知れば、その態度はいよいよ持って酷くなる。
『困った事があったら、なんでも言ってね!』
そういう言葉の裏にはいつだって、自分を良く見せようとする打算と自分より下の存在に対する優越感と喜悦が見えてしまうのだ。
そして、そういう態度は――『いい人』の方が露骨なのだ。
……今日出会った先輩の、そんな姿は見たく無かった。
最後に、嫌な想像を振り払うように、もう一度確認のために鏡をみる。
もう一度見た鏡の中にいる私は、なんだか泣きそうな顔をしていた。