第七話「先輩、別にじっと見てた訳じゃないですよっ!」
――結局、書店では先輩が予約していた本を受け取って早々に退散することになった。
閉店を告げる『蛍の光』が流れる中、書店から慌てて出て、先輩と肩を並べて歩き出す。
日が落ちて暗くなった道沿いに、切れかかって薄暗くなった街灯が点滅し、ばちばちと羽音のような低い音を立てている。
中学時分から良く通った道だけど、こんな風に誰かと一緒に通った経験はあまりない。
……いつも、こうして隣を歩くのはおばあちゃんだけだった。
正直に言うと、あまり人と関わらなかった私にとっては、こんな風に一緒に誰かというのは、凄く居心地が悪い――けど、なぜか今日は心地が良かった。
時々、先輩がそわそわする私の気配を感じ取ったように、話題を振ってくれるおかげで無言の気まずさも感じず、むしろ適度な沈黙が心地良かった。
「では、少々待たせてしまうが。上がると良い。――思った以上に早々の話になったが、茶でも淹れよう」
「――今の今ですし……どうぞ、お気遣い無く……」
気がつけば、古く良き日本家屋の風情を残した豪邸の前にたどり着いていた。
(――もう、こんなところまで帰ってきてたんだ……)
確かに、書店からさほど距離がある訳ではなかったけど、いつも一人で歩く道に比べて随分早くたどり着いた気がした。
いつもと違って、先輩の歩く速度に気を遣いながらだったから、歩く速度は絶対に遅いはずなのに……
先輩がにやりと皮肉気に笑いながら、冗談めかして玄関の引き戸を開き私を招き入れるのをみて、私もやや緊張していたものの、自然と肩の力が抜けて苦笑しながらそう返した。
「ふむ――しかしまあ、玄関前とは言え夜道で一人待たせる訳にもいくまい。ひとまず上がり給え」
「お邪魔します」
玄関先で立ち尽くすのは流石に失礼と思った私は言葉に甘えて上がらせて貰うことにした。
――きっちりと脱いだ靴は揃えて脇に置いておく。
「――あら、優結。どうしたの? お客さん?」
帰ってきた気配を感じたのか、随分若い女性が奥の方から現れて声を掛けてきた。
先輩のお姉さんか妹さんだろうか?
おっとりとした雰囲気に柔和な笑みを浮かべている。
「ああ。後輩だ。京先生の本を引き取ってくれるらしい」
「まあ! そうなのー? それは助かるわ。なんだったら全部持って行って貰いなさいな!」
「それは、流石に迷惑だろう。だが、まあ京先生の本で他に欲しいのがないか見繕ってもらうのがよいか……」
「……ふふ。そう。とりあえず上がって貰いなさい。今お茶の準備をするわ」
「いや、お茶は今飲んだところだからいらないそうだ」
奥に下がっていこうとする女性に向かって、先輩がそういうと、女性は少し不思議そうな顔をして私の方を向き直った。
「そうなの?」
「は、はい。どうぞ、お気遣い無く……」
先輩の言葉に、女性は確認するように軽く首を傾げた。
私が遠慮すると、納得したようにふんわりとした笑みを浮かべた。
(そうだ。先輩の家に居るって事は、少なくともご家族……だよね?)
「あ、あの、穂積先輩の一年後輩の『神宮咲夜』と申します」
「あらあら。 随分しっかりしてるわね。 ――優結の母です」
……妹どころか、姉でもなく母親だったらしい。
(……一体、先輩っていくつの時の子供なんだろう)
……いや、ひょっとしたら複雑なご家庭なのかも知れない。
「穂積先輩には、昨日から凄くお世話になってしまって……」
「そうなの? この子にはどんどん苦労を掛けた方がいいのよー。気にせずこき使ってやってくださいな」
自分の身の上を思えば、他所様の家庭環境を詮索する無粋さは分かっているつもりだ。
だから、その事にはなるべく触れないようにする。
「――こっちだ。ゆk――神宮さん。本を置いてある部屋に案内するから、他にも欲しい本があったら持って行くといい」
「それは流石に……失礼します」
「ええ。ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます」
中庭に面した長い廊下を歩く先輩の後ろをついていく。
そういえば、今、先輩私の名前を呼ぶときに、なにか言いかけなかっただろうか?
(ちょうど誰かの名前を言いかけたような……)
私も昔、先生の事をおばあちゃんと呼んでしまったことはあるから、人のことは言えない。
ただ、案外先輩にもそそっかしいところがあるかも知れないと分かって、安心したような不思議な気持ちになった。
なんだか、ほんの一日しか話していないのに、随分先輩のいろんなところが見つかっていく。
(――ついつい気になっている……なんて事は無い……よね?
上着の裾が少しだけ痛んだ制服を着た先輩の後ろ姿を見ながら、年頃の娘らしいことを考えてみて、ばからしいなと鼻で笑い飛ばした。
――たしか、恋に落ちたときは鼓動が早まり、クラクラとした感覚になるという。
そう、昔、なにかの本で読んだ。
だけど私は、精々さっきから、からかわれたり、恥ずかしかったりでちょっと血圧が上がったくらいだ。
――どうも残念なことに、やっぱり私には恋愛だとかそういうのはまだまだ遠い話になりそうだ。
一つだけ言えるのは、一目惚れするような私が『軽い女』ではないという自覚が持てただけでも僥倖という所だろう。
(いや、でも……本当に一目惚れというやつは存在するのかな?)
中学時代に、クラスメイトがいわゆる『イケメン』な先輩に一目惚れした話を聞くこともあったが、どうにも私にはそんなものがあり得るとは思えなかった。
――こう、もっとあれだ。
恋に落ちるというのは、きっともっとお互いの事がわかり合った上で、相手の性格や性質。
ありとあらゆるものを鑑みて至る精神状態だと思うのだ。
……いや、もちろん人間だって動物なんだ。
映画でよくあるみたいに、危機的状況だとか、そういう中で生物的に優勢だと思う物に引かれるという事はあるのかも知れない。
でも、それはおそらく格好良い、何らかの行動を示した結果でそうなりえるもので、いわゆる一目惚れと言われるものとは違うのだと思う。
(……あれ? でも……)
動物の一種として人間を考えるのであれば、行動だけではなくて、筋肉の付き方とか、その姿形から性質をはかって優位種であるかどうかを判断するという基準はあるのかも知れない。
――いやいやいやいや。
しかし、それにしたって、あくまで判断基準の一つにしか過ぎないはずだ。
だから、やはり、判断は総合的じゃないといけないだろう。
特に人間は高度に発達した知性、理性を持っているのだから、そういった一側面の、あくまで動物的な感性で簡単に判断するのはおかしい。
――いや、してはならないはずだ。
だから、きっと『一目惚れ』だとかいう人種は、私が思うになにか勘違いをしているだけなのだと思うのだ。
そうたとえば、見た瞬間に好ましいと脳が判断したとしても、そこからさき『本当の恋』に落ちるまでには――
「――ここだ」
私が、なぜか思考を明後日の方向に飛躍させていると、先輩が一つのドアの前に立ち止まった。
慌てて、無意識の間にいじっていた前髪から手を離して周りを見てみる。
いつの間にか、周りは和式の造りから、少し洋風な雰囲気を残した場所へと変貌していた。
歴史の重みを感じさせる重厚な黒く変色した木材が使われ、金具の類いも最近流行りの安っぽいアンティーク加工とは違い、永い年月を積み重ねた事を感じさせる自然な厚みがあった。
どうやら、機械的に先輩の後ろをついていきながら、考え事をしていたから、周りがまったく見えていなかったようだ。
先輩がドアに掛けられたカギを開け、薄暗い部屋の中へと入っていく。
「――凄い……」
分厚いドアの開かれた先の光景を見て、自然と感嘆の声をあげてしまった。
――そこにあったのは、二十畳以上はありそうな部屋の中に大量に並べられた書架と、そこにぎっしりと詰め込まれた数々の書物だった。
中には、見るからに希少書だと思われる、随分と古めかしい本も含まれている。
思わず、すっと息を吸い込むと、古い書物独特の微かに黴たような紙とインキの香りが漂い、本好きとして心躍らざるおえない空間がそこにあった。
「どうやら気に入って貰ったようで何よりだ。うちは、父も私も資料として色々と本を集めていてな。とりあえず雑多な書籍はここに保管しているのだよ」
「こんなにたくさんの本……図書室みたいですね」
「まあ、色々と調べ物をするには役立つことに違いは無いな。『妖き語り』はこっちの棚だ――見ての通り、場所を取ってかなわん」
先輩がため息交じりに案内した棚を見てみると、シリーズ全巻それぞれ五冊ずつほどが詰め込まれている。
「本当にこんなにたくさん所蔵されていたんですね……」
部屋の壮観さに、思わず『所有』ではなく『所蔵』と言ってしまった。
もう、気分としては完全に図書館見学に連れてこられた小学生のそれである。
こういうとき、普段なんだかんだと障害になりがちな『死んだ目』に助けられる。
そうでなければ、興奮しているのがありありと先輩に伝わってしまっているだろう。
ああ……でも前におばあちゃんから、『……咲ちゃんはほんまによう顔に出るなぁ』と言われたことがあった。
(だったら……この高揚も先輩に伝わってしまっているのかな?)
不安になり、先輩の方を見つめるが、先輩は気にする様子ものなく図書館の本を検めている。
「京先生の出した本は大体何冊かずつそろっているはずだ。適当に持って行ってくれればいい」
「――いいんですか!?」
見てみれば、確かに『妖き語り』以外にも多くのタイトルが複数冊ずつ並んでいる。
その中には私が持っているものもあったが、お金がもったいないので買わなかったものや、買おうと思ったときにはすでに絶版になっていて手に入らなかったものもあった。
「――見ての通り、本当に邪魔でな……」
先輩は疲れたように、そういうと首を左右に振り、私と位置を入れ替えるようにして私を棚の近くへと案内した。
「私は、少し席を外す。欲しいものを選んでおいてくれ。――別に、今日全部持って行かなくても、後日取りに来ても構わんからな」
「え? あ、はい。分かりました」
そういって、部屋の中から出ていく先輩に、『こんな貴重なものが一杯の所に私ひとり置いていっていいの!?』と思わないでもないが、なにか用事があるのだろう。
ひょっとしたら、予定があったのを邪魔してしまっているのかも知れない。
(だったら、早く必要なものを選ばないと……)
そう思って、手早く必要な本を選んだ。
――本当は、他のシリーズも欲しい本は一杯あったけど、流石にそれは厚かましい気がして、とりあえず『妖き語り』シリーズだけを頂くことにした。
欲しいものを棚から抜き出し、空いたスペースを適当に並び替え整頓する。
……そこまでやったところで、先輩の出て行った扉の方を見てみたが、まだ先輩が戻ってくる様子はない。
(……ちょっとだけ、読ませて貰うだけだから……)
そう思って、『妖き語り』以外の本を手に取り、ぱらぱらとめくる。
(わ、この本初版だ)
習慣的に、ついつい奥付の第何刷りかを見てしまった私は、手に取った本が初版本だったことに感動する。
確かこの本はもう絶版になってしまっていて、今では手に入らないはずだ。
そのまま、少しだけ頁をめくって――
(――え?)
思わず、頁をめくる手が止まった。
その本の裏表紙の裏側。表三と呼ばれる位置に、それはあった。
『京 青嵐』
鮮やかに崩された筆跡で、その三文字が記されている。
(『京 青嵐』って……うそっ……まさか……)
逸る気持ちを抑えながら、思わず、本に巻かれたカバーを見つめる。
――そこには、『京 青嵐 著』の文字が印字されていた。
(これ……サイン本だ!)
滅多にサインしないことで有名な、京先生のサインがそこには確かに記されている。
(――まさか!?)
そう思って、さっき書架から抜かせて貰った本達をめくっていく。
(――やっぱり……)
それらすべてに『京 青嵐』の文字はきっちりと躍っているのだった。
試しに、何冊も棚に刺さっている同じ本も見てみるが、そこには同様のサインがある。
(――これ……この本棚の全部……ッ! 全部サイン本だ……ッ!)
気づいた瞬間ぶわっと全身に鳥肌が立ち、手に持っていた本が突然重さを増した気がした。
今日の更新分はこれで終了です。
明日は2話更新の予定です。