第二話「先輩……とても、五月蠅いです」
――ピンポーン
服を着替え終えて、洗濯するつもりだったブラウスとハンカチを手に持ち、少し軋み音を立てる階段をトントンと降りてきたところで、くぐもったチャイムが鳴る音が聞こえた。
「あれ?」
(――先輩……?)
まだ、さほど時間が経っていないはずなのに、もう先輩が来たのだろうか?
(……料理してからって言ってたし、いくら何でも早いよね? 回覧板かな?)
不思議に思いながら、ドアののぞき穴から外をうかがってみると、予想に反して、確かに私服に着替えた先輩がレンズのせいで少し歪んだ姿で映っていた。
「は、はいっ! ちょっと待ってください!」
慌てて扉の向こうに声を掛けて扉の鍵を開けた。ガチャリガチャリと音を立てて扉の鍵が回り。扉をぐいと押し開けると、少し驚いた表情の先輩が居る。
「ああ、すまない――早いな。……もしや、待っていたのか?」
「――え? あ、違います。今、ちょうど着替え終わって降りて来たところだったんです」
体を少し左に寄せて、玄関先からも見える二階から降りてくる階段を示してみせる。
「そうか着替え――っ、な、そ、そうか……」
先輩が視線を私の服装を確かめるようにさせ――急に視線を納屋のある方向に向けた。
(……どうしたんだろう?)
なにか、狸でも納屋の辺りに出たのかと思って、先輩に一歩近づいて納屋の方を覗き込んでみるけれど、特に異常は見受けられない。
(……まさかっ! ……っと、いや、だめだ。色々気にしすぎだ……)
この間から『妖魔』に襲われすぎたせいで、ついつい神経が立ってしまっているようだ。何気ない事までついつい妖魔に結びつけそうになる。今はもう、傷跡一つ残っていない首筋が、一瞬チクリと痛んだ気がした。ポケットに入れた影喰に思わず右手で触れながら、落ち着くために少し大きく息を吸い込んだ。
「……先輩、それでどうしたんです? なにかありましたか?」
すると、相変わらず視線をそらせたまま、先輩が何か袋をぶら下げた左手を私の方に差し出してくる。
「ん、あ、ああ……まあ、単なるおひたし……の予定だったのだが、結局からし味噌和えになったのだが……出来たので持ってきたのだよ」
「――もう、出来たんですか!?」
(同じタイミングで帰った私が、まだ着替えただけなのに、早すぎじゃない!?)
驚愕しながら先輩が差し出してきた手を見ると、確かに持っている袋の中に小さめのタッパーウェアに詰められた薄緑の物体がぼんやりと見える。
「……咲夜の食事の時間が分からなかったから、かなり、急いで作ってきたからな」
「――あ……」
そういえば、私の食事時間を伝えていなかった。それで、先輩もかなり無理をして作ってきてくれたようだ。
(電話でもしてくれたら良かったのに……悪い事しちゃったな)
「いや、一応電話をしたのだぞ? だが、君が電話に出ないからな……」
「――え!?」
まるで、私の内心を察したかのようなタイミングで先輩がそういった。慌てて、洗濯物を右手に持ち替えてポケットから携帯電話を取りだしてみる。確かに、着信があったことを示すLEDがぴかぴかと光っていた。携帯を開いてみると、【着信 2件 穂積 優結】の文字が表示されている。
「わぁ! すみません。先輩!」
(多分、玄関に鞄を置いて冷蔵庫に買ってきたものしまってたときだ……)
「いや、二回とも出ないからな……君になにかあったのではないか不安になったが、何事も無いようで安心したよ……」
「すみません……」
言葉通り、安心したように笑う先輩に、申し訳なさに頭を下げるしか無い。
――そうして、視線を下げた先、先輩が右手に青い巾着袋を持っていることに気がついた。
「――って、あれ? 先輩、そっちは?」
「――ん? ああ、これは……そうだな。……なに、ちょっとした提案なのだが、一緒に夕食にしないか? と思ってな」
「……はい?」
……先輩の言葉が理解出来ずに、思わず先輩の顔を見上げた。
先輩は一瞬だけ私に視線を向けて、相変わらず、何故か納屋の方を随分気が気になるように視線を逸らしながら、少し早口で言葉を続ける。
「……いや、君に迷惑で無ければ、の話なのだが……前に、『一人で食べるご飯があまり好きでは無い』と言っていただろう……? たまには一緒に夕飯でもどうだ? 一応、自分の分は、弁当に詰めてきたのだが……」
そういって、先輩が今度は右手に持った巾着袋を持ち上げる――言われてみれば、それは、確かに中にお弁当が入っていそうな包みだった。
(一緒――って、夕ご飯……一緒に食べるの!?)
「――良いんですか!?」
「ああ。何度も言うが、迷惑で無ければ……だが?」
「迷惑なんてとんでもないですっ!」
(ていうか……先輩、私が一人のご飯が好きじゃ無いって、覚えてくれてたんだ……)
先輩と一緒にご飯が食べられるのは嬉しい――でも、まず、なによりその事が嬉しかった。
「せ、先輩っ! 上がって、上がってください」
「……ああ、ではお邪魔させて貰うぞ?」
背中を向けて靴を脱いでいる先輩の背中を見つめながら、私は思わずぐっと手を握りしめた。
(えと、ええと……まず、この間の応接じゃ、ご飯食べる感じじゃ無いよね……? 台所? ううん。やっぱりお客様だから、せめて居間かな)
靴を脱いだ先輩と廊下を歩きながら、迷った末。台所と隣接している居間の戸を開けた。和室の部屋の隅にテレビが置かれ、祖母が居た頃よく一緒に食事を取った卓が一つ置かれている。
「先輩、すみませんけど座ってて貰えますか? 洗濯物だけ取りあえず片付けて来ますからっ!」
「あ、ああ……」
振り返り、先輩を部屋の中に案内すると、私は先輩の横をすり抜けて、脱衣所に向かって大急ぎで向かった。右手に持っていたブラウスとハンカチをカゴに入れ……。
――はたと動きを止める。
そして一秒、二秒と時が過ぎ――
――思わず、タオルを積んだ棚に向かって突っ伏したっ!
(――馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ……っ! 馬鹿だ私っ! ずっと――っ、ずっと、着替えた制服持ったままだったっ!)
――洗濯物を放り込んで、ようやく自分が先輩と話す間、洗濯物を握り締めたままだったことに気がついたのだ。棚の上に両手をつき、顔を伏せながらドクドクとした心臓の音が耳に五月蠅い。
(……そっか……そうか……そういう……今から思い返してみれば、さっき先輩が納屋の方を見ていたのって、手に持っていた洗濯物を見ないようにしてくれてたんじゃ……)
さっきの不審な先輩の行動にも納得がいった。どうやらまた、いらない気を先輩に遣わせてしまっていたらしい。
「――ていうか……よく考えたら、そもそもまだ夕ご飯作ってないじゃないか……私……」
一体、どれだけ浮かれていたのだろうか……料理の事などすっかり、コロッと頭の中から抜け落ちていた。
(……これから、料理を作り始めて……その間、先輩にずっと待ってて貰うのも、申し訳ないかぁ……)
頭の中で、料理をなんとか作る私の傍ら、延々居間で待ちぼうけを食らう先輩の姿が浮かんだ。流石に、わざわざ気を遣って貰ってその仕打ちを受けさせるわけにはいかないだろう。
……作っていないものは仕方ない。先輩に正直に言って謝って、今日は帰って貰うことに――
(……せっかく。一緒にご飯食べようなんて言ってくれたのに……もうきっとそんなこと言ってくれなくないだろうな……)
――チラリと浮かんだ想像に、体がずっしりと重くなるような気がした。
これ以上ない、自業自得という言葉が似合う状況で、力が抜けそうになる四肢になんとか力を入れて、棚から離れて立ち上がる。
(――ああ、先輩の所に戻るの……怖いな……『愚図な奴』だとか思われたら……)
そんな、想像が頭の中をぐるぐると回り続け、ほんの僅かな距離を歩く足が自然と重くなって行く。床を見つめながら、ずるずると、引きずるように歩いて行くが……やがて居間の前に来てしまった。
ドクドクと、先ほどの羞恥とは違う五月蠅い心音と共に。胃の辺りがずんと重くなり、微かに吐き気を覚えた。
……それまでが浮かれた気分だった分。自分の不手際を口にする恐怖が余計に強まっていた。
(……先輩、多分、そんな事であんまり怒ったりしない……と、思いたいけど……でも……良い気分はしないだろうし……)
――きっと大丈夫。先輩の性格を考えて、そう思う自分は居るのに。同時に『万が一』という可能性を考えてしまって、身がすくんでしまう自分がいるのも事実だった。
「……はぁ……」
思わず、深いため息が口から飛び出た。頭を伏せたまま、じっと居間の照明が廊下に描き出す光の道がひとりでに動いているのを見つめた。
(でも……よしっ、謝るしか、無いよねっ!)
そう思って、戸に掛けようとした手が――宙を切った。
「――え?」
「……さっきから何をしておるのだ、君は……」
――気づけば、いつの間にか戸を開けた先輩が、私の事を珍妙な生物でも見るかのように見つめていた。
「~~っ! ぅあっ! ――っ痛!」
慌てて後ろに飛びすさり、そこにあった壁に激しく背中をぶつけた。
「――大丈夫か!?」
先輩が部屋から飛び出してきて、衝撃で思わず腰が抜けそうになっている私の事をしっかりと支えてくれる。その繋いだ手からは、例の『霊力』という奴が流れ込んできているのだろう。
ついこの間。一晩中ずっと包みこんでくれた、暖かい『モノ』が私に向かって流れ込んできて――
「――ごめんなさい、ごめんなさい先輩……」
「どうした!? なぜ、そんな泣きそうな顔をしている!? 痛かったのか? 大丈夫か?」
いたたまれなくなって、謝る私に、先輩が困惑した様子で、声を掛けてくれる。
「――その、ご飯、まだ……」
「……え? あ、ん? あ、ああ……なんだ……そんな顔をするから何事かと思えばそんなことか……?」
私のおずおずと口にした言葉に、先輩は一瞬面を食らったような顔をして、すぐにほっと息を吐き出した。ぶつけた背中を支える様に添えられた手が、ふっと緩んだ。
「――ああ、いや、だろうな……流石にそれくらいは普通に考えれば分かる。私と一緒に帰ってきたのだ。そこから準備していれば、もっと時間はかかるだろう……第一、ちょうど冷蔵庫に入れて良いか聞こうと思っていたのだが、からし菜の辛子味噌和えも、もう少し冷やさねばならんし……元々咲夜の料理も手伝うつもりでここに来たのだから、安心したまえ……」
「……え……と……? 手伝う……?」
「……これから支度するのだろう? なら、私だけがぼけっとしている訳にも行くまい。食事の支度くらいは手伝おう……それとも、あれか? 君は、『男子厨房に入らず』というクチか?」
戸惑いながら返す私に、先輩はふっと冗談めかして笑っている。私は、とっさに言葉が出てこなくて、ただ無言で首を左右に振った。
「――そうか。良かった。では、悪いが少し邪魔させて貰う」
背中にぐっと力が加わって体が持ち上がり、立ち上がり直したところで――先輩にずっと支えられたままだった事に気がついた。
「――ご、ごめんなさい」
「――ん? っ、あ、ああ……」
慌てて先輩から離れて、距離を取ると先輩も同じように体を離した。
そのまま、お互いに言葉を発しない時間が流れて――
「――と、取りあえず、台所に入らせて貰っても良いか?」
「――そ、そうですね!」
先輩の言葉に慌てて居間と隣接しているドアを開き、台所の中へと先輩を案内するのだった。
(……へ、変な物出しっ放しにしてなかったよね……?)
今まで家族以外が入ることの無かった台所に、誰かを案内しているからだろうか?
――心臓が、ドクドクと五月蠅く鳴り響いていた。





