第三十三話「先輩、友達ってなんですか!?」
――『一年C組』
そう書かれた札のある教室の前で、私は大きく深呼吸した。
……先輩の言葉のお陰か――あの沈み込むような陰鬱な気持ちは和らいでいた。それでも、緊張が全身に痺れるように広がっている。さっきまで熱くなっていたはずの頬も、手足も。今は冷たく強張っていた。
もう一度、大きく息を吸い込み、吐き出した私は、軽く前髪を撫でつけようとして――手先の強張りが取れていない事に気がついた。強張りを取るために、ゆっくり、二回……三回……と手を開いて閉じた。
少しだけ柔軟さを取り戻した指先で、今度こそ前髪を撫でつけてきちんと顔の傷が隠れている事を確認する。
――私が、教室に踏み込んだ瞬間、それまでざわめいていた教室の雰囲気がぴりっと固まった。
「……ぁ」
(……これは……駄目なパターンかも……)
瞬間的に硬直した室内の気配に、早々に内心くじけそうになりながら、私はゆっくりと自分の机に向かっていく。
(――よかった……落書きとかは、されてないみたいだ……)
机の上を見てみると、机の上は金曜日に学校を出たときのままで、綺麗に光沢を放っていた。
ガムテープでぐるぐる巻きにされていたり、口汚い言葉が書かれていたりということも無さそうだ。念のため、机の中を覗き込んでみても、特になにか放り込まれているという事も無い。
――ほうっとため息をついて、鞄を椅子の下において着席する。
静まりかえってしまった教室の中で、無数の視線が向けられているぐにゃぐにゃとした感触に、少し顔を伏せたまま周りを見回してみると――案の定、教室内の視線がすべて私に向けられていた。
(……はやく、授業、はじまらないかな……)
――先輩から貰った、サイズの合っていない腕時計をチラッと見ながら考えた。
始業まで微妙に時間が空いた時間に来たせいで、ほとんどの生徒が登校しているのに、授業までは時間がある状況になってしまった。鞄から、一限目の用意を取り出しながら、居心地の悪い時間をなんとか乗り切ろうとのろのろ準備を始める。
「――神宮さん……」
――突然、物音さえ押し殺すようにこちらを見ていた中から、誰かが緊張した声で私の名前を呼ぶのが聞こえた。
(――え?)
慌てたせいで、思わず、取り出しかけていたシャープペンシルを机の上に取り落としてしまう。
「――え、あ、はい」
机の上を転がっていくシャープペンシルを左手で慌ててキャッチしながら顔を上げると、眼鏡を掛けた小柄な女の子がこちらに近づいてきた。
その女の子は、私に声を掛けたせいで集まってしまった視線に戸惑うように、きょろきょろと周りを見回しながら難しそうに眉間に皺を寄せて、猫背気味に背中を丸めて歩いてくる。
(……え、ええと、この子……誰だったかな……)
必死にその女の子が誰だったのかを思い出そうとするが、妖魔と対峙したときとはまた違う緊張のせいで、頭が上手く回らない。
……そもそも、入学してからろくに会話をしていないせいで、クラスメイトの顔も名前もろくに覚えていない私には土台無理な話だった。『なにか、手がかりを』と思って胸元の名札を見てみても、『横貫』という姓が書かれているが、特に覚えがある名字でも無い。
少し眠そうに見える視線をした大人しそうな見た目の女の子だけど、『今』私に話しかけてきたと言うことは――なにか思惑があるのだろう。
嫌がらせを好んでするタイプでも無さそうだし、ひょっとすると、自分の事を良く見せようと思って近づいてくるタイプ……
「――その……」
考え込んでいると、ようやく私の隣にやって来たその子は一言言って唇を引き結ぶと……
――大きく頭を下げた。
「――助けて頂いて……ありがとうございました……」
「――へ?」
一体何を言い出すつもりなのか緊張して伺っていた私は、その子の言った意味が分からず、間抜けな声を出してしまった。
(え、ええと……『助けた』って……)
じわじわと、彼女が言った意味が頭の中で文字に置き換わっていき、ようやく御礼を言われているらしい事が理解出来た。
(……でも、私、なにもしてないし……人違い……?)
しばらく、女の子の顔を見ながら考え込んで……
――恐怖に引き攣る顔が頭の中を駆抜けた。
「――あっ、ああ……あの時の。……怪我、大丈夫ですか……?」
――あの時と表情が違いすぎてとっさに思い出せなかった。
目の前に居る女の子は……金曜日、鉄柱に巻き込まれないように突き飛ばした女の子だった。そういえば、傷跡を見られた事にばかり気をとられていたが、そもそも傷跡を見られる切っ掛けになったのはこの子を助けようとしたのが原因だったのだ。
「はい……おかげさまで……」
「そ、ですか……なら、良かった……」
それっきり、二人とも会話が途切れて気まずい沈黙が流れる。少しうつむきがちなせいで、眼鏡の下に隠れている表情は分からなかった。
(あ、あの時、確かこの子、すっごく怖がってたよね……何が目的なんだろう……)
あの時、私の顔の傷を見て、この子は明白な恐怖を顔に浮かべていた。なのに、わざわざ、怖がっていた私にこんな風に話しかけてくる理由が分からない。それがどうしようも無く不気味で、私はどうしたものか途方に暮れながら、少しずつ警戒心を高めていった。
「――金曜日は、御礼を言えなくてすみませんでした……」
その子は、沈黙に耐えかねたように口を開き……ぼそぼそと謝ってきた。
「――本当は、とんでもない事をしてしまったと……金曜日にすぐに御礼を言おうと思ったのですが、神宮さんはすぐに帰られてしまい……クラスの誰も、連絡先を知らないということで……」
たどたどしい様子で、周りから集まってくるもはや圧力のようなクラスの視線を気にするようにチラチラ視線を彷徨わせながら、必死に説明してくる。
(ああ……そういうことか……一応、御礼言っておかないと、クラスの中での立場が悪くなるのか……)
ようやく、話しかけてきた理由に合点がいった私は、不気味な状況に少しだけ納得がいってほっと胸をなで下ろした。
(……良かった。うん――この感じなら、多分……これ以上悪くなることは……なさそう……かな? 他の人も当事者が御礼を言ってくれたから悪くは言わないだろうし……)
「――あ、それなら大丈夫です。別に。わざわざありがとうございます」
「いいえ。その……とんでもない。こちらこそ……いくら御礼を言っても足りない……というやつです。あのままだと……どこかのアニメに出てくるカエルのようになるところでした……」
いくらか安心した私が、当たり障りの無い返事をすると、どこか気まずそうにその女の子は返事をした。ひょっとしたら、心にもない御礼をすることに、ちょっとした罪悪感を覚えているのかもしれない。
(まあ……でも、これでわざわざ話しかけてくることは……もうないかな……)
後は適当に話して――終わり。
また、いつも通りの生活に戻って……あとは、なるべくこの傷の事を皆に意識させないように注意する。
……それだけだ。
なんとかこの局面を乗り切ったこと安堵した私は、授業の準備に戻ろうと横に向けていた顔を戻しかけた。
「――しかし……神宮さんは、まるでヒーロー物の特撮主人公のように格好良い方ですね……」
「……え?」
しかし、それは突然投げかけられた、予想外の言葉に遮られてしまう。
(――今、なんて?)
思わず動きを止めて、もう一度その子の事を見た。
てっきり、このまま自分の席に戻るだろうと思っていたその子は、私の横に立ったままだ。気づけば、さっきまで眼鏡の奥で申し訳なさそうにしていた半開きの瞳が、やたらきらきらと輝かせている。
「……バレーの時も……その……一人でばんばん点を取ってらっしゃいましたし……コートが倒れてきたも、まるでアニメの主人公のようだったのです……っ!」
「……え? え?」
(なんか……褒められてる……の……かな? ――なんでっ!?)
まず、褒められる理由が分からないし、口調と例え方のせいで、本当に褒めてくれているのか、それとも新手のからかい方なのか分からなくなってきた。戸惑っている間にも、その子は体の前で両手を構え、聞き取りづらいテンションの低い声のまま、熱を込めて話している。
その力の入り方は、演技で言っているようには思えなくて、余計に私の混乱に拍車をかけた。もはや、意味が分からなさすぎて逆に怖い。
「――あの……ひょっとして神宮さん、もしや話しかけられるの、お嫌いでしたか……? すみません……ついつい興奮してしまいました……」
私が呆然としたまま言葉を失っていると、女の子は、サイズの合っていないが、いつの間かずれかけていたのを直しながら、不安そうにして覗き込んできた。
「え? 別に嫌じゃ……無いです……けど、その……なんで?」
――覗き込まれて傷跡が見えないように、咄嗟に左手で隠しながら、思わず、敬語すら忘れて素で聞いてしまった。
「はい……? ……なにがでしょう?」
「いや、その……格好良いとか……?」
「――何を仰います……っ、格好、良いではありませんか……クラスメイトのピンチを颯爽と助ける美少女……とても……燃えます……いえ、となると私がヒロインになってしまいますね……それでは……いや、百合というのもまた……では……でも、だからこそ……私はあの時の自分の反応が許せないのです……アレでは少女漫画的反応です。……あそこで必要なのは――」
私の恐る恐るの質問は、恐ろしいまでの分量で帰ってきた。
――どういうこと?
さっきから頭の中を巡っていくのはそれだけだ。机の上で軽く握った手に、変な緊張のせいで汗が浮かんでいる気がする。
(ど、どうしよう……今までにないパターンだ……そもそも、何言ってるのか分からない……やばい……ど、同年代の子が話す話題が……)
小さく言葉を繋げていくような淡々とした語り口で、微妙に熱の籠もった話し声を聞きながら、私は必死に頭を働かせる。
(ええと、この子。ええと『横貫』さん。は、私が助けた子で、とっさに怖がったのを申し訳なく思ってて……なんでか分からないけど、格好良いって言ってくれてる……?)
状況を整理するために、さっきから得た情報を頭の中で思い出して並べていく。そうすることで、ようやく少しだけ冷静になって、浮き足立っている心を押さえつけることに成功した。
(――あ、なるほど。お世辞か……)
さっきから、わかりづらいけど……出来るだけ色々なお世辞を言ってくれているのだろう。
(――そりゃ、私相手だし、褒めるの難しいよね……)
――理由が分かってしまうと、淡々と必死な様子で話す姿に思わず苦笑が浮かびそうになった。わざわざ、そこまでしなくても良いだろうに、どうやらよっぽどあの時の事を気にしているらしい。ひょっとしたら、私が金曜日に帰った後、妙に『正義感』が強い人になにか言われたりしたのかもしれない。
(なら、もう少し、適当に御礼を言っておけばいいか……)
――でも、それで本当に良いの?
……横貫さんへの対応を結論づけたとき、なぜか、別れ際に『頑張れ』と言ってくれた先輩の姿が思い浮かんだ。先輩は、この間から私だって友達が出来るかもって言ってくれていた。多分、さっきの『勇気を出せ』って言葉は、頑張って友達を作ってみなさいという意味も含んでいたんだと思う。
――せっかく、これが、今までに経験したことが無い状況なんだったら……
(……うん。……ごめんなさい。先輩。後で……後で、お言葉に甘えるかもしれないです)
『駄目だったならば、休み時間にうちの教室に飛び込んで来ても構わん』という先輩の言葉が、私の背中を押してくれた。
――変にクラスメイトと関わりを持ったりしたら、また、後で辛い思いをするかもしれない。
でも、どっちにしてもこのままじゃ、今までと変わらない高校生活になってしまう。そうしたら、きっと、また先輩に心配を掛けることがたくさん出てくるだろう。いつか、そのせいで先輩に迷惑を掛けてしまったりしたら、それはどうしようも無いくらい最悪だった。
それに、今は……いざって言うとき先輩が居てくれるから――
(少しだけ……『頑張って』みよう……っ!)
浅くなっていく呼吸を整えるために、左手の腕時計を撫でて、軽く息を吸い込み、吐き出した。
「……その、『横貫』さん。……怖く、ないんですか?」
「――と言う訳で、私のようなモブ系根暗女ではヒロインとして……――何をでしょうか?」
僅かに沸き上がってきてくれた勇気を胸に、恐る恐る聞いてみると、変わらず話し続けていた横貫さんは不思議そうにこてんと首を傾げてきた。
「いや、その……ほら、私、こんな傷もあるから……」
「――いえ……確かに、助けて頂いた時に驚いてしまったのは事実ですが……あれは……突然怪我をした人を見たせいですし……その、お恥ずかしい話……命の危険というのを感じたのは初めてだったので……動揺してしまった次第なのです……神宮さんご自身は素晴らしい逸材ですし……怖くななどありませんよ……」
「そ、そう……なんだ……」
髪の毛の上から、傷の方を指さしながら聞くと、横貫さんは静かに――しかし、大きく。
首を左右に振りながら、身を乗り出して私の両手を握り締めてきた。
その反応に、私はドキドキと鳴り響く心臓を押さえ込みながら、今まで一度も口にしたことの無い言葉を口にした。
「じゃ、じゃあ……その、『友達』になってくれませんか……?」
「――? ……私などが……『友達』などとよろしいのですか?」
必死になって紡ぎ出した言葉の返事は、きょとんとした声だった。
……すごく、意外そうな表情だった。
(よ、『よろしいのですか』ってどういう意味なんだろう? 『なんで』? じゃないって事は、嫌じゃ無いって事なのか? でも、オブラートに包んでそう言ってるのかも。 ああ、ていうか、こんなことを口にしちゃったから、周りの視線もすっごいあるし、断るに断れなくて、これはやっぱり無しって私に言ってくれっていう意味なんじゃ……)
頭の中が、今まで以上に高速で回り始め、やってしまった後悔が次から次へと沸き上がってきた。
(――ああ、やっぱり……駄目だっ!)
『やっぱり、なんでも無い』そう言い直そうとしたとき、横貫さんが口を開いた。
「――神宮さんは……友達といった同年代の馴れ合いが……お嫌いなのでは無いのですか?」
「――え。そ、そんな事無いよっ!?」
――なぜか、少し嬉しそうに、でも、どこか不安そうにそんな事を言い出した横貫さんに慌てて首を振りながら否定した。
「……そうでしたか。……ならば不肖、私めが友達立候補させて頂きたく存じます……」
途端、横貫さんは無表情でぱっと挙手するように小さく右手を伸ばした。
「――い、いいんですか!?」
「……むしろ、本来であれば……こちらからお願いしなくては行けないことでしょう……本当によろしいのですか?」
「――は、はい」
(……なんだか、びっくりするぐらいにあっけなく……)
もう、かれこれ……十数年。
ずっと出来る事が無かった『友達』が思っていた以上にあっさりとあっけなく出来てしまった事に、衝撃さえ覚えた。
……正直、まだ疑っている気持ちがほとんどだ。
何か新手の罠のの前振りなんじゃないだろうかという不安が次から次へとわき上がってくる。
(な、なんだろう……たとえば、『友達』っていう言葉を盾に無理難題言われたりしないかな……なんか、昔映画でそんなの見た気が……)
「ああ、そうですね……ですが、友達というのでしたら……一つだけ条件を出してもよろしいですか?」
(……あっ)
その一言に、自分の嫌な予感が的中してしまった事を悟り、思わず机に手をついた。
「……なんですか? 条件って……」
力なく聞く私に、横貫さんは首をかくんと九十度横に倒して不思議そうにしている。
「え? あの……横貫さん?」
「……あ、いえ。その、出来れば敬語をやめて……私は『加奈子』と呼んで欲しいのです。友達だと言うことでしたら、そう呼んで欲しいのです……私も親しみを込めて咲夜さんと呼ばせて貰いますから……」
機械のように、首の方向を戻した横貫さんが心なしか口を尖らせながら、頬を染めてそう言い出した。
(お金とか、パシリとか……そういうんじゃ……ない? ……それくらいなら)
予想していたのとは、まったく違った条件に戸惑いながら私は一つ頷くと、横貫さんに向かって返事を返す。
「え、あ、はい。分かりました……加奈子……ちゃん?」
「どうぞ、そこは加奈子と呼び捨てを。――敬語もなしで」
なぜか、真剣な表情でさっきまでと違う圧力を放ちながらずいと迫ってくる姿に戸惑いながら、私はこくこくと頷き、もう一度呼び直した。
「あ、うん。加奈……子?」
「よろしくお願いしますね……咲夜さん」
(……あ、自分は敬語でさん付けなんだ……)
横貫さん……改め、『加奈子』が納得いったようにふんと鼻から大きく息を吐き出すのを、少しだけ残念なような、ほっとしたような複雑な気持ちで見つめる。
(どうしよう……友達なんて出来たこと無いから、何を話して良いか分からない……でも、名前呼びって……凄く嬉しいかも……)
しかし――名前を呼び合うことで、じんわりと友達が出来たという実感がわき上がってきた。
……本当に、本当にこれが友達なのか分からないし、これからすぐに手のひらを返される可能性が高いけど。
――それでも、今、この瞬間。
どうやら私には初めて同い年の友達が出来たらしい。
感動を噛みしめる私の横で、ふと加奈子が改めて不思議そうに首を傾げた。
「――しかし……本当に不思議なものですね……私のようなアウトカースト系女子が、入学早々、『あの』二年の穂積氏と廊下で堂々と熱い愛の抱擁を繰り広げる……先週からクラスの話題をかっさらっている超ハイヒエラルキー系女子の咲夜さんと友達になる日が来ようとは……これはまた、大逆転勝利……と言やつですね……ブイ……」
加奈子は無表情に小さな手の人差し指と中指を伸ばしてピースサインを作っている。
思わずそんな姿に私もつられて微笑みながらピースサインを返そうとして――
「――って、ちょっと待って! 色々――ちょっと待って!?」
――友達は出来たけど、先輩の所に駆け込む事にはなるかもしれなかった。
これにて二章本編は終了です。
イラスト作成などもありますので、来週のエピローグの後、一月ほどお休み頂くことになります。準備でき次第更新を再開しますので、またよろしくお願いします!





