第三十二話「先輩、その言葉はどういう意味ですか?」
――先輩の横に並んで歩いているのに。学校に近づくにつれて……足下が粘り着くような気色の悪い感覚に襲われ、段々と足取りが重くなっていく。
気づけば、遅れがちな自分のせいで僅かに空いてしまっていた先輩との距離を見て。
(――どうして?)
校門を抜けて枝振りの見事な桜が並ぶ長い坂を登りながら、理解出来ない自分の反応に戸惑いながら自問自答した。目の前を舞い散っていく薄い桜の花弁につられて、顔を少し上に向けると――顔の左半分を覆っていた髪が火傷の表面を撫でていくのを感じる。
(……そういえば……金曜日、傷跡みんなに見られたんだったな……)
はっとして、他の人に火傷跡が見えないように左手を添えながら、体育の時間に、クラスメイト全員に傷が見られた事を思いだした。
(……ああ『だから』……か)
なぜ? 自分で浮かべた問いの答えに気がついて、瞠目する。
(……怖い……な……)
これから教室に入っていったときの反応を考えて……恐ろしさが込み上げてくる。さっきまでは、足に纏わり付くだけだった恐怖が、自覚したことで全身を覆い尽くすような恐怖へと変貌していた。
今までも、毎年……クラスが変わるとき。学校を卒業したとき……なんどか『こういうとき』はやって来た。
大概こういう風に傷のことがみんなにばれた後は、一番多いのは遠目でのひそひそ話。
あとは――
(――クラスで可愛い子が私の傷を見て泣き出したときが、一番酷かったんだっけ……)
――あの時みたいにクラスに入るとなり、敵意に満ちた視線を向けられなければいいんだけど……今回は、じわじわ傷跡の事がばれたわけじゃなくて、あんな風に怖がらせてしまった分、あまり良い状況だとは考えられなかった。
いつの間にか辿り着いていた昇降口で、飴色をしたローファーを自分のロッカーに入れて、真新しい上履きを床に出して履き替える。
『――、って――どぃ――火傷――』
『――!――っ、――気持ち――悪い―』
――いつの間にか、近く抜けていく人が口々に私の火傷を見て嘲笑っていた。
「――っぁ、……」
喉の奥が異物を押し込まれたように痙攣を起こし、声にならない引き攣れた音が喉を鳴らした。
押し寄せてくる陰口に――ついに耐えきれなくなって、両耳をふさごうと鞄を床に手放して――
「……咲夜?」
――『ガタン』という鞄の落ちる音の向こう側から、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「――え?」
――はっとして手を止めると、いつの間にか先輩が私の顔を覗き込んでいた。
落ち着いた茶色の瞳が、心配そうに目の前で私を見つめていた。
……慌てて周りを見回してみても、私の事を話題にしている人は誰一人として居なかった。
ただ、鞄を取り落とした私の事を、不思議そうに見て通り過ぎていくだけである。
(……白昼夢……? 違う……単なる、妄想……か……)
冷静に考えてみれば、クラスメイトでもない人が皆私の事を噂している方がどうかしている。
ごくりと、口の中で粘つく唾を飲み込んで、微かに残っていた震えを押さえ込むように、右手をそっと左腕に沿えた。
そうして、目の前で私の事を覗き込んでいる先輩へと視線を戻す。
「――あれ!? ――先輩、目の色が!」
――さっきは、余裕が無くて気がつかなかったが、いつの間にか先輩の瞳の色が金色から初めて出逢った時の物へと戻っていた。思わず、それまで考えていた事が頭からすっかり飛んで私は叫び声を上げた。登校途中だった周りの生徒達が『何事か』という視線を向けてくる。
「……まったく……随分ぼうっとしていると思ったが……今頃気がついたのかね? ……カラーコンタクトだ」
周りに聞かれないように声を落とした先輩が、視線を集めないようにゆっくりと歩き出しながら呆れたような表情を浮べた。
(あ、なるほど。確かに、言われてみたら少しだけ光ってる気がする……)
言われてみれば、瞳の一部が普通とは違う色彩を放っていた。
――そういえば、確かに今朝先輩を見かけたときに、どこか違和感を覚えた記憶がある。どうやら違和感の原因はこの瞳の色が原因だったようだ。
(……それにしても、こんな違いに気がつかないなんて……)
改めて自分の観察眼のなさに呆れ――よく考えてみれば、登校している間、ほとんどの間地面を見つめていた記憶しか無かった。
「……それより、咲夜。……一年はあっちでは無いのかね?」
「……え? ……あ」
気がつけば、一年生の教室がある棟と、二年生の教室がある並びの分かれ道に来ていた。うっかり先輩についたまま歩いていた私は、そのまま二年生の教室がある方へと歩き出そうとしていたのだった。
「ご、ごめんなさい。ちょっと、ぼうっとしてました」
「ああ。構わん。気をつけてな」
「はい……」
(ここから、先輩とは別々か……先輩も同じクラスだったら良かったのに……)
つい……そんな弱気な事を考えてしまった。先輩と分かれて、一人で『あの』教室に向かうことを考えると、ここから先の廊下が急に妖魔達が住まう隠世にでも繋がっているような気がして、酷く心細かった。
「――その、また……放課後……ですね」
先輩には、心細い所を見せて心配させないように、なんとか笑顔を絞り出してお別れ言う。
――すると、真剣な表情をした先輩が、急に顔を近づけてきた。
「……っえ、わ……」
「――咲夜。よいか? もし、駄目だったならば、休み時間にうちの教室に飛び込んで来ても構わん。話くらい、いくらでも聞いてやる。……そうだな。だから、一度『勇気』を出してみたまえ。……周りをよく見て見ろ。――案外、上手くいくかもしれんぞ?」
先輩が、まるで睦言でも囁いているかのように、耳に息がかかりそうなほど間近で囁く。驚いた私が、なにも出来ずに固まっていると、先輩の後ろで、通り過ぎる見ず知らずの生徒達が何事かという顔でこっちを見ているのが見えた。
「――頑張ってきたまえ。また、放課後」
最後に先輩はそう言いながら、私の肩をトンっと軽く叩くと体をぱっと体を離して二年生の教室に向かって歩き出す。
(……びっくりした……抱きしめられるのかと思った……)
――本来なら、『また』の一言でも掛けるべきなのに。取り残された私は、思わずその場で声を掛ける事すら出来ずに呆然と先輩の事を見送った。
頭の中では、昨日、妖魔を倒した後に先輩に抱き留められて慰められたときの事を思いだしていて……気づけば一瞬で思考が止まってしまった。よくよく考えてみれば、ここは学校内だし、今そんな事する必要も無い。
(……で、でも……だったら、今の先輩のって、どういう意味だったんだろう……?)
『周りをよく見ろ』『勇気を出せ』思えば、先輩は何度か同じような忠告をしてくれていた。
――たしか、一度目は先輩のお姉さんのお話を聞いたときだ。旅館で話していたとき急に先輩が言い出したのだ。『また、学校に戻ったら。少しだけ頑張ってみろ』そんなことを言っていたように思う。
――そして二度目は……忘れようも無い。先輩が私を置いて、一人で妖魔の所へ戻ろうとしたときだ。あの時は、時計を私に預けて、一方的に『学校に戻ったら、勇気を出してみることだ』なんて言ったのだ。
……どっちも、詳しい説明なんて何もない。ただ、意味深に言葉だけを投げかけられた状態だった。
(ああ、でもそうだ。確か、あの時……始めに聞いた時は、『私を探してる人が居る』って言ってたんだっけ?)
その言葉を聞いたとき、私は『そんな人居る訳ない』と思って、聞き流してしまっていた。ただ、先輩に私が嫌われ者だって事を知られたくなくて。訳も分からずに『はい』とだけ答えてしまっていたのだ。
――きっと、先輩は私の状況なんて詳しくは知らない。だから、そんな事が言えるんだ。
笑いながら言う先輩に、少し不満を持ちながらそう考えていた。
だけど、こんな風に二度、三度……しかも、そのうちの一回はあんな大事な場面で。同じような事を『あの』先輩が言い出すのは、何か『意味』があるような気がした。
しかし、尋ねてみたいと思ったところで、肝心の先輩はすでに自分の教室に行ってしまって問い掛けることは出来ない。『なんでそんな事を言うんですか?』と問い掛けようと思っても、先輩と現実の私を触れさせたくなかった逃げ腰の私には、その答えを求める機会を無くしてしまっていた。
……ああ、でも、結局の所言えるのは――
(……ずっと、私が悩んでたの、気づかれてたみたいだな……)
『クラスメイトに傷跡を見られた』という相談は一度も先輩にしてなかったけど、私が悩んでいたのに気づいていて、勇気づけてくれたんだろう。
(……さっき、顔を近づけてきたのは、周りに聞かれないように……か。――私って、そんなに顔に出やすいかな……)
……どっちかというと、今まで仏頂面とか言われる方が多かったのにな……
さっきの先輩の行動を思い起こしながら、自分の顔に触れてみる。
――と、そこは熱い熱を帯びていた。
(……うわ……凄い熱い……え?さっきからずっと……?)
自分では冷静に考えていたつもりだったのに、顔の赤さがずっと引いていなかった可能性に気がついて、顔のほてりがますます酷くなっていくのを感じる。思わず、前髪を引っ張って顔を隠し直す。
――髪の隙間から前を覗けば……そんな私の奇行を、目の前を通り過ぎる私と同じ一年生らしい女の子がじっと見ていた。
……どうやら通り過ぎる生徒達には、ばっちり一部始終を目撃されていたらしい。
「~~っ!」
たまらず私はその場で回れ右すると、なるべく顔を隠すようにして自分の教室に向かって足早に歩き始めるのだった。





