第二十九話「先輩、最近の写真の掛け声ってどうなってるんですか!?」
――旅館の窓から見えた桜を見に行くために。少し古びた見慣れない町並みの中を、先輩の隣に並んで進んでいく。右手掛けた、旅館の近くのお店で買ったおにぎりとペットボトルに入った飲み物が入った袋の重さが、妙に胸の奥を弾ませた。
隣を歩く先輩を見上げると、厳めしい顔つきがほんの少し緩んでいるように見えた。
(……先輩も、楽しんでくれてるのかな……あ……)
重いながら、ちょうど建物と建物が密集した狭い路地にある階段を上がった瞬間。
桜が立ち並ぶ通りに行き会った。道の両沿いに無数の桜が咲き乱れ、雪のような花弁を散らしている。
「――桜っ、桜ですよっ! 先輩っ!」
(――ほんとに……友達と『遊び』に来たんだ……!)
見崎神社の時とは違う、純粋に『遊び』。誰かと楽しむために訪れた先で出会う景色に、胸の奥震えるような感覚がして、当たり前の事なのに妙にはしゃいだ声を上げてしまった。
「満開……では無いようだが、私の一番好みの時期だな」
先輩を振り返ると、先輩が随分微笑ましそうな表情で私の事を見つめていた。
(――あ……流石にはしゃぎすぎた……)
目を細め、私の事を柔らかく見つめる先輩の瞳に、否応なく自分が子供っぽくはしゃぎすぎていた事を実感する。
……考えてみれば、さっきからずっとテンションが上がりっぱなしだった。気がつくと、熱を帯びた頬を撫でる春風が冷たく感じられる。
「――っくく、どうした? 突然そんなに顔を赤くして」
案の定、先輩が少し意地悪な顔をして、私の事をからかい始めた。
「――すみません。なんでもないです。――その……はしゃぎすぎました」
「いやいや。構わんとも。それだけ喜んでくれれば、一緒に来た甲斐があるというものだ」
「……その、先輩は、楽しくないですか?」
私と違って、余り態度が変わらない先輩に、少し不安になった私は思わずそう聞いてしまう。
(先輩は、私と違って友達と花見に行った事なんて、いくらでもあるだろうから『特別』じゃ無いのかもしれないけど……)
……それでも、わざわざここまで付き合って貰って、あまり楽しく無かったのだとしたら、それはあまりにも申し訳ない。
「……この娘は突然、なにを言い出すのだ。 ――私はそんなに、楽しそうに見えないか?」
先輩が足を止め、驚いたように目を丸めた後、少し不服そうな表情で顔を近づけてきた。
――先輩の顔は、いつもより少し目が細められている。
でも、先輩がどういう気持ちなのか。楽しんでくれているのか。
推し量ることは、私のコミュニケーション能力では難しそうだった。
なぜか、後ろめたさを感じた私は、耐えきれなくなって視線を逸らしてしまう。
「その……先輩は友達も居ますし、その、私なんかと一緒だとつまらないんじゃないかと……」
「――こらこら。待て。馬鹿な事を言い出すな。……まったく、君は本当に妙なところで自己評価が低いな……」
先輩が、呆れたようにため息混じりの声をだした。そのまま、先輩が大きく息を吸い込む気配がした。
「……無論、楽しいに決まっているだろう?」
「――本当ですかっ?」
(……少なくとも、『気持ち悪い』って思われてはないってことで良いんだよね……?)
『自己評価が低い』と言われても、多分ここ最近の私の自己評価は高すぎるくらいだと思っている。それでも、先輩がそんな風に言ってくれた事が嬉しくて、声に期待が滲んでしまった。
(……せ、先輩も――だって……思ってくれてるって……思っても……良いのかな……? そ、その……ちょっとくらい『仲の良い友達』……とか……無いか……)
すでに十分過ぎるくらい高くなってしまっている自己評価を、思い切って上向きに振り切ってみて、気恥ずかしさに耐えきれなくなって思い直した。
そもそも、まだ先輩と出会って、ほとんど時間も経ってない無いのに。そんな風に思うのは流石におこがましい。
――ただ、やっぱり。この数日の中で、私の仲で突然出来た『先輩の存在』が大きすぎて。
目の前で舞う桜の中で、私の方を見て笑う先輩を見ながら。
顔の傷跡に、手のひらを当てて、『なにか』をぐっと押さえ込んだ。
(うんっ!大丈夫だっ!)
「――ああ、咲夜。そこのベンチでお昼にしようか」
「――あっ、はい」
自分の中で渦巻く期待感を胸に、うっかりすると舞い上がりがちな自分をたしなめていると、先輩から声がかかった。指さしている先を見てみると、ちょうど二人が座るのにちょうど良さそうなベンチが大きな桜の下に設置されていた。
そのまま先輩とベンチに座り肩を並べる。
――景色を楽しむように、少しの間先輩との会話が途切れた。
ベンチに腰を掛けながら、空を見上げるように視線を動かすと、大きな桜の樹が私達に覆い被さり、包み込むように枝を伸ばしている。
白っぽいピンク色の花が無数についた枝の向こうで、春の彩度が低い水色の空をもったりとした雲が風に流されていった。ざあっという音に瞳を閉じれば、微かに草と、桜の木の香りがする風がすぅっと抜けていくのを感じる。
――風が、さっきまでの浮ついていた感情を沈めていく。
そうすると今度は、今朝までの騒動で無意識のうちに神経が高ぶっていた事に気がつかされた。
気を張って。ずっと昔に仕舞い込んだ感情を激しく揺り動かしたからか。痛んだ木材のように出来ていた心のささくれが、少しずつ取れていく。
そうして、目を開けると、空の高いところを鳥が悠然と飛んでいるのが見えた。
(――ああ……『この景色』が見られて……良かった……)
「……先輩。『生きてる』って、素敵ですね」
「――ああ」
……普通なら『何を言い出す』と言われてもおかしくないような事を口にしてしまうが、先輩は一瞬考え込んだ後、すぐに短く答えてくれた。
――きっと、先輩に今の私の言葉の意味は伝わってない。
(……先輩。――私は……『独り』じゃ無い。『誰か』……ううん。違うか。……うん。『先輩』と。こうして、居られることが嬉しいんですよ?)
そんな、言葉にしない気持ちをただ心の中で反芻していると、不意に先輩がこちらに視線をむけた気がした。上を見上げていた視線を先輩に向けると、先輩が微笑みを浮かべてこちらを見ていた。
先輩が、ゆっくりと。言い聞かせるように口を開く。
「――ありがとう。咲夜」
言われた瞬間。喉の奥がきゅっと引き連れるような感覚がした。
なんとなく、右手を自分の左手首に持って行くと、カチャリという小さな金属が触れる音がした。
(――この、時計は……)
左腕に付けた時計の『意味』を考えると、大変だったことだとか。
怖かったことだとか。
――そんなのは、全部。全部、報われていて……
「――ありがとうございます。先輩」
気がつけば、『私と先輩』は見つめ合って。
そして、『先輩と私』は自然と互いに御礼の言葉を口に出していたのだった。
***
御礼を言い合った後、ゆったりとベンチに座ってお昼を食べ終えた私達は、ほどよく冷えたお茶を啜っていた。ペットボトルのお茶が、ノドの奥を流れて行くとじんわり冷たさが身体の中を広がっていく。
(ジョギングか……地元の人かな……? 桜の下を走るのは、気持ちよさそうだ)
目の前をジャージ姿でジョギングする女性が通りかかるのを見て、ぼうっとそんな事を考えた。
綺麗な桜が咲いている下を、ゆっくりと自分のペースで走って行くというのは、とても楽しそうだ。
「――申し訳ないのですが、私と彼女の写真を撮って頂けますかーっ!」
――しかし、突然隣からそんな声が聞こえたせいで、思わず飲んでいたお茶が気管に入りかけた。
「――せ、先輩っ!?」
焦って呼びかけた私に構わず、先輩はその女性に声を掛けると近づいていき一人交渉を始めた。
女性は先輩の顔を少し見つめた後、私と見比べて破顔すると先輩から携帯電話を受け取る。
「――こちらの女性がシャッターを押してくれるそうだ。桜の前で並ぶぞ」
「――え、え、そんなっ、急に……!」
急な事に戸惑いながらも先輩の言葉に従って、私は慌てて立ち上がり、女性に頭を下げてから桜の前で先輩と一緒に並んだ。
(な、並ぶって、どれくらいの位置に立てば良いんだっ!?)
思わず、先輩の隣で足ひとつ分の距離を右に行ったり左に行ったりしていると、笑みを深くした女性が右手を挙げた。
「はい。それじゃあ行くわよー?」
「はい」
(――え? え? も、もう撮るの!?)
隣で平然と答える先輩に、思わず助けを求める視線を向けるが、先輩はすでにカメラの方を向いていて私の視線に気がついていない。
(――っ、取りあえず前向かないと――っ!)
「――はい、チーズ!」
タイミングが計れずに戸惑いながら、睨み付けるように前を向いた瞬間、シャッター音が響いた。
「うーん……彼女さん、ちょーっと表情が硬いわねぇ……」
「す、すみません……」
液晶画面を覗き込んだ女性が、眉根を寄せているのを見て、私は思わず謝った。
「良いわよ。桜もあんまり入ってなかったから、もう一枚行くわね?」
しかし、女性は気にした様子も無く、そのまま笑顔で顔を上げると先輩の携帯を構え直してくれた。
今度は、少し腰を落として、どうやら桜をしっかり入れて撮り直してくれるようだ。
「あ、ありがとうございます」
「ありがとうございます。お手間を掛けます」
撮り直してくれるらしい女性に、先輩と二人で御礼を言うと、微笑ましそうに女性が笑った。
「良いわよー。――よし、それじゃあ、彼女さんの掛け声は『大好きー!』ね?」
「――へぇッ!?」
また右手を大きく掲げながら、しれっとそんな事を言い出した女性に、私はつい素っ頓狂な声を上げてしまう。
――しかし、女性は気にせずそのまま右手を下ろして、携帯電話を両手で握った。
「――はい。それじゃあ、『大好き』ーっ!」
「――え、あ、ええ? ……だ、だいすき……」
恥ずかしさで、顔が真っ赤になるのを感じながら、勢いに流されながら、自分でもどこから出ているのか分からないくらいか細い声で女性の言葉をなぞる。
カシャッカシャッというシャッター音が二回響いた。
「――いっよし。おっけー。彼氏さん確認して貰える?」
女性が差し出してくる携帯電話を、先輩が確認しに向かった。
「……ああ、大丈夫です。ありがとうございました」
「……ひひっ、良いのよ。それじゃあね」
「あ、ありがとう……ございます……」
にこやかに笑いながら先輩が御礼を言うと、女性は明るく手を振りながらジョギングに戻るように身を翻した。慌てて私も、まだ赤くなっている顔に手を当てて冷ましながら、御礼を言う。
――女性が、ちらっと先輩が私の方を向いているのを確認した後、後ろ手でこっそりと親指を立てて見せた。
(……って、もう、グッジョブじゃないよ! 恥ずかしい! なに? 今のっ!? 先輩は普通にしてるしっ! ピースとかチーズじゃなくって、今はあんなのが普通なのっ!?)
……それはいくら何でもちょっと破廉恥なんじゃ無いだろうか?
女性と先輩の平然とした対応に今時の掛け声事情を察し、内心恐れおののいていた。
(――やっぱり、私に写真は、まだ……ハードルが高かった……っ!)
――とはいえ。やはり、滅多に撮らない写真というのは、気になる訳で。
「――せ、先輩。どんな感じで撮れて……ましたか?」
「ああ。今、咲夜にも今送ろう――可愛く撮れているぞ?」
おずおずと先輩の手元を覗き込もうとした私から隠すように先輩が携帯を傾け、楽しそうに操作しながら答える。
――落ち着かない気分で自分の携帯電話を取りだしてみると、すぐに私の携帯電話がピコンとメールの着信を告げる音を立てた。ドキッ……ドキッ……と、怖いものを見るような気分でメールを開く。
(あ……そういえば、先輩からの初メールだ……)
ディスプレイに表示された『穂積優結』という文字にはっとしながら、携帯の決定ボタンを押し込んだ。
「――あ、あれ?」
――しかし、開いたメール画面には、小さくバッテンが書かれていて、先輩から貰った添付ファイルは開けなくなっていた。
「どうした?」
「……そ、その……写真が開けないみたいなんですけど……」
「ん? ……ああ、その携帯だとこのサイズだと扱えないのか……仕方ない。サイズを小さくして送るようにしよう」
先輩が残念そうに携帯を再度操作している。どうやら、私の持っている旧型の携帯電話では、新しそうな先輩の携帯電話のデータは扱えなかったようだ。
(そうか……この携帯電話、もう古いもんな……)
おばあちゃんに買って貰った、思い入れのある携帯電話だが……思えばもう随分使い続けている。
今まで、通話さえ出来ればそんなに問題なかったから、全然気にしていなかった。
(サイズ……ちっちゃくなっちゃうんだ……)
――何となく、せっかく撮った写真が小さくなってしまうは縁起が悪いというか、なんというか……とても勿体ない気がして残念だ。
(……写真……大事な、写真かぁ……)
未練がましく考えていると、ふと昨日神守の迎えを待っていたときに見たホテル前の通りが頭に浮かんだ。
「――あ、あの……っ!」
「ん?」
先輩が、携帯画面の上で動かしていた手を止めて顔を上げる。
(う……ちょっと、恥ずかしい……かも)
先輩の見透かすような金色の瞳に、僅かに怯みながらも、沸き上がってきた思いを胸に思いついた事を口にした。
「――その、写真……焼き増しして貰っても良いですか……?」





