第二十八話「先輩、いつか割り勘もやってみたいです」
「――お待たせしました――って、どうしたんですか? 先輩」
「いや……なんでもない……」
手早くシャワーを浴びた後、浴衣からパーカーに着替えて待ち合わせていた旅館の受付に向かった。
途中で乗り込んだエレベーターで、何となく右腕を顔に近づける。
……特にあの漢方薬みたいなつんと鼻をつく匂いはしない。
代わりに、身体を洗ったときに使った、いつもとは違うボディーソープの香りがするだけだ。
(……大丈夫、だよね?)
自分の鼻がおかしくなっているんじゃないかという不安を押し込み、自分を納得させていると、チンと軽い音がしてエレベーターの扉が開いた。
「――っよし……って、先輩!?」
軽く服の裾を引っ張って整えながら前を向くと、げっそりと酷く疲れた表情を浮かべる先輩が立っていた。隣では、先輩とちょうど対照的にお凜ちゃんがにこにこと楽しそうに笑っている。
「あ、咲夜ちゃんもおはようさん。昨日はよう眠れたん?」
「――あ、うん。おはよう。お凜ちゃん。ありがとう。薬も良く効いたよ。あの薬ほんとに良く効くんだね」
「ほかほか。それやったら良かったわ。――まあ、薬はそんだけ霊力満ちあふれさせとったらそらよう効くやろなぁ……」
お凜ちゃんが、満足そうに頷きながら、ニヤニヤとした顔で右手の人差し指と親指で輪っかを作って、私と先輩の事を見透かすようにじっと見つめてきた。ひょっとすると、『霊力』という奴の大きさを見ているのかもしれない。
――そんな、どこか含みのあるお凜ちゃんの姿を見て思い出した。
「――あ、そうだ。お凜ちゃん、ここの宿泊費、お凜ちゃんの分も私出すよ?」
……先ほど気がついた事をお凜ちゃんに向かって訊くと、お凜ちゃんは苦笑するように笑った。
そのまま、『マル』を作っていた作っていた右手を開きひらひらと振っている。
「ええねんええねん。気にせんといて。『必要経費』言う奴やよって。……そもそも、二人の分も一緒にもう精算もしてもうとるし」
「――なにっ!?」
「――嘘っ!?」
先輩と、私の声が重なった。どうやら、先輩も初耳だったらしい。隣に立っているお凜ちゃんの事を、驚いた顔で見下ろしている。
私達の驚愕の声が面白かったのか、それともそもそもそれも想定内だったのか、お凜ちゃんの顔には悪戯が成功したような笑みが浮かんでいた。
「ええ……でも、悪いよ……」
「そうだ。咲夜はともかく、私まで払って貰う訳にはいかんだろう」
「いやー今回咲夜ちゃんがこっち来てくれて、ウチは大助かりやったから、全然ええんよー」
しかし、私達年長組が固辞すると、焦ったようにお凜ちゃんはどこか困った様子で首を振っている。
「そんな、大助かりだなんて……こっちが助けて貰ってばっかりだったし」
「いやいやー。――ほ、ほら? ウチ中学にも行ってへんやん? せやから、今回咲夜ちゃん来てくれてホンマに嬉しかってんよ」
――何気なく言われたお凜ちゃんの言葉に、どきりとした。
昨日聞いたときは、単に『複雑な事情なんだろうな』としか思っていなかったけど、今はそれが『何故か』という事が身にしみて分かってしまっている。
……たった一度。
昨日、あの妖魔と戦うだけで、私は怖くてたまらなかった。
『死ぬかも』と思った。
それに――『先輩が死んでしまう』と――思った。
でも……
(お凜ちゃんは……ずっとあんな思いをして、妖魔と戦ってきてた訳だよね……)
きっと、昨日のアレより。
もっと、ずっとたくさんの――ずっと、強いかも知れない妖魔と戦ってきたんだ。
そう思うと、昨日助けに来てくれたときのお凜ちゃんの余裕な態度が、かえって痛々しいものに思えてきた。
「――まあ、なんだ。妖魔に関しては、正直私達は物の役には立たんが、それ以外でもなにか困った事があれば気軽に相談してくれたら良い」
……同じ事を考えたのか、先輩が真面目な表情を真面目なものに引き締め直しながら、お凜ちゃんに向かって言った。
「――そ、そうだよ。一応、これでも私達の方が年上なんだから、困った事があったら……相談……して……ね?」
先輩の言う通りだ。妖魔に関しては何も出来ないけど、それでも『話し相手がいない』とか、『寂しい』とかそういう事だったら話し相手になることは出来る。
……はずだ。
(……出来る……出来る……よね……? ……出来たら良いなぁ……)
先輩の言葉に乗っかって応えながら、自信のなさがにじみ出てしまうのが抑えられなかった。
――そもそも、私自身がおばあちゃん以外と話すことがほとんど無かったし、友達だって居ない……学校にだって、あんまり良い思い出は無い……
でも……それでも。――まだ、ほんの数日だけのことだけど。
(……『誰かが近くに居る幸せ』が、出来たんだ……)
だから、『私達』の代わりに学校にも行けず、ただ一人恐怖と戦ってきたらしいお凜ちゃんに。
もっと……もっと『良いこと』を知って欲しかった。
「……そやなぁ……ほいたら、また色々と相談させて貰うと思うわ。二人とも、これからしばらくの間、十分注意してや?」
お凜ちゃんは一瞬考え込むように天井を見つめると、すぐに明るい笑みを浮かべた。それから笑顔のまま、私達を気遣ってくれる。
――『注意して』という言葉が、昨日聞いた時は違って、ずっしりと重い響きを持って聞こえた。
(お凜ちゃんが、これだけ良くしてくれたんだから、後は私達が頑張らないと)
「うん」
「ああ」
――ぐっと震えそうになる手を握りこんで答えた言葉が、再び先輩と重なった。
はっとして先輩の顔を見上げると、先輩も私の事をじっと見ていた。
――私達を見つめていたお凜ちゃんの表情が、再び段々とニヤニヤとした笑顔に変わっていく。
(なんだろう……)
……なんとなく、嫌な予感を覚えていると、お凜ちゃんがトトッと、勢いよく近づいてきた。
「――なるべく、二人で一緒に居った方が安全やさかい、仲良うせなあかんで?」
「――え?」
――そっと耳元で背伸びしたお凜ちゃんがそんな事を言った。
意味が分からずにお凜ちゃんの顔を見ると、満面の笑みを浮かべたお凜ちゃんが楽しそうに下から私の事を見上げていた。
「『一緒』ってどういう……?」
「……ああ。心得ている」
「え?」
戸惑いながら聞き返した私に答えたのは、先輩だった。何を私が聞いたのか納得がいったように力強く返事を返している。
(え、ええと……二人一緒……って……)
「……まあ、そういう訳だから咲夜。すまないが、明日から一緒に登下校だ。どこか出かけるときもなるべく付き合おう。不快だろうが、しばらくの間は我慢してくれ」
私の方を向き直った先輩が、申し訳なさそうに宣言する。
(一緒って……本当に『一緒』なんだ……)
とは言っても、驚きはすれど先輩の言うような不快感は全くない。
むしろ、『待ち合わせて毎日友達と登下校を一緒にする』なんて言うのは、ある意味夢のような経験で、舞い上がりそうな話だ。
(あ、でも……友達……)
『友達』という言葉に連鎖するように頭に浮かんだのは、金曜日の夕方帰る途中に先輩と会ったときに見かけた二人組だった。
――あの時、確か先輩はなにか予定を断ってくれていたようだった。
(確か、『埋め合わせする』とか言ってたし……)
「え。はい。その、私は先輩と一緒だと凄く嬉しいですけど……その……良いんですか?」
「なにがだ?」
「その……お友達とか……」
恐る恐る聞いてみると、先輩はふっと苦笑を浮かべた。なんとなく、その表情は『ばれたか』と照れているようにも見える。
「――まあ、なんとか話せる範囲で説明して分かって貰うしかあるまいよ」
「その……すみません」
「いや、あれでなかなか二人とも気の良い奴でな。きっと分かってくれるだろう」
私が頭を下げると、肩をすくめた先輩がどこか自慢げに友達の事を褒めている。そこには、私には想像するしか出来ない『信頼感』があるように思えて、少し眩しく感じてしまった。
「もし、埋め合わせで遊べとせがまれたら、その時は咲夜にも一緒に来て貰うことになるかもしれんな」
「うっ……分かりました」
冗談めかして笑う先輩の言葉に、先輩以外見知らぬ上級生が集まる中に、私一人が放り込まれる場面を想像して――じっとりと背中が汗ばむ。
(それに、こんな気持ち悪い火傷女連れてきて、先輩が嫌な顔されるのも嫌だし……そうなったら、いつも以上に気をつけないと……)
ちょっと考えるだけで、心配事が多すぎる。それでも、先輩に不快な思いをさせるのはなんとしても避けたかった。
「――しかし、そう考えれば、お互い家が近いというのは僥倖だったな」
「え?」
――思わず、顔の火傷跡に左手で触れながら、考え込んでしまっていると、先輩の笑いを含んだ明るい声が聞こえた。
「――いや、なに。もし、これで家が遠ければ、一緒に咲夜に『家』で住んで貰わないといけないだろう?」
(ああ……なるほど……『一緒』に……? ――っ、!?)
「――住むっ!?」
さらっと言い出した先輩に、うっかり流しそうになったが、目の前で笑う先輩は案外とんでもないことを仰っていた。
(無理無理無理無理…………やっぱり、無理ぃっ! ――そんなっ。……絶対、絶対それは、死ぬ。緊張で。――あ、でも、もし家が遠くて一緒に居ようとしたらそうなるのか……)
「っく……ははっ、――ああ。だから、そうならんで良かったという話だ。私も……咲夜とは一緒に住みたくない。……なにせ……」
(あ……)
ぽろっとこぼすように言った『一緒に住みたくない』という言葉に、何故か胸がずきんと痛んだ。
(――いやいやいやいや。私。なにショック受けてるの……当然でしょ……ただ……『ずっと視界に入ってるとか気持ち悪くて我慢ならん』とかだったら――ちょっと……嫌だな……)
そんなこと、一言も先輩は言っていないのに、嫌な想像が浮かんでしまう。
……気づけば、私は床に敷かれた赤い絨毯をじっと見つめていた。
――トントンという柔らかい重さが、頭の上で軽く跳ねた。
「え?」
気づけば、先輩が目の前に迫っていて、子供をあやすように私の頭を数回叩いていた。
「――ああ、すまないな。ただ、これからも、よろしく頼むと言いたかったのだよ」
そういって、先輩は頭から私の左頬に向かってそっと触れるかどうかという程度に手を触れさせてから、そっと身を引いた。
「あ、あの……はい。よろしくお願いします」
(び、びっくりした……)
突然の先輩の行動に驚いたが、なんとか先輩に向かって頭を下げた。
しかし、今の先輩の行動はなんだったのだろうか……?
(――き、気持ち悪いって思ってたら、こんな事、しない、よね?)
ただ、何となく『嫌われている』訳では無いということは伝わった気がして、いつの間にか心の中はじんわりと暖かくなっていた。
「……ほ、ほな。二人とも。今日は天風つけとくよって。ウチは今日の所はこれで失礼させて貰うわ。……気ぃつけて帰りや?」
様子を見ていたお凜ちゃんが、そう言ってお別れを言いながら上品に顔の横で手を振っている。
――なぜか、その顔が少し赤くなっているように見える。
「――あ……う、うん。――本当に色々とありがとう」
「――世話になった」
私と先輩も、それぞれ御礼を言っているとタイミングを見計らったかのように黒塗りの車が旅館のロータリーに乗り付けた。どうやら、神守の迎えが来たらしい。
(――あれ? そういえばお凜ちゃんって昨日どうやってこっちに来たんだろう?)
確か、昨日来たとき、車は無かったはずだ。
……一瞬。疑問に思うが、改めて聞くような質問では無いと思い直して、疑問を飲み込んだ。
そして、車に乗り込んで去って行くお凜ちゃんに向かって、精一杯の御礼を込めながら手を振るのだった。
***
「――さて……」
――やがて、お凜ちゃんの乗った車が見えなくなったところで、先輩がおもむろに呟いた。
「――我々も帰るとするか。……その前に、お楽しみの花見もしなくてはならんからな」
「――あっ……」
先輩の言葉を聞いた瞬間――ドクンと激しく胸が高鳴った。
(そうだ……『花見』……色々ありすぎて、忘れる所だったけど……)
「――良いん……ですか?」
「いや、咲夜。せっかくここまで来て、メインディッシュをお預けは無いだろう……もしや、疲れたか? なら――」
うっかりすると、『花見は止めておこう』と言い出しそうな先輩に、慌てて私は首を振った。
「――違いますっ! その……『したい』です。……花見」
「――っ……分かった。良いだろう。……そうだな。写真も……撮らねばならんしな」
(写真……?)
一瞬、突然出てきた単語に首を傾げる。しかし、確かにごく最近その単語を聞いた覚えがあった。
(なんだったかな……?)
その瞬間、思い出したのはシャッター音。
バスの中で、先輩が写真を撮った時の事だった。
(あ……写真、『一緒に撮ろう』って、言ってたんだった――先輩、ちゃんと覚えててくれたんだ……)
――私なんかとの写真を撮ろうと思ってくれてたんだ……
思い出した瞬間、唇の端がにやけてつり上がっていくのを感じた。
慌てて、片手で口元を隠して、一度大きく息を吸い込んだ。
つり上がりそうになる口元を整え直して――先輩の顔を見上げる。
「――はいっ! 撮りましょう! 先輩っ!」
すみません。
体調不良および業務繁忙のため、更新を一週間お休みさせてください。
●対象
・6/9 更新予定 ⇒ 6/16 更新予定
『咲夜修行中!~火傷娘と先輩の。退魔師修行、ことはじめ~』
・6/10 更新予定 ⇒ 6/17 更新予定
『ラリカ=ヴェニシエスは猫?とゆく』
ご迷惑をおかけ致します。





