第二十六話「先輩、我慢して下さい!」(挿絵あり)
「――取りあえず、咲夜ちゃん、治療しよか?」
先輩との話が終わると、お凜ちゃんがそう言って私の方を向き直った。
畳に座りこみ、会話する二人の横で煤けていた私は、その言葉にはっとして背筋を伸ばす。
(……治療って、なにするんだろう? ……あんまり、痛くないと良いな)
つい、事故の時の痛みを思い出して、頬の火傷跡に左手が伸びた。でこぼこと不揃いな肌の感触が指先に残った。
「……ちゃんと、傷跡を残さないように治療出来るのか?」
――先輩が、心配そうにお凜ちゃんに向かって訊いている。
……いつの間にか、注意が散漫になっていた。会話において行かれないように、意識を目の前の会話に集中させた。
「せやね……これくらいの傷やったら、龍樹様の雫の原液やのうて、雫を軟膏にしたんでも塗っといたら、綺麗に朝には治っとるよ」
お凜ちゃんは私と先輩を安心させるように、自信たっぷりな様子で太鼓判を押した。
「――なるほど。まあ、あの時の私の傷が治ったのだ。確かに、それくらい出来てもおかしくは……ないのか?」
「まあ、それは穂積の兄さんの膨大な霊力があってのもんやろけど……それでも、それだけ龍樹様言うんは『特別』なんよ」
そういいながら、お凜ちゃんはどこからともなく軟膏壺のようなものを取り出した。漆塗りに螺鈿細工が施されたそれは、高級なコンパクトのようにも見える。
(……お凜ちゃんらしくて可愛いな)
「これがその軟膏や。――ホンマによう効くよって、安心してや! ……ただ、まぁ……咲夜ちゃん、堪忍してな?」
自信のある様子で少し胸を張ったお凜ちゃんだったが、しかし、軟膏壺を片手に、どこか浮かない表情を浮かべた。
「……どうかしたのか?」
そんなお凜ちゃんの様子を不審に思ったのか、先輩がお凜ちゃんに尋ねた。
「いや――実は、この軟膏。ちょっと問題があってな……」
「――っなんだと!?」
「な、なに……?」
『問題』という不穏な単語に、私と先輩の間に俄に緊張が走った。先輩が畳の上に手をつきながら、お凜ちゃんの方に少し身を乗り出した。
(……やっぱり、薬なんだし、副作用とかあるのかな)
だとしたら……雫を使ってしまった先輩は大丈夫だったのだろうか……私自身に何かある分には……別に『構わない』わけじゃないけど、『仕方が無い』かと思える。
だけど、それで先輩になにかあったりしたら――それは絶対に嫌だった。
お凜ちゃんは、私達の視線を受けて、躊躇いがちに口を開いた。
「――この軟膏、ごっつう匂うねん」
「……へ?」
深刻そうなお凜ちゃんに。
一体どんな問題があるのかと身構えていた私は、とっさにお凜ちゃんの言葉が理解出来なかった。
(に、匂う……って? た、確かにちょっと嫌かもしれないけど……)
「――それ以外に問題はないのか? それを使えば、ちゃんと咲夜の傷は治るのだな?」
「せやね。他には問題あらへんよ。強いて言うと、霊力が尽きとると、効果があらへんくらいやろか……ただ、ほんまにめっちゃ匂うねん……」
何度も念押しするように確認する先輩に、お凜ちゃんはうんうんと頷きながら、手招きするように苦笑を浮かべながら、どことなくおばさんっぽい仕草で片手を振って説明している。
「……あの、ちゃんと治るんだったら、使っても……良い?」
――いくら火傷跡があるからあまり見た目に気を使っていないとはいえ、傷跡が無くてすむならそれに越したことは無い。さっきも、お風呂上がりに見た時、首の周りに一定間隔でぽつぽつと傷跡が出来ていた。
(……先輩に、これ以上気持ち悪いって思われるの、嫌だし……うん。ちょっと匂いを我慢すれば良いだけなら……)
「……せやな。――咲夜ちゃん……ええ覚悟やね。ウチも、今回の件は『申し訳ない』思とるよって、覚悟決めるわ……大丈夫。大丈夫や……じきに、慣れるよって……」
「……え、あ、それって……」
――私の返事を聞いたお凜ちゃんが、覚悟を決めたように悲壮な表情を浮かべた。
そんなお凜ちゃんに、ざわざわと胸騒ぎを覚えて、ちょっと待って貰おうと声を掛けようとしたとき、お凜ちゃんが軟膏壺の蓋に手を掛けた。
……そのまま、キュポンと音を立てて蓋が開く。
――瞬間、私は誰かに頭の奥を刺し貫かれたのかと思った。
「――あ、あ、あっ……」
目を保護しようとするかのように生理的に目の端に涙がにじみ、意味を成さない言葉が、口から漏れた。
――そう。先ほどから明確な圧力を持って私を刺し貫くそれは、紛れもなく軟膏から放たれている臭気だ。お凜ちゃんが指を軟膏入れにいれ、指先にどろりとした固さを伴った軟膏を乗せる。
「咲夜ちゃん、怪我しとるんは、首と……足の裏やんな? あと……なんか、えらいあちこち瘡蓋できとるよって……全部塗ったわ。――こっち来い?」
臭気に耐えているのか、据わった目をしたお凜ちゃんが、私に言う。
(か、瘡蓋……?)
お凜ちゃんの言葉に、一瞬考え、すぐにそれが数日前に先輩と一緒に山の中を逃げ惑った際に負った傷だと気がついた。あの時は、無我夢中で足下の悪い藪の中を走り回ったせいで、あちこち散々切り傷や擦り傷を負っていた。
(――全身……やられるっ!)
恐怖に身を震わせそうになるが、ちらっと視界の端に先輩の顔が写った。
――その表情は、これだけの臭気の中だというのに、いまも心配そうに私のことを見つめている。
(……これさえ、我慢すれば……っ!)
「――よし、来いっ!」
――先輩の表情を見たら、覚悟が決まった。
自分を奮い立たせ、お凜ちゃんの伸ばしてくる手を受け入れる覚悟を決めた。
「ええ返事や……いくでっ!」
お凜ちゃんが、軟膏をつけた手で、まずは首回りの新しい傷に塗りつけた。
そして、そのまま足の裏、全身の傷に軟膏を塗りつけていく。
そのたび、何千倍も濃縮した漢方薬のような酷い臭気が辺りに広がり、鼻の奥がつんとして涙が浮かびそうになるのをぐっと我慢した。
「――よし。終わりや。よう頑張ったな?」
「……うん。お凜ちゃんも、ありがとう……」
お凜ちゃんの言葉に、全身から力が抜けてほっと息を吐き出しながら。なんとか声を絞り出した。
「咲夜……本当に、頑張ったな……」
そう言いながら先輩が近づいてきて、優しく手を添えてくれる。その手から暖かい感覚が伝わってきて、それが全身を巡っていくの感じる。
(ああ、霊力を使って治すってほんとなんだ……)
さっきお凜ちゃんが言っていたのを体感で理解した。暖かさが全身を包みこみ、軟膏を塗った箇所がぽかぽかと暖かい。
「あとは、ゆっくり休むと良い……」
「――あ、はい。すみませ――」
そういって、気を遣ってくれたのか、先輩が立ち上がって部屋を出て行こうとした。
扉の方に行こうと背を向け、腰を浮かせる先輩に向かって、長々と引き留めてしまったことを詫びようと声を掛ける。
「――穂積の兄さん?」
――だが、その言葉は、お凜ちゃんのなぜか殺気染みた圧力を放つ言葉で遮られた。
「……なんだ?」
先輩が、ごくりと生唾を飲み込み……恐る恐るといった風情でお凜ちゃんの方を振り返る。
「……なに、しれっと逃げようとしとるんっ! ――咲夜ちゃん、キャッチ!」
「――え? う、うん?」
――お凜ちゃんが、先輩を指さし叫ぶ。
突然お凜ちゃんに名指しで指示されたせいで、反射的に私は思わず目の前で立ち上がろうとしていた先輩を両手で掴んでいた。
……すとんと、ちょうど良く立ち上がりかけていた先輩の背中が、後ろから私がつかみかかったせいで、両手の中に収まる。
「――なっ! 咲夜っ、放せっ!」
「――え? あ、ごめんなさい!」
「――咲夜ちゃん! 放したらあかんっ!」
とっさに掴んでしまっていただけだった私は、何故か焦っている先輩に言われて、手を放そうとする。
しかし、そんな私をお凜ちゃんが鋭い声で制した。
まったく正反対の指示を同時に受けて、私は瞬間どうして良いか先輩を抱えたまま止まってしまう。
「なに逃げようとしとんのっ! 穂積の兄さんも、結構怪我しとるやろ!?」
(――あ……そうか。怪我してるの……先輩の方が酷いはずだ……)
血まみれで妖魔と戦っていた姿を思い出す。
確かに、あれだけ血が出ていた訳だから、私なんかより大怪我を負っているはずである。
「な、なに……この程度の怪我、私はしょっちゅう負っている。今更少々増えたところで、気にはせんぞ? ……さあ、放すんだ。咲夜」
「え、あ……はい」
説得するような落ち着いた先輩の言葉に、不安に思いながらも私は手を放そうと腕の力を緩めようとする。しかし、そんな私にお凜ちゃんは目を吊り上げた。
「咲夜ちゃん、放したらあかへんで? ちゃんと処置しとかな、跡残ってまうかもしれへんし、ひょっとしたら化膿してもうたり、破傷風になって命に関わってもうたり……する『かも』、しれへんで?」
「――っごめんなさいっ!」
(――死。そんなの、やだ)
お凜ちゃんの言葉に、私はとっさに先輩の事を両手に力を入れて、しっかりとしがまえなおした。
「――なっ、裏切ったな咲夜!?」
「ごめんなさいっ! 先輩。でも、ちゃんと治療を受けて下さい」
「まて、咲夜、騙されるな。この程度の傷――」
先輩が何か言う間にも、お凜ちゃんは片手に軟膏をつけたお凜ちゃんが、わざわざ先輩の前に回り、笑いを浮かべながら近づいてくる。
畳の上に両膝をつき、先輩が静止するように上げた手も気にする事無く、先輩の右脚にまたがるようにして、じり……じり……とにじり寄っていく。
「――っく、こうなったら!」
腕の中で、ぐっと先輩が全身の筋肉に力を込めるのが伝わってきた。
「――あかへんで? もし、無理に抜けようと思って暴れたら、咲夜ちゃん、怪我してまうかもしれへんやろ?」
しかし、お凜ちゃんがそういった瞬間、先輩の力がふっと抜ける。
「――っく、この、卑怯なっ! やめっ、止めろぉー!」
「――諦めて観念しぃっ!」
力を抜いた先輩は、全力で嫌がりながらも――決して暴れようとはしない。
そのまま、お凜ちゃんが唇の端を大きく吊り上げながら、勢いよく先輩に触れた。
まずは、見えるところからという事なのだろう。首筋や、腕、顔……あちこちにある小傷にお凜ちゃんが丁寧に軟膏を塗っていく。
やがて、お凜ちゃんは、先輩の浴衣の胸元の袷にも、ためらいなく右手を突っ込んだ。
……ほっそりとした指先が、先輩の厚い胸板の上を這っていく。
――どうやら、本当に先輩は全身傷だらけだったらしい。
お凜ちゃんが先輩の浴衣の下で、胸元から左脇腹へもぞもぞと右手を動かしながら、先輩の上にのしかかるようにして、ペタペタと楽しそうに軟膏を塗っていく。
その範囲は、私とは比べものにならないほど広範囲で……普通にしていたけど、動くのもしんどかったんじゃ無いかと心配になるほどだった。
……お凜ちゃんに、全身に軟膏を塗りつけられ、苦悶の声を上げる先輩を後ろからしっかりと抱きしめながら、そっと目をそらした。
(……ごめんなさい。ごめんなさい。先輩。でもっ、それでも――っ、先輩が怪我したままなのは嫌なんです……っ!)





