第二十五話「先輩……落ち着くのって大切ですよね」
「――なんや。二人とも同じ部屋ちゃうんか。……まあ、ちょうどええわ。二人とも、風呂入ってきぃ」
お凜ちゃんが、私達が宿泊している旅館の部屋の前までやってきての第一声はそれだった。
「……お風呂?」
……お凜ちゃんの言っていた通り。戻ってみた旅館の部屋には傷一つ無かった。あれほど暴れ回って、ドアにも穴が空いていたはずなのに、まるで幻か何かだったかのように消えてしまっている。
宿に戻りながら、本当に大丈夫なのか。また、妖魔が居るんじゃ無いかと早まる鼓動を押さえ込んでいた私は、私の部屋にある風呂場を指さしているお凜ちゃんの言葉に首を傾げた。
一緒に部屋に入ってきた先輩も同じように首を傾げている。
「二人とも、そないにどろどろの状態で話するつもりなんか? ウチは別にええねんけど……やり合うた後はちゃんとお風呂入った方が落ち着くで?」
――確かに、全身どろどろでお風呂に入りたいのは山々だった。
……ただ、さっき目が覚めたときに目の前にあの妖魔が居たときのことを思い出すと、のんびりお風呂というのは何となく落ち着かない。
「あ。ひょっとして妖魔がまた襲ってけえへんか心配しとる? それやったら、ちゃんとウチが見張っといたるさけ、気にせんとゆっくり入ったらええで?」
私の心の中を読んでいるかのような絶妙なタイミングで、お凜ちゃんがそういって笑った。
安心させるように年下の子に笑いながらそこまで言われると、『断る』というのもなんだか申し訳ない気がする。
「じゃ、じゃあ……でも、ほんとに……ごめんね?」
「ええよええよ。傷口の手当ても、一旦しっかり洗っといた方がちゃんと治る言うよって、その後や」
「うん……その、先輩もそれで良いですか?」
さっきから独鈷杵を握り締めて、黙り込んだままの先輩に話を向ける。
(私がお風呂に入るって言って、『我が儘』だって思われたら嫌だし……)
「――ん? あ、ああ。別に構わんよ。凜君もこう言っているんだ。お言葉に甘えてのんびりさせて貰おう」
何か難しい顔をして考え込んでいた先輩が、一瞬戸惑ったように言葉を詰まらせた後、肩をすくめて見せた。
「はい……」
やっぱり、お凜ちゃんにはちょっと『申し訳ないな』と思いながら、先輩の言葉に私も納得して頷いた。お凜ちゃんが、そんな私をみて、なにか企んでいるようなニヤニヤとした笑みを浮かべるのが見えた。
(な、なに……?)
そんな表情になぜか『鼠を見つけた猫』を連想して、無性にいやな予感を覚えた私は、お凜ちゃんの事を見つめる。
――お凜ちゃんはニヤニヤとした表情のまま口を開いた。
「――なんや? えらい景気の悪い顔しとるやん? 穂積の兄さんにでも、一緒に入って貰ったらどうよ?」
「「――なっ」」
だが、そんなお凜ちゃんの言葉に、思わずあげた声に重なる声があった。
(――って、え? あれ? 先輩……?)
てっきり、先輩ならお凜ちゃんと一緒になって私をからかってくると思っていたのに……今の声は間違いなく先輩の声だった。
……思わず、先輩の方を振り返る。
――しかし、慌てて振り返って見た先輩は。――いつも通りの涼しい表情を浮かべていた。
「――ん? なんだ咲夜。一緒に入りたいのか? ……悪いが、これでもお年頃なものでな。出来れば、入浴は一人でさせて頂きたいのだが?」
そして、いつものように意地悪な笑顔を浮かべた先輩が、そう言ってからかってくる。
「――一人で入れますっ!」
まるで、私が一緒に入りたがっているかのような先輩の言葉に、思わず顔が赤くなるのを感じながら、意地悪二人組に対して私は叫んだ。
(……やっぱり、さっきのは勘違いだったか……ていうか、オブラートに包んでるけど、嫌がられた……?)
『そりゃそうだ』と頭ではちゃんと理解出来ているし、もし、一緒に入ると言われたらどうして良いかわからないけど……なぜか、地味な感じでショックを受けている自分が居た。
なんとなく前髪を軽く引っ張りながら、お言葉に甘えてさっさとお風呂に引き籠もるために立ち上がる。
……立ち去る背中に、お凜ちゃんと先輩が小声でなにか話している声が聞こえていた。
***
部屋に備え付けられている浴室は、夕方に入った大浴場と比べてしまえばとても狭い。
ただそれでも、単純にシャワーを浴びるだけなら十分だ。
(そういえば、内湯が全部温泉っていうことは、部屋のお湯も温泉なのかな?)
そんな事を思いながら、脱衣所で血に濡れて汚れた浴衣を脱いでいく。
(……ほんと、酷いな……そりゃあ、先輩も嫌がるよね……)
壁に設置された鏡で、さっき妖魔に締め付けられた首の辺りを見てみると、べっとりと血が流れ落ちている。血がついたまま触ったからか、髪の毛も血でかぴかぴに固まっている部分があった。
浴衣を脱いで改めてまじまじと見た鏡の中の私は、顔に火傷跡はあるわ、血まみれだわ……陰気な雰囲気も合わさって――こんなの、夜道で会ったら絶対に『見てはいけないもの』を見たと思ってしまう。
「……『うらめしやー』って……はぁ……」
――自分で言ってて、虚しくなった。
両手をだらんと身体の前に垂らして呟いてみると、妙に様になっているのがなおさら虚しかった。
(……こんなに怪我して血が出たの、事故以来かも。――いや、あの時私は火傷以外全然怪我してないから、初めてかも……)
ぼうっと考えながら首筋の血の跡に触れて。
死が身近にあったことを改めて感じて空恐ろしい気分になった。
(――首だけじゃ無くて、手とかあちこち切ったもんね……あれ?)
影喰を隠世の壁に向かって叩きつけたときに、手に走った痛みを思い返しながら、影喰の歯車が噛みこんだはずの右手の手のひらを見てみると、怪我一つ無いことに気がついた。
(……あれ? たしかあの時、完全に怪我したと思ったんだけどな? 勘違い?)
血が手から垂れ落ちていた光景が脳裏をよぎるが、手に傷跡が無い以上、あれは気のせいらしい。
――おそらく、なにかの拍子に手についた血が流れ落ちただけだったのだろう。
(まあ……これだけ血が出てたら、仕方が無いか……とにかく、急いでシャワー浴びよう)
そうして、私は浴室に入り、熱いシャワーで体を流し出す。
(……あったかい……)
足の裏についていた汚れや血も、暖かいお湯が流し出してくれる。
……段々と全身の凝り固まっていた筋肉がほぐれていった。
肌の上を流れて行く雫の温かさに、なんとなく先輩と触れたときに伝わってくる霊力の感触を思い出して。――なんとなく恥ずかしい。
「――ぃ痛っ」
シャワーを上から掛けると、首筋の傷にお湯が滲みた。
(うん……ちゃんと、痛いな……うん……ちゃんと、生きてる)
――私も、先輩も。
傷の痛みに、ちゃんと自分が生きて今ここに居るという事を実感した。
怖いのは嫌だし、痛いのは大っ嫌いだけど……それでも、今この瞬間。私は確かに生きて暖かいシャワーを浴びる事が出来ている。しかも、それは私だけじゃ無くて、私の大切な人も無事に生きているのだ。
それが、何よりも嬉しかった。
(……怖かったけど、痛かったけど……勇気を出して、良かった……)
――とにかく、無我夢中だった。
必死で、昔の自分を思い出して、思い込んで。
それでようやく引っ張り出したちょっとだけ勇気のある自分。
――昔の、向こう見ずな私。
それは、世間一般ではいわゆる、『火事場の馬鹿力』というのかもしれない。
それでも、そのお陰で今の私はここに居た。
(興奮しすぎて、先輩に本当に失礼な事しちゃったけど……)
思わず、さっきの自分の態度を思い出して、両手で顔を覆った。
両手で溜めたシャワーのお湯が顔にバシャリと音を立てて当たり、少しだけ顔の熱さを紛らわせてくれる。
――ああ、本当に、あの時の自分はどうかしていた。
『どうかしないと』、『どうにもならなかった』のだけれど。
それでもあの時の自分の態度は――無い。
本当に、先輩が『そういうこと』を気にするような人じゃ無くて良かった。
もし、気にするような人だったら、仮に助かっても嫌われて一人になっていたかもしれない。
(っていうか、『メガハンミョウX』ってなんだ……私……せめて、『メガビートル』か、『巨大斑猫』にしとくんだった……っ! ――ああ、だめだ。違う。そこじゃない……)
どう考えても、『浮かれていた』というしかない。両手で頭を抱えて、一人風呂場で身悶えした。
(だめだ……これ以上考えたら、先輩に顔を合わせられなくなる……)
その後は無心でひたすらお湯を浴びて急いで入浴を済ませるのだった。
***
お風呂から上がると、浴衣を着替えた先輩がお凜ちゃんと一緒に窓際の椅子に腰掛けて話し合っていた。なにか随分と盛り上がっているようで、お互いに軽く身を乗り出しながら話し合っている。
(……二人とも……似てるなぁ……)
二人とも、とてもいい人なのに、今もお互いにあくどい笑みを浮かべている辺りが、特によく似ていると思う。
「――ごめんなさい。お待たせしました」
「――ああ。咲夜。どうだ? さっぱりしたか?」
「全然かまへんよ。穂積の兄さんに色々状況聞いたりしとったから」
二人とも、話し合っていた余韻なのか、妙ににやにやした表情で私のことを見ている。
(私が呑気にお風呂に入ってる間に、説明役させてのか……悪いことしたな……)
「あ、お凜ちゃん……そうなの? ごめんね。 ――先輩。すみません。説明してもらって――あ、お風呂はすごく、さっぱりしました」
「そうか。よかった。……なに、私もひとっ風呂浴びたのだが、少し早く上がってしまったようでな。雑談がてら、少し話をしていただけだ。あらかた説明はしておいたから、もう事情説明は大丈夫だ」
私が頭を下げながら、先輩に感謝を示すと、先輩は安堵したように笑った。
「――咲夜ちゃん、えらい大活躍やったみたいやん? いやー『穂積の兄さんと一緒に居たいっから』って、まぁ健気やねぇ?」
そして、そんな先輩の横で、お凜ちゃんが笑いを隠すように口元を抑えながらとんでもないことを言い出した。
「――ちょ、ちょっと先輩!? 何、話してるんですかっ!?」
「――ありのままあったことを話しただけだが?」
しれっとした顔で、先輩がそんな事を言ってとぼけている。
どうやら本当に、『私が呑気にお風呂に入っている間に、悪い事をしていた』ようだ。
「た、確かにそれは本当ですけど……」
「――咲夜ちゃん咲夜ちゃん……」
私が恥ずかしさから、先輩のことを恨めしい表情で見つめていると。
お凜ちゃんがちょいちょいと小さく手招きした。
(耳を貸せって事……? ――また、息を吹きかけてきたりしないよね?)
内緒話をするように、片手を口元に添えているお凜ちゃんに首を傾げ。夕方の悪戯を思い出して若干警戒しながらも、私は耳を近づけた。
「――穂積の兄さん、こんな余裕そうにしとるけど、さっきまで咲夜ちゃんに怒られたってしょげとってんで?」
「――えっ!?」
(――先輩が、『しょげてた』?)
思わず、驚きに声を上げてしまった私を、先輩がねめつけている。そして、お凜ちゃんの事を非難するように、じとっとした目線を向けた。
「……凜君、君は一体咲夜に何を吹き込んでいるのだね?」
「なんでもあらへんよー」
だが、お凜ちゃんのほうはそんな先輩の視線など何処吹く風で、とらえどころの無い笑みを浮かべている。
「あまり、口が軽いのは褒められたものでは無いと思うが?」
「いやいやー物事はなんでも陰と陽のバランスが大事なんよ?」
「陰と陽……まったく……本当に色々と節操なくちゃんぽんなのだな……」
「せやでー実際の所はそんなもんよー」
……どうやら、先輩の方もお凜ちゃんに本気で怒っている訳では無かったらしい。
いつの間にか、話はまったく違う方向へと流れてしまっている。
「――とにかく、さっき言うた通り、なるべく早くこっちも補助の体勢整えるさけ、なんとかしばらくは今のまま踏ん張ってや」
「――ああ。悪いな。面倒を掛ける」
「かまへんよ。元々は、神守の問題やよってな」
「……いいや、本当に力不足を実感する」
「ええんよええんよ。――ほら、ウチら、お供えもん渡した仲やん?」
「――はは、心強い」
何となく合意に至ったらしい二人のやり取りに、酷く私は疎外感を覚えてしまう。
(出来れば……事情説明して欲しいけど……でも、せっかく話がまとまってそうなのに、それは悪いか……また、後で先輩に教えて貰えたら良いな……)
……だから、仕方なく。
私は手持ちぶさたに横でぼうっとしながら、話し合う二人を見つめるのだった。





