第二十四話「先輩、油断は駄目ですね」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
私は先輩に向かってひたすら頭を下げていた。
「……まったく……君も難儀な性格をしているな……」
そういって苦笑する先輩の胸元には、水で濡れたようにぽつぽつと染みが出来てしまっている。
――その周りを縁取るように、微かな赤黒い跡も広がっていた。
「まあ、どうせこの浴衣はもう使い物にならんだろうからな。少々涙や血の跡が増えたところで大した問題もあるまい」
「うぅ……本当にごめんなさい……」
……要は、先輩に抱きつきながら散々泣いて、いざ顔を放してみたら涙の跡だらけ。
さらにはそれを慌てて拭おうとした結果、今度は血まみれという訳である。
(……自分の血ならともかく他人の血だとか、ましてや、その、……涙とか。――絶対気持ち悪がられたぁ!)
――今度は同じ失態を犯さないようにしよう……
(って違う! そもそもいい年して泣いてる時点で駄目だよっ!)
……よくよく考えてみれば、そもそも先輩に出会ってからこっち、泣いているところばかり見られている気がする。出会った翌日に本屋で泣いて。そのまた翌日に神社で泣いて……子供みたいだ。
「むしろ、そんな事より首の傷は大丈夫なのか? 血は止まっているようだが……」
思わず、自分の情けなさに沈み込んでいると、いつの間にか近づいてきていた先輩が、そっと私の首筋に触れた。先輩の指先から暖かな感覚が流れ込んでくる。
「あ、はい……傷は浅かったみたいで。すぐに傷も止まりました。後で消毒はしときます」
「そうか……すまなかったな。もっと早く気がついていれば良かった。傷跡が残らないと良いのだが……」
申し訳なさそうに先輩が眉根を寄せながら心配してくれた。確かに先輩の言う通り、傷跡が残ったら多少は悲しいが、そもそも顔にもっと目立つ跡が残っている時点で――今更な話だ。
(――少なくとも、先輩が謝るような事じゃ無い)
だから、そんな先輩に『気にしないで』と伝えるために、左手で前髪を少しだけ左に寄せながら、なるべく明るく見えるように笑って見せた。
「……はは。先輩。元々こんな状態ですから。今更傷跡がちょっと増えるくらい、気にしませんよ。――だから、先輩も気にしないで下さい」
「……」
――返ってきたのは、沈黙だった。
目の前で私の事を見下ろしている先輩を見て、ようやく自分がとんでもなく馬鹿な事をしていることに気がついた。
(……っ、ああ、しまった……そうか。見せる必要なんて、無かったのに……気持ち悪いよね)
わざわざ傷跡を見せる必要なんて無かったんだ。今までだったら、誰かに傷跡を見せようだなんて、思いもしなかったのに。――つい、馬鹿な事をしてしまった。
でも、一度見せてしまった手前、なにも言い出さない先輩を前に、すぐに隠すのも憚られる。どうしよう……と、身動きを取れずに考えていると、首筋の傷を確かめるように触れていた先輩の指が――首筋の表面を撫でるようにそっと這った。
「っん……」
「っと、すまない。痛かったか?」
思わず、くすぐったさから声を出してしまうと、先輩が慌てたように手を止める。
「――いえ。大丈夫です。……くすぐったかった、だけですから」
「……そうか」
先輩に笑い、応えると、動きを止めていた先輩の右手が再び動きだす。大きな先輩の手のひらが左頬の傷跡を包み込むように重なった。じんわりとした暖かさが伝わってきて――つい、先輩の金色の瞳を見つめながら暖かさを感じるために目を細めた。
なぜか、一度は止まったはずの涙が、また流れ出そうとするように、じんとした感覚をおぼえる。
――吹き抜けた風が、掻き上げた私の髪をさらさらと揺らしていった。
「あー……盛り上がっとるところすまんにゃけど、その首の傷くらいやったら、ちゃんと跡が残らんように治るで?」
突然横手からかかった声に、私と先輩は二人そろって慌ててそちらに顔を向けた。
先輩が、私の頬に触れていた手をぱっと放す。
声が掛けられた場所――そこに居たのは、和服姿の――っ
「――お凜ちゃん!?」
暗がりの中、浮かび上がるように姿を現したのはお凜ちゃんだった。
昼間見たままの和服姿に、左手にはお昼に見たのと同じ、金色に輝く太刀を携えている。
(あ、そっか……手紙を見て……)
一瞬、戸惑ったがすぐにそこに居る理由に思い至る。どうやら、ちゃんとあの手紙は届いていたらしい。きっと私達を助けるために駆けつけてくれたのだろう。
「――それからなー」
だが、お凜ちゃんはそんな私達の呼びかけをそよ風のように聞き流すと、おっとりとした言い方で言葉を続ける。――気楽な様子で、左手に持った太刀の柄に右手を添えた。
「油断、大敵やでー」
スパンッという音と共に。――空気の爆発するような感覚を覚えた。
(――っな、なにっ!?)
突然の事に、何が起こったのか分からずに居ると、私達の真後ろから『ズンッ』という、なにか重いものが落ちる音が聞こえた。
「――え?」
「なっ……」
先輩と私がすぐ背後から響いた音に振り返ると――そこには、首から先が無い妖魔の体が半分に断たれて転がっている。金属のような輝きを放つ、硬質な外殻を持つソレは、間違いなく先ほどまで先輩と一緒に戦っていた妖魔のものだ。
(――え? さっき、だいぶ向こうに……)
だが、妖魔を倒した後私達は大分離れた場所に居たはずだ。――さっきまで、その妖魔の躰は私達とは随分距離のある場所に転がっていたはずなのだ。
――それが、いつの間にかすぐ近くに転がっていた。
「――天風。食べてええよ」
お凜ちゃんがそういった瞬間。空からなにか巨大な影が舞い降りてくる。
「――天風!?」
巨大な影に見えたのは、お凜ちゃんがペットに買っている鴟。いつも手紙を運んでくれている天風だった。
天風は、お凜ちゃんが切り裂いたらしい妖魔に向かって飛びつくと、端から妖魔の巨大な体をついばみ始める。鋭く太いかぎ爪で妖魔を押さえつけ、見る間に妖魔の体を嘴で引きちぎり飲み込んでいく。
……あれだけ私達が苦戦したはずの殻が、まるでゼリーか何かのように削り取られ、飲み込まれていく。
鴟としては異常な大きさの天風だが……それでも、自分の体よりも遥かに大きなはずの妖魔をつぎつぎと体内に納めていく。瞬く間に妖魔の姿はすべて天風の口の中へと消えていくのだった。
「――二人とも、遅なってもて悪かったわ」
天風が食べ終えるのを確認したお凜ちゃんは、私達の方を向き直るとまるで待ち合わせに遅刻したくらいの軽い様子で笑った。
「――あの妖魔……まだ生きていたのか!?」
「せやね。妖魔は知能低いねんけど、ようあんな風に死んだふりしはるんよ。今も、二人を襲おうとしてはったみたいやね」
先輩が、驚愕を顔に貼り付け、戦きながらお凜ちゃんに問い掛けると、お凜ちゃんは気楽な様子で笑いながら応えた。
――『襲おうとしていた』
さりげなく告げられた言葉に、ようやく事態を理解した私は冷や汗が流れるのを感じた。
(じゃあ、今、お凜ちゃんが助けてくれなかったら、私も先輩も……)
完全に、倒せたと思って油断していた。
まさか、首を切り飛ばしてもまだ体が動くなんて思っても居なかった。
「――なんと……まさしく虫のような生命力だな……」
それは先輩も同じだったのか、隣で引き攣ったような表情を浮かべている。
「――まあ、二人とも疲れとるやろ? せっかくやし二人の泊まっとる旅館連れてってや。そっちの方が落ち着いて話しも出来るやろし?」
お凜ちゃんが、私達を気遣うように提案した。だが、そのお凜ちゃんの言葉を聞いて、先輩が頭を抱えながら、困ったように顔をしかめた。
「そうだな……宿……宿か……」
(宿がどうかしたのかな……?)
先輩が渋る理由が分からない。正直、先輩も私もあちこち傷だらけだし、早めに手当はした方がいい気がする。
「どうしたんですか?」
「いや……出てくる前に宿の中で暴れ回ったが、大丈夫なのかと思ってな……」
「あ……」
言われてみれば、来る前に私の部屋の中で散々暴れ回ったし、私の部屋の扉は、穴まで開いていたはずだ。
(ど、どうやって言い訳しよう……)
血にまみれ、泥にまみれ、ぼろぼろになった浴衣の事も含めて、なんて言い訳したものか私も頭を抱える。
「ああ、それに関しても心配あらへん。もう妖魔も倒したさけ、じきにこの隠世も消えるよってに。ちゃんと全部直って見えるはずやよ」
お凜ちゃんが、そんな私達を安心させるようにカラカラと笑いながら右手をどこかの妙齢のおばさまのように振っている。
「……浴衣も?」
私が少し希望を込めて聞くと、それまで笑っていたお凜ちゃんは顔を引き攣らせ、そっと視線を逸らした。
「ま、まあ……部屋だけでも直るんやさかい、安物の浴衣ぐらい気にせんとき。その分の費用は神守が出すよってに」
「……直らないんだ……」
慌てたように言うお凜ちゃんに、私は自分の浴衣姿を見下ろしため息をついた。
(血まみれだし、ぼろぼろだし……下手したら警察沙汰よね……)
「……旅館にはウチのもんに説明させるよって。勘弁したってや……」
「ああ。ごめん。お凜ちゃんが悪い訳じゃ全然無いんだけど、ちょっと申し訳なくて……」
――申し訳なさそうに謝るお凜ちゃんに、自分の方が申し訳ない気分になった。
本来なら私達の不始末なのに、それで年下のお凜ちゃんに気を遣わせてしまっている。
(本当……お凜ちゃんには、どれだけ感謝しても足りないはずなのに……)
もし、お凜ちゃんが影喰を渡してくれていなかったら、どうする事も出来なかった。
隠世に入る事さえ出来なくて、ひょっとしたら――
(先輩が……傷ついていくのを見てるしか出来なかった……)
今更ながらに、その僅かな偶然が無ければ、二人とも死んでいたかもしれないことを実感する。
なんだったら、今回お凜ちゃんが私達の事に気がついて神守の本家に呼んでくれていなかったら、私達は妖魔の存在も隠世の存在も知らず。あの化け物と対峙することになったかもしれないのだ。
――そんな事を思えば、お凜ちゃんには本当に頭が上がらなかった。
「その……お凜ちゃん、本当にっ、ありがとう」
「ええよ。そんな御礼ら言わんといて。今回の件は、ウチのせいでもあるんやよって」
お凜ちゃんは、言葉尻をしぼめながら、もごもごといつもの歯切れの良さがない口調で私の言葉を否定する。
(お凜ちゃん……責任感強い子なんだな……そりゃそうだ。お昼の話の時だって。ずっと頑張ってきたみたいだったし……)
『ウチのせい』なんて、絶対そんなことあるはずないのに、ただそこで起こってしまった事件を防げなかったことを申し訳なく思っているらしいお凜ちゃんを見て、ますます年上のはずの私は情けない気分になるばかりだ。
(もっと、私もしっかりしなくちゃ……)
「――私からも礼を言いたい。本当に助かった」
先輩が横からお凜ちゃんに向かって深々と頭を下げながら御礼を言っている。
その姿を見て、親戚でもない先輩から感謝されるのが照れくさかったのか、泡を食った様子でお凜ちゃんは慌てて首と両手を振った。
「ほんまに! ――ほんまにそんな畏まらんといてっ! 今回っ、ウチっ、なんも出来てへんしっ!」
「いや、しかし、今回は君の助力を貰わなくては、咲夜も私も助からなかった所だ」
「ええんよ! ええんよ! ウチの方が迷惑掛けてもた訳やし。助けに入ったんも、結局最後の最後やったわけなんやしっ!」
「いやいや、そんなことはないっ!」
先輩とお凜ちゃんが、互いに恐縮し合いながら言い合っている。
お互いにヒートアップしてきたのか、叫ぶように言い合っていて、もはや恐縮しているのかなんなのか傍目には分からない状態である。
(そういえば……お凜ちゃん、来てくれたの、すっごい早かったよね……)
ちらりと左腕につけていたぶかぶかの時計を見てみれば、まだ時刻は三時四十五分を指していた。
――どうやら、本当に、かなり無茶をして私達を助けに来てくれたらしい。
「……本当……ありがとう……お凜ちゃん」
先輩と言い合うお凜ちゃんの横から、改めてもう一度御礼を言うと、今度こそお凜ちゃんは困ったように頭を抱えた。
「――っぅ、あーっ!――あかん……これは、あかんで……と、取りあえず旅館へ戻ろっ! っな? っな?」
私達の言葉に、年相応に照れまくるお凜ちゃんは、さっきまでのどこか超然としていた姿とは打って変わって――なんだかとても可愛らしかった。今も、先輩に向かって必死に食いつきながら旅館に戻ることを勧めている。
――不思議と、先輩と盛り上がるお凜ちゃんの姿を見ても、夕方に感じたような寂しさはなかった。





