第二十三話「先輩、浴衣は慣れてないんです」
先輩は、軽くため息をつくと、その場で少し腰を落として独鈷杵を構えた。
おちゃらけた雰囲気を消した先輩の金色の瞳が、すうっと細められる。
――瞬間、先輩が走り出した。
全身のバネを使い勢いよく飛び出した先輩は、こちらを警戒している妖魔の元へと一瞬でたどり着く。
妖魔もこちらのことは十分に警戒していたらしい。
先輩の頭を刎ねようとするかのように、瞬時に残っていた左の前肢を振った。
迫り来る鈎のようにねじ曲がった妖魔の脚を、先輩はその場で軽く身を沈め避ける。
そして、頭の上を前肢が過ぎ去った瞬間、左後ろにある脚の節目に、独鈷杵を押し当てた。
妖魔は、先輩の動きについてこれないように硬直したように動きを止めたが、すぐにそんな先輩を振り払うおうとするように、独鈷杵を当てられた後肢を振り上げ、先輩を蹴り上げようとした。
「はあああああああああああ!」
だが先輩は、振り上げられた後肢に左手を添えると、独鈷杵に全身の体重を掛けたままそのままその力を利用して、独鈷杵を基点に折り曲げるように逆方向に脚を引っ張り上げた。ガチンという金属同士が噛み合うような音が聞こえ、妖魔の後ろ脚の動きが目に見えて鈍る。
「ギィィイイイイイイイイイイイイ!」
再び妖魔が悲鳴を上げ、頭部をめったやたらに振り回して先輩を振り払おうとする。
先輩は後ろ脚に突き立てた独鈷杵を押し込むように反動を付けながら体を沈めると、体を右方向に回転させながら引き抜いた。遠心力を利用しながら、頭上を通り抜けた妖魔の頭部に向かって独鈷杵を突き立てる。
「――やはり、これでも浅いかっ! っく、まったく……」
どうやら、今回は独鈷杵の刺さりがかなり甘かったらしい。
僅かに妖魔は動きを止めるが、またすぐに動き始めた。
影喰によって失った右前肢を補うように、妖魔は身をよじり、自身の右側に立っている先輩に左側の前肢を正面から突き出す。先輩は、後ろに向かって飛びながら、突き出された前肢に両手を添え、抱きしめるように抱え込む。
「――っ、せんっ」
――先輩の身体が、宙を舞った。
妖魔の前肢に引っ張られるようにがくんと後ろに揺れる先輩を見て、とっさに声を上げそうになったが、先輩はその勢いのまま反動を付けるように体を持ち上げると、曲芸のように体を舞い上がらせたのだ。
そのまま、妖魔の巨大な体表を独鈷杵で削るように減速しながら、右の後ろ脚に向かって着地する。
ガリッという、鉱石の欠けるような音が響き、妖魔の脚が僅かに削れたらしい。
薄く発光する体液が舞い散った。
(な、なんとなく、気づいてたけど――先輩、凄い……!)
先輩の戦いはさっき遠目に見ていたが、こうしてちゃんと見てみると、それは人間業とは思えないほど苛烈なものだった。
さっきの私の動きは、力が溢れ軽く舞い上がっている体に任せての、力任せの一撃だ。
でも、先輩の動きは素人目に見ても、そんな付け焼き刃では無いと直感した。
(――なにかの武道をしてるとか……)
「――今だ! 咲夜!」
体重を感じさせない先輩の軽やかな動きに目を奪われていると、先輩の叫ぶ声が聞こえる。
――先輩に注意を引かれ、関節にダメージを加えられたことで、妖魔の動きが緩慢になっていた。
だから、私は先輩の言葉に従って走り出す――ッ!
一瞬で、妖魔と自分との間の距離が詰まっていく。
……気づけば目の前に、妖魔の硬質な光を放つ外殻があった。
(怖いけど……怖くなんか無いっ!)
思い、右手に握り締めた影喰を、妖魔の残された前肢に向かって振るう。
――ぬるっとした液体を切りつけるような僅かな手応えと共に、妖魔の前肢はあっけなく断たれ、地面に向かってズレ落ちていった。
(――っついでだ!)
その間に私は走り出した勢いのまま、もう一歩、二歩、と踏み出す――っ。
妖魔の左側を走り抜け、妖魔の胴体から飛び出している脚二本の付け根に向かって、垂直にかかげた影喰の刃を這わせた。
右頬のすぐ横を、妖魔のゴツゴツとした甲殻が通り過ぎるのを感じながら。
妖魔の横を飛び抜けた瞬間――ドンっという、重い音が鈍い音が辺りに連続して鳴り響いた。
――飛び抜けて着地するまでの間。
空中に浮かび上がったまま首をひねり振り返ると、妖魔の巨体がぐらりと傾いでいくのが見えた。
左側の支えを失った妖魔の体が、バランスを欠いて倒れていく。
さらに、それを決定づけるように、おまけとばかりに先輩が右側から妖魔に飛びつき、押し倒すのが見えた。
――その光景を見ながら地面に着地した瞬間、靴を履いていない脚の裏に、アスファルトと擦れるざりっという感触が走る――が、不思議と痛みは無い。
ちらりと自分の足に目をやってみても、特に傷がついているようにも見えない。
さっきから妙に体が軽く、異常な力が出ているせいだろうか? 体の強度も上がっているようだ。
(――そんなのはっ! 後っ!)
――私は、再び妖魔に向かって走り出す。
妖魔は、向かってくる私を恐れるように、右脚をバタバタと動かし、頭をこちらに向けようとしている。……旅館の中で、私の首を締め上げた巨大な顎が、ゆっくり――じわじわとこちらに向けられる。
――だが、左脚をすべて失ったその動きは、酷く緩慢だった。
「――遅いっ!」
私は妖魔が体勢を整える前に、妖魔の懐に飛び込み影喰を頭部に向かって振るった。
――ズパンっと音を立てた刃が、妖魔の首に突刺さり――切り裂いた。
妖魔の首が、発光する体液をまき散らしながら、斬り飛ばされていく。
「――ぁ、離れろっ!」
先輩の叫ぶ声が聞こえ、私は思いっきり地面を蹴って後ろに向かって飛び退いた。
すると、私の体があったところに、妖魔の巨体が、ズシンと重い音を立てて……
――倒れ込んだ。
「――ハァ、ハァ、ハァ……」
――気がつくと、私は荒い息を吐き出していた。
額から流れ落ちた汗が、目に入り酷く痛い。
でも、崩れ落ちて動かない妖魔から目が離せなかった。
(いま、この瞬間にまたアレが動き出したら……)
そう思うと、汗を拭う動作さえできず、私はただその場で影喰を片手に硬直する。
「――っ、はぁ……」
一秒、二秒……と時間が流れ。
――妖魔は、ぴくりとも動き出す気配は無い。
たっぷり一分ほど経ったところで、ようやく私は詰めていた息を吐いた。
――無事に妖魔を倒したらしい。
ちらりと視線をずらすと、先輩も安心したように息を吐き出して、私の方へと歩いてくるのが見える。
「――良かった……」
その言葉を呟いた瞬間、目の前がぐらっと揺れた。
(――え?)
足から力が抜けて、ぺたんとその場に尻餅をついてしまう。
硬いアスファルトに尻餅をついたせいで、ぶつけたお尻が痛かった。
「――咲夜っ! 大丈夫か!」
「――あっ……はい!」
叫びながら、慌ててこちらに駈け寄ってくる先輩に答え、立ち上がろうと腕に力を込める。
(あ、あれ……?)
しかし、腕に力は入っても、肝心の足に力が入ってくれなかった。
(こ、これって……ひょっとして……)
「……その、先輩……立ち上がれません……腰……抜けました……」
目の前に近づいてきた先輩に、助けを求める。
――先輩が、突然。
それまで心配そうにしてくれていた瞳を――見開いた。
そして私と少し距離を開けたまま、近づくのを躊躇うかのように視線を逸らし、何か考え込んでいる。
(……どうしたんだろう……?)
――そんな先輩の姿を見ていると、自分の心の中に。
段々と黒く、べったりと重い靄がかかってくるのを感じた。
(――そういえば……さっきから、私、なにしてた……? ……先輩に向かって呼び捨てしたり、『馬鹿』って言ったり、言うこと聞かなかったり……)
――気がつけば、さっきまで、猛狂っていた『昔の私』はどこかに行っていた。
代わりに、恥ずかしがりで臆病な『いつもの私』が舞い戻っている。
そうすると思い出すのは、さっきの自分の先輩への態度だ。
冷静になってみると――散々罵倒してしまったし、あり得ない位失礼な態度をとってしまっていた。
先輩だって――愛想を尽かしていてもおかしくない。
(……ど、ど、ど、どうしよう……! ――浮かれて気にしてなかったけど、先輩、絶対怒ってるよね? どうしよう……)
しかし、一度気がついてしまった事実にどんどんと連鎖的に黒い感情は広がっていく。
(そうだ……よく考えたらさっきの先輩、『気持ち悪いもの』を見るような瞳を向けていたような……)
そんな自分の考えを否定したくて、伺うように先輩の事をもう一度見上げた。
――先輩が、少し離れた場所から、私を視界に収めるのを避けるように、目線を逸らしていた。
(――や、嫌だ――『気持ち悪い』って、思われ――駄目……嫌わないで……)
「――や、その、私――その、ごめん、ごめんなさっ。そんなっ、つもり……」
『見捨てられるかもしれない』
どんどんと沸き上がってきたのは――恐怖の感情だ。
冷たい感覚が地面についた両手を這い上がってくる。
段々と手足の感覚を狂わせてくる冷たさにかじかむ手を動かして、目の前に迫っている恐怖から逃げるために、後ろに向かって地面を這いずった。
「――くっ、ははっ」
――狭まっていく視界の中、聞こえたのは先輩の笑う声だ。
よくよく見てみれば、視線を逸らしたまま、先輩はおかしそうに笑っている。
「……え?」
喉の奥を鳴らすような音が喉から飛びだした。状況がうまく理解出来ない。
「いや、失礼。その、なんだ? なにも謝る事は無い。――よく……頑張ったな。咲夜」
戸惑う私を、先輩が優しい声でねぎらってくれる。
一瞬、自分の事を嘲笑っているのかと思ったが、そういう訳でも無さそうだ。
「その……怒って、ないんですか……?」
「ん? なにをだ?」
「その……言うこと聞かずに戻ってきたりとか……」
恐る恐る聞く私に、今度こそ先輩は呆けた顔で一瞬こちらを見つめ、すぐにまた明後日の方に視線を向けた。
「――今更……それを聞くのかね? 私の様子が怒っているようにでも見えるか?」
落ち着いて、もう一度見た先輩は相変わらず距離を保ったままで。だけど、呆れたように言う先輩の横顔は、苦笑だけが浮かんでいる。
――そこに嫌悪や怒りの感情を見つける事は出来なかった。
「……その、見えません……」
「だろう?」
先輩が、苦笑を浮かべたまま肩をすくめた。
(……本当に……大丈夫なのかな?)
ようやく、先輩の言葉が染み渡ってきて、じわじわと安堵が体中を暖め始めた。
「――あ、いや。違った。そうだ。済まない。……今のは嘘だ。やっぱり一つ君を叱らないといけない事があった」
「――っ!」
……だから。
その後すぐに思い出したように笑いながら先輩が言葉を続けたとき、私は冷水を浴びせかけられたように背中が跳ねた。
(ああ……やっぱり私、先輩を怒らせるようなこと――)
「その……いい加減、なるべく早く、浴衣の裾を直したまえ! ……いくら何でも扇情的すぎる。……先ほどから近づくに近づけんだろう?」
「え? ――あっ!」
先輩の言葉に、視線を浴衣に向けてみると、浴衣のあわせがはだけて、自分の足が太もも辺りまで大きく露出してしまっていた。
――慌てて両手で浴衣を引っ張った。
(――ああ、もうっ! ――これ、どうなってるのっ!?)
慌てて引っ張った帯は奇妙な具合に固く結ばれている。
焦った手が、浴衣の帯の上を何度かシュルシュルと滑っていった。顔を背けたまま固まっている先輩の方を確かめながら、どうにかこうにか力任せに引っ張り直して適当に整えた。
(……こ、これで、大丈夫だよね!?)
「――お、お見苦しいものを……」
何度か自分の浴衣をパンパンとたたき、前や後ろもおかしいところが無いか見比べてから先輩に声を掛けた。
「――まったく、年頃の娘なのだ。もう少し気をつけたまえ……」
私が裾を整えたのが分かったのか、先輩がようやくこちらを向いて歩き出してくる。
――そして、優しいいつもの笑顔で右手が差し出された。
「――立てるか? 咲夜」
覗き込む先輩の輪郭を、月の光が照らしだして浮かび上がらせている。
どうみても、その姿は私の事を嫌がっているようには見えなくて。
――なんだか、鼻の奥がつんと痛んだ。
先輩が差し出してくれている手を右手で掴む。
(放したく……ないな……)
その暖かな手を放したくなくて、地面についていた左手も先輩の腕に添えて、ぎゅっと力を込めた。先輩が、私の手を握り返し、引っ張り上げるように力を込めると、両手の下で先輩のごつごつとした筋肉が動くのを感じて、私の体が持ち上がった。
「ありがっ――わっ!」
「――っと」
先輩に引っ張りあげて貰い、両足で立ち上がろうとする。
――まだ足にとっさ力が入らずよろめいた。ふらついた私を先輩が抱き寄せるように支えてくれる。
「――す、すいません」
「構わんよ。大丈夫か?」
「はい……多分、もう」
ドクンドクンとなる熱が駆け回るのを感じた私は、先輩の胸元に左手を添え、その場で体勢を整えた。
――先輩から身を離そうとしたときだ。
「――本当に、怖かったのに、頑張ってくれたのだな。――ありがとう。咲夜」
そっと、耳元で先輩がそう囁いた。
そして、ポンポンとあやすように背中を優しく叩かれる。
私を受け入れるように触れる先輩が。
そしてなにより『ありがとう』といって貰えた事が嬉しくて。
ほっと、全身から力が抜けた。
(――ああ……駄目だ、立って、られない……)
「そのっ……先輩。もう……ちょっとだけ……このまま、いい、です、か?」
「……構わんよ」
――気づけば、さっきのツンとした痛みは酷くなっていて。私は先輩の胸に顔を押しつけていた。
胸の辺りが痙攣するように震えだす。
そんな私の背中には、ポンポンというゆっくりとしたリズムと共に、優しい暖かさが広がっていった。





